【一九九《始まりは愛の街で》】:四
俺は萌夏さんの顔を見上げながら、日本で児童相談所の植草さんから聞いた夏美ちゃんの話を思い出した。それで、俺は夏美ちゃんにとって重要な存在になっているかもしれないと聞いた。それを今思い出したのは、形は違えど、俺は萌夏さんにとって重要な存在になってしまっているのだと思ったからだ。
萌夏さんは崩れそうな心を保つために俺という存在を使っている。言い方を変えれば、萌夏さんが心を保つためには俺を使わなければいけない。それは、萌夏さんにとって苦しいことだ。萌夏さんがそうなった責任は……俺にある。
空条さんに言われた。
『多野くんは真面目過ぎて優し過ぎて良い人過ぎる人だった。それで、不器用で傷付きやすい』
『それで、物凄く女の子の好意に鈍感かな?』
その言葉を思い出して、全てが繋がる気がした。俺の存在が、沢山の人の心を乱して湾曲させて、それで元に戻ることを邪魔していると。
空条さんに指摘された全ての要素がなかったら、夏美ちゃんも萌夏さんも心をこんなにも歪な形で固定されなかった。俺が居なかったら、二人は少しずつ心を元の形に戻すことが出来たのではないだろうか? そう思った。
「ごめん。俺が中途半端なせいで……こんなに……こんなに萌夏さんを苦しませてる」
責任の取り方が分からない。それが、俺に取れる責任なのかも分からない。だけど……萌夏さんに求められていることは分かる。それで責任が取れるのかは分からない。でも、少なくとも俺のせいで苦しんでいる萌夏さんが求めていることは明らかにされている。それは、単純な可能不可能で言えば可能なことだった。
「ずっと会いたかった……パリに来た初日からずっと凡人くんに会いたかった。お正月に日本からパリに戻る時凄く辛かった。……また、一年凡人くんに会えなくなるんだって思ったら苦しかった……」
上から俺を抱きしめる萌夏さんは、強く強く俺を抱きしめながら耳元で悲痛な声を漏らす。そして、俺の手を自分の背中に回させる。
「好き。大好き。愛してる。何もかも投げ捨てても良いって思えるくらい。気が狂いそうなくらい愛してる。凡人くんさえ居れば何も要らないって思えちゃうくらい凡人くんが好き。きっと……私は大切な親友達を失っても、凡人くんに愛してもらえるならそれで良いって思えちゃうくらい愛してる。……好きなの、凡人くんが。頭がおかしいことも、自分が最低になることも構わないって思えるくらい好き。凡人くんにならどんなことされたって良いって思えちゃう。凡人くんに愛してもらえるなら、私はどんなにだって傷付ける」
「俺は、萌夏さんには傷付いてほしくない」
「凡人くんは何もしなくて良いから……全部私が一人で勝手にするから……だから全部終わるまで目を瞑ってて良いよ」
俺は萌夏さんの言葉を聞いてゆっくり目を閉じる。そして、萌夏さんの手が俺のシャツを捲り上げ、俺の胸を撫でてから俺のズボンに触れた時、俺は萌夏さんの体を下から抱きしめた。
「きっと、俺が凛恋と付き合ってなかったら、俺は萌夏さんとエッチしたかもしれない。だけど、現実には俺には大切な凛恋が居る。その凛恋を裏切ることは出来ない」
「……エッチしてくれなきゃ、心がおかしくなりそうなの」
萌夏さんが自分の背中に手を回すと、萌夏さんが着けていたブラが外れてベッドの上に落ちた。そして萌夏さんの体が、シャツを捲り上げられた俺の体に密着して熱い萌夏さんの体温が直に伝わる。俺はそれでも必死に言葉を重ねた。
「もしそれで、萌夏さんの心が壊れてしまったら。俺はその責任を背負うよ。一生背負い続ける。俺は、俺の甘い考えで萌夏さんに対する責任を作った。だけど、それはどうやっても取れないんだ。俺が凛恋と付き合ってなかったら取れたと思う。エッチするだけで、それだけで萌夏さんに対する責任を取ることが出来るならいくらでもしたと思う。でも、俺にはその責任の取り方が出来ないから、責任の取り方がそれしかないなら取れない。だったらせめて、俺は一生萌夏さんに対する責任を取れなくて、大切な親友の心を壊してしまったっていう責任を持ち続ける」
不誠実なことを言っているのは分かる。だけど、萌夏さんが求めていることは情だけで出来ることじゃない。
「…………私ね。ずっと考えてるんだ。凡人くんを好きになった日から……。どうして、世の中には浮気とか不倫って言葉があるんだろって」
萌夏さんは体を離して俺を上から見下ろす。その萌夏さんは乾いた笑みを浮かべていた。
「もし、世界に浮気とか不倫とかそんな考えがなかったら、もしかしたら私は凡人くんに愛してもらえたのかなって。もしそうだったとしたら……そんな邪魔な言葉がある世の中が憎い」
少し腰を浮かせた萌夏さんは自分の体に最後に残ったパンツへ両手を掛ける。その手が、萌夏さんの最後のたがを外す前に俺は横に首を振る。
「もしそうだとしたら、俺はあり得ないとは断言出来ないよ。萌夏さんは明るくて優しくて凄く良い人だ。それに萌夏さんの作るケーキはめちゃくちゃ美味しい。そんな人から告白されたら、浮気や不倫って概念が存在しない世界に俺が生きていたとしたら、俺は告白を受けていたかもしれない」
「……ああ、ほんと……浮気とか不倫って概念が邪魔だな。もしそうだったら、露木先生も理緒もみんな幸せになれるのに……一夫一婦制なんて消えて無くなっちゃえば良いのに……でも、もういいや」
涙を流しながら、萌夏さんは俺の両手の指を組んで押さえ付けながら、俺の頬に自分の頬を付けながら耳元で囁く。
「私、何でもするから。凡人くんが凛恋には頼み辛いことを全部私がする。私とじゃなくて凛恋としてるって思ってて良いから。だから……目、瞑ってて」
萌夏さんは再び自分のパンツに手を伸ばす。その行動で俺を押さえる力が弱まった瞬間、俺は萌夏さんの両肩を押して、俺の体から引き離した。
「萌夏さんは俺の大切な親友なんだ」
「私だって凡人くんは大切な親友だよ」
「だったら!」
「でも、凛恋達とは違う。親友だけど、ずっと好きな人なの。露木先生と理緒に先を越される前に――」
「萌夏さん……ダメだ」
「…………」
萌夏さんの目を真っ直ぐ見て俺がそう言うと、萌夏さんは俺の上から離れて、パンツから手を離しパンツ姿のままベッドに座る。その萌夏さんに、俺は萌夏さんが脱ぎ捨てたニットのトップスを被せた。
「世の中には浮気や不倫って概念が存在して、日本を含めた多くの国で一夫一婦制をとってる。そして、人にはそれに則った理性があるんだ。もちろん、その理性には強い弱いはあるけど」
世の中には、浮気や不倫をする男女が沢山居る。それこそ、ニュースになって表に出てきて問題になるのは氷山の一角だ。沢山の人がバレなければ浮気や不倫を続けている。その現状を考えれば、浮気や不倫という言葉はあまりにも時代にそぐわない言葉なのではないかと思ってしまう。
内笠は俺にポリアモリーという言葉を言った。内笠のポリアモリーは本物のポリアモリーとは違う。でも、本来の意味でのポリアモリーは、浮気や不倫という言葉で愛を遮られている人達にとっては良い愛の形なのかもしれない。
でも、現実は、今の世の中はそうじゃないのだ。浮気は悪いことだし、不倫は違法行為だ。だから、人間が持っている理性が判断してそれらをやらないようにしたり止めさせたりする。
「俺はさ、俺に好きって言ってくれる人が沢山居ることを凄く嬉しいって思うし光栄だと思う。なんで俺なんかをって思う気持ちもあるけど、自分でも疑うような自分を好きだと言ってもらえて嬉しい。それと同時に、みんなの気持ちに応えられないことを申し訳ないって思う。それと、ちょっぴり残念だとも思う。俺って高一まで、人から好きだって言われて来なかった人生を生きてきてるから、自分を好きだって言ってくれる人がどんなに貴重な存在か分かるから。でも、それでもダメなんだよ。俺は萌夏さんとはエッチ出来ない。この世の中は全てを選べない世界なんだ。だから、俺は一人を選んで、選ばなかった人の責任を背負うしかない。それしか方法がないんだ」
「ごめん……困らせて……」
「いや、萌夏さんは謝る必要なんてない。それは俺が背負うべき責任だから」
俺はベッドから下りて萌夏さんの手からコンドームを取ると、ドアの内鍵を開けて振り返らずに萌夏さんに言葉を掛けた。
「明日、今日みたいに笑って話せるって信じてる」
俺は、そう言ってドアを閉める。そして、ドアを閉めた後に視線を床に落として拳を握りしめた。
最後の最後まで、身勝手だった自分に怒りを込めて。
元来た道を戻るだけだった。それでも、その道が永遠と続くように長く感じ、たどり着けないと心が折れそうに思えるくらい険しく感じた。
ホテルに入ってフロントからエレベーターに乗って宿泊する部屋のある階まで上がる。俺はそのエレベーター内で拳を握りしめた。
きっと、たった一回でも萌夏さんとエッチをしたら、萌夏さんの心は元の形に大きく近付いたかもしれない。もしそうならなかったとしても、たった一回でも萌夏さんと体を重ねれば、萌夏さんの心にある辛さを取り除けたかもしれない。だけど、俺はそれが出来たのにやらなかった。
理性を外せる要素は沢山あった。
二人だけの寮の部屋、二人だけの秘密、俺の責任、萌夏さんの心の傷の深さ……そんな、理性が外れてしまっても仕方ないと言い訳が出来る要素はあった。それでも俺の理性は外れず保った。
全ては、凛恋を悲しませたくない。その一つだけだった。
エレベーターが止まり内廊下へ出て、泊まる部屋のドアをノックする。
「凛恋、帰ってきた」
ドアに向かってそう言うと、内鍵が開く音がして凛恋がそっと隙間を空けて中から俺を見る。そして、俺の顔を見ると明るく笑ってドアを大きく開いた。
「お帰り!」
「ただいま」
俺はすぐに部屋の中に入って内鍵を閉め、ドアが開かないように確認する。
「シャワールーム見たけど、ちょっと狭いかも。でも、頑張れば二人で浴びれそう」
浴室のドアを開けながら微笑む凛恋は、まだシャワーを浴びていないから外出時の服を着ている。
トップスの部分は真っ白でスカートの部分は真っ黒というミニ丈のワンピース姿の凛恋。ワンピースの裾は膝より上の太腿の中程まであり、後ろから太腿の裏と膝の裏が見える。
胸の奥がドクンッ……ドクンッ……と静かに脈打ち始め、ゆっくりと全身に熱く熱せられた血が広がり始める。その感覚のせいで徐々に頭がのぼせて、意識が飛びそうなほど頭の中がチカチカと瞬く。
俺は、その感覚を否定したかった。その感覚は、確実に凛恋を見て、凛恋の魅力に中(あ)てられたものじゃないのが分かるから、否定したかった。
ついさっき、俺は萌夏さんに迫られた。その萌夏さんのあられもない姿が頭に焼き付いてしまっている。
俺は、本当に最後の最後に残った理性で萌夏さんを押し退けられた。もし、その理性が崩れたら、確実に俺は間違いを犯していた。でも、俺はその理性を保てた。だけど、理性を保ててもどうしようもないものもある。
誰だって、萌夏さんくらい可愛くて魅力的な女性に迫られ、下着姿まで見せられれば性欲は逆撫でられる。俺が萌夏さんに言ったように、俺が凛恋と付き合っていなくて、凛恋という理性の最後の砦がなかったら、絶対に俺は萌夏さんとそうなっていた。それぐらいの欲情を俺は萌夏さんに駆り立てられたのだ。
だから、俺が今凛恋に抱いているものは純粋な欲情ではなく、不純な欲情だ。だけど……それはもう、自分一人では治められないくらいまで燃え上がってしまっていた。
「キャッ! 凡人? ひゃっ!」
後ろから凛恋を抱き締めて、俺は右手を凛恋の太腿を撫でながらワンピースの裾の中へ入れる。すると、凛恋はビクンと体を跳ね上げながら、俺が凛恋のお腹に回した左手に両手を重ねる。
今日はやっちゃいけないんだ。そう、頭では分かっている。凛恋ではなく萌夏さんに逆撫でられた気持ちでは、絶対に凛恋を求めてはいけないのは分かっている。でも、心は――俺の心の奥底にある男としての本能はそんな理屈は通じなかった。
今この空間には、俺を萌夏さんの部屋で抑えた理性がない。俺を抑えた凛恋という理性は、凛恋相手には通じない。だから、俺の理性のたがはないも同然だった。
「凡――んっ……」
振り返った凛恋の言葉を聞かず、俺は壁に凛恋の背中を押し付けながら自分の唇を凛恋の唇を押し付ける。そして、俺は自分のズボンのポケットに手を突っ込み、コンドームの袋を取り出して、キスをしながら凛恋の手に触れさせる。それに凛恋は……小さく微笑んでそれを受け取った。
キスをしたまま凛恋の体をベッドの方に誘導する。そして、ダブルベッドの上に凛恋を押し倒すと、凛恋は俺を見上げながら微笑んだ。
「堪らなかった?」
「ああ」
俺は凛恋の赤らんだ嬉しそうな顔にそう答える。堪らなかった、堪らなくて堪らなくて仕方なかった。でも……それは萌夏さんの寮から帰ってくる間だ。
「本当はシャワー浴びた後だって思ってたんだけど、良いよ?」
その凛恋の言葉で、俺は頭を使わなくなった。誠実さとか道徳とか、そういう頭で考えないといけないものを全て自分の中から除外した。
「あっ……凡人っ……」
凛恋が俺の首に手を回して俺を抱き寄せながら、俺の耳元で甘い声を漏らす。それでもう……俺はついさっきまで抱いていた否定さえも、どこかへ置いて来てしまった。
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