【一九九《始まりは愛の街で》】:三

「凡人くん、ちゃんと良いホテルに泊まるように言ってくれたんだ」

「調べたら、出来るだけ良いホテルに泊まった方が安全だって書いてたからな」

「それが正解。安いホテルに泊まった観光客が犯罪に巻き込まれるってよくあるから、こっちでも注意喚起しているし。でも、凛恋も希も凡人くんが居たら安心よね」

「うん。旅行の大変な段取りとか全部やってもらって。でも、ホテルとかは私と凛恋に決めて良いよって言ってくれたの。凡人くんって本当に優しいよね」


 萌夏さんと希さんがそう言いながら、俺を見て二人でクスッと笑う。それに少し照れていると、凛恋がニコニコ笑って俺の腕を抱き締める。


「当たり前でしょ? 誰だと思ってるのよ~。私の凡人なんだから当たり前じゃん」

「凛恋の惚気を見るのも久しぶりで懐かしいわね~」


 凛恋にからかうように萌夏さんが言うと、正面に俺達が五日間滞在するホテルが見えてくる。

 萌夏さんも一緒に入ってフロントでチェックインすると、萌夏さんは俺達から一歩離れて手を振る。


「じゃあ、明日またホテルに迎えに来るから――」

「凛恋、先に部屋に行っててくれ。萌夏さんを寮まで送ってくる」

「えっ?」

「えっ? って、送るに決まってるだろ」


 驚いて俺を見る萌夏さんに言うと、凛恋が俺にグッと拳を握って見せて気合いを入れたポーズをした。


「凡人、ちゃんと萌夏を送ってきてね」

「凡人くん、萌夏をよろしく」

「任せて。じゃあ、萌夏さん行こうか」

「う、うん」


 ホテルから再び出ると、萌夏さんはホテルの方を振り返ってから俺を見る。


「良かったの?」

「ホテルの中に入ってしまえば大丈夫だろ。それに、凛恋ももう一九だしな」

「そっか」

「それに、萌夏さんを一人で帰らせたら夜眠れなくなる」

「ありがと。やっぱり、住み慣れてるって言っても、夜は怖いんだよね」


 暗くなった空の下、眩い光に包まれる通りの歩道を歩いていると、萌夏さんが隣でクスッと笑う。


「萌夏さん?」

「結構想像してたんだ。パリの街を凡人くんと歩いてみたいな~って。だから、それが叶ったなって思って」

「そんなので喜んでくれるなら良かった」

「明日からは、色々と連れて行きたいところもいっぱいあるから覚悟してよ?」

「了解」


 通りを歩き、萌夏さんがスタージェをしているホテルの前を通ると、俺は萌夏さんに尋ねる。


「萌夏さんが勤めてるホテルってかなり良いホテルだよな?」

「正確には、私が勤めてるケーキ屋がそのホテルの中に入ってるだけなんだけどね。ホテル自体は五つ星ホテルだよ」

「ネットで調べた時に宿泊代がめちゃくちゃ高くて気を失いそうになったよ」


 俺の言葉を聞いた萌夏さんは手を振りながらケタケタと笑った。


「無理無理。私達みたいな庶民じゃ絶対に泊まれないって」

「でも凄いよ。萌夏さんはそんなホテルの中にある店で働いてて」

「もう、毎日気を遣い過ぎて死にそうよ。みんな舌が肥えてるお客さんばかりだし、世界のセレブが集まってくるから影響力も強い。だから、必死に店の評判を落とさないように頑張ってる」

「でも、その頑張りがあったから認めてもらってるんだろ?」

「うん。でも、私は運が良かったの。良い先輩に出会えたし」


 ホテルの前を通る大通りから細い道へ入ってしばらく歩くと、華やかな通りから少し落ち着いた雰囲気の風景になった。でも、そこは少し薄暗く、萌夏さんを送りに来て良かったと思った。


「寮はあそこ」

「寮って感じがしないな」


 萌夏さんが指さした先には、フランス語の表札の下に日本語の表札が出ている門が見えた。だが、日本らしさはその表札の日本語しかなく、寮の建物はおしゃれなアパートだった。


「部屋は一人一部屋なの。ちょっと上がって行くでしょ?」

「え? 関係者じゃないのに入れるのか?」

「寮生のお客さんは入れるの」


 萌夏さんが中に入ると、入り口でラフな格好をした日本人女性と出くわす。


「お帰り萌夏。遅か――あれ? お客さん?」

「うん。日本の友達。フランス旅行に来てて食事をした帰りに送りに来てくれたの」

「そうなんだ~。ごゆっくり」


 なんだかニヤッと笑われて、俺は軽く頭を下げて階段を上っていく萌夏さんに付いていく。

 二階に上がると、萌夏さんは鍵を取り出して通路に並んだドアの一つを開けて振り返る。


「どうぞ」

「お邪魔します」


 部屋の中に入ると、寮ということもあって俺の知っている萌夏さんの部屋よりもずっとシンプルだった。ただ、ベッドと内装はシンプルだったが、机周りは女の子らしい小物も多く、壁際の棚には女性らしく化粧品が並んでいた。でも、思ったより狭い気がした。しかし、寮なのだから狭くても仕方がないのだろう。


「萌夏さん、俺はどこに座ればいい?」

「椅子は一脚しかないし、ベッドにでも座って」

「いや、でも……」

「大丈夫だから気にしないで」


 俺がベッドに座るのを躊躇うと、萌夏さんはニコニコ笑いながら先にベッドに座る。


「ほら、立ってると気になっちゃうから座って」

「じゃ、じゃあ失礼します」


 萌夏さんに促され、俺はやっぱり躊躇いながらもゆっくりと腰を落とす。


「ホント、まさか凡人くん達がフランスに来てくれるなんて思ってなかった」

「萌夏さんを驚かせようと思ってたんだけど、驚いてくれて良かった」

「驚いたに決まってるよ。だってさ……私、ずっと凡人くんに会いたいって思ってたから」

「萌夏さん? どうし――」


 隣に座っていた萌夏さんが、俺の腕を抱いて斜め下から俺を見上げる。そして、両手で俺の手に指を組んで握った。


「ロビーで凡人くんを見た時から……ううん、凡人くんを好きになった時から、ずっとこうしたかった」

「萌夏さん、酔ってるんじゃない?」


 なんだか様子のおかしい萌夏さんに、俺はそう笑い混じりに聞き返す。しかし、聞き返した時の明るく軽薄な俺の気持ちは、萌夏さんに向けられた真っ直ぐな視線に一瞬で消し去られる。


「凡人くん、エッチしよ」

「萌夏さ――」


 突き飛ばされた俺はベッドの上に仰向けで倒れながら、萌夏さんの言葉に目を見開く。今、エッチって……言ったのか?


「萌夏さん、からかってるなら」

「からかってないよ。本気」


 ニットのトップスを脱ぎ捨てキャミソールも脱いだ萌夏さんは、下のスカンツも脱いで上下白い下着姿になった。


「萌夏さん……今すぐ服を」

「服なんて着たらエッチ出来ないじゃん」


 そう言った萌夏さんは、俺の鞄を拾い上げて、中からコンドームの箱を取り出す。そして、箱の中から一つ取り出すと、萌夏さんは酷く辛そうな顔で俺を見た。


「やっぱり、こっちで凹むことあると思い出すんだよね。日本のみんなのこと」


 やっと笑った萌夏さんだったが、その顔からは辛さ以外に悲しさも感じた。


「特にね、凡人くんのことを思い出す。凡人くんが励ましてくれた言葉もだけど、凡人くんの顔を思い出すとね、元気が出るんだ」


 アハハッと明るく笑った萌夏さんは片手で髪を耳に駆けながら話を続けた。


「ちゃんと諦めたんだよ、凡人くんのこと。露木先生とか理緒みたいに諦めないって自分の気持ちを押し通さなかった。私はずっと凛恋とも凡人くんとも仲良しで居たいから、そのために私は諦めたの……人生最大で最高の恋愛を。諦めた、はずだったんだけどさ……」


 萌夏さんは慎重に言葉を選びながら話している。萌夏さんは俺と凛恋との関係を壊したくなくて必死に言葉を選んでくれている。でも、俺はその萌夏さんにどんな言葉を掛ければ良いのか分からなかった。女の子が苦しんでいるのに、男の俺が何も出来ない、それが情けなかった。


「本当、凡人くんって凄いの。もうダメかなって思っても、凡人くんが私を認めてくれてるって思うだけで踏ん張れて。つまんない休日でも、凡人くんと買い物とか、凡人くんのためにケーキ作るって考えると、妄想すると、楽しくてあっという間……」


 ポトリポトリと涙を落とした萌夏さんは、俺を見て泣きながら微笑む。


「やっぱりどうやっても無理だった。離れて分かった。……私には凡人くん以外じゃダメだって。……隣からね、時々エッチの声が聞こえてくるの。女の声も男の声も、でも気持ち悪くて仕方ないんだ。男の声が……」


 萌夏さんは自分の体を抱きしめて身震いさせ、首を力なく横に振る。


「どこに行っても男ってだけで気持ちが悪い。はっきり言えば消えてほしいとも思う。それだけ、私は男って生き物が嫌い。あいつらは女のことをただエッチ出来るだけの存在だとしか思ってない。男はそれだけのために、女を傷付けても何も思わない最低の生き物だって思ってる」


 萌夏さんの思っていること、萌夏さんの持っている男性に対する嫌悪は、間違いなく内笠のせいだ。あいつが、歪んだ欲望を持った内笠がその欲望に負けて萌夏さんと真弥さんを自分のものにしようとした結果、萌夏さんの心まで歪ませてしまった。そして、萌夏さんは歪んだ心に苦しんでる。それは、萌夏さんがずっと泣いていることが証明していた。


「でもね、凡人くんは違うよ? 凡人くんはそんな汚い男とは全然違う。いつだって優しくて格好良くて、人のために全力で頑張れる人。女を性欲処理の道具としか思ってない男達とは違う。だから、私も凡人くんは大好き。どう足掻いても凡人くんだけは好き以外の感情を向けられないくらい好き」

「萌夏さん、俺はり――ッ!?」


 凛恋の名前を口にしようとした瞬間、上に覆い被さってきた萌夏さんが、俺の言葉を遮るようにキスをした。

 上から体重を掛けられ、両手をベッドに押さえ付けられた俺は、萌夏さんから押し付けるようなキスに拳を握った。


 甘い味のする萌夏さんのキスから逃れようとする。しかし、上に覆い被さった萌夏さんは唇を重ねたまま俺のシャツの裾から手を入れて腹を撫でた。


「凡人くんとのキス、凄く気持ち良い……」


 唇を離した萌夏さんは、悲しそうな表情をして俺の目を真っ直ぐ見る。


「大丈夫。私と凡人くんだけの秘密にするから……だから――」

「本当、内笠が憎いよ。俺はあいつがずっと憎かったけど、今は今までで一番憎いよ。あいつのせいで、俺の親友がこんなに苦しんでる」


 俺は萌夏さんの言葉を遮って、萌夏さんを落ち着かせるために言葉を発する。

 内笠が居なければ、萌夏さんの人生は狂わなかった。もっと伸び伸びと、もっと明るく真っ直ぐに生きられたはずだ。それを、内笠に傷付けられて、萌夏さんは真っ直ぐ歩けなくなった。


「内笠に乱暴される夢を観るの。もう、高二の頃からだから三年になるかな。毎日じゃないよ。でもね、二日に一回くらいの頻度で」


 ポトリと俺の頬に萌夏さんの熱い涙が落ちて、俺は自分の拳が砕け散りそうなくらい強く握りしめる。

 怖い夢を観続けさせられ、気が狂いそうにもなったはずだ。それでも、萌夏さんは必死にその恐怖に耐えていた。それは尋常じゃない心への負担になる。


「どうやって、今までそんな辛いことを」

「凡人くんは知ってるでしょ? 内笠に盗撮された映像……見たんだから……」


 萌夏さんが言った言葉で、俺は内笠と初めて会った内笠の別荘で見た映像がフラッシュバックする。自宅のベッドの上で甘い声を漏らす萌夏さんの映像を。


「二日に一回だったのはそれのお陰かもね。内笠の夢を掻き消すために凡人くんを想像してすると、次の日は凡人くんの夢を観られるの。私と付き合ってる凡人くんと仲良くデートしたり、優しく囁いてくれたり……でも、次の日になるとまたあいつが出てくる。それで怖くて飛び起きて、また凡人くんを想像して自分の心を必死に保ったの。……昨日もしたよ?」

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