【一九九《始まりは愛の街で》】:一

【始まりは愛の街で】


 機内で目を覚ました俺は、時計を確認して寝惚けた頭を動かす。到着予定時刻までもう一時間を切っていた。

 フランスのパリまでは、所要時間約二〇時間。イギリスのロンドンに行った時よりも倍近くフライト時間が長いが、これはロンドンの時が直行便だったのに対して、今回は韓国の仁川(いんちょん)国際空港を経由する乗継便で行くからだ。


 乗継便は一般的に直行便よりも安い。場所によっては直行便と変わらなかったり直行便の方が安かったりするようだが、今回は乗継便の方が安かった。

 詳しくは分からないが、フランスへの直行便はヨーロッパの航空会社が運営する便になり、乗継便はアジア系の航空会社が運営する便になるらしい。そして、ヨーロッパの航空会社よりもアジア系の航空会社の方が比較的安価という傾向があるらしく、それで乗継便の方が安くなるらしい。


 イギリスのロンドンに行った時は凛恋のお父さんが全てを出してくれたが、今回は当然自分達が稼いだお金で払わないといけない。だから、出来るだけ安く済ませる必要があった。ただ、飛行機代を浮かせようとしたのはそれだけが理由じゃない。


 俺達の住む日本は全世界的に見ればかなり治安の良い国になる。だから、明らかに宿泊代が安すぎるような場所に寝泊まりしない限り危険ということはない。でも、世界に出ればそういう常識は通用しない。


 フランスが極端に治安の悪い国というわけではない。ただ、日本で生活している感覚のまま行くと危ないのだ。特に寝泊まりするホテルは高くても良いホテルに泊まるべきなのだ。だから、飛行機代を浮かせたのは旅行に掛かる全体の費用を浮かせるというよりも、その浮いた分でより良いホテルに泊まるためだ。

 今は仁川国際空港からフランス、パリのシャルル・ド・ゴール国際空港へ向かっている途中で、あともう少しで花の都パリへ俺達は降り立つことになる。


 顔を横に向けると、並んで気持ち良さそうに眠る凛恋と希さんの顔が見えた。二人共、飛行機に乗る前から興奮しっぱなしだったし、その疲れで眠っているのだろう。

 二人が興奮するのも仕方がない。友達との海外旅行というのもあるが、何よりパリには留学中の萌夏さんが居る。俺達は、久しぶりに親友の萌夏さんに会いに行けるのだ。


 萌夏さんには俺達がパリに行くことは言っていない。それは、凛恋がサプライズで行って驚かせたいという気持ちからだ。もちろん、パリに行って萌夏さんと全く会えないなんて本末転倒だから、それとなく萌夏さんの休みの予定を聞いてそれに旅行日を合わせている。だから、行ったは良いけどまともに萌夏さんと遊べないということはないはずだ。

 萌夏さんに久しぶりに会える。それを想像した俺は、思わず小さな笑いが溢れる。俺達に会った萌夏さんはどんな反応をしてくれるだろう。それを想像するだけで楽しくなる。


「うっ……う~ん……凡人?」

「おはよう凛恋。もう到着予定時刻まで一時間切ってる」

「もう? やっぱ寝てると早いね」


 軽く背伸びをした凛恋は自然に俺の手を握る。その凛恋の手はポカポカと暖かかった。


「人生二度目の海外旅行で、しかも二度とも凡人と一緒とかヤバい」


 顔をにやけさせた凛恋は俺に可愛い顔を近付けて微笑む。


「だよな。まさか、二度も海外旅行に行けるなんて思ってなかった」

「とりあえず、今日は速攻萌夏がスタージェしてるホテルに行くわよ」

「大丈夫。ルートは何度も確認してるから絶対に間違えない」

「ありがと。ホント、凡人ってすっごく頼りになるよね」

「俺は凛恋と希さんに最大限楽しんでほしいだけだよ」


 大体、旅行とかに行くと移動の段取りが面倒だ。そういうのを俺は予め日本で何度もシミュレートしてきた。パリに着いて萌夏さんに会ってからは、現地に住んでいる萌夏さんのアドバイスに従った方が賢明だろうが、それまでは自分以外に頼れる人は居ない。


「私は凡人にも楽しんでほしいんだけど?」

「もちろん俺も楽しむよ。でも、男としてやることはやらないと」

「もー、本当に格好良すぎ」


 凛恋が握った手が俺の指に絡み、凛恋はジーッと視線を向けてくる。


「ダメだからな」

「えー、ちょっと軽くチュッてするだけだって」


 凛恋がキスを強請っているのは分かる。しかし、周囲には他の乗客も居る。今は眠っている人も多――。

 チュッ。その軽い音が近くで鳴って、俺は唇に柔らかく温かい感触を受ける。すると、人さし指を唇に触れさせた凛恋がクスッとはにかんだ。


「隙あり」


 そう言った凛恋は満足げにシートの背もたれに背中を付けて微笑んだ。


「ありがとね。凡人が居るから、私は安心してフランス旅行を楽しめる」

「お礼を言われることじゃないって。俺は当たり前のことをしてるだけだ」

「そんなことない。こんなに一生懸命私達の安全を考えて楽しい旅行にしようってしてくれる人なんて凡人くらいだよ。本当に、私の彼氏は最高に優しくて最高に格好良い」


 指の組まれた凛恋の手の握る力が強くなる。その凛恋の強い手の感触を抱きながら、俺は機内に流れるアナウンスに耳を傾けた。




 シャルル・ド・ゴール国際空港に着いた俺達は入国審査を抜けて荷物を受け取り、パリ市内へ向かうシャトルバスに乗る。

 萌夏さんがスタージェをしているホテルは、シャルル・ド・ゴール国際空港から直通のシャトルバスが出るほど有名なホテルで、ホテル名を調べたらパリでも有数の高級ホテルだと出てきた。流石に俺達の予算じゃそんな高いホテルには泊まれないが、シャトルバスが出ているのはかなり助かった。


 スマートフォンの時計アプリケーションを開き、フランス標準時を確認する。時間的には、丁度バスが着いた時が萌夏さんのスタージェが終わる頃合いになる。


「すご~。やっぱロンドンとは雰囲気が違うね~」


 バスの窓から見える風景を観て凛恋がそんな感想を言う。確かに、ロンドンは落ち着いた街並みだった記憶があるが、フランスは通り沿いにある店々の看板がカラフルでおしゃれに感じる。だから、全体的に華やかな感じがした。それも、パリが美称で花の都と呼ばれる由縁なのかもしれない


 シャルル・ド・ゴール国際空港から五〇分ほど走れば、もうパリの中心街に入る。

 左右に建ち並ぶ建物達は白を基調とした明るい建物で、一階部分にはどんな店かは分からないが、おしゃれなロゴの看板を掲げた店が軒を連ねている。中心部に入る前も十分華やかだと感じたのに、大通りを走るとその華やかさが一気に増した。


「凡人、ちゃんと萌夏に会えるかな?」

「大丈夫。軽い挨拶が出来れば、後は翻訳アプリの翻訳を見せればなんとかなるって」


 俺も凛恋も英語は苦手で、希さんは俺達よりも英語は得意だが自信があるわけでもないようだ。中心街のブランドショップや観光地、それからホテルで簡単な英語なら通じるらしいが、それでもこっちも向こうも英語に不安があれば上手くはいかない。だが、今は文明の利器であるスマートフォンがある。これの翻訳アプリケーションで言葉を翻訳してもらえば、多分通じるはずだ。


 パリの中心街をしばらく走ったバスは、目的地であるホテルに辿り着く。すると、ホテルの前には白人のホテルマンが出迎えをしているのが見えた。


「ボンジュール、ビヤンブニュ(いらっしゃいませ)」

「ボンジュール(こんにちは)」


 挨拶をしてくれたホテルマンに笑顔で挨拶を返して中に入ると、俺達は思わず立ち止まった。


「「「…………」」」


 入ってすぐに、俺達は思わず息を飲んで言葉を失った。

 宿泊客の案内や受付でせわしなく動き回るホテルマンは足音一つ立てず、聞こえるのは明るい宿泊客の談笑する声とロビーに流れるおしゃれで落ち着いた音楽。でもその落ち着いた音楽で抑えきれないほどの華やかさがあった。


 天井には巨大で煌びやかに光るシャンデリアが下がり、ただの天井なのに金色の細やかな装飾が施されている。壁紙も白と金で穏やかさと華やかさを両立し、置かれている家具も床に敷き詰められた大理石も、一歩踏み入れただけでそこが一般人は用がない、選ばれた人しか足を踏み入れられないような敷居の高さを感じる。完全に、俺達はその中で浮いていたし場違いだった。


「お、落ち着かないね」


 希さんが少し身を縮ませながら苦笑いを浮かべる。俺も希さんに同意見だった。


「と、とりあえずフロントで萌夏さんについて尋ねよう」


 俺は高級ホテルのロビーに圧倒されて怯んでしまったが、俺が怯んだら誰も先頭に立てない。だから、無理矢理にでも怯んだ気持ちを持ち上げてロビーの奥にあるフロントまで歩いて行く。


「ボ、ボンジュール。ジュスイ、ジャポネ(こんにちは。私は日本人です)」


 俺はとりあえず、フロントに居た白人女性に挨拶をして自分が日本人であることを言う。そして、次に萌夏さんを探している旨を伝えるフランス語をスマートフォンで見せようとした。すると、白人女性はニッコリ笑って俺に言った。


「ようこそ。ロイヤル・ファンテーヌ・ホテル・パリへ。何かお困りですか?」

「に、日本語!?」


 予想だにしていなかった流ちょうな日本語に、俺は思わずその声を上げてしまう。すると、白人女性はクスッと笑って明るい笑顔を向けた。


「はい。私は日本語が話せます」

「助かりました。すみません、このホテルに入っているケーキ店に居る切山萌夏さんという日本人を探しているのですが」

「お店の名前は分かりますか?」

「えっと、クロンヌ・ガトーという名前です」

「分かりました。少々お待ち下さい」


 白人女性はそう言って内線で電話を掛けてくれる。流ちょうすぎるフランス語で話していて一ミリの会話の内容は入ってこないが、日本語を話せる人が居て良かった。


「切山萌夏さんにお友達がいらっしゃっているとお伝えしておきました。すぐにロビーへ来られるそうです」

「ありがとうございます。すみません、宿泊客でもないのにご迷惑をお掛けしてしまって」

「いえ、丁寧にありがとうございます。お気にならさないで下さい」


 最後まで丁寧に対応してくれた白人女性に、俺は頭を下げながら言う。


「メルスィ(ありがとう)」


 すると、白人女性はニッコリ笑って言った。


「ボヌ、ソワレ(よい旅を)」


 俺がフロントを離れて後ろに居た凛恋のところに戻ると、なにやら凛恋が頬を膨らませていた。それに首を傾げて希さんに向けると、希さんが口を手で隠しながら笑って言った。


「フロントのお姉さんが綺麗な人だからやきもち妬いたみたい」

「え? フロントのお姉さん?」


 俺が首を傾げたまま凛恋に視線を戻すと、凛恋は唇を尖らせてそっぽを向く。


「だって、あの人チョー美人だったし」

「凛恋の方が美人だよ」

「ほんと?」

「俺が嘘吐くと思う?」

「ううん! 思わない!」


 凛恋は俺の腕に飛び付いてニコニコと笑う。

 すぐに機嫌を直してくれた凛恋を見ていると、凛恋が俺の後ろを見て小さく笑う。それを見て振り返ると、ロビーの奥に突っ立つ萌夏さんが見えた。

 白いニットのトップスにピンクベージュのスカンツ姿で、ショルダーバッグを肩に掛けている萌夏さんは、俺達三人の方を見てボーッと見ている。

 萌夏さんはまるで未知の生き物でも見たかのような目を向けている。そして、余りにも予想外の出来事過ぎたのか、萌夏さんはロビーのど真ん中で立ち止まってしまっている。


「もー、萌夏ったら。萌夏~!」


 凛恋がクスッと笑いながら手を振って萌夏さんの名前を呼ぶ。すると、萌夏さんの止まっていた時計の針が動き出し、全速力で駆け寄ってきて凛恋に飛び付いた。


「凡人くん! 凛恋! 希! ちょっ! なんで!? なんでここに居るの!? 今日本でしょ!? えっ!? ここパリだよ!?」


 駆け寄ってきて俺達の存在は確認したものの、萌夏さんはまだ頭がパニック状態のようで、俺達三人を何度も順番に見ながら尋ねる。


「三人で萌夏に会いに来たのよ」

「だ、だからっ! 会いに来たってここフランス! フランスのパリだから!」

「三人で夏休みに萌夏に会いに行こうって三人でお金貯めてきたんだよ」


 混乱する萌夏さんに希さんが笑顔で言うと、萌夏さんが口をキュッと結んでプルプルと唇を震わせた。


「マジヤバイってそれ……」


 萌夏さんは涙が滲んだ目を手の甲で拭い、凛恋を抱き締めながら希さんも一緒に抱き締める。

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