【一九八《終熄(しゅうそく)して、人知れぬ成熟》】:一

【終熄(しゅうそく)して、人知れぬ成熟】


 面倒なことになった。そう、俺は冷や汗を掻きながら思った。

 俺は今日、児童相談所から家に帰って凛恋に今日あったことをこと細かに説明した。

 凛恋は夏美ちゃんのことを聞いて「あんだけ格好良いことされて凡人に惚れない方がおかしい」と言って、全然気にしてないと言ってくれた。しかし、問題はそこじゃなかったのだ。


「空条さんに下着を買ったのに、私には買ってくれなかった凡人」


 凛恋は隣からギッと鋭い目を向けて俺を睨む。今の俺は、その目の恐ろしさに体を震わせる。

 凛恋は夏美ちゃんのことは全く怒らなかった。ただ、濡れた空条さんのために服を買いに行ったことを怒ったのだ。特に、下着に関してはめちゃくちゃ怒られた。

 空条さんだけズルい、と……。


 ズルいところなんて一欠片もないし、空条さんからすれば男友達が買ってきた下着を着けさせられて恥ずかしかったに決まっている。だが、どうやら凛恋はそれでは腹の虫は治まらないらしい。


「凛恋には高校の頃に――」

「あれは凡人が私と一緒に選んだだけでしょ? 凡人が買ってくれたわけじゃない」

「それはそうだけど……」


 凛恋が両腕を組んで怒りが治まらない様子で俺を睨み続ける。睨まれている俺は、当然床に正座して俯く。

 別に悪いことをしたわけではないはずだ。でも、凛恋が怒っているか怒っていないかが全てだ。凛恋が怒って嫌な気持ちになったとしたら、俺のやったことは悪い。

 冷静に考えれば、俺がやったことはちょっと……いや、大分おかしい。


 俺が買いに行かなければ空条さんは着替えがなかった。だけど、方法は他にもあったのだ。宝田さんや、それこそ凛恋か希さんに連絡して着替えを買ってきてもらうという手はあった。でも、混乱していた俺は空条さんに頼まれるまま着替えを買いに行ってしまった。恐らく、俺に頼んだ空条さんも相当混乱していたんだと思う。


「ちょっ!? 凡人!?」

「ごめんっ……」


 不甲斐ないというか……一番怒らせたくない、嫌な思いをさせたくない凛恋を、俺自身が怒らせて嫌な思いをさせてしまったことへ後悔する。そして、申し訳なさが涙と一緒に溢れた。

 凛恋がここまで怒ることなんて最近はなかった。だから、それだけ凛恋は嫌な思いをしたということだ。俺は凛恋に嫌わ――。


「ごめんっ! 嫌いにならないでッ!」


 正面から、凛恋がそう叫びながら強く抱き締める。俺は、その凛恋の勢いに負けそうになりながら凛恋を抱き留めた。


「ごめんね凡人。凡人を泣かせるつもりなんてなかったのに……」

「いや、俺が悪いんだよ。宝田さんとかに頼むべきだったんだ」

「それは凡人の言う通り。凡人は私の彼氏なんだから、いくら何でも女友達の下着を買いに行くなんてダメよ。私のだって買ってくれたことなかったのに……」

「り、こ……?」


 俺を抱き締めている凛恋は、目の前で口をキュッと結んで目に涙を滲ませる。


「凡人の初めては全部私のなのに……他の子に取られたのが悔しくて、ついカッとなっちゃって……」


 俺は抱き締められたまま、家の中を見渡して小さく息を吐く。ここが外じゃなくて良かったと思った。初めてだのなんだのという話を、こんな可愛い凛恋が口にしているところを俺以外の男に聞かれたくはない。

 凛恋の涙を俺が親指でそっと涙を拭うと、俺と同じように凛恋も俺の涙を拭ってくれる。


「私も怒り過ぎた。ごめんね」

「俺も凛恋に嫌な思いをさせるようなことをした。ごめん」


 お互いに謝り合って凛恋の背中を擦ると、凛恋が少し赤くした目をゆっくりと閉じる。


「仲直りのチューしよ」


 俺は凛恋の言葉にゆっくり凛恋の唇に自分の唇を重ねる。すると、凛恋が俺の正座を崩させながらそっと後ろへ押し倒した。

 まだ日が沈みきっていないうちからダイニングで熱くキスをし、俺はほんの少し顔を上げて、唇を離した凛恋を見上げる。


「女子高生には負けないから」

「え?」

「夏美ちゃんがピチピチの女子高生でも、私は負ける気なんてない。絶対に凡人を渡さないから」

「凛恋はピチピチの女子大生だろ。可愛いし綺麗だし、大人っぽくて色気もある」

「凡人は私にメロメロ?」

「俺は、付き合う前からずっと凛恋にメロメロだった」

「でも、好きになったのは私が先だけどね」


 上に覆い被さる凛恋は俺の頬に自分の頬を擦り付けながら優しく頭を撫でてくれる。喧嘩をしたわけではないが、凛恋と仲直り出来て凛恋が機嫌を持ち直してくれて本当に良かった。


「じゃあ、今から買い物行こうか!」

「そうだな。暗くなる前に行った方が良いし」


 凛恋が俺の頬にキスをしてから立ち上がると、和室の方に歩いて行く。そして、鞄を持って来て俺の隣に並んでキュッと俺の手を握る。

 数日置きに行くようになった食材を買うための買い物。今日はその買い物の日だが、俺はさっきまでの弱った自分を吹き飛ばして切り替える。それは、おそらく……いや、確実に今日も羽村さんが来ているからだ。でも、今日はいつもとは違う。


「凛恋、買い物に行く前に近くの交番に行こう」

「え?」

「警察に相談するんだ」

「……でも」

「大丈夫。今回は絶対に警察が動くから」


 俺と凛恋は一度警察に相談している。でも、その時はただスーパーに居合わせているだけでは何も出来ないと言われてしまった。それで、凛恋は警察に相談してもダメだと諦めたのだ。だけど、俺は諦めてなかった。

 以前までの羽村さんは凛恋に話し掛けてくることはしなかった。文字通り、ただ同じスーパーに居合わせるだけだったのだ。だから、警察も動けなかった。でも、今は違う。


 羽村さんは痺れを切らして凛恋に話し掛けてきた日から、俺と凛恋が買い物を終えてスーパーから出てきたところで毎回話し掛けてきていた。それは、立派な付きまとい行為だ。それに、俺はその証拠をスマートフォンに持っている。


「話し掛けてくる度にスマートフォンで動画を撮ってたんだ。羽村さんが俺達に話し掛けてくるのを」

「いつの間に?」

「スマートフォンに無音カメラのアプリケーションがあるだろ? それを使った」


 無断で人を撮影するのは褒められた行為ではない。でも、そうでもしないと俺は証拠を得られなかったし、証拠がなかったら警察は動いてくれない。


「凡人……私はもう諦めてたのに……」

「俺は諦めてなかった。彼女が怖い思いをしてるのに諦める彼氏が、この世の中に居るわけないだろ」

「ありがとう」

「お礼は羽村さんが諦めた後だ。まあ、諦めた後でもお礼は要らないけどな。俺にも、俺の凛恋に付きまとう羽村さんに居なくなってほしかったって気持ちもあるし。じゃあ、行こうか」

「うんっ!」




 いつものようにスーパーのレジに並んで買い物をしながら、俺は視線を後ろに向ける。すると、丁度俺達の後ろのレジで羽村さんも買い物をしていた。そして、俺と目が合った羽村さんは余裕たっぷりの顔で微笑んだ。俺はその表情を見て、いつまでそうやって笑っていられるんだろうなと達観する。

 会計を済ませて、俺は荷物を持ち凛恋と手を繋いでスーパーの出入り口まで歩く。後ろからは、俺と凛恋を追うように羽村さんが付いてきた。


「もうそろそろ一回くらい食事に行ってくれても良いんじゃない?」


 スーパーを出て駐車場の中程まで歩いたところで、羽村さんがニッコリと笑って俺と凛恋の正面に立ち塞がる。俺は、いつも通り自分の後ろに凛恋を隠した。


「毎回しつこいですよ。凛恋も嫌がってますし迷惑してます」

「前にも行っただろ? 俺は諦めが悪いのが取り柄だって」

「こんばんは。少しお話をよろしいですか?」

「えっ?」


 余裕たっぷりに俺を見ていた羽村さんは、横から声を掛けられてその余裕の表情を一変させる。羽村さんと俺の視線の先には、制服の女性警察官が立っていた。


「私は警察の者です。少しお話をしたいので駅前交番まで来て下さい」

「いや、私は何も悪いことは」

「ここでは目立ちますしゆっくりお話も出来ないので、お願いします」


 女性警察官は実に事務的に毅然とした態度で羽村さんを交番まで促す。対して、羽村さんは見るからに動揺しながら歩き出した。

 俺達は駅前の交番まで行き、俺と凛恋は並んで椅子に座らされる。そして、正面には羽村さんが座った。


「すみません。お名前とご年齢、ご職業をお伺いしてよろしいですか?」

「羽村正一(はむらしょういち)、二五歳、会社員です」

「ありがとうございます。羽村さん、今回は多野凡人さんと八戸凛恋さんから、羽村さんから付きまといを受けているというご相談を受けました。心当たりはございますか?」

「私は、八戸凛恋さんと仲良くなりたくて話し掛けはしましたが付きまといなんてしてません」

「そうですか」


 羽村さんの言い分を聞いた女性警察官は、脇に抱えていたタブレット端末をテーブルの上に置いて操作する。すると、タブレット端末の画面に薄暗い映像とノイズ混じりの音声が流れ始めた。


『食事に行こうよ。多野くんよりも良いお店を知ってるよ。夜景の見えるホテルのレストランとかどうだい?』

『嫌です』

『羽村さん、もう何度も断ってるでしょ。もう俺達に話し掛けないで下さい』


 タブレットからは、凛恋に話し掛ける羽村さんの声と、羽村さんに話し掛けられて拒否する凛恋の声、そして、羽村さんに付きまといをやめるように言う俺の声が聞こえる。


「同様の動画を多野さんが一〇以上撮影していました。これは十分付きまとい行為とされる行為です。そして、この証拠を元に八戸凛恋さんから、警告の申し出がありました。もし、今後同様に付きまといを行ったり、その他ストーカー規制法で禁止されている行為をしたりした場合は、懲役刑または罰金刑が課される可能性があります」

「私は八戸凛恋さんと仲良くなりたかっただけです!」


 羽村さんは焦った様子で女性警察官にそう言い返した。それに、女性警察官は首を振って否定した。


「八戸さんは羽村さんに話し掛けないでほしいと拒否しています。それなのに話し掛け続ける行為は付きまとい行為です」

「でも、今まで交際した女性はみんな最後には私と付き合ってくれて」

「今までの女性との交際経験とその経緯は分かりませんが、八戸さんは拒否し恐怖心も抱いています。八戸さんと同じ女性として、私も羽村さんの行動には気味の悪さを感じます。それに、八戸さんは多野さんと交際しているそうです。お二人のためにも諦めて下さい」


 毅然とした態度でそう羽村さんへ言ってくれた女性警察官は、タブレット端末を仕舞って小さく息を吐いた。


「本日はお帰りいただいて構いません。ですが、先程お話ししましたように、ストーカー規制法で禁止されている行為をした場合はただの警告では済まされないことをご注意下さい」

「分かりました……」


 羽村さんはうなだれた様子で女性警察官に力無い返事をする。

 交番で警告を受けた羽村さんは、俺達より先に交番を出た。その羽村さんが出た後に俺は女性警察官に頭を下げた。


「ご迷惑をお掛けしました」

「多野さん、頭を上げてください。多野さんは頭を下げるようなことは何もしてないんですから」

「ありがとうございます」

「八戸さん、辛かったでしょうけどもう大丈夫です。もし、また羽村さんが話し掛けてきた場合はすぐに警察に通報して下さい」

「はい」


 凛恋がそう言うと、女性警察官はニコッと笑って耳打ちをする。すると、凛恋がはにかみながら俺の顔をチラッと見た。

 二人で交番を出ると、凛恋が俺の腕にしがみ付いて来て、ニコッと斜め下から俺の顔を見る。


「警察官さんが、素敵な彼氏さんですねって言ってたよ。チョー嬉しい!」

「そうか?」

「そうよ! 他の人から凡人が褒められるとチョー嬉しいし、軽い優越感がある。羨ましいでしょー、って心の中でさっきも思ったし」


 嬉しそうに微笑む凛恋は、空を見上げて俺の腕に組んでいない手を空に伸ばす。


「やっとあいつの付きまといも無くなるね」

「遅くなってごめん。出来るだけ証拠を集めた方が良いって思ったからさ」

「ううん! 凡人が私のためにあいつを撃退してくれたんだから、私は凡人に感謝しかしてない! それに感謝以外にも、もっともっともーっと凡人のこと大好きになった。これ以上どうやったら、このチョーチョー大好き加減を凡人に伝えられるか分からないけど」

「伝わってるよ。凛恋の言葉で十分過ぎるくらい」


 凛恋が嬉しそうに笑う顔、それを見られて俺は心の底から嬉しかったしホッとした。まだ、羽村さんが接触して来ないと決まったわけではないが、それでも今は凛恋の笑顔を見られて本当に良かったと思った。


「あっ! お姉ちゃん! 凡人さん!」


 駅前に近付くと丁度アルバイト帰りの優愛ちゃんと出会う。その優愛ちゃんは、俺と凛恋の近くに来るとニヤッと笑った。


「二人共、今日もラブラブだね!」

「当たり前でしょ? 私達は常にラブラブに決まってるじゃない」


 からかう優愛ちゃんをそう受け流す凛恋は、優愛ちゃんに顔を近付けて小声で話した。


「優愛、変な男から声掛けられてない?」

「う~ん、お客様の何人かに連絡先を渡されたくらい?」

「今日も!? それで?」

「全部捨てた。連絡する気なんてなかったし」

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