【一九七《葛藤と責任と》】:二
「行きましょう」
「はい」
俺は植草さんに連れて行かれてロビーから一番近いドアの中へ入る。そこは応接室や事務室ではなくリネン室だった。
「こんなところですみません」
「いえ。あの……失礼な話かと思いますが、夏美ちゃんを見て何を確認していたんですか?」
俺が単刀直入に気になったことを尋ねると、植草さんは一瞬目を見開いて驚いた後に俯く。
「実は、少し川崎さんに対して心配なことがあるんです」
「心配なことですか?」
「はい。川崎さん、ついさっきまで体調を崩して自室で寝込んでいたんです」
「え? 体調を崩してた?」
俺はリネン室の閉じたドアを見て、ドアの先に居るはずの夏美ちゃんの方を見る。児童相談所に来て、ロビーに入ってきた夏美ちゃんは元気そのものだった。ついさっきまで体調不良で寝込んでいたなんて思えない。
「それで……多野凡人さんが面会に来た、ということを聞いた途端に体調が戻ったんです」
「俺が来たことで、ですか?」
植草さんが神妙な面持ちで言う言葉に、俺は疑問が浮かんではっきりしない頭で聞き返す。
「……まだ診察を受けて診断が出たわけではないのですが、川崎さんは分離不安障害の可能性があると思います」
「分離、不安障害?」
聞き慣れない言葉に首を傾げると、植草さんは小さく息を吐いて辛そうに口を動かした。
「分離不安障害は、愛着のある人物や場所から離れることに対して不安を感じることを指す心理学の用語です。そのまま精神病の病名でも使われますが」
「夏美ちゃんがその分離不安障害だって思うのにはどういう根拠が?」
「分離不安障害の判断基準は八つあります。一つ目は、家庭または愛着を持っている重要人物からの分離が起こる、または分離が予測される場合の反復的で過剰な苦痛。二つ目は、愛情を持っている重要人物を失う、またはその人に危険が降り掛かるかもしれないという持続的で過剰な心配。三つ目は、厄介な出来事によって、愛着を持っている重要人物から引き離されるのではないかという持続的で過剰な心配。これは、自分が迷子になってしまうとか、自分が誰かに誘拐されるかもしれないという心配です。四つ目は、分離に対する恐怖のために、学校やその他の場所へ行くことについての持続的な抵抗または拒否。五つ目は、一人で、または愛着を持っている重要人物が居ないで家に居ること、またはそのたの状況で頼りにしている大人がいないことに対する持続的で過剰な恐怖または抵抗。六つ目は、愛着を持っている重要人物が側に居ないで寝たり、家を離れて寝たりすることに対する持続的な抵抗または拒否。七つ目は、分離を主題とした悪夢の繰り返し。そして、八つ目は、愛着を持っている重要人物から引き離される、または分離が起こる、または分離が予測される場合の反復する身体症状の訴え。頭痛や腹痛、嘔気(おうき)または嘔吐です」
細やかに説明をしてくれた植草さんは、改めて俺に真っ直ぐ目を向けた。
「この中で、三つ以上適合する症状があると分離不安障害だと判断される証拠になります。川崎さんは、昨日ここに連れて来られてからずっと多野さんに会いたいと言い続けていました。これは一つ目に該当すると思います。それに、昨日の夜中には男性職員に対して『自分を連れ去って凡人さんから引き離そうとしてる』と私に言いました。これは三つ目に該当します。加えて、川崎さんは学校に行くのも拒否をしましたし、施設に入ることも拒否しました。これは四つ目です」
「ちょっと待って下さい。メールでは施設にお世話になることになると書いてました。拒否するなんてことは」
「多野さんには直接言わなかったのは、恐らく自分がわがままを言って多野さんから嫌われたくないという思いからだと思います。川崎さんは、昨日から寝ていません。言葉では聞いていませんが、それは六つ目に該当する可能性があります。そして……ついさっきまで体調不良だった川崎さんは、多野さんが来た途端に体調不良が改善した。これは、八つ目に該当します」
植草さんが挙げたのは八つのうちの五つ。話では、三つ以上に適合すれば分離不安障害の可能性があるらしい。だが、それと同じくらい確かめないといけないこともある。
「……俺が夏美ちゃんにとって重要人物になっているということですか?」
「はい。間違いないと思います。川崎さんの置かれている家庭環境と、昨日から川崎さんが多野さんにして頂いたことを鑑(かんが)みれば、川崎さんは多野さんを自分にとって最も大切で失いたくない人だと思った可能性があります。川崎さんは家庭でも学校でも心を許せる人が居なかった。そこで、多野さんが川崎さんに手を差し伸ばしてくださった」
「…………」
俺はシーツが置かれている木製の棚に背中を付けて、視線を床に落とした。
「俺がやったことで、俺が夏美ちゃんを助けようとしたことで、夏美ちゃんを追い詰めてしまったってことですか……」
「多野さん、勘違いをしないでください。確かに今、川崎さんは多野さんに依存してしまっています。ですが、もし多野さんが川崎さんに手を差し伸ばして下さらなかったら、川崎さんは一生消えない心の傷を負っていた可能性もあります。分離不安障害は心理療法でも薬物療法でも治るものです。それに、精神疾患とされるのは成人を過ぎてから発症した場合です。幼い子供が両親と離れて不安になることは誰でも通る道です。それが川崎さんは今現れて、対象がご両親ではなく多野さんになっているだけです。だから、ご自身を責めないでください」
「でも……すぐに改善するというのは無理なんですよね?」
精神疾患や精神病と呼ばれる病気は、完治までにかなり時間が掛かるのが常だ。一朝一夕で改善するものじゃない。
「俺はどうすれば良いですか?」
「これからすぐに川崎さんに心療内科医の診察を受けてもらおうと思います。診察を受けて分離不安障害だと判断されれば、それに合わせた治療法を心療内科医の先生が行ってくれます。それに、薬の処方もして下さるので睡眠導入剤等で眠れないことへの改善が行われると思います。ただ……多野さんには川崎さんに根気強く接して頂く必要もあると思います。今、川崎さんには多野さんしか頼れる人が居ません。もちろん、私も他の職員も川崎さんに信頼を得られるように努力して行きます。ですが、それまで……川崎さんが多野さん以外の方にも頼れて、自分で歩き出せるまで協力して下さい」
「分かりました。元々、相談所に預けたら終わりだとは思ってなかったので」
「ありがとうございます。改善が見られたら徐々に面会の頻度も減らしていこうとも思います。それで、多野さんから離れても不安を感じなくなれればと」
植草さんは柔らかく笑った。それを見て、少なくとも植草さんは夏美ちゃんの味方になってくれるだろうと思った。
「私の邪魔しないでッ!」
「キャッ!」
突然、ドアの向こう側から夏美ちゃんの叫び声と空条さんの悲鳴が聞こえた。それを聞いた俺が慌ててロビーへ出ると、ソファーから立ち上がった夏美ちゃんがソファーに座っている空条さんを見下ろしている光景が見えた。その夏美ちゃんの右手には空のコップが握られ…………空条さんは、頭をびっしょり濡らしていた。
近くの服屋で女性物の服を買ってきた俺は、再び児童相談所の中に入る。そして、児童相談所のシャワー室の前に立ってドアをノックした。
「はい」
「空条さん、俺。着替え買ってきた」
「ありがとう」
ドアが少し開き、その隙間から湯気を立たせる空条さんの手が出てくる。その手に衣料品店のロゴが入ったビニール袋を手渡すと、ドアは音を立てて閉じた。
「お金払うね」
「お金は良いよ。空条さんに迷惑掛けたし」
「私は多野くんに何もされてないんだけど。ありがとね、下着まで買ってきてもらって」
「…………いえ、大丈夫です」
俺は日頃空条さんに使わない敬語でそう答えて、視線を床に落とす。
空条さんは、突然夏美ちゃんにコップに入った麦茶を頭から掛けられたらしい。それが全身を濡らしてしまったため、空条さんは着替えが必要になった。
俺は女性の服なんて買ったことはなかったが、児童相談所の職員さん達に買いに行かせるわけにもいかないし、ずぶ濡れの空条さんをまま出歩かせるわけにもいかない。だから、空条さんに必要な物をシャワー室の中からメールで送ってもらって、空条さんがシャワーを浴びている間に俺が買いに行ったのだ。その中に、女性物の下着も入っていた。
大丈夫なんて言ったが、大丈夫な訳がない。状況から言えば、若い男が女性物の服一式を買い揃えているのだ。当然、店員さんから怪訝な目を向けられた。だけど、俺が空条さんを連れて来なければこんなことにはならなかったのだから、俺が不満を言うことではない。
「ありがとう」
手に少しさっきよりも膨らんだ服屋のビニール袋を持った空条さんが出てきた。
「クリーニング代は――」
「大丈夫。コーヒーじゃなくてただの麦茶だから」
「ごめん……」
「もう謝らないで。多野くんは全く悪くないんだし」
「ありがとう。荷物持つよ」
空条さんが持っているビニール袋に手を伸ばすと、空条さんは真っ赤な顔をして俯き首を横に振る。
「こ、これは大丈夫。着替えが入ってるし」
「ご、ごめん……」
俺は手を引っ込めて謝る。確かに、ビニール袋に入っていると言っても、下着が入っているビニール袋を俺が持つというのは良くない。
「空条さんはこのまま帰るよね?」
「うん」
「送るよ」
「ありがとう」
俺は空条さんと一緒に児童相談所を出て、駅に向かって歩き出す。すると、空条さんが口を開いた。
「多野くん、川崎さんとはあまり深く関わらない方が良いと思うよ。彼女、多野くんに依存してるのかもしれない。それって、多野くんのためにも川崎さんのためにもならないと思う」
「相談所の職員さんに言われたよ。多分、そうなんだって。分離不安障害って言うらしいんだ」
「だったら尚更――」
「少しずつ改善させていくって。それで、夏美ちゃんが一人で歩き出せるようになるまで、俺も協力――」
「私は、それってやり過ぎだと思う。私が八戸さんの立場だったら嫌」
冷たく言い放った空条さんは、持っていたビニール袋の取っ手を握りしめた。
「川崎さん、ずっと多野くんのことばかり聞いてきたよ。多野くんの彼女はどんな人かとか、多野くんはどんな人なら好きになってくれるかとか」
「…………」
「色々と精神的な面で弱って多野くんに依存してるのかもしれない。でも、実際は川崎さんは多野くんのことが好きなんだよ。そういう子に構い続けるのって、彼女の立場だったら絶対に嫌だよ」
「俺は夏美ちゃんは友達としか――」
「多野くんが友達と思ってても、川崎さんはそうじゃないんだよ。私が、多野くんは彼女と別れるなんてことはないから諦めた方が良いよって言ったら、川崎さんは怒り出してお茶を掛けてきたから。いくら、川崎さんが分離不安障害っていう状態でも、あそこまでして多野くんと両想いになろうとしてるって危ない。次は私じゃなくて八戸さんが、お茶を掛けられる以上に酷い目に遭うかもしれない。大学の友達の私に反応したんだから、本物の多野くんの彼女なんて絶対に川崎さんは存在を否定するだろうし」
俺は空条さんの言葉に何かを言い返そうとした。でも、言い返すことに適当な言葉が見つからなかった。
「冷たいようだけど、多野くんは人に優しくし過ぎ」
「だけど、放っておけるわけない」
「その結果、多野くんにとっても八戸さんにとっても、決して良い状況とは言えない状況になってる。それは多野くんが無闇に人に優しくするからだよ」
「だったら……空条さんは夏美ちゃんが援助交際するのを放っておけば良かったって言うの?」
「そこまでは言ってないよ。でも、今日川崎さんに会って分かった。多野くんは今日、児童相談所に行くべきじゃなかった。全てを、児童相談所の職員さんに任せるべきだった。多野くんが川崎さんにやろうとしてたことはただのお節介だよ。それで、川崎さんも多野くんにより執着しちゃった」
駅にたどり着いた空条さんは、俺の前に出て振り返る。
「私、多野くんのことを真面目で優しくて良い人だと思ってたけど、ちょっと認識が変わったかな」
「空条さん……」
「多野くんは真面目過ぎて優し過ぎて良い人過ぎる人だった。それで、不器用で傷付きやすい」
小さく微笑んだ空条さんは、俺の近くに寄って微笑む。
「それで、物凄く女の子の好意に鈍感かな?」
「…………酷い罵声を浴びせられるのかと思ってた」
「罵声なんて浴びせないよ。前々からそうだとは思ってたけど、今日確信しただけ。それで、今日からもうちょっと気を付けてあげないといけないなとも思った」
ビニール袋を後ろ手に持った空条さんは、ニッコリ微笑んで一歩後ろに下がった。
「まだ明るいし駅までて良いよ。多野くんは真っ直ぐ帰って八戸さんに話してちゃんと相談してあげて。それだけできっと、八戸さんも安心するから。それと…………」
空条さんは言葉を途切れさせ、ビニール袋を後ろ手に持って首を傾げた。そして、ニヤッといたずらっぽく微笑む。
「多野くんって、淡いピンクが好みなんだね。じゃあ、また大学で」
空条さんはそれだけ言ってすぐに駅舎の中へ駆けていく。その空条さんを見送りながら、きっと空条さんがふざけて雰囲気を明るくしてくれたんだと思った。でも、俺は心の中にズシンと重みがのし掛かるのを感じた。
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