【一九七《葛藤と責任と》】:一

【葛藤と責任と】


 今日は食堂に寄らず大学の校舎を出る。そして、他の学生に混ざりながら視線を右手のスマートフォンに落とした。


『施設のお世話になりそうです』


 昨日、夜遅くにNPO法人の持っている宿泊施設に泊まった夏美ちゃんは、すぐに児童相談所に行くことになったらしい。

 夏美ちゃんの母親は警察からの連絡にも取り合わなかった。だから、NPO法人からの連絡にも取り合わなかったのだろう。もしかしたら、夏美ちゃん本人が説明をして連絡を諦めさせたかもしれない。ただ、どっちにしてもNPO法人の宿泊施設にいつまでも置いてもらえるわけもなく、今日、児童相談所に連れて行かれたようだった。


 児童相談所は警察やNPO法人よりも、もっと行政的に入り込んで問題に取り組んでくれるだろう。だけど、夏美ちゃんのメールが物語っている。

 解決する見込みはないと。


 母親は児童相談所の連絡にも取り合わなかったのだろう。そうなると、児童相談所は一時的に夏美ちゃんを保護は出来るが恒久的な保護は出来ない。そういうことは、民間で運営されている児童養護施設に受け入れてもらうしかない。

 児童養護施設と聞いて、俺はあまり良いイメージがない。それは、栞姉ちゃんが最後に居た施設での出来事が頭を離れないからだ。


 デートDV。それを、栞姉ちゃんは施設でボランティアをしていた大学生から受けていた。栞姉ちゃんは、安易に大学生と付き合った自分が悪いなんて言っていた。でも、俺はそうは思わない。

 児童養護施設は児童を保護して養護し、自立を助ける場所だ。そして、それには必ず、心に傷を負った児童のケアも含まれる。それなのに、施設に居た大学生は栞姉ちゃんに乱暴した。


 問題の大学生は施設のボランティアで職員ではなかった。だから、その施設自体は良いところだったのかもしれない。もちろん、俺が知っている施設で良くないことが起こったからと言って、全国にある全ての施設が悪いことをしているなんてことは言わない。だけど、一度そういうことを経験すると、児童養護施設という括り全体に対して不信感を抱かなくても警戒はしてしまう。だから、完全に安心出来る場所とは思えない場所に、夏美ちゃんを素直に送り出せない。


 NPO法人の関係者ではない俺には、夏美ちゃんを施設に送り出す出さないの判断は出来ない。だけど、それでも不安が拭い切れないことが気になって仕方がない。そしてやっぱり思ってしまう。何とかしたいと。何が出来るかもまだ見えていないのに。


「多野くん?」

「空条さん」

「今日はインターンお休み?」

「ああ。今日は休みだよ」


 大学の校門が目の前に近付いた頃、隣に並んだ空条さんに声を掛けられる。明るい顔で話し掛けてきた空条さんは、俺の顔を見て首を傾げた。


「今日は食堂に行かなかったんだね。飾磨が、多野くんに飲み会で迷惑を掛けたから、埋め合わせに女の子いっぱい集めて二対一〇くらいの飲み会を開くって言ってたよ」

「…………なんであいつのお詫びは斜めう――斜め下なんだ」

「斜め上って言い掛けたことは八戸さんに黙っておいてあげるね。聞いたよ、酔った男に絡まれたって」

「まあ……」

「自分の彼女と親友に変な目を向けられたら嫌なのは当たり前だよ。多野くんは怒って当然で何も悪くない」

「ありがとう」


 校門から出ると、駅まで向かいながら俺は視線を落とす。

 今日はこれから、一時保護されている夏美ちゃんと面会に行くつもりだ。児童相談所に居ても差し入れくらいは出来るから、何か美味しい物でも買っていくつもりでもある。でも、甘い物の手土産は持って行けても、良い話の手土産はない。


「多野くん、何かあったの?」

「昨日、今児童相談所に保護されてる女の子と会って。ちょっと様子を見に行こうと思ってる」

「児童相談所? ……虐待?」

「暴力はないみたいだけど、心無い言葉をその子に掛けて、夜中に出歩いて警察に保護してもらったのに迎えに来なかった」

「……そう」


 俺の話を聞いた空条さんは声を落としてそう答えるしかなかった。でも、それは仕方ない。児童相談所に保護された子の話を笑って話す方が不謹慎だ。夏美ちゃんは良いことで保護されたわけじゃないんだから。


「多野くん、私も一緒に行って良い?」

「空条さんも? 良いけど、どうして?」

「多野くんが辛そうだから」

「俺が?」

「うん。凄く考え込んで悩んでる。だから、一人で行かせるのは心配かなって」

「大丈夫だよ。それに、空条さんにだって予定が――」

「私は何もないから大丈夫。多野くんのその顔、ただ単に心配ってだけじゃないでしょ?」


 心を探られている、そう感じた。そして、その探りに応えるべきか悩んだ。

 空条さんは俺の過去について聞かない。でも、少し前に話題になった時にマスコミが掘り返したことをいくつか知っているだろう。ただ、俺が母親から存在を否定されたことは知らないはずだ。


 言うことは簡単だ。でも、言ったことで空条さんを傷付けてしまうかもしれない。それに、いきなり自分が母親から「生まれてこなければ良かった」そう言われたことを話して何になる。


「その子、母親だけしか居ないんだ。でもその母親から酷いことをされてて。俺も両親が居ないから、他人事には思えなくて」

「そっか。大丈夫? 自分のことを思い出して辛くなってない?」

「大丈夫。俺には両親が居なくても他に沢山の人が居るし。それに、今は自分のことを思い出して感傷に浸ってる場合じゃないんだ」

「何か急ぐことがあるの?」


 俺は歩きながら、空条さんに、夏美ちゃんが母親から放任されて、それで警察署でもNPO法人でも児童相談所でも母親を動かすことが出来ず、児童養護施設に行くことになるだろうということを説明をした。でも、夏美ちゃんの個人的な援助交際をしてしまったことや、母親から産まなければ良かったと言われたことは伏せた。そして、俺の知り合いが児童養護施設で酷く傷付いた経験があって不安だということも……。

 空条さんは俺の話を聞き終えてしばらく黙った。そして、俺の方を見て真剣な目を向けて言った。


「私が親に頼めばマンションの一部屋くらい」

「それじゃダメだ」


 俺は空条さんの言葉をすぐに否定する。


「もちろん、生きて行くにはお金が必要だよ。今の時代、お金がなければ何も出来ない。だけど、もちろん金銭的な援助は必要だとは思うんだけど、それよりも必要なのは精神的な援助なんだ」

「精神的な援助?」

「夏美ちゃんには今、誰も居ないんだ。本当は無条件で愛してくれて助けてくれるはずの母親から放任されて、今の夏美ちゃんには助けてくれる人も頼れる人も居ない……」


 俺は空条さんに話す自分の言葉で胸が詰まった。

 だから……そんな辛い状況だから、夏美ちゃんは援助交際なんて行為に走ったのだ。そうしないと心が保てないほど追い詰められていたんだ。俺は、その怒りを心の中で必死に抑えた。


 見ず知らずの、ただインターネットを介してメールという電子データを数通やり取りしただけの人間に、人が最も時間を掛けて創造する愛情という感情を求めた。それくらい、夏美ちゃんは必死だったのだ。愛情に飢えて、必死に自分を愛してくれる人を探していた。だから、今、夏美ちゃんに必要なのは愛情だ。それは男女間の愛情じゃなくても良い。


 自分からか他者からかという方向は関係ない。どんな愛の形でも、今、夏美ちゃんに必要なのは綺麗な愛情だ。出会い系サイトで出会った男のような、欲望だけしかない性愛じゃない。本当に心を潤せる豊かな愛情が夏美ちゃんには必要なんだ。


「俺は母方の祖父母が居た。二人とも俺のことを大切にしてくれたし、俺はその愛情を感じられた。だから、なんとか潰れずに生きてこられたんだ。でも……夏美ちゃんは本当に限界に近いんだと思う。このままだと、施設に行っても良い結果が得られるとは限らない」


 夏美ちゃんが入所する施設の職員の人達が全員良い人で、同じ施設に入っている他の子達も良い人だという可能性だってある。それだったらそれが良い。でも、可能性はゼロじゃないだけだ。一〇〇パーセントでないのにチャレンジ出来るほど、夏美ちゃんの……人の心は軽いものじゃないと俺は思う。


「ごめんなさい……私、何も考えずに……」

「いや、空条さんの気持ちは大切だよ。本当に、金銭的に困ってる施設やNPO法人は多い。やっぱり、沢山の助けたいって思いだけじゃ動けない世の中なのは確かだから」

「ううん。やっぱりダメ。私……お金があって住むところがあれば困らないって思った。それって最低だよ」

「俺は空条さんを最低だとは思わない。最低だったら、自分の言ったことを顧(かえり)みて反省なんてしない。それが出来る、してくれるってことは空条さんが良い人だってことだ」

「多野くん……ありがとう。改めて、私も一緒に行って良い? その、多野くんが会った夏美ちゃんって子に私も会ってみたい」

「分かった。とりあえず、途中で夏美ちゃんに何か差し入れを買って行こう。条さんにアドバイスを貰えると助かる」

「うん。それで多野くんの力になれるなら」


 俺は頭の中で通り道にあるお菓子屋の位置を思い浮かべながら、とりあえず夏美ちゃんに喜んでもらえることを考えた。




 途中で空条さんおすすめのラスクを買って、俺は空条さんと一緒に児童相談所を訪れた。

 受付で夏美ちゃんを呼んでもらうと、俺と空条さんはロビーにあったソファーに座る。


「凡人さ――……」


 ソファーに座ってすぐ、ロビーまで走って来た夏美ちゃんは、一瞬止まって俺の隣に座る空条さんを見た。


「初めまして。多野くんと同じ大学の同級生で、空条千紗って言います」

「川崎夏美です」


 夏美ちゃんは俺の顔を見て不安そうな顔をする。そして、空条さんに視線を向けた。


「凡人さんの彼女さんですか?」

「へ?」


 夏美ちゃんの言葉に空条さんは声を裏返らせて驚く。そして、初めて見るくらい真っ赤な顔をしていた。


「夏美ちゃん、空条さんは大学の友達」

「そうなんですか! 良かった。凡人さんが来てくれて嬉しいです!」


 俺の隣に座った夏美ちゃんはニコニコ笑って横から俺の顔を覗き込む。


「一時保護って外出が制限されてて退屈だったんです。でも、学校に行かなくていいのは良かったですけど」

「学校は行っておいた方が良い。きっと、将来やりたいことが見付かった時にそれが出来なくなるような障害になってしまうから」

「……凡人さんがそう言うなら、行ってもいいかな」


 夏美ちゃんは少しシュンとした表情をしながらも、素直に俺の言うことを聞いてくれた。

 学校の状況が最悪なのに無理矢理行かせるのは良くない。何も変わらないで無理矢理行かせれば、それが夏美ちゃんを追い詰めることになってしまう。


 高校を卒業していないからと言って、その人の人生が終わってしまうわけではない。でも、確実に高校を卒業していないというだけで生きにくくなる。

 毎日登校する必要のある全日制の高校や、夜間授業のある定時制の高校も夏美ちゃんには行きづらいかもしれない。でも、通信制の高校だったら、全く学校に行かなくて良いわけではないが、全日制や定時制よりも夏美ちゃんの心に対する負担も少ないはずだ。


「夏美ちゃん、これから児童養護施設のお世話になりそうってメールで書いてたけどもう決まったの?」

「いいえ、相談所の職員さんがその方面で動くって言ってました。今は、色んな施設に受け入れをお願いしてくれてるそうです」

「そうか……」


 結構前のテレビ番組で、児童養護施設は施設数もだが慢性的な人員と資金不足になっていると言っていた。もし、それが今でも続いているとしたら、そんなに簡単に夏美ちゃんの受け入れ先が見付かるとは思えない。そうなると、すぐに児童養護施設に行くということにはならなそうだ。だから、俺に何かを出来る時間的余裕がある。でもそれは、その間は夏美ちゃん自身は自分の置き場所を確定出来なくて不安な時間を過ごさせることにもなる。


 出来るだけ早く、夏美ちゃんが穏やかに過ごせる場所を確定させなければいけない。それが児童養護施設に受け入れてもらうのか、それとも他の方法なのかは今は分からないが……。


「こんにちは。あなたが多野凡人さんですか?」

「はい」


 ロビーに一人の女性が現れて優しい笑顔で俺へ話し掛ける。それに返事をしながら立ち上がると、女性はチラッと夏美ちゃんに視線を向けてから俺に視線を戻した。


「私は、この児童相談所でカウンセラーとして働いている植草友里江(うえくさゆりえ)と言います」

「多野凡人です」


 改めて自己紹介をして俺が頭を下げると、植草さんはまた夏美ちゃんの方を見てから俺に視線を戻す。その視線は、夏美ちゃんの様子を心配する視線だとも見える。でも俺は、植草さんの視線が何かを確認しているような視線に見えた。


「多野さん、少し向こうでお話を良いですか?」

「はい。分かりま――ん?」


 植草さんの言葉に従ってソファーから離れようとした俺は、後ろから誰かに手首を掴まれて引き留められる。その後ろを振り返ると、視線の先で俺の手首を掴んでいる夏美ちゃんの顔が見えた。


「凡人さん……行かないで……」

「ちょっと植草さんと話してくるだけだから。これ、夏美ちゃんに食べてもらおうって思って空条さんと一緒に選んできたんだ。これを食べてて待ってて」

「ありがとうございます」


 俺がラスクの入った紙袋を差し出すと、夏美ちゃんは大切そうに両手で抱えて微笑む。

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