【一九五《独りじゃない。みんなが居る》】:二
突然聞こえた真弥さんの明るい声に、俺は真弥さんの顔をジッと見る。すると、真弥さんは実に楽しそうで人の悪そうな笑みを俺に向ける。そして、ギュッと俺の腕を抱いた。
「私達遠距離で、昨日彼に会うために地元から出てきたんです。でも、明日には帰らないといけなくて……。だから、何かお強請りしようと思って」
わざとらしい甘えた声を発した真弥さんの言葉を無理矢理解釈すれば「遠くからわざわざ来たから、何かご褒美が欲しい」という言葉に聞こえなくもない。
「彼、大学生なので、アルバイトのお給料でも買えそうな物はありますか?」
「こちらにリーズナブルな物がありますよ。学生さんの彼女さんにもお似合いになる可愛らしいデザインの物が人気で」
「へぇ~凄く可愛いっ!」
学生と間違えられて気分を良くしたのか、真弥さんは女性店員さんの案内でピンキーリングを見ている。
彼女ではない女性に指輪のプレゼントはどうなんだろう? 俺はそう疑問に思う。多分、疑問に思う俺の感覚は正常だと思う。そして、俺に買わせようとしてる真弥さんが――いや、今回はかなり真弥さんに心配と迷惑を掛けてしまったし、仕方がないのかもしれない。
「見て見て、これ凄く可愛いよ!」
「……それで良いんですか? 真弥さん」
「うん!」
俺が尋ねると、真弥さんはパッと明るく笑って頷く。まあ、女性店員さんが話していた通り値段はリーズナブルで、俺の持ち合わせでも十分買えるものだ。それに、今回は真弥さんに多大な迷惑を掛けてしまったし、何か真弥さんにしたいと思っていた。だから、真弥さんが欲しいというのならお礼としてそれ以外に適した物はないだろう。
「では、こちらを用意して参ります。そちらのソファーでお待ち下さい」
商品の準備をする女性店員さんを座って待つ真弥さんの隣に立つと、真弥さんは嬉しそうに笑って人さし指を立てて口に当てる。
「これ、絶対に八戸さん達には内緒ね?」
「凛恋に秘密を作りたくないんですけど……」
「でも、さっきの太腿事件よりも大問題になっちゃうよ?」
「まあ……それはそうですけど……」
「だから、これは二人の秘密ね?」
真弥さんはそう言って、女性店員さんが商品を持って来るのが見えると立ち上がる。
俺はその真弥さんよりも先に、鞄から財布を取り出して会計へ向かった。
ジュエリーショップでピンキーリングを右手の小指にはめた真弥さんは、ジュエリーショップに行く前よりもパワフルさが増してウィンドウショッピングを楽しんだ。
俺は真弥さんに引っ張り回され、夕飯を真弥さんのおごりで食べた後にはもうクタクタだった。
「いやー! いっぱい楽しんだァーッ!」
俺はすっかり日が沈んで真っ暗の空の下、街灯の放つ淡い明かりに照らされた川沿いの遊歩道を歩く。その数歩前では、一日中歩き回ったのにも関わらず未だに元気一杯の真弥さんが歩いていた。
真弥さんは右手を広げて街灯の光に向け、指の隙間から街灯の光を顔に受けながらニッコリと微笑む。そして、俺を振り返って両手を後ろに組んだ。
「凡人くん、今日はありがとう」
「どういたしまして」
本当はお礼を言うのは俺の方なのだが、真弥さんに今日一日ヘトヘトになるまで付き合ったのだから、そう答えても良い気がした。
「これでまた来週からも頑張れそう!」
「俺も――」
「凡人くんは頑張っちゃダメッ!」
俺の前に駆け寄って来た真弥さんは、俺を正面から左手で抱き締めて右手を俺の頭に置いて荒く撫でる。
「頑張ったから追い詰められたんでしょ。それなのに頑張るなんてダメ! 絶対に頑張らせない。八戸さんに凡人くんを頑張らせないでって言っておいたから。それに、明日赤城さんにも言う。絶対に凡人くんを頑張らせない様に見張っててって」
荒々しく俺の頭を撫でていた真弥さんの右手が俺の頬を撫でて俺の顔の目の前で離れる。そして、俺の視線の先にはピンキーリングをはめた真弥さんの小指が見えた。
「どうせまた破るだろうけど約束」
「それ、酷いですよ」
「だって、凡人くんは言っても聞かないでしょ? 我慢しないで頑張らないで周りを頼ってって言っても、我慢して頑張って周りを頼らない。だけど、それでも約束して。私のために」
真剣な表情で真弥さんは泣いていた。俺はその真弥さんの右手の小指に、俺の右手の小指を引っ掛けた。
俺の周りには俺のことを真剣に考えてくれる人が居る。俺の周りには俺のことで泣いてくれる人が居る。それは知っているし、何度も目にしてきた。そして、今もそれを知って目にしている。
「でも、私も赤城さん達も、それから八戸さんも怒ってないからね。みんな知ってるんだから、凡人くんのネガティブは誰かをポジティブにしようとしてなってるって。誰かを傷付けたくないから、悲しませたくないから、凡人くんはネガティブになってる。だから、ありがとうって思う気持ちもあるんだよ。私は、その凡人くんの不器用な優しさに何度も助けてもらったから。でもね……それでも、やっぱり自分を傷付けることで問題を解決しようとするのは心配。凄く、凄く凄く……すっごく心配。だから、私達はずっと凡人くんのことを見張ってる。凡人くんが転びそうになったら支えるし、凡人くんの心が傷付いて折れそうになったら、その心の傷を必死になって癒やすから。みんなで、凡人くんの友達全員で」
真弥さんは軽く右手を動かして指切りをすると、クルリと反転して背中を向ける。
「今日のデートはここまで!」
「送ります」
「良いよ。もうホテルは目の前だしね」
真弥さんは視線の先に見えるビジネスホテルの高いビルを見てからはにかむ。
「それに、凡人くんが手を取らないといけないのは、あの子でしょ?」
真弥さんが俺の後ろを見ながら言い、俺はその真弥さんの視線を辿って後ろを振り返る。すると、そこには凛恋が居た。
「八戸さん! ごめんね。今日一日凡人くんを借りて」
「いえ。今回は露木先生に助けてもらったので。本当にありがとうございました」
「ううん。凡人くんの暴走は私一人でも止められないし、八戸さん一人でも厳しいってのは分かるから。でも、今度は一番近くに居られる八戸さんが、もうちょっと凡人くんの変化を感じて。今度私も何か気付いたらすぐに言うようにするから。今回のことは、気付いて言わなかった私の責任もあるし」
視線を落として俯いた真弥さんは、首を横に振ってニッコリ笑って凛恋に敬礼をした。
「八戸さんにこの後の凡人くんを任せます。凡人くんが寄り道しないようにちゃんと家まで連れて帰ってね!」
真弥さんの行動に凛恋は小さく笑って、真弥さんを真似て敬礼する。
「了解です! この後どころか、一生凡人が寄り道しないように見張ってます」
「よし! じゃあ私はホテルに帰るから、二人とも気を付けてね」
「真弥さん、ありがとうございました。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
手を振ってホテルの方向へ歩いて行く真弥さんを見送っていると、隣に来た凛恋が俺の手をギュッと握る。そして、凛恋が腕を抱いた拍子に、凛恋の柔らかい胸が俺の二の腕に押し付けられた。
「一日凡人が居なくて寂しかった」
「ごめん」
「チョー寂しかった」
「ごめんって」
「でも、だから思い知った。もしかしたら、私は凡人に一生会えなくなるかもしれなかったんだって。……うつ病って辛い病気だね。名前と何となくどんな病気かくらいは知ってたけど、改めてインターネットで調べて分かった。あんな悲しくて苦しい心の病気に凡人がならなくて本当に良かったって思った。凡人がうつ病になっちゃう前に、露木先生が気付いてくれて良かった」
「真弥さんに、俺は頑張るなって言われたよ」
「そうだよ。そうやって頑張らなきゃしっかりしなきゃって考えたらどんどん自分の心を追い詰めちゃうの。生真面目で責任感が強くて、それで感情表現が苦手な人がなりやすいの。凡人みたいな、誰からも傷付けられていい人じゃない、自分からも傷付けられていい存在じゃない素敵な人がなっちゃうの。だから、私は……私達は凡人をずっと見てる」
「甘えてるみたいだけど、誰かに心配されてるのが嬉しいよ。俺は一人じゃないって思える」
「凡人はずっと一人なんかじゃないよ。凡人が今まで一人になろうとしてただけ。それと、これから何度一人になろうとしても私が絶対に一人にさせないから」
隣に居た凛恋が俺の体を抱き締めて、強く強く抱き締めて、優しく大切に包み込んでくれる。
一週間後、俺は久しぶりにレディーナリー編集部に入った。そして、足を踏み入れた瞬間に目の前に立っていた帆仮さんが俺に深々と頭を下げた。
「本当にごめんなさいっ!」
「え?」
「私が先輩で多野くんの教育係なのに、多野くんが傷付いて追い詰められてることに全然気付けなかった。多野くんが追い詰められたのも傷付いたのも全部私のせいで、私の力不足で多野くんに辛い思いをさせてしまいました。本当にごめんなさい。だから……辞めないで……」
「え? はい? ちょっ! 帆仮さん!?」
急に謝り始めた帆仮さんが急に泣き出してしまい、俺はパニックに陥ってどうすれば良いか分からなくなる。すると、帆仮さんの後ろから家基さんが帆仮さんの背中を擦りながら奥へ連れて行った。
「多野。本当にごめんなさい」
「「「本当にごめんなさい」」」
「古跡さん!? み、皆さんもどうして!?」
いつの間にか、編集長の古跡さんを含めたレディーナリー編集部の全員に頭を下げられ、俺はもっと頭が混乱する。
「今回の件はレディーナリー編集部全員の落ち度よ。そして、その編集部の一番上に立っている私の責任」
「そんな! 古跡さんも皆さんも俺に良くしてくれてて! 何も落ち度とか責任とかを感じることはしてないじゃないですか!」
「御堂のパワハラに気付かなかったのは、誰も言い逃れ出来ないほど明確で重大な過失よ。私達は自分達の過失で私達の大切な仲間を失うところだった。それは、絶対に認めなければいけない私達の責任なの。たとえ、当人の多野が否定しても。……本当にごめんなさい」
また頭を下げた古跡さんに続いて、編集部のみんなもまた頭を下げる。それに、俺は何も言えずただ視線を返すしかなかった。
「あの、御堂さんは?」
戸惑って視線を巡らせていた俺は、編集部に御堂さんが居ないことに気付いた。それを古跡さんに尋ねると、古跡さんは酷く申し訳なさそうな顔を上げた。
「御堂は昨日付で営業部に転属になったわ」
「営業部?」
「多野にパワハラを行っていた件で、御堂が役員会議に呼ばれたの。そこで……御堂は自分の責任を認めなかったらしいわ。それどころか、自分は女性誌に行きたかったわけじゃない。もっと数字で勝負出来る文芸に転属させてくれって」
「そうですか。でも、なんで文芸じゃなくて営業に」
「入って数ヶ月しか経ってないような、何も分かってない新入社員が役員に喰って掛かったのよ。だから、御堂の希望通り数字で勝負出来る営業に回されたの」
「……そう、ですか」
俺は古跡さんの辛そうな表情を見て、もう御堂さんのことを聞くのはそれで十分だと思った。
「多野にお願いがあるの」
「お願いですか?」
そう切り出した古跡さんが浮かない表情をしているのを見て、俺は息を飲んで古跡さんの言葉を待った。
「今回の件で私達は多野をとても傷付けてしまった。だから、その私が言うべきではないのは分かってる。でも……これまで通り一緒にやってほしい。それは、私だけじゃなくて帆仮も、他のみんなも思ってる。もし、多野がそれでも嫌で辞め――」
「え? なんで俺が辞める話になってるんですか?」
「…………え? 多野? あんなことがあったのよ? 普通、社員でも仕事を変えようって思うようなことよ?」
「いや、確かに仕事がいっぱいいっぱいで一週間前はしんどかったですけど、もう元に戻るんですから今まで通り働かせてもらいます。俺も一週間休んで困ってるので」
真弥さんへのお礼やら、心配を掛けた凛恋と希さんのお詫びやらで俺は予定外の出費があった。その上で一週間もインターンを休んだのだ。早く復帰してお金を稼がなければ、凛恋達と萌夏さんに会うためのフランス旅行の資金が用意出来なくなる。
「そういうことなので、今日からもよろしくお願いします!」
俺はキョトンとしている古跡さんを含めたレディーナリー編集部のみんなに頭を下げた。
きっと、俺が経験したことは他の人からすれば潰れて立ち上がれなくなってしまうようなことなんだろう。それこそ、古跡さんのように責任がある立場の正社員でも辞めるという選択肢を取る可能性のある問題だったのかもしれない。でも、俺は独りじゃなかった。だから、みんなが驚くようなことも出来ている。それは何度だって思ってきたし、何度だって痛感してきた。だけど――だから……俺はまた思う。
俺は独りじゃない。俺にはみんなが居るのだと。
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