【一九四《何も変わってない》】:二

 凛恋に何でも話そうと決めた。それから、それまで話さなかった凛恋とは関係ない人の愚痴や、人の悪口を凛恋だけには話すようになった。でも、凛恋が重く考えてしまうような、俺がされたことの多くを話さなかった。


「私の中でも、夏に言ったことは何も変わってないよ。八戸さんと凡人くんは相性が悪い。だけど、二人は付き合い続けてる」

「私は凡人が好きで!」

「八戸さんも凡人くんを好きで、凡人くんも八戸さんを好き。それに甘えて、それに助けられて今まで何とか上手くやっていけてるの。でも、凡人くんは心の中で思ってるんだよ? 好きな八戸さんが居るから大丈夫。好きな八戸さんが居るから耐えられるって。それが意識してるのか無意識なのかは分からない。でも、それだけじゃ凡人くんの心は耐えられないって去年の夏にも話したよ」


 諭すように落ち着いた口調で話す真弥さんは、俯いてテーブルに視線を落とした。


「私が見ているのは、凡人くんのほんの一部だよ。私と凡人くんが教師と生徒だった頃の三年間と友人としての約一年だけ。それでも分かったよ? 電話しただけで、凡人くんが辛そうだって分かったよ? でも、八戸さんは分からなかったよね? それに、凡人くんは八戸さんに分からせようとしなかったよね? 二人は何も変わってない。特に凡人くん、本当に好きなら八戸さんを頼りなさい」

「はい……」


 久しぶりに真弥さんから怒られた。その怒り方は真弥さんというよりも、露木先生の頃を思い起こさせる怒り方だった。

 真弥さんは小さく息を吐いて冷茶を飲み干すと、暗い表情から無理矢理明るい表情に変える。


「私は二人を無理矢理別れさせようなんて思ってないから。二人がお互いを本当に好きなのも分かってるから。だけど、やっぱり私は、私が好きな人が傷付くのを見て見ぬ振りするのが出来なくて」


 そう言った真弥さんは立ち上がる。隣に座る凛恋のことが気にはなったが、俺は凛恋の頭を撫でてから、真弥さんを送るために立ち上がった。


「じゃあ、私は今日は帰るね。もう遅いし」

「真弥さんを送ってくる」

「うん……凡人、帰ってきたら話がしたい」

「ああ、俺も凛恋と話がしたい」


 俺と凛恋はちゃんと話さないといけない。高校一年の頃のように、すれ違うなんてことにはならないと確信している。でも、これから付き合い続けるために、これから結婚してずっと一緒に生きていくために、ちゃんと話をしないといけない。


 お互いのことを、もっと前以上に。




 真弥さんと一緒に家を出て歩き出すと、俺は真弥さんの横顔に話し掛けた。


「泊まるところは取ってるんですか?」

「新幹線の中でビジネスホテルを取ったから心配しないで。凡人くんが一緒に行ってくれるなら、あっちのホテルでも良いよ?」


 真弥さんは、遠くに見えるラブホテルのネオン看板を視線で指して言う。しかし、その真弥さんの顔は、よく見る俺をからかう時の笑顔だった。


「そんな気なんてないのによく言いますよ」

「本当にそう思うなら試してみる? 私、結構飲んでるけど?」


 クスッと笑った真弥さんは、そっと俺の手を握る。俺はそれとなくその手を離そうとしたが、真弥さんの手が強く俺の手を握って振り払えなかった。


「本当は、最初に気付いた時に、気付いたその瞬間にこっちに来たかった。仕事なんて投げうって、すぐに凡人くんの側に来たかった。でも、そんな無責任な人間は絶対に凡人くんに好きになってもらえないから。だから……でも……遅くなってごめんなさい」

「…………真弥さんは謝る必要なんてないですよ」

「あるよ。だって……私は今回、凡人くんのことじゃなくて私のことを優先させたの。それは仕事のこともだけど、利己的で打算的な私も……」


 真弥さんは俺の手を握った手を震わせながら更に力を込めた。


「凡人くんが弱ってるって分かった時、すぐになんとかしなきゃって自分と、何も気付いてない八戸さんじゃなくて私が凡人くんのことを助けられれば、もしかしたら凡人くんが八戸さんよりも私を好きになってくれるかもしれないって思った自分が居た。それで、私はそんな利己的で打算的な自分に負けたの。そのせいで、凡人くんがここまで追い詰められなきゃいけなくなった。好きな人のことよりも、自分のことを優先したの。…………だからかな、凡人くんが私を好きになってくれないのは。八戸さんに凡人くんが変だって言えば、きっと八戸さんは凡人くんの異変に気付いてなんとかしようとしたと思う。それだったら、こんな――」

「誰も悪くないですよ。誰も悪くない」

「…………分かってくれないな。私は、それを止めてって言ってるのに。そうやって、言葉の裏で自分のせいにして丸く収めようとするのが嫌なのに」


 無意識に出た俺の言葉に、真弥さんは悲しそうにそう言った。


「分かってるの、それが凡人くんが意識して言ってないことくらい。今まで、凡人くんを傷付けてきた人達のせいで、そういう風に心が成長してしまっただけだって分かるの。でも……私は、自分のせいにし続ける凡人くんを見る度に辛いの……」


 きっと、生まれたばかりの俺はこんなことは考えていなかったのだと思う。無意識に、とりあえず自分のせいだと言えば良いと思ってはいなかったと思う。でも今は、それを思う人間になっている。真弥さんの言うとおり、そんな人間に俺がなったのは、俺が経験したことが影響しているのは確かだ。


 直そうとしたし変えようとした。その結果、俺は凛恋に自分の中にある黒い自分をある程度さらけ出せるようになった。だけどその代わりに、重い話はもっと言わなくなった。真弥さんに指摘されたが、ある程度のことを打ち明けるということを、俺は重いことを隠す手段にしてしまっていたのかもしれない。心のどこかで、もっと穏便に済ませられる方法を見付けられたと思ってしまったのかもしれない。


 その結果が、今の状況だ。


 真弥さんに心配を掛けてわざわざ新幹線に乗って来させてしまい、真弥さんにも凛恋にも嫌な話をさせて嫌な思いをさせた。それは、真弥さんが言ったように、一年前の夏から何も俺が変わっていないからだ。


 俺が変われなかったから、もっと言えば真弥さんから見てより悪い方に変わってしまったから、俺は真弥さんと凛恋に辛い思いをさせた。

 そう考えること自体、真弥さんも凛恋も望まないのかもしれない。だけど、やっぱり、どうしても考えてしまう。


「私も八戸さんも同じなんだと思う。そんな凡人くんでも好きなの。どうしようもないくらい好きなの。だから、こんなに辛くて悲しい思いをしても、凡人くんから目を離せない」

「真弥さん、俺は――」

「私は、答えを聞かないから」


 俺の決まった返しを遮った真弥さんは、俺の手から手を離して体の後ろに両手を組む。


「せっかくだから、明日も一泊してから帰ろうと思ってるの。凡人くんと八戸さんだけじゃなくて、赤城さんにも会いたいし」

「希さんも喜ぶと思います。来てるって聞くと驚くとは思いますけど」

「一応、ホテルに行ってから電話しようと思ってる。明日は予定があるから、明後日に会うことになるかな」

「そうですか」


 こっちに真弥さんは出てきた理由は俺を心配してだったが、せっかく出てきたのだから色々と見て回りたいという気持ちがあるのだろう。こっちは地元よりも栄えているし、地元にはない見て回る場所も多い。

 駅まで来ると、俺は真弥さんと一緒に電車に乗り込む。今の時間はまだ電車内は混雑していて、真弥さんを壁際に立たせて俺は車内側に立つ。


「凡人くんのそういうところが格好良いよね。自然と優しく出来るところ」

「誰だって女性にはやると思いますけど」

「そうやって照れるところは可愛いかな」


 俺を見上げながらニヤニヤ笑ってからかう真弥さんは、少し困った笑顔を浮かべた。


「そういえば、この前生徒に告白されたって話したでしょ?」

「はい。好きな人が居るって断ったんですよね?」

「うん。そしたら今度は、男子生徒からも女子生徒からも好きな人って誰先生ですかって聞かれちゃって」

「ああ、なんか噂好きの高校生らしいですね」

「学校の先生じゃないよって言うんだけど、色々と噂が立っちゃって」

「まあ、立つでしょうね。真弥さんは特に生徒からも人気あるし注目されるでしょ。それに、そんな噂が立つと独身男性教師が色めき立ちそうですね」

「…………」


 さっきの少しだけ困った顔から、大分困った渋い顔をした真弥さんは言葉を発しない。どうやら、何人かの男性教師から言い寄られているようだ。

 これが、空条さんなら「食事くらい行ってみたらどう?」なんて言えるが、真弥さんの気持ちを考えると、俺がそれを言うことは出来ない。


「凡人くん達が卒業した後に入って来た先生が居てね。その人が私の一つ年下だから、その人が有力って話になってるみたい」

「それで、その人にモーションを掛けられてるってことですか?」

「うん。タイミングは計られてるかも」


 タイミングを計られているということは、食事に誘われたという話にはなっていないらしい。


「いっそのこと、誘ってくれたら好きな人が居るから男性と食事には行けないって言えるんだけどね。あっ、ここが降りる駅」


 真弥さんが電車から降りると、俺も一緒に電車から下りて改札を抜ける。


「ありがとう、送ってくれて」

「ホテルの前まで送りますよ」

「良いの?」

「入るまで見てないと落ち着かないんですよ」

「ありがとう」


 駅から離れてしばらく歩くと、ビジネスホテルの建物が見えてきて、正面入り口の前まで歩いて行く。


「ところで、今日、私はわざわざ新幹線に乗って来たんだよ?」

「……はい。ご迷惑をお掛けしました」

「あまり言いたくないんだけど~、新幹線代も掛かったし、何だったら宿泊代も掛かったの」


 ジトッと視線を向けて言う真弥さんから、俺は思わず視線を逸らした。新幹線代と宿泊代を考えると、掛かった費用が馬鹿にならないのは簡単に予想が付く。真弥さんはその掛かった費用を俺に払えなんて言う人ではないが、それを口実に何かしら言いたいことがあるみたいだ。


「ちょっとはわがまま言っても良いと思わない?」

「まあ、俺に出来ることなら……」

「じゃあ、明日私とデートしてくれる?」


 真弥さんはニコニコ笑って小首を傾げながら俺をからかうように言う。


「デートですか?」

「そう、デート。せっかく来たんだから、私も良い思いさせてくれない?」

「凛恋が居るので――」

「じゃあ、八戸さんが良いって言えばしてくれる?」

「凛恋が良いって言うなら、良いですよ」


 凛恋を口実に断ろうとしたら、凛恋を口実に受ける方向に話を持って行かれた。

 デートとは言っていたが、明日一日、街の案内をしてほしいということだろう。街を案内するというのは全く問題ないが、それでも凛恋に話をしないわけにはいかない。


「分かった。部屋に入ったら八戸さんに私からも電話するから、凡人くんからも話しておいてね。じゃあ、明日待ってるから」


 真弥さんは小さく手を振って俺に言うと、振り返ってホテルの中に入って行った。




 家に帰ると、テーブルに手を置いて座っていた凛恋がゆっくりと立ち上がって俺の側に来てそっと抱き締めた。


「お風呂入ろっか」

「ああ」


 話をすると言っていた。でも、話し始めるタイミングがお互いに掴めていない。

 一緒に風呂に入って体を洗ってから湯船に浸かると、正面に浸かった凛恋がまた抱き付いた。


「ごめんね……ごめんね、凡人」

「凛恋が謝――」

「露木先生に言われるまで気付かなかった……凡人の側に居たのに……」

「俺が凛恋に言わなかったからだ」

「でもっ! 露木先生は言われなくても分かったッ! 露木先生の方が……凡人のこと分かってた……」


 湯船を満たしたお湯の上にポトリポトリと凛恋の涙が落ちて波紋を作る。

 凛恋の頬を撫でて俺の方を向かせると、凛恋は唇を震わせて俺を見た。


「凡人……どうして話してくれなかったの? 椅子を蹴られたとか、書類にコーヒーとか……仕事をやり辛くされてたこととか……」

「言わなきゃいけないことは分かってた。でも、やっぱり凛恋が嫌な思いをするのが嫌だったんだ」


 言い訳にならないのは分かってる。俺と凛恋はそれでもお互いに何でも話そうと言ったのだ。そう約束したのだ。俺はそれなのに凛恋との約束を破った。


「凛恋……ごめん……」

「私、頼りないよね」

「そんなことない!」

「でも……凡人は露木先生には話したけど私には話してくれなかった……」


 震えた凛恋のその言葉に俺はサッと血の気が引いた。温かいお湯の中に浸かっているのにまるで体が温まらない。むしろ、氷水に浸かっているみたいな寒さを感じた。


「凛恋っ! 嫌だ……嫌いにならないでくれ……凛恋っ……」


 凛恋の背中に手を回して手繰り寄せて、俺は情けなく叫んだ。凛恋にすがり付くように抱き締めて凛恋に懇願した。


「凛恋っ……ごめん……凛恋っ……凛――ッ!?」


 なんとか凛恋に許してもらおうと、凛恋の心を自分に繋ぎ止めようと必死だった俺の左首に凛恋が顔を埋めた。その瞬間、左の首筋にチクッとした小さな痛みが走る。

 チューッ! っと強く吸い付く音が聞こえ、俺は左首の皮膚が凛恋の口に吸い付かれる感覚を抱きながら凛恋の頭を抱き締める。


 首筋から感じる痛みは心地良い痛みではなかった。鋭く心に突き刺さり、そこから俺の心に寂しさと後悔を広げていく痛みだった。でもその寂しさと後悔は、凛恋の口を通して凛恋の心から流れてくるような気がした。


 凛恋の手が俺の背中に回って、肩甲骨の上に爪を立てるようにしがみつく。すがり付いていたのは、繋ぎ止めようとしていたのは、俺だけじゃなかったのだ。


「今回は露木先生に助けられたから、貸し借りなしにしたいから良いって言った」

「凛恋……」


 口を離した凛恋が、唇を尖らせて目を潤ませて俺を見上げる。そして、右手を俺の首に添えて、自分が吸い付いた場所を親指の腹で撫でる。


「でも、凡人を渡すつもりなんて絶対無いから。その証明のためにここにキスマーク付けたの。ここなら、シャツの中にも隠れない」


 左手を、俺の首に添えた凛恋の右手に重ねる。そのまま、俺は凛恋にキスをした。

 何も変わっていない。何も変わっていないのだ、俺と凛恋は。去年の夏から、何も。

 俺と凛恋は、ずっと互いが一番好きで、一番好きで大切な相手と一緒に居たいと惨めになれるくらい相手を想っている。


 それは、去年の夏から、それよりずっと前から……互いに恋した時から何も変わってない。

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