【一九四《何も変わってない》】:一

【何も変わってない】


「こんなに早く凡人くんとお酒が飲めるなんて思ってなかった。早くても夏休みかなって思ってたから」


 個室居酒屋で、俺は正面に座る真弥さんがそう明るい声で話すのを黙って聞いていた。

 編集部から帰されて、月ノ輪出版の本社ビルから少し歩いたところで俺は真弥さんと出会った。でも、真弥さんが住んでいる俺の地元は、今俺が住んでいる街から遠く離れている。


 真弥さんは忙しいのにわざわざ来てくれたのだ。電話口で元気のないと思った、俺の様子を確かめるためだけに。

 その真弥さんは手に持ったビールを一口飲んでから、優しい表情で俺に視線を返す。


「どうしたの?」

「…………」

「じゃあ、聞き方を変えるね。新入社員の人に何をされたか最初から全部話して」


 黙っている俺に、真弥さんは優しいながらも鋭い視線と言葉を掛ける。その視線と言葉に誤魔化しなんてものは通じないのが分かった。それに、真弥さんの「絶対に聞き出す」そういう意志も伝わってきた。


「最初は、仕事を覚えるために作った書類を、デスクの引き出しの中でコーヒーを掛けられてダメにされました」


 正面で黙って聞いている真弥さんが、テーブルの上に置いた手を握り締めたのが見えた。その手は小刻みに震えていた。


「それから?」

「他の社員さんが見てないところで座っている椅子を蹴られたり、わざとぶつかられたりしました……」


 一つ一つ思い出しながら、起きた出来事を出来るだけ淡々と話す。淡々と話すのは、感情を込めたらきっと深刻さが増してしまうからだ。深刻さが増したら、真弥さんにいまよりももっと気を遣わせてしまう。


「その人から上がってくる仕事が明らかに不十分で、しかも明らかに期限に間に合わないスケジュールで上げられて。時には仕事の期限をわざと本来の期限より先の日付にされていたこともあります」

「それで、凡人くんはどうしたの?」

「全部自分で処理しました。不十分なところは補いましたし、期限に間に合うように必死にやりました。期限のでっち上げは、今までやってきた経験で明らかに期限が長すぎるものが多くて、その新入社員より上の人に期限を確認して……」

「そっか。凡人くんは頑張っちゃったんだ。頑張る必要なんて凡人くんにはないのに……」


「……他の人に迷惑を掛けたくなかったんです」

「もちろん凡人くんは優しいし、問題を解決する方法で自己犠牲を真っ先に選ぶ人だけど、それだけじゃないのは分かってるよ。凡人くんは高校の頃もそうだったじゃない。凡人くんは自分を下に見てる人を見返そうとしてた。クールに、何も気にしてないよって装いながら裏で凄く努力をして頑張り抜いて、凡人くんを見下した人の想像以上の結果を出して実際に見返してきた。高校でずっと学年二位をキープしてたのもその努力があったからだって私は分かってた」


 俺は真弥さんから視線を逸らしながら、横に置いた日本酒の水割りを一口飲んで渇いた喉を潤す。


「他には、何か言われたことはない?」

「ミスをしたら徹底的に糾弾されました。でも、ミスは自分が悪いことで――」

「誰だってミスはするものだよ。でも、私は凡人くんのことを好きだからひいき目に見ちゃうのかもしれないけど、凡人くんがそんなに糾弾されるほどのミスをするとは思えない。それに、話を聞いていたらその新入社員が作った負担のせいでミスが増えたんじゃないかな?」


 真弥さんの言う通りだった。恐らく、いや……絶対に御堂さんの嫌がらせがなかったらあそこまで仕事の遅れは出なかった。


「それで? 今日は何かされたり言われたりした?」

「先輩の社員さんに上げた仕事にミスがあったと言われた時に、その新入社員に俺のせいで残業が増えたし全員が迷惑を掛けてるって言われました。先輩社員さんはその新入社員を怒鳴って、編集長も新入社員の問題を指摘してくれました。でも、俺に今日は帰れって、それにしばらくインターンを休めって言われました」

「それは誰が見ても凡人くんが疲れてるからだよ。それに追い詰められてるのが分かったから、凡人くんに休養を取ってほしくて休ませたに決まってる」

「違うんです。雑用もこなせないから、見放されて――」


「そんなこと誰が言ったの?」

「それは、新入社員と、別部署の――」

「庇ってくれた先輩と編集長さんはそんなこと一言でも言った?」

「いえ……でも……」

「凡人くんの悪いくせだよ、何でも悪い方悪い方って考えちゃうのは。先輩も編集長さんも凡人くんの頑張りを知ってたから庇ってくれたんだよ。凡人くんのことをいじめる新入社員とか別部署の人の話なんて、凡人くんが耳を傾ける必要なんてない」


 真弥さんは励ましてくれる。だけど、俺はそうポジティブに考えられなかった。

 どんな理由があっても、仕事が出来なかったのは事実だ。どんな理由があっても、俺が仕事が出来ないことで周りに迷惑を掛けたことは事実だ。

 きっと、俺の残した、出来なかった仕事をするためにみんな残業になった。ただでも忙しい人達なのに……。


 御堂さんを怒鳴ってくれた家基さんにも、庇ってくれた古跡さんにも、いつも明るく話してくれる平池さんと田畠さんにも、そして……俺がレディーナリー編集部に入ってからずっと優しく面倒を見てくれた帆仮さんにも……。


「みんなに……迷惑を掛けたんですっ……俺なんかを頼りにしてくれて、俺なんかに優しくしてくれた人達みんなに……迷惑を掛けて裏切って……」

「…………凡人くん」


 俺は日本酒を半分まで飲んで拳を握り締める。悔しくて情けなくて、酒に酔って何もかも忘れたいと思った。


「凡人くんは何も悪くない。凡人くんがそんなに自分を責める必要なんて何もない」


 正面に座る真弥さんは、首を横に振ってそう否定してくれる。でも、それは真弥さんが俺と付き合いの長い間柄だと言うのと、俺に対して好意を持ってくれているからという理由があるからだ。そうじゃない人は、俺に非があると言うに決まっている。


「凡人くん、少し静かにしててくれる?」

「え? は、はい」


 人さし指を口に当ててそう言った真弥さんに言われ、俺は日本酒の入ったグラスをまた手に取って口を付ける。すると、真弥さんはスマートフォンを取り出して操作し始めた。

 真弥さんがスマートフォンを操作する手を止めると、真弥さんのスマートフォンからは誰かへの電話の呼び出し音が聞こえる。


『もしもし? 露木先生?』


 目の前で、真弥さんが自分に向けて持っていたスマートフォンから、凛恋の不思議そうな声が聞こえた。


「八戸さん、今大丈夫?」

『はい。大丈夫ですよ』


 凛恋の声の明るい声を聞きながら、俺は真っ直ぐスマートフォンの画面を見下ろす真弥さんの様子を窺う。

 いったい、凛恋に電話をして何をする気なんだろう。……いや、多分インターンから帰されて落ち込んでいる俺と出会って一緒に居ると話すのだろう。それ以外に、凛恋へ電話をする理由が思い当たらない。


「最近、凡人くんの元気がないみたいだけど、何か知らない?」

『元気がない、ですか? いえ、そんな感じしませんでしたけど』

「そう? 電話でインターン先に変な新入社員が居るって話を聞いたんだけど、その人が原因じゃないかな?」

『ああ、凡人と張り合ってるやつですよね? そいつのこと、毎日私に愚痴ってくれてるので、それですっきりしてくれてるみたいです。だから、そんなに気にしてないと思いますけど?』

「真弥さ――」


 真弥さんは、何も知らない風を装い凛恋へ話をする。その真弥さんの行動が、凛恋へ何か探りを入れているのか、凛恋を何か試しているのか、そんな感じがした。でも、どちらにしても、それは凛恋にとっても真弥さんに取っても気分の良いことじゃない。だから、俺は止めようと口を挟もうとした。しかし、真弥さんがテーブルの向こう側からキッと鋭い視線で睨みを返した。


 電話の前に言っていた、静かにしていてほしいというのは、口を挟まず黙って聞いていろということだったらしい。


「今日も凡人くんはインターンだよね?」

『はい。もうすぐ終わりの時間だと思います』

「今日も普通に行った?」

『はい。今日は何か忙しいみたいで大学終わりにそのまま行くって言ってましたけど、朝も元気でしたよ』

「そっか。八戸さんはどこまで新入社員のこと聞いたの?」


 スピーカーフォンで話していた真弥さんは電話の向こうに居る凛恋へそう言った。その言葉は冷たく、スマートフォンに向けた視線も怖いくらいに冷たかった。


『なんか、年上に馴れ馴れしくするなとか、大学のこととかをネチネチ言われたってのは聞きましたけど……』


 その凛恋の言葉を聞いた真弥さんは、俺にスマートフォンに向けていた視線と同じ恐ろしく冷たい視線を向ける。しかし、その視線はすぐに泳いで、今にも瞳から涙が零れ落ちそうな悲しい視線に変わった。


「椅子を蹴飛ばされたことは? 仕事の資料にコーヒーを掛けてダメにされて引き出しに詰め込まれてたことは? 無茶苦茶な仕事の振り方をされて追い詰められてたことは?」

『えっ……そんなことは何も――』


 凛恋が戸惑った声で聞き返した瞬間、真弥さんは言った。


「去年の夏から何も変わってないよ、八戸さん」


 大きく深いため息を吐いた真弥さんは、視線を俺に一度向けてからスマートフォンの向こう側に居る凛恋へ話を続ける。


「凡人くんは自分で何とかしようとしてた。私が聞き出すまで、聞かされるだけでも辛いことを自分の中で処理しようとしてたの。そして、八戸さんは私から言われるまで気付きもしなかった。八戸さん、凡人くんが前よりも八戸さんに愚痴を言うようになったから安心したんでしょ? でも分かってないよ八戸さんは。何年も一緒に居たのに何も分かってない。…………ただ、凡人くんが本音を隠すのがもっと上手くなっちゃっただけだよ」


 真弥さんはそこで言葉を途切れさせ、ポトリと涙を落として言葉を弾けさせた。


「側に居たのにッ! 凡人くんの一番近くに居られたのにッ! なんで凡人くんが限界になるまで気付かなかったのッ! なんで……凡人くんがこんなに追い詰められるまで何もしてあげなかったのッ!」

「真弥さん、もう良いで――」


 弾けた言葉が個室に響き、俺は声を発して真弥さんを止めようとした。これ以上言葉を重ねさせたくなかった。それは真弥さんのためにも、凛恋のためにも。だけど、俺の言葉は遮られる。


「私が側に居たらこんなことにはならなかったッ! 凡人くんが仕事で追い詰められるまで放っておかなかったッ!」

『私は――』

「言い訳なんて聞きたくないよッ! 八戸さんは凡人くんに好かれてるからっておごり過ぎたんだよ! 自分を無条件で好きで居てくれる凡人くんに甘え過ぎたんだよッ! だから、凡人くんが一人で傷付くのを放っておいたんだよッ!」


 叫び切った真弥さんは、長く息を吐いてから心を落ち着かせて、次の言葉は優しく落ち着いた声で発した。


「……八戸さん、実は今、私、凡人くんと会ってるの。凡人くんが元気がないことが心配で、さっき新幹線でこっちに着いた」

『えっ……』

「今から凡人くんと一緒に八戸さんのところに行くから。少し話をしよう」

『…………はい』


 電話を切った真弥さんは、小さくため息を吐いた。


「多分、相手が八戸さんじゃなかったら容赦しなかったかな」

「……今の本気じゃなかったんですか?」


 俺は真弥さんがさっきのように声を荒らげる姿を見た記憶が無い。だから、真弥さんが本気で怒っていたと思っていた。


「本気だったら、わざわざ凡人くんが落ち込んでるなんて教えてあげないよ。卑怯な手をいくらでも使って凡人くんを八戸さんから奪おうとした。でも、八戸さんの泣いてる顔を思い浮かべると、そんな酷いことは出来ない」

「真弥さんは凛恋相手じゃなくても、人を傷付けるようなことはしないでしょ」

「凡人くんはまだまだ分かってないね。女の怖さを」


 俺の言葉を否定する言葉を言った真弥さんは、手の甲で目を拭って視線を落として呟いた。




 家に帰って玄関のドアを開くと、玄関前に立っていた凛恋が俺に抱き付いた。


「凡人……おかえり」

「ただいま、凛恋」


 凛恋の背中に手を回して撫でると、凛恋は俺の後ろに立っている真弥さんを見て俯いた。


「八戸さん、こんばんは」

「露木先生……」

「上がっても良い?」

「はい」


 露木先生を招き入れた凛恋は、コップに冷茶を入れて出す。それを一口飲んだ真弥さんは、俺に視線は向けずに凛恋へ話し掛けた。


「八戸さんは凡人くんの近くでいったい何をしてたの? 凡人くん……もしかしたらうつ病になってたかもしれないんだよ? それくらい凡人くんは追い詰められてた」

「…………ごめんなさい」

「私は八戸さんに謝ってほしいわけじゃないの。前までは凡人くんが落ち込んだり悲しんだりしてる時は八戸さんも分かってたはずでしょ? それなのに今回は分からなくなった。それってなぜだか分かる?」

「電話で露木先生が言った通り、愚痴を言ってくれるようになって安心してました。凡人は私に何でも話してくれるようになったって……」

「うん。それに、私は八戸さんが近くに居るからこそ分からなくなったんだと思う。凡人くんも人間だから体調の良い日悪い日は必ずある。その良い日悪い日を繰り返し見過ぎて、本当に微妙な変化を見逃したんだよ」

「……はい」


 どんどん小さくなっていく凛恋の雰囲気を見ていると、真弥さんの視線は俺に向いていた。


「凡人くんはすぐに上司に報告した方が良い。凡人くんの話を聞いている限り、先輩も編集長さんも真摯に問題に向き合ってくれるよ」

「はい」

「それとね……一番問題なのは凡人くん自身だよ」


 凛恋と話す時は淡々と話していた真弥さんは、俺に話し始めた瞬間、悲痛な声になった。


「何で我慢するの……何で自分だけで解決しようとするの……何で助けてって言わないの……何で、何で自分の心を傷付けられても平気な顔するの……」


 泣いてる真弥さんから目を逸らしたかった。でも、それは俺のために来てくれて泣いてくれた真弥さんに失礼なことで、そんなことが出来るわけがなかった。

 去年の夏から何も変わってない。そう真弥さんは凛恋に言った。でも、変わってないのは凛恋じゃない、俺なんだ。

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