【一九三《涙雨》】:三

「最後までやって帰ります」

「ダメよ。それに、私は怒ってるのよ。どうして、これを私に見せなかったの」


 古跡さんは再び御堂さんからの仕事依頼のメールを表示させて言った。


「こんな依頼、普通の何も知らないインターン生が完成させられるわけないでしょ。多野が自分で素材集めて完成させる必要はないのよ。もっと早く私に言ってもらえれば多野が追い詰められなかったでしょ……」

「すみません……」


 古跡さんが失望しているのが分かった。俺は、古跡さんの信頼を裏切ったのだ。

 俺が古跡さんに報告せず、自力で御堂さんの不十分な仕事の指示で完成まで作ったのは、単なる俺の意地だ。でも、古跡さんの表情を見て、古跡さんから言われた言葉を聞いて、今更それが間違っていたことに気付いた。


 俺がやっているのは仕事であって遊びなんかじゃない。そこに、俺が御堂さんの嫌がらせに負けたくないなんて意地は持ち込んではいけなかった。そんな個人的な話よりも、仕事としての効率を重視しなければいけなかった。


 そんな当たり前のことに今更気付いた俺は、自分の不甲斐なさに嫌気が差した。きっと、こんな俺は次からは御堂さんのように失敗してダメージの低い仕事しか任せてもらえなくなる。


「多野が謝ることじゃないでしょ。謝るのは――……」


 俺が上手くやれればこんなことにならなかった。

 古跡さんは俺が抱えていた仕事を、他の編集さんに振り分けた。俺が上手くこなせていたら掛からなかった負担を、編集部全体に背負わせて仕舞った。


 色んな仕事を任せてもらえるようになったのに、頼りにしてもらえるようになったのに、俺はそうやって信頼してくれた人達の期待を裏切った。


 もうダメだ……終わりだ……きっと見放される。


 古跡さんも家基さんも、帆仮さんも平池さんも田畠さんも……他の編集さん全員から使えない人間だと思われる。それで見放されて、必要ないと思われる。

 必要ないと思われたら最後だ。解雇されて辞めなければいけなくなる。


 仕事は大変だけど決して難しい仕事じゃなかった。多分、普通の人ならそつなくこなせる仕事だった。でも、俺はそれが出来なかった。


 簡単な仕事も出来なかったら、きっと将来就職してもインターンよりも難しくて責任のある仕事なんてこなせるわけがない。上手く就職出来ても、すぐに俺が使えない人間だと知られて辞めさせられる。


 仕事が出来なければ凛恋との結婚をお父さんお母さんが許してくれるわけがない。ちゃんと就職してから結婚すると約束したんだ。

 就職出来なくて結婚も許してもらえなかったら……凛恋に嫌われるかもしれない。

 凛恋は俺を仕事が出来る頼りになる人だと思ってくれている。その期待と信頼を俺は裏切る。そして凛恋に見放されたら……俺は……。


「多野? 顔色が悪いわよ。本当に大丈夫?」


 正面から古跡さんの声が聞こえた。その声にふと我に返って、すぐにパソコンへ視線を戻してキーボードを叩こうとする。しかし、横から俺は古跡さんに手を掴まれた。


「多野、帰りなさいって言ってるでしょ」

「やります」

「ダメよ、帰りなさい。それと、しばらくインターンを休みなさい。疲れが溜まってるのよ。そうじゃなきゃ、多野が立て続けに初歩的なミスを重ねるわけないでしょ」


 古跡さんにそう言われるが、ここで帰ったら仕事を投げ出したなんて思われてもっと編集さん達から信頼されなくなる。


「多野くん、今日の分はさっき終わったでしょ? それに、他の仕事は締め切りに余裕があるし、私達で分担して出来るから」

「帆仮さんの言う通りよ。御堂のせいでずっと一人で苦労してたんだし」

「そうだよ。いつも助けてもらってる分を私達に返させて」


 帆仮さん、平池さん、田畠さんもそう言ってくれる。

 古跡さんや帆仮さん達以外にも、他の編集さん達が俺へ視線を向けている。

 きっと、みんな俺のことを心配してくれている。そう思えているのに、心の中には沢山の人を失望させてしまったという後悔に埋め尽くされる。


「…………ご迷惑をお掛けしました。皆さん……本当にすみませんでした」


 椅子から立ち上がって、俺は古跡さんに頭を下げる。その後に、編集部に居る一人一人に頭を下げて、俺は静かになった編集部から出た。

 重い足を動かして通路を歩きながら、床に敷き詰められた堅いカーペットを見下ろす。

 どうして、前まで難なくこなせていた仕事が急に出来なくなったんだろう。


 御堂さんから上がってくる仕事で時間や労力を取られたとしても、締め切りを落とすほどのことでもなかったはずだ。だったらやっぱり、俺の仕事をこなす速度が落ちているしかない。でも、御堂さんの仕事以外に、速度が落ちる理由が分からない。


「気にしない方が良いよ。どうせ編集補佐がやる仕事なんて、数をこなせば誰だって出来ることなんだから」


 自販機コーナーに差し掛かった時、その聞き覚えのある声が聞こえる。視線の先には、自販機コーナーで缶コーヒーを飲んでいる御堂さんと羽村さんが見えた。

 御堂さんと羽村さんは俺を見てそれぞれ違う顔をした。御堂さんは俺の顔を見た瞬間に腕時計を見てニヤリと笑い、羽村さんは興味が無さそうにすぐに視線を俺から外した。


「おい、まだ帰る時間には早いだろ。まさか、他の社員に仕事押し付けて帰る気か?」


 笑いながら言った御堂さんに、俺は何も言わなかったが、右手の拳を握り締めた。

 違う。俺はやるって言ったんだ。それに、帆仮さんも言ってくれたが、今日の分は終わった。それに、締め切りが来てない仕事も、俺は最後までやるつもりだった。でも、古跡さんが俺を無理矢理帰したんだ。だから……。


「使えないから帰されたんじゃないかな? うちにも居るよ。口ばっかりで仕事が出来ないやつ。この世界で大事なのは能書きじゃなくて数字。どれだけ刷ってどれだけ売れたか、それだけだから。まあ、編集補佐なんてその土俵にも立てない人間だけど」


 無視をして歩き出そうとした。しかし、御堂さんが俺の前に立ち塞がって俺を睨み付ける。


「俺の方がこき下ろされたからって良い気にでもなってんのか? お前がちゃんとした仕事を上げてくれば俺は何も言われなかったんだ。お前が使えないクズ野郎だから人に迷惑掛けてんだよ。さっさと辞めろよ。お前が辞めればこっちは清々するってのに」

「…………」

「都合が悪くなったらだんまりか。羽村さんレベルの人じゃあるまいし、お前の代わりなんていくらでも居るんだよ。ミリオン連発出来る天才じゃなくて、お前はクソみたいな凡人(ぼんじん)だって理解してんのか? あっ、そう言えば名前も凡人(ぼんじん)だったっけか」


 御堂さんはそう言って笑う。そう言って、俺の名前を使って悪口を言ってくる人間なんて腐るほど居た。だから、そういう意味では、御堂さんはその低レベルなやつらと――。


「編集補佐レベルの仕事も出来ないと彼女は大変だね。いや、知ったら絶句するんじゃないかな」


 羽村さんが俺を見て言った一言が、ズキンっと胸に響いて突き刺さる感覚がした。そして、首を絞められているかのように息が詰まった。


「そういえば、羽村さんってこいつの彼女狙ってるんでしたっけ? でも羽村さんが本気になれば楽勝でしょ? だって、こいつ羽村さんより何もかも下なんですから」


 確かに、社会で羽村さんと俺とを比べて優劣を決めたら、何もかも俺の方が下だ。

 生み出した経済効果や文学界を盛り上げたという功績は圧倒的に羽村さんが勝っている。俺は何の経済効果も生み出していないし、業界を盛り上げるような功績も何も無い。それに、羽村さんは一人で何人もの作家を抱えて、当然作業量も多い。それなのに、毎回俺と凛恋の買い物先に現れる時間的余裕を作っている。きっと、俺なんかより遥かに仕事を処理する速度が速いのだ。


 でも……だけど……そうだとしても、凛恋はそんなことで男を選ぶような人じゃない。

 でも……きっと、俺が本当は全く仕事が出来ない頼りない人間だと知ったら、凛恋はガッカリする。凛恋が好きで居てくれている凛恋の中の俺と、現実の不甲斐ない俺は違うのだ。その違いを凛恋が目の当たりにしたら、俺は凛恋の気持ちを繋ぎ止められる自信が無い。


「まあ、ゆっくり行こうと思ってる。でも、彼がこの調子だと早まりそうだけど。もし俺の彼女になったら、俺の彼女の可愛い友達を紹介してあげるよ」

「本当ですか? だったら俺は一度見たことある派手な女の子が良いですね。みんなで飲み行きましょうよ」


 笑いながら話す御堂さんと羽村さんから離れて、俺はエレベーターまで歩いて行く。

 羽村さんは、もう凛恋が自分の彼女になったかのような表情だった。でも、自信家の羽村さんならそんな勘違いをしても仕方ない。凛恋は、たとえ俺に失望したとしても、羽村さんみたいな男と付き合うような性格じゃないのを羽村さんは分かっていない。


 エレベーターで揺られている間、俺は背中を壁に付けて一人で立つのも辛い体を支えた。

 帰ったら凛恋になんて言おう。仕事が出来なくて帰されたと正直に言いたくない。体調不良で帰ってきたというのも余計に心配させてしまう。


「こういう時に飲みたくなるんだな……酒って」


 編集部を出てやっと出た言葉がそれだった。

 今まで、記憶が無くなるくらい飲んだことはない。でも、飲み過ぎれば記憶が無くなるほど酔えると聞いたことがある。

 エレベーターから降りて月ノ輪出版のビルから出ると、黒灰の雲に覆われた空から強い雨が激しく降っていた。


 ジャンプ傘を開いてゆっくり踏み出すと、傘に叩き付ける雨音が耳に響く。

 ガードレールの向こう側を引っ切りなしに通り過ぎる車達が、何度もガードレール越しにヘッドライトで俺を照らす。その眩しい光が、なんとなく責め立てられているように感じた。車から責められるいわれはない、だけど……世の中から責められているのではないかと感じた。


 昔から要らない人間だと言われ続け、それに加えて母親は犯罪者という悪評も貼り付いた。その上、誰だって出来る仕事もこなせない低能さも加わった。

 そんな人間を誰が必要としてくれるだろう?


 俺は傘の持ち手を強く握り締めた。傘が壊れても良いと思うほど強く力を込めて握った。でも傘が悪いわけじゃない。悪いのは俺だ。

 人から必要されなくて、母親が犯罪者で、誰だって出来る仕事も出来ない俺が悪い。

 そんなやつは、この世に必要なんて――。


「ここで出会えるのって運命かな?」


 俯いて雨水が流れるアスファルトを見下ろしていた俺に、その聞き慣れた声が聞こえた。

 明るくて優しくて、高校時代にほとんど毎日聞いていた先生の声。


「真弥……さん?」


 正面にはベージュのボストンバッグを肩に提げて、コンビニで売っているような透明のビニール傘を差した真弥さんが立っていた。


「どうして、ここに?」

「ごめんね。忙しくて来られる時間が無くて。でも、やっと来られた」


 ニッコリ笑った真弥さんは、俺の前に近付いて来て右手に持ったスマートフォンをポケットに仕舞った。


「凡人くんがインターン終わる時間に電話して驚かせようって思ったんだけど、私の方が驚いちゃった。まさか、途中で会うなんて」


 俺の正面に立つ真弥さんは、濡れることをいとわず傘から手を伸ばして俺の頬を撫でた。


「……電話しても元気がなかったから。声も日に日にどんどん力が無くなって、凡人くんが辛そうなのが分かった。ごめんね、早く来られたらこんなに凡人くんが傷付けられることなんてなかったのに」


 真弥さんは俺の頬から指を滑らせて俺の目を拭う。


「話して。私の大切な凡人くんが、どうしてそんな辛そうな顔をしないといけないのか」


 そう優しく言ってくれた真弥さんは涙を流した。その涙は、下を流れる雨水に流されて消える。その涙を見た瞬間、俺の足下にも涙が落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る