【一九三《涙雨》】:二
「この前編集部に行った時に例の御堂って人を見たけど、あの顔で凡人と張り合うとか馬鹿かって思ったわよ。どう見たって一つも凡人に勝ってるところなんてないし。希と一緒に、いかにもプライド高そうって話してた」
「御堂さんはプライド高いぞ。それが物凄く面倒だ」
「なんか、女のひがみみたいだよね。自分より仕事が出来て良い大学に通ってるから嫌がらせしようなんてさ! そんなことしたって、あいつが凡人に勝てるわけないのに」
俺の正面に顔を持ってきた凛恋は、チュッと軽くキスをして満面の笑みで微笑む。
「私だけじゃなくて、希も味方だし! それに、帆仮さんとも話したけど、編集部のみんな凡人の味方だって言ってた。だから、凡人は今まで通り一生懸命やってれば大丈夫。凡人の頑張りはちゃんとみんな見ててくれてるから」
「ありがとう」
「特に、凡人のことを大好きで大好きで仕方ない彼女の私は、凡人の一番の味方だから!」
「凛恋が味方なら心強い」
凛恋の頭を撫でながら話していると、凛恋が俺の体を引っ張りながら布団の上へ寝転ぶ。そして、掛け布団を被ってクスクス笑った。
「かぁーずと! 愛してるっ!」
「凛恋、愛してる」
そこから俺と凛恋は言葉を交わさなかった。交わさなくても気持ちは同じだったから、交わす必要が無かったのだ。
俺と凛恋は一つになりたかった。それは身体的な繋がりだけじゃない。でもそれは、精神的な繋がりでもない。俺と凛恋は、存在が一つになりたいと求め合った。
漠然とした、存在が一つになる。それは、きっと俺と凛恋にしか出来ないことなんだと思う。世界でたった一組だけ、本当に愛し合っている俺達だから出来る、最上の愛の形。
存在が一つになった俺達は世界から切り離されて、自分達独自の世界を作る。その俺達の世界には、俺達しか存在出来ない。
凛恋と溶け合って混ざり合った俺は、圧倒的な心地良さと幸福感に酔った。そして、感覚や意識ははっきりしているのに、自分という存在が希薄して俺と凛恋という新しい存在に変わるのを感じた。
凛恋と存在が一つになっている時、俺は現実世界の全てから切り離される。そして、最愛の人と一つとして存在出来ることだけを感じられる。
それが俺にとってこの世界にある唯一無二で至高のご褒美だった。
まだ梅雨の空模様が続くとある日、俺はパソコンに向かいながら必死にキーボードを叩いた。そして、残りの仕事を確認して、ただでも焦っている頭に更に焦りが募る。
仕事が終わらない。このままだと、俺が作る資料が必要な編集さんの仕事に遅れが出てしまう。
「多野?」
「は、はい!?」
後ろから家基さんに声を掛けられて俺は慌てて振り返る。すると、家基さんの手には紙の束が握られていた。それは、俺が家基さんに提出した資料だ。
「多野、資料に間違いがいくつかあったわ」
「申し訳ありません。すぐにやり直しま――ッ!?」
家基さんから資料を受け取って絶句する。俺が提出した資料にはおびただしい数の赤入れがされていた。しかし、絶句したのは赤入れの数だけではなく、赤入れされた箇所の無いようだ。赤入れされた箇所のミスは、今見直してもどうしてそんな単純なミスをというようなミスばかりだった。
「すみません。また……」
俺は資料を強く握り締めながら、立ち上がって家基さんに頭を下げる。
最近、俺は仕事のやり直しが立て続けに起きている。今までは、大事になるようなことはなかったが、忙しい編集さんに俺のミスのフォローをさせてしまい、編集さん達に迷惑を掛けてきた。だが、今日はそれよりもマズイことが起こってしまうのが目に見えていた。
俺にはまだ終わっていない仕事がある。その上で家基さんに提出した資料の作り直しをしていたら、確実に間に合わない。
俺は、初めて締め切りを落としてしまう。
「多野、修正はこっちでやるからしなくていい。私が言いたいのは――」
「多野、こっちの資料も修正しろ」
デスクの上に隣から御堂さんが紙の束を放り投げる。御堂さんから返ってきた資料にも赤入れがされていて、数も多かったし本当に初歩的なミスばかりだった。
「最近多過ぎだろ。こっちはお前が仕事をちゃんと上げてこないせいで残業になってんだよ。この前は休日出勤までした。お前のせいでプライベートの時間を削られてんだよ。学習しろ。使えないやつは辞めちまえ」
「御堂ッ! あんた言い方考えなさいよッ!」
向かいの席から立ち上がった平池さんが御堂さんに食って掛かる。俺はそれを聞きながら、視線をデスクの上に落とした。
手を休めている時間なんて無い。むしろ、もっと速く手を動かして頭を回転させないといけない。今のままでは確実に今日中に終わらないのだ。なのに……早く仕事に取りかからないといけないのに、どうしても手と頭が働かない。
そんな状況の上に、平池さんと御堂さんが俺のせいで揉めている。
今までと何も変わっていないはずだった。仕事の量も今まで難なく終わらせられていた量と変わりない。それに、仕事内容だって激変したわけでもない。なのに、仕事が終わらなくなっている。
理由は分からない。でも、仕事の内容も変わっていないし量も変わっていないなら、俺のスピードが落ちたとしか言いようがない。
「平池だってこいつのせいで残業増えてるだろ。雑用しか能がないくせに、その雑用もまともに出来ないやつなんて――」
「御堂、あんた今すぐ黙りなさい」
御堂さんの言葉を遮ったのは、俺の隣に立っている家基さんだった。その言葉には明らかな怒りが表れていた。
「多野、パソコン借りるわよ。その間、ちょっと手を休めて」
家基さんは俺の横からパソコンを操作し、俺のパソコンに送られて来た御堂さんの仕事依頼のメールを見てから、御堂さんが突き返してきた紙の束を見て目を見開いた。そして、俺のパソコンのモニターを指さしながら、家基さんが御堂さんに向かって咆えた。
「こんなクソみたいな依頼出して偉そうな口利いてんじゃないわよッ! 多野の仕事が遅れてる原因はあんたでしょうがッ! あんたが多野に上げる依頼が不明瞭で添付資料の不足と間違いが多いのよ!」
家基さんが声を荒らげるのを初めて聞いた。それはきっと、隣で目を見開いて家基さんを見上げてる帆仮さんもそうなのだ。
「何が最近多過ぎよッ! こんな酷い依頼でここまで完成度上げて資料上げてくるのは、うちの部で多野くらいよッ! 年下に尻ぬぐいしてもらってるあんたが偉そうに言える立場じゃないでしょッ!」
「家基、落ち着きなさい」
御堂さんに掴み掛かろうとした家基さんを、後ろから現れた古跡さんが制した。しかし、家基さんは古跡さんの手を振り払おうとしながら叫ぶ。
「古跡さんッ! 離して下さいッ! こいつにはもう我慢出来ませんッ!」
「良いから戻りなさいッ!」
さっきの家基さんの叫びよりも大きく響く古跡さんの怒鳴り声が編集部全体に響いた。そして、古跡さんは優しく家基さんの背中を押す。
「話は私がする。だから、ここは私に任せて」
「……分かりました。多野、私は修正依頼に来たわけじゃないの。最近、多野らしくないミスが多いから心配だったのよ。でも、原因は分かったわ」
席に戻る前に俺へ声を掛けてくれて家基さんは、去り際に御堂さんを睨み付けていった。
家基さんが自分の席に戻った後、古跡さんが俺のパソコンのモニターと御堂さんが突き返してきた資料を見比べて、俺の頭に手を置いた。
「多野。資料に使う素材の集め方は誰から教わった?」
「家基さんから帆仮さんが教わるのを聞いてたり、平池さんや田畠さんが教わるのを聞いてたりしたので……」
「つまり、他の人が教えられてるのを聞いて覚えたって訳ね。なるほど、それでこの出来か」
俺の頭から手を離した古跡さんは、視線を御堂さんに向ける。
「御堂、うちの編集がやる仕事を大まかにでも把握してる?」
「それは、企画立てて多野に資料作らせて、企画会議で承認をもらえれば記事作成に入る。ですけど」
御堂さんの答えを聞いた古跡さんは小さくため息を吐く。
「編集者の仕事を大まかに言うと、企画の立案、予算組み、取材、記事編集、体裁の調整、原稿の印刷所への引き渡し。これが大まかに編集者の仕事。そのうち、多野が関わっているのは企画の立案、取材、体裁の調整、原稿の引き渡しよ。じゃあ、多野が何をやってるか言ってみなさい」
「それは……」
御堂さんが口籠もると、すぐに古跡さんが話を再開させた。
「企画に必要な資料集めと資料作成、各種会議に必要な会議資料作成、取材先へのアポ取り、撮影スタジオの押さえ、関連外部スタッフへの仕事依頼、編集が編集した記事の校正部への校正依頼、そして編集者が完成させた原稿の印刷所への引き渡し。多野はこれだけの仕事をやってる。もちろん、全てを多野一人に任せているわけじゃない。仕事の状況を見て、自分でやった方が速い場合は編集自身でやるし、幾つも仕事を平行している場合には多野に頼むのよ。確かに多野の仕事として振ってることだけど、私達は多野に助けてもらってる。だから、御堂の作らせてる、やらせてるっていう考え方は良くないわ」
古跡さんの言葉に嬉しさを感じるが、目の前で御堂さんが指導されている時に気を緩めるわけにもいかず、俺は黙って表情を変えないように古跡さんの話を聞き続ける。
「多野がうちに来てくれてから格段に編集自身の仕事量が減ったわ。そのお陰で、掲載する記事の質が上がった。私も多野には頭が上がらないわ」
そう言い終えた古跡さんは一度小さく息を吐いた。そして、次に聞こえてきた古跡さんの声は、全身が寒気で震えるほど恐ろしかった。
「……で? 御堂が出来る仕事はなに? こんな、完成って胸を張って言ってる神経を疑う仕事依頼を期限ギリギリまで掛けて作ること?」
「それは――」
「平池と田畠はまだ一人で企画は立ち上げていない。でも、企画の立案から印刷所への引き渡しまでの流れは他の編集と一緒に何度も経験してる。でも、御堂は企画の立案より上に行けてないのよ。それがなぜだか分かる? それは、あんたが編集の信頼を得てないからよ」
厳しい言葉を御堂さんに掛けた古跡さんは、腕を組んで御堂さんを見下ろす。
「うちはチームプレイなの。全員が協力して一つの雑誌を作るのよ。それには絶対に、仕事に関わる者同士に信頼が必要なの。でも、御堂は誰からも信頼してもらってないのよ。だから、企画立案の段階の仕事しかやらせてもらえない。企画立案の段階の仕事は記事として動き出す前だから修正がしやすいの。これがどういう意味だか分かる? あんたはここの編集全員から思われてるのよ。どうせ、適当な仕事しかしない人間だって。だから、適当な仕事をされてもダメージが低い仕事しか任せてもらえない」
ため息を吐いた古跡さんは、それ以上御堂さんに何も言わずに俺の方を振り向いてパソコンの操作をする。そして、すぐにメールソフトを立ち上げ、目にも留まらない速さでキーボードを叩いた。
「多野、今日は帰って休みなさい。私も多野に甘え過ぎたわ」
後ろで御堂さんが立ち上がって編集部の外へ歩いて行くのが見えた。俺は少し逸らした視線を古跡さんに向けて首を振る。
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