【一九三《涙雨》】:一
【涙雨】
編集部から帰って夕飯も風呂も済ませ、俺は洋室に座って真弥さんから掛かって来た電話を受けるためにスマートフォンを耳に当てる。
『もしも~し、凡人くんインターンお疲れ様~』
「真弥さんも仕事お疲れ様です」
真弥さんからは毎日欠かさずメールが送られてくるが、時々今日みたいに電話で話すこともある。そういう時は、真弥さんの方に仕事の愚痴があることが大半だ。
「今日は何があったんですか? また森滝先生に小言を言われました?」
『今日は森滝先生のことじゃないの。今日ね、生徒に告白されちゃって……』
電話の向こうから、真弥さんが申し訳なさそうな声でそう言うのを聞いて、俺はスマートフォンを耳に付けながら肩をすくめる。
「真弥さんは俺が高校の時から男子に人気でしたし、その時から生徒に告白されてましたしね」
真弥さんは実年齢よりも若く見えるし可愛らしい顔をしている。それに、性格も明るいし優しい。そうなると、真弥さんと同年代の男性だけではなく、真弥さんの生徒になる高校生男子からの人気も高い。俺が高校の時からそうなのだから、今更真弥さんが男子生徒に告白されたという話を聞いてもあまり驚かなかった。
『それはそうなんだけど、告白されても断るしかないから申し訳なくて』
「納得してくれました?」
『うん。私は好きな人が居るからお付き合い出来ませんって言ったら、そうですかって』
「…………」
『困ってる困ってる』
嬉しそうに笑う真弥さんの声が聞こえ、俺はカーテンの隙間から見える夜空を見上げる。その夜空には厚い雲が掛かっていて、その雲からは強めの雨が落ちてきていた。
「そういうのは、生徒とはお付き合いできませんって言うものじゃ――」
『教師に真剣に告白して来る子は、じゃあ卒業したら付き合って下さいとか、生徒と教師が恋愛しちゃダメな法律はありませんって言うからね。相手に全く好意がないってはっきり言った方が、相手の子も諦めも付くし』
確かに、はっきり相手に好意がないと言った方が、曖昧に断るよりも相手に諦めを付けさせやすい。やっぱり、昔からモテていたであろう真弥さんは、告白の断り方も慣れているみたいだ。
「真弥さん、告白断わるの慣れてますね」
『凡人くん、その言い方って私がいかにも男たらしだって言い方じゃない?』
「そんなことは言ってませんけど、人気のある人ならではだなと思って」
『人気があるのは凡人くんの方だよ。沢山の女の人から好かれてるじゃない。たとえば、私とか』
また電話の向こうからからかう気満々の真弥さんの声が聞こえて、俺はいつも通り淡々とからかいを回避する。
「まあ、俺は凛恋以外はあり得ないんで、申し訳ないんですけど」
『まだ私は諦めてないからね。ところで凡人くん、何か声が疲れてるね。インターン忙しいの?』
「えっ? そうですか?」
『うん。あまり電話する機会がないからかもしれないけど、凄く声が疲れてるように聞こえる』
真弥さんの指摘に、俺は真弥さんに見えないと分かっていながらつい首を傾げてしまう。
最近、特に忙しいということはない。むしろ、大学生活もインターン生活も随分慣れて、時間の余裕は大学一年の頃やインターンを始めたばかりの頃よりもある。全く疲れないわけでは当然ないが、心配されるほど疲れが溜まっているわけではない。
「いや、最近は忙しいってことはないですけど」
『じゃあ、精神的な方かな。人間関係とかで何かトラブルがない?』
真弥さんに人間関係のトラブルがないかを指摘されて、真っ先に思い浮かんだのが御堂さんの顔だった。正直、頭に思い浮かべるのさえ嫌な人だ。
俺はトラブルを起こしたという気はないが、御堂さんの方が一方的に突っ掛かってくるというトラブルには遭っている。そういう意味ではトラブルがあるのだが、それを摩耶山に言うとまた真弥さんに余計な心配を掛けてしまう。
「いや、特にはありませ――」
『嘘だね。凡人くんは嘘を吐くの下手なんだから諦めなさい。話聞くから、私に話してみて』
「…………インターン先の編集部に入った新入社員の一人が変わり者というか、妙に俺に突っ掛かって来て」
真弥さんにすぐ嘘を見抜かれ、俺は諦めて御堂さんのことを話した。
『突っ掛かってくる?』
「はい。うちの編集部、今まで男って俺しか居なかったんですけど、問題の人は男性の新入社員で。他の新入社員の人が、同じ男だから俺に妬いてるんじゃないかって」
『ああ、大卒か院卒の新入社員だと二二か二四だから、確かに年齢が近い凡人くんと自分を比べて嫉妬するのはあるかも。特にその中で自分を含めて二人しか居ない同性だと。実際に何か言われた?』
「いや、何かされたことはありませんよ。ただ、色々と言われはしました。声を掛けたら年上に馴れ馴れしくするなとか、俺の母親の話とか、それから大学の話とか」
『うわっ……その人、めんどくさいね』
真弥さんは苦々しい声でストレートにそう言った。まあ、真弥さんの言うとおり面倒くさいのは正しいことだから仕方が無い。ただ、俺は自分が真弥さんへ伏せたことがあることに罪悪感を抱いた。
俺は言葉ではなく行為としても御堂さんから色々とやられている。通りすがりに椅子を蹴飛ばされるのもそうだったが、引き出しの中にコーヒーに浸った仕事場の資料が詰め込まれていたのもそうだ。でも、そんなことを言えば、ただでも心配そうに電話の向こうから尋ねてくる真弥さんを更に心配をさせるだけだ。
俺は御堂さんからやられる程度の嫌がらせは慣れているし、嫌がらせが起きれば平然とその嫌がらせが出来ないようにこっちで対策を講じれば良い。それを続けていれば、結果的に嫌がらせがし辛くなった御堂さんの方にストレスが溜まる。
『居るんだよね、年功序列の時代が今も続いてると思ってる人って。でも、そういう人に限って年上らしくなくて性格が子供っぽいの』
「真弥さんもそういう経験があるんですか?」
『教師になる前の学生時代にもあったけど今でも居るよ。飲み会に参加した時なんか、女の人がお酌するのが当たり前だってふんぞり返って座ってる人も居るし』
「女性って大変ですね」
『でも、波風立てても良いことないしお酌をしながら思うの。年上のくせに子供なあなたのために年下の私が気を遣って大人になってあげてます、感謝しなさいよって。そうでも思ってやらないとやってられないよ』
自分が大人になってやったと考えるというのは、精神的には良いことだと思う。顔には出さないが、心の内で自分が最も納得出来る状況に処理して流す。そういうのが大人の処世術の一つなのだろう。ただ、そういう考え方なら俺だってもう小学校の頃からやっている。俺の場合は、徹底的に心の中で相手のことを見下しているが。
『だけど、凡人くんのお母さんのことは許せない。ううん、凡人くんに何かを言うこと自体が許せない。それは個人的な感情もそうだけど、いわゆるパワハラってやつだよ』
パワハラ、パワーハラスメントは俺が学生の頃から社会問題として取り上げられてきた問題だ。
パワーハラスメントに似た言葉でセクシャルハラスメント、通称セクハラというものがある。セクハラは日本語では性的嫌がらせと言われていて、その言葉通り『相手の意思に反して不快や不安な状態に追いこむ性的な言葉や行為』のことを言う。セクハラの方はパワハラよりも古くから社会問題になっていた。今では法整備や企業自体の体制改革で減ってはいるようだが、今でもセクハラのニュースを聞くことはある。
そのセクハラと違い、パワハラは『職権などのパワーを背景にして、本来業務の適正な範囲を超えて、継続的に人格や尊厳を侵害する言動を行い、就労者の働く環境を悪化させる、あるいは雇用不安を与える』という定義がある。つまりは、パワハラは職場でのいじめのことを指す。
パワハラの対象になる言動は様々あるが、俺が御堂さんから向けられた言葉も“本来の業務の適正な範囲を超えて”という部分に合致することだ。俺の母親のことも大学のことも、編集部での仕事には一切関係ない。
『早めに上司へ相談した方が良いよ。その新入社員は年下の凡人くんが何か言っても聞く耳を持つわけないし、そもそも凡人くんはそういうの自分の中で処理して我慢するでしょ? それは絶対にやっちゃダメだから』
「嫌なことがあったら凛恋に吐き出してるんで大丈夫ですよ」
『……そっか。でも、ちゃんと八戸さんには話せてるんだね。私に話してくれないのはちょっと残念だけど、凡人くんが前よりも自分の中にストレスを溜めないようになってくれて良かった』
俺が上司に報告すると明言しなかったことに、真弥さんが何か思っているのは分かった。でも、真弥さんは最初に自分の口で言った。“波風立てても良いことない”と。だから、俺は波風を立てないように、自分が大人になって御堂さんを子供だと見下して処理するのが一番なのだ。それが、一番穏便で簡単な方法だ。
『ちょっと長く話し過ぎちゃったね。ごめんね』
「いえ、真弥さんも仕事終わりなのに、俺の話を聞いてもらってありがとうございます」
『ううん。凡人くんの声が聞けて、残った仕事も頑張って出来そう。凡人くんの方は絶対に無理しないようにね』
「はい。真弥さんも無理しないようにしてください」
『ありがとう。おやすみ』
「おやすみなさい」
電話を切ってスマートフォンをポケットに仕舞うと、俺は洋室から出てダイニングに戻る。すると、テーブルに肘を突いてテレビでバラエティ番組を見ている凛恋の横顔が見えた。
凛恋の隣に座って凛恋の横顔を見続けるが、凛恋はテレビに顔を向け続ける。しかし、テーブルに肘を突いていた手が、俺の手を手繰り寄せて握った。
「電話長過ぎ」
テレビに顔を向けたまま唇を尖らせた凛恋が言うと、俺は凛恋に体を近付ける。
「ごめん」
「彼女は一人でつまんないテレビ見させられた」
「ごめんって」
凛恋に謝り続けながら顔を近付けると、凛恋が俺の方を向いて黙って目を閉じる。
目を閉じた凛恋の頬に手を添えて、ゆっくり顔を近付けて唇を重ねる。すると、凛恋の手が俺の首に回って、凛恋から唇を俺へ押し付けた。
凛恋のキスはねちっこいが、そのねちっこさが拗ねた凛恋の感情を感じ取れて可愛く思えた。それに、俺の首に回した手から伝わる強い力には、俺への必死さも感じた。
「お布団敷くの忘れてた」
「俺が敷くよ」
「だーめっ! 一緒に敷くのっ!」
凛恋はニコニコ笑って俺の手を引いて和室に歩いて行く。そして、俺は凛恋と一緒に布団を敷いて敷いた布団の上にあぐらを掻いて座った。
正面にあひる座りをしている凛恋は、体の前に両手を突いて前屈みになり俺を下から見上げる。
「凡人、今日もありがとう。買い物に行くと、いつも荷物持ってくれるから助かる。それに、インターンで疲れているはずなのに家事も手伝ってくれるからチョー助かった」
「いつもやってることだろ?」
「いつもやってくれてることだから、感謝を忘れちゃダメなのよ。本当にありがと!」
飛び付くように抱き付いた凛恋は、俺の頬に柔らかくすべすべした頬を擦りつけて耳元で小さく笑う。
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