【一九二《再体験》】:三

 俺は運がなかったんだと思う。

 レディーナリー編集部で男は俺しか居ないし、しかも御堂さんより年下。自分の志望する部署に行けなかった御堂さんが、ストレス発散のために当たる対象としては俺が丁度良かっただけの話だったのだ。


「それで? 多野くんは凛恋ちゃんと希ちゃんを紹介しろって言われたんでしょ?」

「えっ?」


 正面に座る帆仮さんが、手に持ったグラスからハイボールを飲んでから首を傾げて言う。どうして、凛恋と希さんを紹介しろと言われたのが分かったのだろう。


「レディーナリーで話題の名前と年齢不明の美人モデル二人を連れて行ったら御堂の評価が上がる。プライドの高そうな御堂が考えそうなことよ。それに多野くんは、自分が貶されたくらいじゃあんなに怒らない。もしそうだったら、椅子を蹴られた瞬間に御堂に詰め寄ってた。だけど、多野くんは椅子を蹴られても無視しようとしたでしょ? そんな多野くんがあんなに感情を露わにしたんだから、きっと大切な人を傷付けられたからだと思ったの」

「…………帆仮さんの言う通りです」


 俺は一口だけだと思っていたカシスオレンジをいつの間にか半分以上飲んでしまっていた。そのせいだろうか、俺は言うつもりがなかった言葉を零した。そして零した瞬間、あの時の怒りが込み上げてきた。

 そのつもりで来い。そんな薄汚い言葉を言った、御堂さんの不敵な笑みを見たあの時の怒りが。


「他には何言われたの? ここに居るのは私達だけなんだからバッと吐いちゃいなよ。私達は多野くんの味方だし」


 平池さんに肩を叩かれて言われた瞬間、俺は残ったカシスオレンジを一気に飲み干し、テーブルの天板に視線を落とした。


「凛恋と希さんと、それから俺の大学の友達二人を飲み会に連れて来て、その後は帰って良いっていわれました。それで…………凛恋達に、そのつもりで来いって言えって言われました」

「「「…………」」」


 俺が吐き出した言葉を聞いた三人は、言葉を発せず黙り込む。それはあまりにも御堂さんの言ったことが醜悪で身勝手なことだからだ。


「許されるなら……気が済むまで殴りたかったですよ」


 俺は安全装置の外れた口から言葉を発する。でも、それは精神的な殺傷力はなかった。代わりに、どす黒いヘドロのような言葉だった。


「俺は、凛恋と希さんが男に性的な目で見られるのが嫌でモデルをやってほしくないと思ってました。だから、どうしても御堂さんの言った言葉と頭の中にある醜い下心が許せないんです。命令すれば俺がはいって聞くようなやつだと、自分の大切な人達を売るような人間だと思われたのはどうでも良いんです。ただ……俺の大切な人達が……凛恋があんな男に下心を向けられたことが許せなくてっ!」


 安全装置が外れたのは口だけじゃなかった。目も安全装置が外れて、絶対に他人には見せたくない恥が目から零れ落ちた。


「最低……」


 田畠さんの一言が聞こえた瞬間に、テーブルがドスンと音を立てて揺れた。そのテーブルに、平池さんが拳を打ち下ろしていた。


「女をなんだと思ってんのよ、あいつッ! 本当に気持ち悪いッ!」


 平池さんの怒鳴り声を聞きながら、俺は手の甲で目を拭う。

 言いたくなかった言葉を言ってしまったのに、最低と御堂さんを否定した田畠さんと、気持ち悪いと御堂さんを罵った平池さんの言葉を聞いて安心した。でも、その自分を認識して、自分に対する毛の感が心を埋め尽くす。


「御堂……本当、あいつって救いどころのないやつ。なんでうちにあんなやつが入って来たんだろ。平池さんと田畠さんだけが良かった……」


 帆仮さんは自分の体を抱いて身震いさせる。その、御堂さんが孤立する、御堂さんが帆仮さんの仲間意識から排他される言葉にも俺は安堵してしまった。


「でも、多野くんが話してくれて良かった。そういうこと言われた多野くんが一番辛いから。多野くん一人にそんな辛いこと抱え込ませなくて良かった」

「多野くん、大丈夫。多野くんの彼女と友達の個人情報はちゃんと管理されてるから、御堂が見れるわけないし。それに、多野くんの彼女と友達は御堂になんてついて行かない」


 田畠さんが俺を気遣ってくれて、帆仮さんが俺を励ましてくれる。でも、その言葉が嬉しいのに、俺はその言葉を俺が掛けてもらっていい人間だとは思わなかった。


「それは信じてますよ。古跡さんが責任を持って管理してくれてますし」

「でも、多野くんがその話をしてくれて良かった。そのつもりで来いって、ヤル気だったてことでしょ。どうせ、あの手の男は女だったら誰でも良いのよ。だから、一人がダメでもターゲットを変えて同じことしようとしてくる。同期の子達にも注意するように言っておかないと。万が一にも御堂と飲み会に行って同期の子が酷い目に遭わされたなんて知りたくもないし。美優も手伝って」

「分かった」


 平池さんと田畠さんはスマートフォンを操作して、俺から聞いた話を同期の人達に拡散しているようだった。言うつもりはなかったが、結果的に御堂さんの醜い下心の被害に遭う人が減るのなら良かったのかもしれない。


「多野くん……ごめんね。無理矢理聞き出して。思い出したくなかったはずなのに……」

「いえ……大丈夫ですから……」


 言ってしまって良かったのか悪かったのか分からない。でも言ってしまったことを無しにすることは出来ない。

 少なくとも、平池さんと田畠さんが連絡を取れる範囲で御堂さんの醜い下心の被害に遭う人が出るのを防げたことは良かったことだったのだ。


 そうでも思わないと、俺の心にあるどす黒いヘドロのような醜い自分を、俺は無理矢理にでも納得させることが出来なかった。




 次の日、早めに来てほしいと古跡さんに言われていた俺は、大学終わりにすぐ月ノ輪出版のビルを訪れた。

 エレベーターで編集部のある階まで上がると、エレベーターを下りていつも通る通路を歩いて編集部に入った。


 今は編集会議中で、編集部には誰も居ない。俺は、すぐに机に座ってパソコンの電源を入れた。

 パソコンが起動すると、メールソフトを開いて業務の指示を確認する。いくつか詳しい説明が後で仕事もあるが、いつも通りの簡単な会議資料作成や軽い資料のチェックもあった。


 違和感を抱いたのは、デスクに置いた手から伝わるデスクの温度が、いつもより温かいと感じた時だった。

 暖房がいつもより強く設定されているわけでもない。それに、いつもより編集部に漂うホットコーヒーの香りが濃く感じた。


 気になることはあっても、それを気にし過ぎていては仕事をしなければ進まない。

 とりあえず一番時間が掛かって期限が差し迫った仕事から手を付けようとする。


「あれ?」


 俺は、デスクの上に置いたファイルボックスに手を伸ばして、そこに置いてあった物がごっそり無くなっているのに気付いた。

 俺はファイルボックスに、仕事をする上で必要な資料作成やチェックのための見本をプリントアウトしてまとめて入れていた。

 ノートパソコンの横にそのプリントアウトした資料を置けば、見本のファイルをパソコンで開いて確認するより早いし見やすい。そう思って作った物だったが、そこには影も形もない。


 嫌な予感がした。どこに行ったのかとデスクを見渡した俺の目が、デスクの天板の下にある引き出しに目が行った瞬間に。

 俺は恐る恐る引き出しに手を掛ける。すると、買ったばかりで何も入れていないはずの引き出しは思った以上に重かった。


 俺は取っ手に指を掛けてゆっくりと引き出しを引っ張る。すると、引き出しの中には乱雑に詰め込まれた紙が入っていた。その紙は、全て焦げ茶に染まっている。


 コーヒーだ。そう、すぐに確信した。引き出しの中に紙を詰め込み、その上から熱いコーヒーを掛けた。だから、デスクの天板はいつもより温かくなっていたし、ホットコーヒーの香りもいつもより濃く感じた。そして無くなった見本達も見付けた。ただ、見付けた見本達は、焦げ茶に染まってかろうじてしか字を読み取れない状態だった。


 この手のことは、小学校の頃に上履きを初めて隠された時以来だろう。一度物を隠されるようになってから俺は、学校に物を置かないようにしたからその経験はない。

 典型的な嫌がらせだった。そして、先日のファイル無断削除の件と同じように誰がやったか想像出来る話だった。


 俺は、慎重に引き出しを引き抜き、引き出しに溜まったコーヒーが溢れないように慎重に、でも出来るだけ早く流しに向かって歩く。

 みんなが戻って来るまでに綺麗にしておかなくてはいけない。それで、バレないように平然と仕事をしなければいけない。


 いじめるやつは、いじめた側が泣いたり怒ったりすることを見て楽しむ醜悪なやつだ。だから、反応すること自体が相手にとってこの上ないご褒美でストレス発散になる。逆に何の反応もなく無視し続ければ悔しがりもするし、逆に相手にストレスを感じさせられる。


 引き出しを綺麗に洗って、ダメになった手本を処分すると、俺はパソコンに保存しておいた手本をプリントアウトし直して仕事に取り掛かる。


「多野くん、おはよう!」

「おはようございます」


 会議を終えた編集部のみんなが戻ってきて、真っ先に駆け寄ってきた帆仮さんがニコニコと微笑む。


「そうそう! お昼にコンビニに行ったら新製品のお菓子があって! 多野くんと食べようと思って残しておいたの!」

「ありがとうございます。じゃあ、俺はコーヒー用意してきますね」

「ありがとう! よろしくね」


 帆仮さんはパチッとウインクをして平池さんと田畠さんに視線を向ける。すると、二人は俺を見て明るく微笑んだ。その微笑みの内側に隠された二人の思惑を思わず邪推してしまって、俺は足早にコーヒーメーカーまで歩いて行く。

 お菓子をわざわざ用意してくれたという帆仮さんのためにコーヒーを淹れるため、コーヒーメーカーまで歩いていきマグカップにコーヒーを注いでいると、隣に御堂さんが立った。


「女に味方されてそんなに嬉しいか? 女たらし」

「別に普通に話をしてただけですけど?」

「すかした態度取って上から気分か?」


 相変わらず突っ掛かってくる御堂さんを無視しながら、俺は帆仮さんと俺の分以外に平池さんと田畠さんの分のマグカップも取ってトレイの上に置く。


「別にすかしてません。それに、昨日言ったでしょ。二度と話し掛けるなって」


 視線を向けず、俺は淡々とコーヒーを入れるための動作をしながら吐き捨てる。


「俺だったら、あんな頭悪そうな三人は頼まれても抱いてやらないけどな。よっぽど女に――」

「安心して良いですよ。帆仮さんも平池さんも田畠さんも、御堂さんが思ってるような軽い人じゃありませんし」


 帆仮さん達を侮辱した御堂さんに言い返して、俺は四人分のコーヒーを淹れ終えて自分の席に歩き出す。その俺に、後ろから御堂さんの声が聞こえた。


「ゼッテー、お前を辞めさせる」

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