【一九二《再体験》】:二

 雰囲気で帆仮さんが怒りに耐えかねるのを察し、俺は今にも御堂さんに掴み掛かりそうな帆仮さんの両肩を掴みながらなだめる。すると、帆仮さんの後ろから家基さんがため息を吐きながら俺と帆仮さんの横を横切る。そして、家基さんは手に持った紙の束を御堂さんのデスクに置いた。だけど、その置き方はデスクの上に落とすような置き方で、家基さんらしくない雑な置き方だった。


「赤入れといたから修正して」

「えっ、こんなには流石に――」


 家基さんから返された書類の束を捲った御堂さんが真っ青な顔で家基さんへ言葉を返そうとする。しかし、それに返された家基さんの言葉は、御堂さんにとっては冷たい言葉だった。


「他人に喧嘩を売る暇あったら仕事を覚えなさい。それと、喧嘩を売るならせめて同じレベルの相手に売りなさい。一番下っ端が上の二人に喧嘩売るなんてただ惨めなだけよ」

「…………」


 家基さんに痛烈な言葉を掛けられた御堂さんは、言葉を返さずに書類を握る手に力を込める。その御堂さんの手でしわが寄った書類には、おびただしい数の赤入れがあった。


「返事は?」

「はい……」

「それと分かってると思うけど、今日中に終わらせないと締め切り間に合わないから。私からは以上」


 御堂さんにそう言い終えると、家基さんはニッコリ笑って帆仮さんの頭に手を置く。


「帆仮、粋がってるガキくらい受け流せないと彼氏出来ないわよ」

「そ、それは関係ないじゃないですか!」


 子供をあやすようなからかい方をした家基さんに、帆仮さんは真っ赤な顔をして反論する。


「あるのよ。余裕のない人間は、男も女もモテないのよ」


 家基さんは明るい口調で帆仮さんに声を掛けると。ニヤッと笑って俺を見た。


「帆仮より多野の方が余裕あるわね。さぞかしおモテになるのかしら?」

「いや、並以下ですよ」


 俺は家基さんが帆仮さんの怒りの矛を収めさせようとしてることを察し、肩をすくめて否定しながらも家基さんの会話に乗った。


「あんな可愛い彼女が居てよく言うわ。あっ、資料ありがとう。“修正箇所が全くなくて”助かったわ。急な差し込みだったのに」


 俺は家基さんが雰囲気を和ませようとしていると思っていた。でも、その家基さんの言葉を聞いて戸惑う。今、家基さんは明らかに赤入れの多い書類を突き返した御堂さんのことを揶揄した。それは、俺の知っている大人で余裕のある家基さんらしくない行動だった。


「い、いえ、差し込みは今に始まったことじゃないので」

「ごめんごめん。次も頼むわ」

「はい」


 笑顔で手を振って歩いていく家基さんを見送ると、帆仮さんはさっきの怒りを収めて笑顔でキーボードを叩いている。


「ほら、今日は飲みに行くんだから多野くんも残りの仕事片付けて。“インターン生でも優秀な”多野くんなら楽勝でしょ?」


 帆仮さんはそう言いながら、視線を御堂さんに流して御堂さんを鼻で笑う。その行動は、優しい帆仮さんらしくない。


「帆仮さん、私も行って良いですか?」

「私も良いですか?」

「良いよ良いよ。田畠さんも平池さんも一緒に行こう!」


 俺はそんな三人の話を聞きながら、再びパソコンのキーボードを叩き始める。

 家基さんは一触即発だった帆仮さんの怒りを収めさせた。それは上手いと言うべきだろうし、凄いと言うべきなのだろう。でも、俺は素直にそう言い切れなかった。


 家基さんは一連の会話で帆仮さんの怒りを収めたが、節々で御堂さんのことを貶した。

 修正の多い御堂さんが作った書類を持ってきて、御堂さんが仕事が出来ないことを周囲に見せ、更に明確な言葉として編集部で御堂さんは俺や帆仮さんの下とまで言った。それは、やり過ぎなんじゃないかと思う。


 俺は御堂さんのことは嫌いだ。嫌がらせをしてくる以上に、俺の大切な人達を馬鹿にした言い草をした。でも、家基さんのように編集部の晒し者にされて良いとは思わない。それを肯定してしまったら、それこそ人を見下している御堂さんと同レベルの人間になってしまう。


 それに、世の中には言わぬが花という言葉もある。俺は、家基さんが御堂さんに言った言葉は余計な言葉だと思った。


 家基さんの言葉は、あえて言う必要はなかった。その言葉を言ったことで、編集部のみんなは御堂さんに対する印象は更に悪くなっただろうし、御堂さんの方も編集部に対して持つ必要がなかった不満を持ったはずだ。それは、編集部全体にとって不利益でしかない。

 俺の視界に映る帆仮さんも平池さんも田畠さんも、みんな明るい顔をしている。しかし、御堂さんは明らかにイライラが募った不機嫌な表情をしていた。


 俺はその中で、心の中に出来たしこりを気にしながらも、ただ淡々と無表情で仕事をこなすように努めた。




 仕事終わり、いつも行く店の個室に入って座ると、帆仮さんがニコニコ笑って俺と平池さん、そして田畠さんを見る。


「みんな、好きなの頼んで」

「「ありがとうございます」」

「ご馳走になります」


 明るく答える平池さんと田畠さんの後に、俺は頭を下げて帆仮さんにお礼を言った。

 飲み物と料理を注文して運ばれて来るのを待っていると、正面に座る帆仮さんがテーブルに腕を置いて俺に首を傾げる。


「多野くん、元気ないけどやっぱり御堂に何か言われた?」

「え? あいつ、多野くんの椅子蹴っただけじゃなくて何か言ったんですか?」


 平池さんは、目を吊り上げて不快感を露わにしながら帆仮さんに聞き返す。当然、その不快感の矛先は御堂さんだ。


「御堂に多野くんが呼ばれて帰ってきたら多野くんが怒ってたから、絶対に何か嫌なことを言われたって思ったの」

「多野くん、あいつに何言われたの? 私達に話してみなよ」

「いや、特には――」

「嘘でしょ。多野くんが何も言われてないのにあんなに怒るわけない」


 話をはぐらかそうとしたが、やっぱり確信を持っている帆仮さんは誤魔化されない。


「……御堂さんに女性を紹介してほしいって言われて、それを断ったらちょっと言い返されて。まあそれだけです」


 はぐらかすのが無理だと判断した俺は、話の大部分を端折って話す。凛恋達を紹介しろと言われたくだりや、年功序列どうこうのくだりはもちろん伏せた。そうしないと、帆仮さんと平池さんの怒りの火に油を注ぐことになるからだ。しかし、端折って断片的な情報しか言っていないのに、俺の話を聞いた三人は見るからに不快そうな顔をした。


「うわ、あいつ女探してるわけ? あの顔で」


 目を細め眉をひそめる平池さんは苦々しい表情で、嫌悪感に溢れた声を発する。別に御堂さんのことを擁護するつもりはないが、御堂さんが女性と仲良くなりたいと思っていることには全くもって俺はどうでも良い。ただ、その対象が凛恋や希さん、空条さん、鷹島さんに向いているのが気に食わないだけだ。頼まれても、あの人に紹介するつもりは一ミリもない。


「女の人を漁る前に仕事が出来るようになってもらわないと。御堂のしわ寄せが私達に来るんだから」


 帆仮さんは呆れた表情をして、座ったソファーの背もたれに背中を付けて笑い混じりに言う。別に御堂さんの行動を支持しているつもりはないが、仕事が出来ないから女性と仲良くなっていけないわけではない。ただただ、俺はその御堂さんの行動理念自体はどうでもいい。俺にさえ迷惑を掛けないなら、街でナンパして女性を漁っていたって俺はどうだって良い。でも、俺がどうでも良いことも、帆仮さんや平池さんにとっては、かんに障ることのようだった。


「実は私、この前友達と居る時に御堂とその友達に会って、しつこく飲みに行こうって誘われたんです」

「「はあっ!?」」


 躊躇いがちに帆仮さんに田畠さんが言うと、帆仮さんと平池さんが同時に聞き返す。その聞き返す声にも、明らかに御堂さんに対する不快感が表れていた。


「断ったんですけど、三日くらい毎日飲みに行こうって言われて」

「それで?」

「迷惑だから止めてって言ったら、"立国大卒の俺達と飲みに行けるのに断るなんて何様だ"って言われて」

「はっ! 何が何様よ。御堂の方が何様じゃない。立国大出身のくせして、まともに仕事も出来ないのに」


 平池さんは鼻を鳴らしてふんぞり返ると、その間を見計らったかのように店員さんが料理と飲み物を運んで来てくれた。それで個室の中は静かになり、嫌な雰囲気も少し落ち着いてくれた。だから、俺はその店員さんがずっと居てくれれば良いのにと思った。


 料理と飲み物が運ばれてくると、嫌な話は終わってみんなが料理を食べて飲み物を飲み始める。だが、アルコールが追加されると、言葉の安全装置が自然と外されていく。そして、安全装置のなくなった人の口から発せられる言葉は、精神的な殺傷力が高い。


「本当、御堂さえ居なければ最高の編集部なのに」


 一番安全装置が外れやすい平池さんが、グビグビと酒を自分の体に流し込む。


「新入社員の三人でも、私は平池さんと田畠さんなら仲良くなれそうって思ったけど、御堂は無理だと思った。今も絶対に無理だけど」

「私も出来る限り御堂には関わりたくないです。一緒に声掛けられた友達も御堂は関わらない方が身のためだって言ってました」

「そりゃあそうよ。多野くんに女の子紹介しろとか言うやつでしょ? どーせ多野くんのこと下に見てんでしょ、あいつ。でも、家基さんが言ったみたいにあいつが一番下だっての!」


 テーブルの天板を指で突きながら、荒っぽい言葉を平池さんが発する。俺は否定も同意もせずに、その荒立った波風に影響されないように努めた。


「家基さんも相当ストレス溜まってるみたいだからね。赤入れた書類を見せてもらったけど、前の赤入れの時と進歩ないの。御堂は同じところを何度も指摘されてるのに直す気がないのよ。それで指摘しても、あれこれ理由付けて口答えしてくるらしいの。まあ、家基さんがいつも論破しちゃうらしいんだけどさ」

「そりゃあそうですよ。御堂みたいな新人が家基さんみたいなベテランに何言っても勝てるわけないんですから」


 平池さんが帆仮さんに同意しながら、また追加した酒を飲む。俺は、頼んだカシスオレンジに一口しか口をつけないまま、目の前にある料理を口へ運びながらみんなの話を聞くだけ聞いていた。


 御堂さんはプライドが高いし、自分が格下だと思った相手に対しては徹底的に上から目線なのが反感を買う。

 仕事中に俺の椅子を蹴ったのも、年下――格下だと思っている俺が自分の言うことを聞かなかったからやったことなのだろう。やられた俺の方はたまったものではないし、そんなことをされる筋合いもない。


 別にプライドを高く持つのは良い。自分に自信があるということに限って言えば、何ら悪いことではない。ただ、その自分への自信、自尊心を保つために他人を見下す気質が良くない。

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