【一九一《深意》】:二

「俺は凛恋と希さんがモデルをすることは反対ではないんです。俺が個人的に嫌なだけなんです。そういう、個人的な感情がある人間が企画に参加するのは良くないでしょ。少しでも嫌だなって思っている人間が――」

「その考え方は甘いわ」


 俺の話を遮ったのは帆仮さんではなく、いつの間にか自販機コーナーに来ていた古跡さんだった。


「今回の企画は元々帆仮一人でやらせるつもりだったわ。前回の企画で要領は分かっているだろうし、毎回毎回多野に手伝いをしてもらっていたら他の仕事が滞って編集部全体が困る。だから、もし多野がやりたいって言っても断った。私が育ててるのは多野だけじゃないから」


 自販機で缶コーヒーを買った古跡さんは、立ったまま俺と帆仮さんを見下ろす。


「帆仮も甘いし多野も甘い。どっちもまだまだ甘いわ」


 缶コーヒーを開けながら、古跡さんはいつになく厳しく鋭い言葉で言う。


「まず帆仮。あんたは多野に頼りすぎよ。確かに多野は年相応じゃない頼り甲斐があるけど、帆仮の方が先輩でしょ? しっかりしなさい。それから多野。どんなに嫌な仕事でも売れる企画にするのがプロよ」


 その古跡さんの言葉に、俺は視線を逸らしたいほどの後ろめたさを感じながらも、必死に真っ直ぐ古跡さんに視線を向け続ける。

 言うとおりだ。綺麗すぎる位の反論の余地のない正論。

 仕事に個人的な感情を持ち込むのは良くないという感情を、俺は仕事に持ち込んでしまったのだ。


「確かに、良い仕事をするにはモチベーションは重要よ。そのモチベーションの根本に前向きな気持ちは大きな原動力になる。でも、嫌だと思った瞬間に出来なくなる人間は、うちの編集部には不必要よ。そして、あれこれ理由を付けてやらなくていいための言い訳を並べるような人間も」

「まさか古跡さん!? 多野くんは絶対に必要な人材ですっ! 辞めさせるなんて――」

「帆仮、早とちりしすぎよ」


 立ち上がって古跡さんに意見した帆仮さんを見て、古跡さんは小さく笑う。


「今まで、私は何人も人を指導してきた。時には厳しい口調で言うこともある。でも、私が話している時に視線を逸らしたやつは全員辞めていったわ。だけど、私の指導に視線を逸らさずに食らい付いてきたやつは、今編集部を背負って立つような編集者になってる。もちろん、まだまだ未熟な人間も居るけれど」


 俺に視線を向けて言いながら、古跡さんは帆仮さんの肩を軽く叩いて座らせる。


「多野はインターンとしての仕事の出来は十分過ぎるほど出来てる。更に、間接的とはいえレディーナリー始まって以来、初の重版を起こした企画にも噛んでる。今、多野を手放すわけがないでしょ。他の部がくれって言ったってやらないわ。ただ、多野は感情を理性的に処理しようとする感情に支配され続けてる。それは、柔軟な思考が要求される編集業にはマイナスよ。そこは時間を掛けて直して行きましょう」


 古跡さんは俺の頭に手を載せようとして、少しハッとした表情をしてその手を止める。そして、少し顔を赤くして恥ずかしそうに微笑んで缶コーヒーを一口飲んだ。


「ありがとうございます。俺は先に戻ります。残ってる仕事もありますし」

「多野、今日はいつもより仕事量が多くてごめんなさい」

「大丈夫です。古跡さんと帆仮さんのお陰で気合いも入りましたし」

「え? 私も?」


 戸惑って自分を指さし首を傾げる帆仮さんに笑顔だけを向けて、俺は少し軽くなった足取りで編集部に戻る。

 編集部では休憩時間が重なったのか誰も居らず、静かになった編集部で俺は自分の席に座ってパソコンを開く。しかし、俺は開いた瞬間に操作しようと思っていたマウスに伸ばした右手を止める。


 パソコンの画面は通常のデスクトップの画面になっていた。しかし、俺はパソコンのモニターを閉じる前に、起動したままのプレゼンテーションソフトとファイルマネージャーのウインドウがあったはずだ。だが、それが今は消えている。

 俺は止めていた右手でマウスを操作してファイルマネージャーを開き、製作中だった資料のファイルを保存していたフォルダを確認する。


「編集中だったソフトも消えてファイルもない。一時ファイルは……一時ファイルもダメ、か……」

「多野くん? どうしたの?」


 パソコンを操作して、消えたデータを元に戻せないか考えていると、隣に田畠さんが来て俺に首を傾げて尋ねた。


「田畠さん、編集中だったプレゼンソフトとファイルマネージャーが終了されてて。保存してた元ファイルも消えてたんです」

「え!? 一時ファイルは!?」

「そっちもありませんでした」

「ちょっと貸して」


 田畠さんが焦った表情で言い、俺は田畠さんに席を譲る。その田畠さんがあれこれと操作するのを後ろで見ながら、俺は壁掛け時計で時間を確認した。俺が作っていた資料は今日上げないといけない飛び込みの仕事だった。その締め切りまで時間が全く無いわけではない。でも、余裕があるほど時間が残っているわけでもない。そんな、微妙な時間だった。


「あれ~? 美優、多野くんの席で何してるの?」

「多野くんが作ってた会議資料のファイルが消えてたって。ソフトも落ちてて、一時ファイルも消えてる」

「えっ!? それヤバイでしょ!?」

「ダメだ……セキュリティーソフトの復元機能の一時ファイルも消えてる。パソコン自体の復元ポイントも無理」

「たとえ復元ポイントが生きてても無理ですよ。消えたファイルは今日起動してから作った物ですから」


 俺は残り時間が約一時間。会議資料は四会議分あり、二会議分が三枚で、二会議分が五枚だった。だから、制作しなければいけない資料は合計一六枚分になる。一時間で全部作るには一枚三分弱で作らなければ間に合わない。


「田畠さん、席を替わってもらえますか? 作り直します」

「多野くん、これって明らかに――」

「消えた理由を考えてる時間がありません。俺の作業時間内に終わらせないと、他の人に迷惑が掛かります」

「多野くん!? 今から一時間で終わる量じゃないでしょ!?」


 後ろから平池さんの声を聞きながら、田畠さんが離れた椅子にすぐ座ってプレゼンテーションソフトを起動する。そして、俺は余計な音を聞かないようにパソコンに全神経を集中させた。


 どう作ったかは全部覚えている。だから、一から作るよりも一度作った資料はやり方をなぞるだけで良いから、最初より早く作れるはず。ただ、作っていない資料も残りの時間で終わらせないといけない。

 俺がやっている仕事は簡単な仕事だ。でも、その簡単な仕事でも遅れれば、他の編集さんの仕事が遅れる。社員の編集さんは、俺なんかよりも大変な仕事を平行でやっている人だって居る。その人の負担を、簡単な仕事しか任されていない俺が増やす訳にはいかない。


 俺は必死に頭をフルに回転させながら、指が千切れそうなくらい懸命に動かしてキーボードを叩いた。




 必死で一六枚の資料を作り終えた俺は、椅子の背もたれに背中を付けて一息吐くと、すぐに完成した資料を担当編集さんにメールで送信して立ち上がる。


「家基さん、作成資料送っておきました。確認をお願いします」

「ありがとう。後で確認しておくわ」


 俺は家基さんの後に家基さん以外の編集さんを回りながら、視線をチラリと御堂さんに向ける。

 パソコンから消えていたのは、起動していたソフトウェアのウインドウと保存していた資料の元ファイルと一時ファイル、それらがパソコン側の誤作動で同時に消えるとは思えない。だから……"誰かが消した"と考えるのが妥当だ。


 編集部には誰でも立ち入れるわけではないから、うちの編集部の人がファイルを消したということになる。何か証拠があるわけじゃないが、うちの編集部で俺に対してそういうことをするような人は一人しか思い付かない。


「多野くん、全部終わった?」

「はい。何とか」


 席に戻って一息吐くと、田畠さんが小さく声を掛けて俺の隣に来る。


「多野くん、古跡編集長に報告しないとダメだよ」

「そうなんですけど……」

「勝手にファイルを削除するのは犯罪なんだから、放っておくのはダメだよ」


 言葉を濁らせた俺に、田畠さんは鋭い視線を向けて強い口調で言う。

 もし、会社の業務で使うパソコンから故意にファイルを削除したら、電子計算機損壊等業務妨害罪という罪になる。罰則は五年以下の懲役か一〇〇万円以下の罰金。田畠さんの言うとおり、列記とした犯罪だ。


 俺が削除されたファイルを時給に換算すれば数一〇〇〇円のものだが、問題は被害額よりも勝手にファイルの削除が行われたということになる。

 パスワードは掛けていた。でも、パスワードは会社のセキュリティーパスカードに書かれた数字だ。俺のセキュリティーパスカードを盗み見ることが出来れば誰でも解除出来る。でも、やっぱり一人しか思い付かない。


 腕を組んで立っている田畠さんは視線を御堂さんに向ける。田畠さんも俺のパソコンのファイルを消した人は御堂さんだと思っているのだ。

 御堂さんがそういうする人間だという確証はない。でも、そういうことをする人が編集部に居るとすれば御堂さんしか居ないだけだ。その状況で、御堂さんを疑うのは良くない。


 ファイルが消されたという事実は田畠さんの言うように報告しなければならない。それが御堂さんがやったことでも御堂さんがやったことではなくても、業務上で使うファイルが消えた……消されたのだ。俺は消えても大した影響のない仕事しかしていないが、他の編集さんはファイルが消えたら仕事に致命的な影響が出る人も居る。だから、二人目が出る前に情報を拡散する必要がある。それに、そうすれば俺のファイルを消した人も二回目をやりづらくもなる。


 俺は編集部の最奥にある古跡さんの席へ近付く。仕事中の古跡さんは近付いてきた俺を見て不思議そうに首を傾げた。


「忙しいのにすみません。少し良いですか?」

「大丈夫よ。会議室に行きましょう」


 俺の表情を見て察したのか、古跡さんは席から立ち上がって会議室に向かう。

 一緒に会議室に入ると、古跡さんは入り口の方を気にしてから椅子の背もたれにお尻を載せて俺を見た。


「何かあった?」

「あの……休憩明けに自分のパソコンを見たら、起動してたプレゼンソフトとファイルマネージャーが終了されてて。それで、作業中だったファイルとバックアップ用の一時ファイルも消えてました」

「……誰が触ったか見た?」


 俺の話を聞いた瞬間、古跡さんは険しい顔で聞き返す。険しくなって当然だ。自分の編集部で犯罪が起きたのだから。


「いえ。戻ってきた時に編集部には誰も居なかったので見てません」

「分かった。警備会社に言って、防犯カメラの映像を調査してもらうわ。……多野、大丈夫?」

「はい?」


 古跡さんに心配されるなんて思わなかった俺は戸惑って聞き返す。心配するべきなのは、俺ではなく業務への影響のはずだ。


「はいって……自分の仕事の成果を誰かに消されたの。それは誰がどう考えても、多野に対して誰かが嫌がらせをしているってこと。だったら、多野の心配をするに決まってるでしょ。私のせいで多野に嫌な思いをさせて申し訳ないと思ってる。本当にごめんなさい」

「えっ!? いや! 古跡さんに謝る必要はないじゃないですか! 古跡さんは何も――」

「私の部下の誰かが、私の部下である多野に嫌がらせをした。それは間違いなく私の監督不行き届きよ。私がしっかり下を管理出来ていればこんなことにならなかった。はぁ~……」


 古跡さんは大きく深いため息を吐いて、視線を会議室の床に落とす。


「この件を知ってるのは?」

「田畠さんと平池さんです」

「そう、二人には黙っておくように言わないといけないわね。特に、平池の性格だと火に油を注ぎそうだし」


 穏便に済ませられるならその方が良い。ことは編集部内、俺達にとっては一緒に仕事をする仲間の中での問題だ。下手にことを荒立てて、後々に編集部内にしこりを残すようなことにするべきではない。


「本当にごめんなさい」


 古跡さんはまた俺に謝って、俺の頭に手を置いてゆっくり撫でた。


「大丈夫ですよ。こういうことには慣れてるんで」


 頭を撫でられるということに恥ずかしさを感じて、少し照れ笑いを浮かべながら言うと、俺の頭を撫でていた古跡さんの手が止まる。


「多野。人から嫌がらせを受けて大丈夫な人なんて居ないの。そんなのは慣れなんかじゃないわ」


 そっと視線を向けた先に居た古跡さんは、酷く辛そうな、悲しそうな表情をしていた。その悲しそうな古跡さんを見て、俺は大丈夫という言葉を言わなければ良かったと思った。

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