【一九一《深意》】:一

【深意】


 なんでこうなったのか。それを冷静に考えてみてもよく分からない。

 気が付けば、俺と凛恋はレストランの個室席で並んで座り、目の前に居る日本に住む女性の多くが歓声を上げるトップアイドルを見ている。


「いや~本当に今日は運が良かった。この後、丁度オフだったんだよ」

「そ、そうなんですか」


 戸惑う俺と凛恋をよそに、真井さんは随分とリラックスした表情で目の前にあるパスタを食べながら話す。


「多野くんも八戸さんも食べて食べて」

「は、はい。いただきます」


 街で見た格好良いオーラは確かにある。でも、街で見た時の圧倒される感は今は感じなかった。今の真井さんは和やかな雰囲気が体から滲み出ている。


「八戸さんごめんね。出来るだけ静かなところを選んだつもりなんだけど――」

「凡人をそっとしておいてください」


 戸惑う俺の隣から、凛恋はテーブルの影で俺の手を握りながらそう声を震わせる。それに、真井さんは優しい笑顔を浮かべた。


「心配しなくても大丈夫。俺は多野くんを貶(おとし)めたい訳じゃないんだ。テレビでも話したけど、君達二人がショッピングモールで迷子の子を助けるところをたまたま見たんだ。その後に、マスコミの報道で多野くんを見て名前が分かった」


 真井さんはグラスに入ったミネラルウォーターを一口飲むと、真剣な目をして俺に訪ねた。


「気分を害したらごめん。それに嫌なら答えなくていいよ。……俺が報道で知った話は結構ショッキングだった。壮絶な人生だと思ったよ。でも、ショッピングモールで見た君は、君みたいに壮絶な人生を送っていない人達よりも優しさに溢れていた。君よりも気楽に人生を生きてきた大人が素通りする中、君と八戸さんだけは迷子の子に手を差し伸べたんだ。俺が気付くよりも先に。君は、どうしてそんなに優しくなれたんだ?」

「あの、それって失れ――」

「運が良かったからです」


 怒っている凛恋の手を握り返しながら、俺は素直にそう答えた。


「俺は母親に捨てられました。父親の顔も名前も分かりません。そのことで小中はいじめられました。高校に上がってからも、母親が犯罪者ということで一度転学し、二度目は自主退学と転学を求められました。多分、それって壮絶な人生だと言うんだと思います。でも、俺は運が良かった。俺を引き取ってくれた母方の祖父母は優しくてしっかり俺を育ててくれました。小学生の頃には親友と呼べる友達が一人居ました。その親友とは高校の頃に再会して今も親友です。それに、一番運が良かったのは、今隣に居る凛恋に出会えたことです」

「確かに八戸さんは素敵な人だ。多野くんを傷付けるかもしれないと思った瞬間、僕に敵意を剥き出しだったしね」


 真井さんは凛恋に視線を向けて苦笑いを浮かべ、手に持ったグラスを置いた。


「君は刑事事件にも巻き込まれてるだろう? ちゃんと調べたら、それは全て誰かを助けるためだった。でも、そのために君は何度も怪我をしているし、短期的な記憶喪失になってる。怖くなかったの?」

「怖くないわけないです。でも、俺の大切な人達が傷付きそうだったんです。今まで否定され続けた人生の中で、俺を肯定してくれる少ない人達だったんです。そんな大切な人達が傷付くのが許せなくて、その人達を守ろうと必死になってただけです」

「大切な人達を守るために必死だった、か……。君は本当に格好良いね」


 圧倒的に俺よりも格好良いと言われ続けて実際に俺よりも格好良い真井さんに格好良いと言われても、俺はそれを真井さんの謙遜とかリップサービスとか、俺をあざ笑っている言葉じゃないと感じた。素なのだ。言葉も、顔に出る表情も全てが。


「俺も苦労をしてこなかったわけじゃないと思ってた。むしろ、他の誰よりも苦労をしてきたと思ってた。でも、君の話を知って恥ずかしくなったよ。自分の苦労がどれだけ軽かったのかを感じて」

「苦労に重いも軽いもありませんよ。人が感じたことはその人のものです」

「そうか、そうかもしれない。ありがとう。ところで、この後暇?」

「「…………は?」」


 ニコニコと明るく爽やかな笑顔でパスタを食べた真井さんは、ツルリとのど越しの良いパスタよりもツルリと言葉を発する。そのあまりにも滑らかで前触れのない誘いに俺と凛恋は全く同じ間を開けて、全く同じ言葉で聞き返した。しかし、凛恋はすぐにキッと視線を尖らせて真井さんを睨み返す。


「私と凡人、デート中なんですけど?」

「え? あっ! そうだよね。そりゃそうだ! ごめんごめん!」


 本当に不快感を露わにして言葉を発した凛恋から、本当に気が付かなかった様子で焦る真井さんに視線を移し、俺はすぐに凛恋を落ち着かせるために凛恋の背中を擦る。


「凛恋、落ち着いて。真井さん、すみません」

「多野くん大丈夫。失礼なのは俺の方だよ。恋人との大切な時間を邪魔させちゃったんだから。八戸さん、気が向かなくて申し訳ない」


 隣でむくれる凛恋に真井さんは丁寧に頭を下げた後、スマートフォンを取り出す。


「多野くん、せっかくだし連絡先を交換しない? 今度、男二人で飲みに行こうよ」

「は、はあ」


 相手が女の人なら断るのだが、真井さんはどっからどう見ても男の人だし特別断る理由らしい理由もない。だから、俺は真井さんの申し出に従ってスマートフォンを取り出して連絡先の交換をする。しかし、スマートフォンの画面に映る連絡先の交換が行われている表示を見ながら、俺はとんでもないことをやっているのではないか? という、自分のことでありながら自分のことでないような、現実でありながら現実ではないような、そんなふんわりとした感覚に陥っていた。


 今俺は芸能人と連絡先の交換をしている。しかも、テレビで見ない日がない人気のアイドルだ。いくら同性でも、ここはかなり恐縮して緊張するべきなのではないかと思う。でも、食事の間の真井さんがあまりにもフランクで芸能人らしさがなくてすんなり連絡先を交換してしまった。


「じゃあ、二人はゆっくり食べて。俺は多野くんと八戸さんを邪魔しすぎたからこれで退散するよ」


 俺の隣に居る凛恋に視線を向けた真井さんは、また苦笑いを浮かべて、俺に手を挙げて出て言ってしまう。


「あっ! 会計は別――……もう行っちゃった」


 個室から出て行く真井さんの手に伝票があるのを見て、俺は座席から腰を浮かせる。しかし、俺が言葉を言い終える前に真井さんは個室の外に出てドアを閉めてしまった。

 真井さんにご馳走になるつもりは全くなかったが、よくよく考えれば真井さんは俺達より年上の社会人だ。それに、アイドルとしての世間体もある。ここで年下の俺達に割り勘だとしても払わせたというのは格好が付かないのだろう。


 俺はなんとか心に浮かんだ申し訳なさのモヤモヤを自分で納得させてから、真っ先に解決しないといけない問題に移る。それは、隣に居る凛恋だ。凛恋はさっきから両頬を膨らませて不満げな表情をしている。


「凛恋、どうしたんだよ。なんかいつもの凛恋らしくないぞ?」

「だって……あの人、凡人に馴れ馴れしかったし」

「馴れ馴れしかった……のか?」


 ムスッとした凛恋の言葉を聞いて食事中の真井さんを思い出し、確かに芸能人という雰囲気は全くなく気さくに話していたが、馴れ馴れしかったかと言われれば首を傾げてしまう。しかし、凛恋の目には馴れ馴れしく映ったようだ。


「しかも、この後暇? って何よ。暇なわけないじゃん! 今から私と凡人はラブラブデートするんだから!」

「まあ、確かにあれは気が付かなかった真井さんが悪いとは思うけど」

「普通、私達を見て最初に思うでしょ! こんなお似合いカップルが二人で手を繋いだ上に腕組んで密着してるのよ!? どっからどう見てもデートでしょ! それでそのラブラブデート中に、ご飯に付き合ってあげた私の寛大さを考えもしないでこの後暇ってどういうことよ!」


 随分ご立腹の凛恋は、メニューを手にとってギッと目を尖らせて睨み付ける。


「あの人におごられてると癪(しゃく)だからデザート頼む。凡人も何か頼んで。当然割り勘だから」

「いいよデザートくらい。俺が払うから」


 どうせデザートは食べるとは思っていたから驚きはしない。それにしても、真井さんに仕返しするためにデザートを頼むという選択をする辺りが、凛恋の可愛いところの一つだ。


「凡人」

「ん?」

「この後、カラオケ行くから」

「分かった」


 デザートを選ぶ凛恋を見ながら、俺は交換したばかりの真井さんの連絡先を見る。そうやってもう一度確かめて見ても、やっぱり芸能人と知り合いになったという感覚が薄かった。




 編集部で、もうすっかり慣れたパソコン操作で雑務をひたすらこなす。

 新入社員が三人入ったからと言っても、俺の仕事が格段に楽になるわけではない。

 新入社員の三人はこれからレディーナリーの編集者としてバリバリ働くことになる。今は、そのバリバリ働くために仕事を覚える期間だ。そして、俺は三人が仕事が覚えやすいように、三人や他の編集者さん達の手を煩わせるような細々とした仕事を片付ける。


 雑用係と言えば聞こえは悪いが、縁の下の力持ちと言えば聞こえが良い。まあ、俺は呼び名なんてどっちでも構わないけれど。


「多野くん、疲れてない? 大丈夫?」

「いつもより少し仕事量は多いですけど大丈夫ですよ。ありがとうございます」


 隣から帆仮さんに声を掛けられる。俺はその帆仮さんに笑顔で答えるが、帆仮さんがこうやって仕事中に話し掛けてくることが今日はやけに多い。

 帆仮さんは不真面目な人ではない。明るい性格で、仕事中でも軽い談笑をするが、場を明るくする効果があって、決して仕事の効率を落としているわけじゃない。ただ、今日はそれがやけに多いのが気になる。


「休憩してきます」


 仕事も一段落し、作成したファイルを保存して席を立つ。


「多野くん、少し良い?」

「はい?」


 俺が席を立ってコーヒーを淹れに行こうとすると、帆仮さんがそう言って編集部の外へ出る。

 帆仮さんの後を追って通路を歩き自販機コーナーまで行くと、帆仮さんが自販機に小銭を入れて振り返った。


「好きなの飲んで」

「ありがとうございます」


 お言葉に甘えて缶コーヒーを買うと、帆仮さんは俺と同じ缶コーヒーを買ってベンチに座る。そして、自分の隣を軽く叩いた。


「座って」

「はい」


 帆仮さんの隣に腰を下ろすと、帆仮さんは缶コーヒーを開けて一口飲んでから言った。


「多野くんに謝りたいの」

「謝りたい? 俺にですか?」


 手の中でコーヒー缶をいじる帆仮さんは、躊躇いがちに俺へチラッと視線を向けた。


「うん。凛恋ちゃんと希ちゃんにまたモデルをお願いすること、多野くんが嫌なのにお願いしちゃったから」

「いや、前も話しましたけど、出るか出ないかを決めるのは凛恋と希さんなので、二人がやりたいと言うなら――」

「でも説明会の日、多野くんは上まで上がって来なかったから……」


 俺の言葉を遮って、帆仮さんは弱々しく消え入りそうな声で言う。


「それは、仕事場に休みの俺がふらついてたら、編集さん達の仕事の邪魔にしかならないからですよ」


 帆仮さんはこの前、俺が編集部に上がらず喫茶店に行ったことを、俺が編集部に居たくないから上がらなかったと思っているらしい。

 居たくないというよりも、帆仮さんへ言った言葉通り居たら邪魔にしかならないからだ。それに、企画に乗り気じゃない俺が居ても変に心配を掛けてしまう。


「多野くんと一緒に作った企画で、編集部のみんなからも凄いって言ってもらえて、月ノ輪出版の役員の人にも良くやったって褒めてもらえて。それで、古跡さんからも第二弾の企画を立ててって言ってもらえて。みんな喜んで、もっと良い企画にしようって意気込んでて…………それでてっきり、私は多野くんも一緒にやってくれるものだと思ってた」

「帆仮さん……」

「でも、多野くんは企画の担当から外れて、なんで多野くんは一緒に出来ないんだろうって考えた時、前の企画で凛恋ちゃん達がモデルをすることに多野くんが反対だったことを思い出したの。今回も二人のモデルを押したのは私だから……だから、多野くんは企画に参加しなかったんじゃないかって」

「前の企画も、元々は帆仮さんの発案じゃないですか。俺がやったのは本当に雑用しかしてません。だから、俺が居なくても――」

「でも、多野くんの意見がなかったらあそこまで完成度は高くならなかった」


 帆仮さんはそう言ってくれるが、俺が前回の企画に参加したのは、古跡さんが俺に雑誌の企画を作るという経験をさせようと考えてくれたからだ。だから、古跡さんが参加させなければ、帆仮さんは帆仮さん一人で企画を練り上げたはずだ。

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