【一八八《責任の境界線》】:二

 希さんとお泊まり会をすると凛恋が言い出した時、凛恋は俺の分の夕飯を作って置くと言った。しかし、たまには家のことを考えずに楽しんで来いと作り置きはさせなかった。

 夕飯はお好み焼き屋で済ませ、俺は店を出て暗くなった空から正面に視線を移して歩道を歩き出す。

 どうせ帰っても凛恋が居ないんじゃ、一人でゲームをするくらいしか家でやることなんてない。


「もうちょっとふらつくか……」


 小中と家に帰ったらすぐにゲームを起動して、一人でやり続けていた頃が懐かしい。今もゲームをするが、今は決まって凛恋が一緒だ。

 帰っても一人で寝るだけしかない俺は、特に用事もないのに通り掛かったドラッグストアに入る。


 ドラッグストアなんて俺はほとんど来ない。いや……コンドームを買う時に時々来るか。

 昔はコンドームを買うのに、いちいちドギマギしながら買っていた。でも、今は何の恥ずかしさも感じずに買うことが出来る。

 今頃、凛恋は希さんと楽しく夕食を食べて女子トークとやらで盛り上がっているだろう。


 俺は凛恋のことを考えながら、とりあえず必要もないのに総合風邪薬が並ぶ陳列棚を見て腕を組む。

 俺が買う気もない総合風邪薬の箱を手に取って、アセトアミノフェンとジヒドロコデインリン酸塩という単語を目で追っていると、奥から男性達の声が聞こえた。


「どれが良いか全然分かんないぞ?」

「何でも良いって言ってたろ? 早く行かないと怒られるぞ。もうこれで良いんじゃないか?」


 視線の先には顔を突き合わせて棚に並ぶ商品を見比べる三人の男性客が見えた。

 薬局に男三人で何を買いに来たのだろう。単純にそんな疑問が浮かんだ。そのせいか、その三人が商品を手に取ってレジへ進んだ後に、趣味が悪いとは思ったが三人が居た棚の前に行く。


「睡眠導入剤か」


 睡眠導入剤と言うと、ストレスや病気で上手く眠れない人が使う薬だ。導入剤というだけあって、いわゆる睡眠薬と呼ばれる薬の中でも、寝付きを良くする効果が強い薬だ。

 さっきの三人は誰か目上の人、もっと言えば逆らえないような立場が上の誰かに買いに行かされている風だった。


 会計を済ませた三人が店を出る時に、お釣りを財布へ仕舞おうとした男の一人がレシートを店の床に落とした。しかし、それに気付いた様子はあったが、そのまま店を出て行く。

 ゴミを落としたまま帰った三人に不快感を抱き、俺は落ちたレシートを広い、サッカー台の近くにあったゴミ袋に捨てるために歩いて行く。その途中、俺はレシートに書かれている購入品を見た。


「睡眠導入剤と……コンドーム?」


 どっちも世間一般的に誰に対しても売っている物だ。だから、レシートに書かれていても不思議ではない。でも、その組み合わせがどうしても気になった。


『その人は私を酔わせたかったみたい』


 昼間、大学の食堂で空条さんから聞いた話を思い出す。レディーキラーと呼ばれるカクテルを使って、空条さんを酔わせようとした男の話を。

 俺はすぐに飛び出して店の周囲を見渡す。その目を向けた先に、ダラダラと歩くさっき睡眠導入剤とコンドームを買った三人の姿が見えた。


 俺はとっさにその三人を離れた場所から尾行する。あとを付けてどうにか出来るとは思えないが、心にある不安を無視して放っておくなんてことは出来なかった。

 何もなければそれでいいのだ。俺の杞憂だったと笑えば言い。でも、何かがあった時に、追い掛けておけば良かったと思っても遅い。


 しばらく歩いた三人は、クリーム色の落ち着いた外観をした建物に入って行く。

 三人が入って行った建物に近付くと、入り口には『キッチン付きレンタルスペース』という幟(のぼり)が立っていた。

 男達が中に入ってから少し迷ったが、俺は意を決して建物の中に足を踏み入れた。


 室内には落ち着いた雰囲気で受付のようなものはなかった。でもそのお陰で、誰にも止められることなく俺は建物の奥に入ることが出来た。

 建物の中はそこまで広くはなくすぐに通路の突き当たりが見える。すると、通路にあるドアが開いて、見慣れた女性とさっき薬局で見た男の一人が一緒に出てき来た。


「由衣ちゃん大丈夫~? 俺もトイレに付いて行こうか?」

「気を遣ってもらってありがとうございます。でも大丈夫です」


 ドアから出てきた鷹島さんは、一緒に付いて来た男を振り返りながら言う。表情は見えないが、口調から鷹島さんが不快感を抱いているのが分かった。


「そんなこと言わずにさ。酔ってトイレで倒れたら大変でしょ?」

「鷹島さん!」

「多野くん?」「ああ?」


 俺は部屋から出てきた鷹島さんと男に近付く。そして、とっさに鷹島さんの腕を掴んで引っ張り、鷹島さんを男から離す。


「お前、誰――ちょっ!」


 鷹島さんの腕を掴んだまま俺は、鷹島さん達が出てきたドアを開く。そして、すぐに目に入ったキッチンまで歩いていく。そこには、封の開けられた睡眠導入剤の箱と、砕かれた錠剤の欠片があった。そして、目を丸くして俺を見ていた女性達が、まるで操り糸を切られた操り人形のようにソファーや床の上に倒れる。


「すぐに来てください。女性が倒れました。人数は……七人居ます。警察にも連絡してください。多分、睡眠導入剤とアルコールを飲まされてます」


 俺はすぐにスマートフォンを取り出して一一九番通報をする。そして、その瞬間、男の一人が叫んだ。


「逃げろッ!」


 男の一人が叫んだ瞬間、室内に居た男達全員が蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。しかし、俺はそいつらを追うことはせずにその場に残った。倒れている女性達をそのまま残しておく訳にはいかない。


「…………」

「鷹島さん、何か飲み物は飲んだ?」


 俺が尋ねると、昏睡している女性達を見下ろしながら、鷹島さんは立ち尽くす。そして、顔を俯かせ両手で顔を覆いながら言った。


「飲んじゃった……カシスオレンジを一杯……」

「大丈夫。すぐに救急車を呼んだからすぐに救急隊員が来てくれる」


 震える鷹島さんの声からは恐怖を感じた。しかし、この状況を考えれば怖くて当然だ。

 誰が見ても、倒れてピクリとも動かない女性達の姿は異様だった。おそらく、男達が飲み物に睡眠導入剤を入れて女性達に飲ませたのだ。そして……彼女達と同じように睡眠導入剤入りのお酒を飲んでしまったかもしれない鷹島さんの恐怖は大きい。


「どうしよう……」

「大丈夫」


 フラフラと俺の腕にしがみついた鷹島さんはポトリポトリと床に涙を落とす。


「多野くん……助けて……」

「大丈夫だから。絶対に大丈夫。飲まされたのは睡眠導入剤だから、体に悪いものじゃない。眠くなるだけだ。病院に行っても、きっとベッドで寝かせて休ませてくれるだけで大事にはならない」

「多野く――……」


 俺はプツリと操り糸を切らされた鷹島さんの体を支えながら、ゆっくりと近くのソファーの上に寝かせる。そして、震える両手を力いっぱい握って怒りを必死に抑えた。




 鷹島さん達に睡眠導入剤入りの酒を飲ませたインターカレッジサークル主催者の大学三年生を含めた大学生五人は、すぐに傷害罪の疑いで逮捕された。俺が知っているのはそれだけだ。


 眠気を抑えながら病院のベンチに座る俺は、手に持った缶コーヒーを見下ろす。


 何でなんだろう? どうして、男はそこまでして女性を自分の思い通りにしようとするのだろう? 俺はそんなことを考えていた。

 俺は過去に沢山同じような人間を見てきた。凛恋や萌夏さん真弥さん、他にも沢山の人が理性を失った男の被害に遭っている。その度に、同じ男として理性を失う男達の思考が理解出来ない。


 そういうやつらが居るから、凛恋は街を安心して歩くことが出来ず、俺も凛恋を安心して街を歩かせられない。そして、そういうやつらが居るから、男という性別だけで一緒くたに言われる。

 男は女を性的にしか見ていない、と。


「多野くん……」

「鷹島さん……大丈、夫?」

「検査してもらったら何も異常は無いと言われたわ。もう帰っても大丈夫だって」

「そっか……」


 隣に座った鷹島さんは腿の上で両手を重ねて俯いた。


「記憶が曖昧なの……多野くん……私は……」

「俺が見た時、鷹島さんはまだ意識がはっきりしてた。それで、男達が逃げた後に気を失った」

「じゃあ……何も……何もされてない?」

「ああ。何もされてない」

「良かっ、た……」


 声を震わせていた鷹島さんは、涙を流しながら俺の腕に額を付ける。


「多野くん、ごねんなさい……ごめんなさい……」

「謝らなくて良いから。大丈夫」


 すがり付いて泣く鷹島さんの背中を、俺はそっと躊躇いがちに擦る。

 俺は知りたくはないが知っている。男の醜い悪意に晒された女性がどんなに心細いかを。だから、ここで俺は鷹島さんが泣き付ける相手にならなければいけない。そうしないと、鷹島さんの心が壊れてしまう。


 鷹島さんも俺と同じように実家から離れて大学に進学している。だから、鷹島さんに両親のような頼れる人は今居ない。そして、その代わりに俺がなれるのなら、それが一時的に心を紛らわすだけだとしても、鷹島さん一人の心に負担が掛かるより絶対にいい。


「……貸しスペースに入ってからも、みんなずっと気さくな人だったわ。だから、疑いもしなかった。睡眠薬を盛られているなんて……」

「悪い人間は良い人の振りをするものだから」

「勉強になったわ……悪い男の人が居ることを。もう二度と、知らない人が居る席でお酒は飲まない」


 知らない人の前では酒を飲まない。それも、自己防衛の一つだ。極端にも思えるが、鷹島さんが感じた恐怖を考えれば仕方がないと思う。


「本当に、多野くんには高校の頃から助けてもらってばかりね」

「俺は助けてあげたなんて思ってないよ。俺は友達のことが心配で、友達が傷付くのを見たくないだけだ」

「ありがとう」


 腕から顔を離した鷹島さんはハンカチで涙を拭いて、泣き腫らした目で微笑む。


「ずっと待っててくれたの?」

「警察に事情説明をしないといけなかったし、誰か居ないと何かあった時に対処出来ないし」

「迷惑を掛けてごめんなさい。八戸さんにも謝らないと」

「凛恋には言わないでほしいんだ。……きっと、凛恋が聞いたら怖い思いをするから」

「そうね。分かったわ」


 凛恋でなくても、鷹島さんが巻き込まれたことは女性が聞けば怖い思いをする。それに、少しでも今回の件が広まってしまうことは鷹島さん本人にも良くない話だ。


「家まで送るよ」

「……良いの?」

「一人で帰せるわけない」

「ありがとう、お言葉に甘えていい?」

「もちろん。じゃあ行こうか」


 ベンチから立ち上がると鷹島さんが俺の後ろをピッタリついて歩き出す。

 深夜ということもあり人けはほとんどなく、俺は鷹島さんの方を振り返り様子を窺いながら駅まで歩く。

 付いてくる鷹島さんの足取りは重くずっと俯いている。

 電車に乗って鷹島さんの住んでいるアパートに近い最寄り駅まで行き、俺は鷹島さんの住んでいるアパートまで送る。


 あんなことがあったばかりの女性を一人にするのは躊躇われる。でも、そこで鷹島さんの側にずっと居ることまではやってはいけない。それは、凛恋という彼女が居る俺が越えられない境界線だ。


「多野くん……」

「鷹島さん、じゃあ――」

「一人にしないで……」


 心を鬼にして立ち去ろうとした俺の腕を掴んだ鷹島さんの手は、酷く小刻みに震えていた。


「鷹島さん、ごめん……」

「お願い……怖いの……一人だと怖くて……」


 泣き出してしがみつく鷹島さんを引き剥がすことまでは出来ず、俺は鷹島さんの両肩を支えるように掴む。でも、鷹島さんは必死に俺の服を掴んでしがみついた。


「鷹島さん、一緒に居ることは出来ない。でも、部屋の前で鷹島さんが寝るまで電話する。それで我慢してほしい」


 心細いのは分かる。その心細さを紛らわせるように俺が鷹島さんに俺を頼らせた。その責任は俺にある。それは分かっている。でも……俺が一番大切な人は凛恋だ。

 凛恋という彼女が居る俺が、深夜に女性の一人暮らしの部屋に一緒に居るなんて出来ない。


 分かっている。今、鷹島さんを一人にすることがどんなに惨いことなのか。心細く泣いている鷹島さんの心を酷く傷付けてしまうのも分かっている。

 それでもやっぱり、俺が一番大切なのは凛恋なのだ。


「わがまま言ってごめんなさい」

「いや、鷹島さんが心細いのは分かるから。俺も、出来るだけ協力する」


 鷹島さんはゆっくり俺から離れる。そして、鷹島さんは俯いたまま部屋に入って内鍵を掛けた。

 その鷹島さんを見送った俺は、ドアに背中を付け、震えたスマートフォンを右手に握って耳に当てた。

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