【一八七《ココロエッセンス》】:二

「多野くん、いっぱい食べて!」

「ありがとうございます」


 料理を持って来てくれた帆仮さんにお礼を言うと、湯呑みを置いた古跡さんが帆仮さんを見て笑う。


「帆仮、本当に多野が気に入ったわね」

「はい。もう可愛くて可愛くて。弟みたいです」

「私の目からは帆仮の方が年下に見えるけど?」

「た、確かに多野くんは見た目二〇歳には見えないですけど私の方が年上ですよ!」

「見た目以上に落ち着き方がね」

「私も落ち着いてますよ!」

「「「それはないわ」」」

「み、みんなで言わないでも良いじゃないですかぁ~」


 古跡さんを始め先輩達にいじり倒される帆仮さんは、俺の隣で小さくなりながら手に持ったグラスに口を付ける。


「私が大学二年の時ってこんなにしっかりしてたかな~」

「帆仮さんは大学二年の時何してたんですか?」

「私? 大学二年の時は、本屋でバイトしてたよ」

「本屋さんですか。その頃から出版業界に入るつもりだったんですか?」

「うん。でも、アルバイトはどこでも良かったかな。本屋にしたのも、当時住んでるアパートから近いって理由だったし」

「帆仮もその時は苦労してたのよね」


 古跡さんがそう言うと、帆仮さんは苦虫を噛み潰したような顔をして唇を尖らせる。


「思い出させないでくださいよ~」

「大学二年の時に何かあったんですか?」


 俺が何気なく聞くと、帆仮さんは小さくため息を吐いて肩をすくめて言った。


「当時、悪い男に引っ掛かっちゃって。まあはっきり言うと、五股掛けられてたの」

「ご、五股ですか……」


 予想もしないカミングアウトに俺は戸惑う。しかし、帆仮さんは最初に嫌そうな顔をした割りには気楽に口を動かした。


「デートとか何回かしてて、貧乏だ貧乏だって話を聞いてたから、デート代は全部私が持ってたの。それで、次のデートでお泊まりかな~って時に、その男が他の女と腕組んで歩いてるの見て問い詰めたら、他に三人居て私を含めて五人の人と付き合ってたの。好きだったから一生懸命バイトしてたんだけど、それを聞いて結構ショックでね~。せめてもの救いは、あいつとエッチしてなかったことくらいかな~」


 酒が入っているせいか少しばかり口が軽くなった帆仮さんは、更にグラスを傾けて酒を体に追加する。


「見た目も格好良かったし話も面白いし結構モテそうな人だなって思ってたけど、五股してるって知った瞬間に冷めちゃった。まあ、そんなことがあって、元々バイトしてたカフェから気分を変えるために始めたのが本屋のバイトだったの」

「世の中に五股なんてする人居るんですね」

「まあ、女の方でも居るしねー。大学の頃にも何股か掛けてる子とか居たし」

「俺の周りではそういう話は聞きませんね。付き合ってなくて遊び歩いてるやつなら居ますけど」


 頭に飾磨の顔が浮かび、あいつの場合は大抵の女性がそういうやつだと知っているから問題ないのかもしれないと思う。まあ、俺は飾磨のそういう軽いところはあまり好きではないが。


「多野くんは誠実だもんね。凛恋ちゃんは本当に幸せだと思うよ」

「凛恋がそう思ってくれていると嬉しいですね」


 ひょんなことから恋愛の話になり、その匂いを嗅ぎ付けたのか平池さんがニヤニヤ笑いながら俺に肩を組んで座る。


「多野くんの恋愛話も聞きたいな~」

「俺ですか? 俺は初恋が今の彼女なので、特にエピソードはないですけど」

「へぇ~初恋の相手と今も付き合ってるんだ~。雑誌見たけど、めちゃくちゃ可愛い子じゃん。結構ライバル多かったんじゃない?」

「多かったですよ。面と向かって俺は相応しくないって何度言われたことか」

「そんなこと言うやつ居たの? 多野くんって性格良いから文句言われる要素ないけど」

「彼女はかなりモテてたんで、学校でもイケメンの部類に入る男に好かれてて。もちろん、そうじゃないやつも居ましたけど、好きになるやつが多すぎて色々大変だったんですよ」

「男の世界でも妬みとかあるの?」

「ありますあります。妬みからの陰口なんて日常茶飯事ですよ」

「もうちょっと男の世界ってさっぱりしてると思ったけど、案外ネチネチしてるのね~」


 グラスを傾けた平池さんは膝を立てて顎を置く。平池さんがスカートではなくパンツだから良かったが、流石に女性のそういう姿を直視するのは躊躇われて俺は視線をテーブルの料理に移した。


「高校の頃も大学の頃も、女子の間では恋愛が絡むと面倒だったのよね。私、バスケのサークルに入ってたことがあって、その時のキャプテンに告白されたて付き合ったんだけど、サークル内でキャプテンのこと好きだったメンバーにネチネチクドクド言われて、面倒だったからサークル辞めたわ」


 笑いながら話す平池さんは、しばらく首を傾げた後に思い出したようにまた話し出す。


「あっ、高校の頃に読者モデルやってる子が居てさ。その子がめちゃくちゃモテて、でもそれを妬むやつも多かったのよね。まあ、その子も性格が結構ねじ曲がってて。飽きたらすぐ男を代えるような子でさ、もう女からは評判が悪くて悪くて。でも、男はその子の顔が可愛いからずっとご機嫌取りしてて。やっぱり男は単純だって思ったし、やっぱり世の中は顔だって思ったわ」

「まあ、悪いより良いにこしたことはないですからね」

「私も一度で良いからモテる立場の気持ちを味わってみたいわ」

「平池さんって十分モテるでしょ?」

「お世辞をありがとう。でも私は並よ、並。本当にモテる子ってのは、多野くんの彼女みたいに一目見た瞬間に人の目と心を惹き付けるような子よ。だから、どっかの誰かに盗られないように気を付けなさいよ」

「もちろんですよ」

「でも、勿体ないわね~。一人としか付き合ったことがないなんて」

「平池、酔いすぎよ」


 平池さんの呟いた言葉に、湯呑みを傾けながら古跡さんがやんわりと釘を刺す。しかし、それでも酔いが進んだ平池さんは話を止めなかった。


「だって、一人しか付き合ったことがないって、常識って言うか平均が分からないじゃないですか。デートに行ったら割り勘が普通なのか男が全部持つのが普通なのかとか、それこそエッチの相性なんて一人じゃ分からないですよね? 古跡さんだって、今の旦那さん以外にも付き合った人は居ますよね?」

「それは居るけど、一人としか付き合ったことがないから損なんて話ではないと私は思うわ」

「私はそうは思わないんですよね。やっぱり恋愛なんて経験がものを言うわけじゃないですか? それなのに経験が少ないと難しいと思いますよ。多野くん、彼女さんは何人と付き合ったことあるの?」

「平池」

「いいじゃないですか。で? 何人?」


 止めようとする古跡さんに構わず、平池さんはグッと顔を俺に近付けて尋ねる。


「……俺が知る限りは俺以外居ませんけど」

「うわ! それは絶対に勿体ないわ~! あんだけ可愛いのに一人しか男知らないなんて! 私だったら他の男も試してみたいって思うし!」

「田畠! 平池連れてって」

「は、はい! 絵里香、あっちで飲むよ!」

「ちょ、まだ多野くんと話が――」


 古跡さんに名前を呼ばれた田畠さんは慌てた様子で平池さんを引っ張っていく。俺はその平池さん達から視線を外し、目の前にあったカシスオレンジを一気に飲み干した。




 編集部の人達が開いてくれた誕生日会は楽しかった。そして、会がお開きになって俺はそこそこ空いた電車の座席に座って、光沢のある床に視線を落とした。


『うわ! それは絶対に勿体ないわ~! あんだけ可愛いのに一人しか男知らないなんて! 私だったら他の男も試してみたいって思うし!』


 フワフワとした頭にその平池さんの声が響く。

 そんなことあるわけないし、凛恋がそんなことを思うわけがない。それに古跡さんだって、一人としか付き合ったことがないから損なんて話ではないと言っていた。


 ただ、平池さんの言った『やっぱり恋愛なんて経験がものを言うわけじゃないですか?』という言葉に関しては、その通りだと思った。

 俺は初めて好きになった人が凛恋で、凛恋は付き合った人は居なくても好きになった人は居る。その違いはあっても、初めて付き合う者同士ということは変わらない。だから、付き合うということに関して全て手探りでやってきた。


 俺と凛恋は付き合い続けている中で信頼関係を作って、今では互いの気持ちを疑うような関係じゃない。互いに信頼し合っている。……でも、途中で凛恋は思ったことはないのだろうか?


 俺以外の男と付き合ってみたい、と……。


 俺はふとスマートフォンを開いて、検索エンジンで『交際経験 一人』と検索してみる。すると、様々な意見がネットの海には転がっていた。


『沢山の人と付き合ったから良いというわけじゃない。むしろ、人数が多いと軽く見られがち』

『勿体ない。もっとエッチが上手い人が居るかもしれないし、エッチだけじゃなくて心の相性が良い人が居るかもしれない』

『男性の平均値を知ってた方が、今の彼氏の良さを強く感じられるし良い』

『一人でも一〇人でも、その時に本当に好きだったら別に人数なんて関係ない。大切なのは気持ち』


 それが男性の意見なのか女性の意見なのか分からない。でも、結局どっちも正解という結論しかない。俺の見たかった『答え』はなかった。

 俺は、付き合った人が一人であることが良いという意見を見たかった。それを見ることが出来たから何かあるわけじゃない。それを見なくても見ても、俺は凛恋が好きだし、凛恋は俺を好きで居てくれる。だけど、見ることが出来たら安心出来た。


『経験人数一人で結婚したけど、時々他の人はどんな感じか気になる。もちろん、旦那のことは好きだけど』


 その書き込みを見て、俺は胃がせり上がるような吐き気を感じた。凛恋が他の男と付き合うことを想像してしまったからだ。

 想像する気なんてなかったし想像したくもなかった。でも、なぜか頭の中で想像してしまい、酷く心が辛くなる。


 多分、答えのない問いなのだと思う。だから、答えが出なくて悩むんだとも思う。

 どんなサイトの書き込みを見ても、最後の書き込みには同じ言葉で締めくくられている。

 要は本人次第。それは、答えが出ない問いだからこそ、そう言うしかないのだ。


 初めて付き合った人と結婚して幸せになった人も居れば、幸せになれなかった人も居る。沢山の人と付き合ったことを後悔する人も居れば、それを人生経験として良かったことだと胸を張る人も居る。


 凛恋はどうなんだろう? そう思って、電車の中でグラグラ揺れる頭を振る。

 凛恋は俺で良かったと思ってくれてるに決まってる。俺が一番だと思ってくれている。だから、他の男と付き合ってみたいなんて思ったことなんてない。


 俺はふわふわと頭の中を漂う不安を振り払うために頭の中で自分に言い聞かせる。でも、俺は凛恋のことは信じられても、自分のことは信じられなかった。

 俺は凛恋を満足させられているのだろうか? 凛恋は愛情で気持ちを満たせているが、エッチは本当は満足していないのではないだろうか?


 付き合うということがそれだけではないのは分かる。でも、それも大切なのも分かるから不安しかない。

 電車を降りて駅からアパートへ向かう間も、ずっと頭の中をグルグルと不安が回る。


「ただいま……」


 やっとアパートまで辿り着き、何とか鍵を開けて中に入って内鍵を閉めた頃には、歩くのもやっとになるほど体が重くなっていた。


「おかえ――凡人!? 大丈夫!?」

「大丈夫」

「お酒に酔ったのかな? お水飲む?」

「いや、酔ったわけじゃないと思う」


 多分頭が揺れているのは酒のせいだと思う。でも、気分が落ち込んで体が重くなったのは酒のせいではない。

 テーブルの前に座ると凛恋が水の入ったコップを持って来てくれて、隣に座った凛恋は俺の背中を擦りながら心配そうに顔を覗き込んだ。


「凛恋、大丈夫だから」

「うん。でも、凡人が楽になるまでこうしてる。ちょっ!? どうしたの!?」


 手を休めずずっと擦ってくれる凛恋を見ていたら自然と涙が溢れてしまい、それを見た凛恋が途端に焦った様子で俺の涙を親指で優しく拭う。


「何か嫌なことあった?」

「…………俺は男として凛恋を満足させられてるのかなって思って」

「………………は?」


 俺のかなり躊躇いながらも絞り出した言葉に、凛恋は長い沈黙の後に間抜けな声で首を傾げる。そして、俺の頬を両手で挟んでジーッと俺の目を見た。


「誰に何言われたの?」

「平池さんに凛恋は俺以外の男と付き合ったことないって話したら、俺しか男を知らないのは勿体な――」


 頬を挟んだ凛恋の両手が俺の頬を押し潰して言葉を途切れさせる。そして、俺の言葉を途切れさせた凛恋は、俺の目の前で俺を睨んでいた。


「私、凡人以外の男とエッチしたいなんて思ったこと一度もないから」

「でも、それは俺以外を――」

「私は男の子の事情は分からないわよ? エッチの上手い下手が重要なのかもしれないし、そういうのを気にしちゃうのかもしれない。でも、私はエッチが上手いから凡人と付き合ってるわけじゃない」

「凛恋……」

「確かに私は凡人としか付き合ったことないし、凡人以外とエッチもしたことない。だけど、私は好きでもない人とエッチなんてしたくない。単純に凡人以外の男なんて怖いし気持ち悪いし、そんな相手とエッチすることなんて考えるだけでも嫌なの」

「……そうだよな。ごめん、変なこと聞いて」

「はぁ~、凡人ってお酒飲むとネガティブが増しちゃうのかな~」


 頬を挟んでいた手を離して俺の頭を撫でる凛恋は優しく微笑んだ。


「凡人、シャワー浴びて来たら?」

「そうだな。ちょっと頭冷やしてくる……」


 気だるい体を動かして脱衣室に入り、適当に服を脱ぎ散らかして浴室に入る。そして、すぐに頭からシャワーを被った。

 思い返しただけでも恥ずかしい。彼女に……凛恋に、俺は男としてどうなのか聞くなんて……。


 飲み会の時にカシスオレンジを三杯飲んだ後、古跡さんが飲んでいたのと同じ、ロクヨンの焼酎のお湯割りを一杯飲んで、その後に帆仮さんとハイボールを三杯飲んだ。飲み過ぎかどうか分からないが、きっと酒のせいだ。酒のせいだと思わないとやってられない。


「はぁ~…………あれ?」


 脱衣室を出た瞬間、真っ暗の部屋に戸惑う。ついさっきまで凛恋が居たダイニングに人が居る気配がなかった。


「凛恋? ……凛恋?」


 薄暗いダイニングをそろりそろりと歩いて顔を周囲に向けて凛恋を呼ぶ。


「――ッ!? まさか……俺があんなこと聞いたから!」


 俺が凛恋に聞いたことは、凛恋の気持ちを疑うようなことだ。俺にそういう気持ちがなかったとしても、言葉だけを見ればそう取られてもおかしくない。いや、そう取られて当然の言葉だった。

 だから凛恋を傷付けてしまった。それで凛恋が出て行ってしまったのだ。


「こら、どこ行くのよ」

「えっ!? 凛恋!? 出て行ったんじゃ!?」


 俺が凛恋を追い掛けて部屋を飛び出そうとすると、後ろから腕を掴まれて止められる。


「どうして私がせっかく凡人と二人っきりで住めてる家を家出するのよ。そんなもったいないことするわけないじゃん」

「だって、俺があんなこと聞いたから……」

「もー、お酒は今度からほどほどにしてよ。お酒飲む度に凡人がそんなに辛そうな顔してるなんて耐えられない」


 後ろから腰に手を回した凛恋は、俺の胸に手を持って来てそっと胸を撫でる。


「でも約束したもんね。凡人が不安になったら私が証明してあげるって」


 凛恋の手が胸の上を滑って顔の前に来ると、凛恋の人さし指がちょんと俺の鼻先を突く。そして、その手が俺の両肩に回って俺は強引に振り向かされ……唇を奪われた。


「んっ……んんっ…………はぁっ~……」


 吐息が漏れるくらい激しく唇を重ねた凛恋は、唇を離して俺を見上げ黙って俺の手を引いて和室に入った。そして、俺の体を布団の上に突き飛ばした。


「り、凛恋!?」


 上で俺に馬乗りになった凛恋は着ていたルームウェアを脱いで下着姿になり、ゆっくりと体を倒して抱き付く。


「彼女がここまでしてるのに、まだ自信が無いとか言っちゃう?」


 上から抱き締めながら俺の耳に温かい息を吹きかけた凛恋は、耳元でクスッと笑って俺の頭を撫でながら囁く。


「今日はプレゼントじゃないから。今日は……ただ凡人のことが大好きで仕方なくて……チョー凡人といちゃいちゃしたいだけの私」

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