【一八四《オレンジ色のありがとう》】:一

【オレンジ色のありがとう】


「ハァ!? 何よそいつ! ふっざけんじゃないわよッ!」

「凛恋、落ち着けって」

「落ち着けるわけないでしょッ! 私の凡人がバカにされてんのよ!? 何が馴れ馴れしく話し掛け過ぎよ! 凡人が気を遣って話し掛けてやったのにさッ!」


 夜、俺は布団の中で横になりながら、凛恋に編集部での出来事を話した。

 仕事上の愚痴。そんな話、聞いても楽しくはない。凛恋だって嫌な思いをするだけだ。だけど、凛恋に話して凛恋が怒ってくれる姿を見て心が楽になった。


「そんなやつ、もう放っといて良いじゃん。そんなやつに凡人の優しさ向ける必要なんてない。凡人の優しさは無下に扱っていいものなんかじゃないんだから」


 俺の頭を優しく撫でる凛恋は、俺に顔を近付けてニッコリ微笑む。


「そいつに優しさ向けるくらいなら、その分を私に向けてほしいな」

「凛恋には全力で向けてるつもりだけど」

「もちろん分かってるわよ。だけど、無駄にされるくらいなら、無駄にするやつじゃなくてちゃんと受け止められる人に向けてほしいなって。私なら一欠片だって凡人の優しさは無駄にしない」


 モゾモゾと動いてただでさえ密着していた体を近付けた凛恋は、俺の頭を何度も優しく撫でる。


「本当、そいつ最低よ。私の王子様を馬鹿にして」

「り、凛恋。前々から思ってたんだけど、その王子様ってどうにかならないのか?」

「ならない。だって事実だし」


 凛恋はクスッと笑って俺の顔を下から覗き込む。


「王子様。チューして良いですか?」

「良いに決まってるだ――……」

「んっ……」


 凛恋に優しくキスをされ、俺は凛恋を感じながら凛恋の背中に回した手に力を込める。

 凛恋と抱き合っていると、全身から疲れと緊張が丁寧に脱がされ、心も体も優しく解かれる感覚に落ちる。そして、解かれた俺は温かい凛恋に混ざって溶け合う。

 溶け合った俺達は互いを求めるようにまた抱きしめ合う。すると、凛恋が俺のシャツの背中側を掴んだ。


「凡人、明日デートしよ」

「おう。どこに行こうか」

「私、遊園地に行きたい!」

「よし、じゃあ明日は遊園地に行こう」

「やった! 凡人と遊園地デート!」


 声を弾ませて喜んだ凛恋は俺の体を締め付けて熱烈なキスをする。

 凛恋はいつもただ俺と出掛けるだけでも喜んでくれる。そんな些細なことでも、俺が凛恋のために出来ることだと分かる。


「あっ! ステラと優愛は誘っちゃダメだからね!」

「デートなんだから二人きりに決まってるだろ?」

「それ聞いて安心した。チョー楽しみ過ぎ! どうしよう、興奮して全然寝れそうにない!」


 凛恋は布団の中でバタバタと手足を動かしてはしゃぐ。その無邪気な笑顔がため息が漏れるほど可愛かった。特に、化粧を落とした今は幼く見えて、凛恋の可愛らしい部分がより際立つ。


 世の中には、化粧をしている時は可愛いが、化粧を落とすと別人のようになる人が居るらしい。まあ、はっきり言えば化粧を落とすと不細工な人が居るという話だ。

 そういう話を聞くと、より俺という人間が幸運な人間であることが分かる。凛恋は化粧をしていてもしていなくても可愛いのだ。しかも、タイプの違う可愛さを見ることが出来る。


 レディーナリーのモデルをした時も抜群に可愛かった。いや、モデルの時は抜群に綺麗だったと言える。でも、俺はすっぴんの凛恋が好きだ。

 それはやっぱり、"俺だけの凛恋"という気が俺の中にあるからなんだと思う。

 凛恋は凛恋で誰のものではない。凛恋は言葉で凛恋は俺のだと言ってくれる。きっとそれは本心なんだとも思う。だけど、本来はそう思うべきじゃないのだ。でも確実に、俺の中には自分でも恐ろしくなるような強い独占欲がある。


 誰だって、好きな人が他の誰かを好きになったり、他の誰かの元へ行ったりしてほしくないと思うものなんだとは思う。だけど、俺の場合は本当に凛恋を片時も手放したくないと思ってしまう。羽村さんに、他の男に話し掛けられるなんて気が狂いそうだと思ってしまう。だから、俺は全力でそれを阻止しようとしている。


 きっと、すっぴんの凛恋が好きなのも、凛恋が俺以外には絶対に見せない顔だからだと思う。自分しか知らないから、自分だけの凛恋だから、より優越感と独占欲が満たされる。

 多分……いや、絶対に、俺は凛恋のすっぴんを他の男に見られたら落ち込む。自分だけのものだと思っていた凛恋が、他の誰かに知られたと知ったら立ち直れない。


「こーら。せっかく楽しい話してるんだから、そんな暗い顔なんてしないの」

「ごめん」


 凛恋が唇を尖らせて俺のこめかみを軽く人さし指で突いて言う。それに謝ると、凛恋は首を振って俺をギュッと抱き締めた。


「悪いのは、その意味の分かんないこと言ってる新入社員でしょ? 凡人は何も悪くない! そんなやつのことを考えて凡人が暗くなったら、そいつの思う壺よ? だから、凡人は私に愚痴った後は、私とのデートのことだけ考えてニヤニヤしてればいいの! それが一番の仕返しなんだから!」


 抱き締めながら、俺を抱き締める手に力を込めながら、凛恋は力強い言葉でそう言ってくれる。

 俺が気を向けている先は凛恋の思っている方向ではないが、凛恋の言う通りだ。


 羽村さんも御堂さんも他の男達も、俺が凛恋と仲良くしているだけで悔しがる。こんなに可愛くて綺麗で優しい凛恋と俺が楽しくデートしているだけで羨ましがる。それで、俺のひねくれた自尊心も保てる。いや、凛恋とデートしていれば絶対に、凛恋以外のことなんてどうだってよくなる。

 そうやって羽村さんや御堂さん達のことを気にしない時間が増えることが、羽村さんや御堂さん達への仕返しになるのだ。




 次の日、大きく派手なアーチを見上げていると、俺の前に飛び出した凛恋が後ろに手を組んで少し前屈みになりながら首を傾げて微笑む。


「今日も凡人は完璧! チョー格好良い!」

「ありがとう。凛恋も可愛い」


 カジュアルなワンピース姿の凛恋を見て、俺はワンピースの裾が気になって視線を落とす。フレアスカートのようにふんわりとしているが、丈が太腿の中程よりも短くどうしても中が見えそうだ。


「心配しなくても、下にショートパンツ穿いてるから大丈夫だって」

「それは家出る前に確認したけど、やっぱり端から見ると見えそうって見えるからさ」


 隣に並んだ凛恋が俺の腕を抱いて歩き出しながら、口を手で隠してクスクスと笑う。そして、俺に斜め下からいたずらっぽい笑顔を向けた。


「そうよね~。私の着替えが終わった瞬間に、ワンピの裾を当然の顔して捲ってたし」

「ちゃんと下着が見えないように対策してるかの確認は必要だろ」

「本当に、見えないようにの確認だったの~?」


 出だしからからかう凛恋は、視線を正面に向けて俺の腕を強く抱き締める。


「こっちの遊園地は大きいね」

「そうだな。地元の遊園地はどっちかと言うと、子供向けのアトラクションが多かったし」


 遊園地のアーチを抜けた俺と凛恋は、視線の先にある入場ゲートの更に後ろに見えるアトラクション達を見ながらそんな会話をする。

 今日、俺と凛恋がデートに来た遊園地は、地元にある遊園地よりも遥かに規模が大きく全国的にも有名な場所。そのせいか、入場ゲートを目指して歩く人達も多い。俺達と同じように恋人同士らしき人達も居るが、当然家族連れの人達も多かった。

 入場ゲートで入園料を支払い中へ入ると、凛恋はゲートで貰ったパンフレットを広げて先を指さす。


「とりあえず、最初はジェットコースター!」

「最初から飛ばすな~」

「最初にテンション上げないとでしょ!」

「了解。じゃあ、最初はジェットコースターだな」


 組んでいた腕を解きしっかり手を繋いで、俺と凛恋はジェットコースターを目指して歩き出す。

 軽快な音楽が流れる園内は、開園したばかりだというのに一気に人混みに溢れて、軽快な音楽が掠れるくらいの喧噪に包まれる。


「なんか、遊園地に入ると夢の世界に入った気分になるよね」

「園内の建物とかもファンシーだしな」

「そうそう! ちょっとテンションがおかしくなりそう」


 照れた笑顔を浮かべた凛恋は、俺に身を寄せて凄く楽しそうにニコニコと明るい笑顔を向けてくれた。

 凛恋の笑顔は特別な力がある。凛恋が笑ってくれれば俺は明るい気持ちになれるし、凛恋が笑っていると俺は安心出来る。それに、凛恋が笑ってくれたら俺も自然と笑顔になれる。


「ジェットコースター少し待ちそうだね」

「まあ、遊園地ってそういうものだしな。そう言えば優愛ちゃんは付いてきたそうだったな」

「良いのよ。それに、そのうちステラと行くって言ってたし」

「ステラが遊園地ってあんまり想像付かないんだよな~」

「確かに、ステラが遊園地ではしゃぐってイメージないわね」


 俺はステラが真顔でジェットコースターに乗る光景を想像して思わず吹き出しそうになる。だが、今度来る時は凛恋と二人きりではなく、優愛ちゃんとステラ、他のみんなも一緒に来たら楽しいだろう。


「そういえば、前話してた新年度会ってどうなったの?」

「ああ。飾磨からの続報は、人が増えたから沢山人が集まれる場所を模索中だって言ってた」

「飾磨くん、本当にみんなで集まるの好きだよね」

「まあ、あいつはどっちかと言うと、女の子と遊びたいだけな気がする」


 本当は気がするのではなく確信しているのだが、一応食事会の全段取りを一人でやっていることも考えて言い方に配慮した。新入社員歓迎会の幹事を帆仮さんと協力してやった時に、本当に店決めしかしていなくても結構な労力を消費した。そういうことをたった一人でこなすのだから、素直に飾磨は凄いと思う。


「本蔵も来る?」

「さあ? 飾磨は誘うって言ってたけど」

「じゃあ、絶対来るじゃん。どうせ、飾磨くんは凡人が来るって言うだろうし」

「ほら、ジェットコースター、ジェットコースター」


 ぷくぅっと両頬を膨らませた凛恋を、ジェットコースターの順番が来て俺は話を流しながらコースターに凛恋の手を支えて乗せる。せっかくの楽しいデートで凛恋に嫌なことは考えさせたくない。


「ナオキもあの人みたいに紳士的にエスコートしてくれたらな~」

「ゴメンってば~」


 後ろからそんな男女の声が聞こえると、隣に座る凛恋が満面の笑みを浮かべた。


「凡人、ありがと!」

「当然だろ?」


 すっかり本蔵さんの話を忘れて上機嫌になった凛恋は、コースターに座りながら俺の手をしっかり握る。

 安全バーが下りて係員の人が合図をすると、ゆっくりとコースターが動き出す。


「チョードキドキする~!」


 明るい声を上げる凛恋はコースターが進む先を見詰めてずっと楽しそうに笑っている。それを見て、俺は嬉しくて嬉しくて、凛恋に悟られないようにその嬉しさを噛みしめた。

 沢山、凛恋は辛い思いをして思うように笑えない時期があった。そのことを今思い出してしまい、俺は胸がせり上がるような目に染みる嬉しさが押し寄せる。その目の染みに必死に耐えて、俺は涙を溢さないように努めた。


 上り坂になったレールの上をゆっくりと上るコースター。自分の体が少し傾いて斜め後ろに傾いた重力を感じる。感極まって上がった熱を冷ますかのような冷たい風がふっと吹いた瞬間、体の傾きが前のめりになった。


「キャッー!」


 耳元を駆け抜ける風の音と共に、その凛恋の声が聞こえる。悲鳴なんかじゃなく、明るく楽しそうな歓声。その声を聞いて、俺は視線も気持ちも前へ向けた。

 楽しい。責める者を気にせず、迫る影を気にせずに純粋に凛恋と一緒に居られる時間が楽しい。


 俺は少し責められ過ぎていたのかも知れない。俺は少し迫られ過ぎていたのかもしれない。だから、ずっと不審に思ったり不安に思ったりしていた。そうしないと、自分が大切なものを守れないと思っていたから。でも今日は、そんなことを気にせず笑える。

 やっぱりそれは、何もかも全て、凛恋のお陰だ。

 ジェットコースターを降りると、凛恋がウーンと両手を上へ伸ばして背伸びをした。


「チョー気持ち良かった!」

「だな。スピードに乗って風を切る感じが爽快だった」

「次は何乗ろっか?」

「次は……」

「あれはダメだからね?」


 俺が視線を向けた先にたまたまあったお化け屋敷を見ていると、凛恋がジトッとした目を向けて釘を刺す。凛恋はお化けが苦手だから、絶対にお化け屋敷なんて行きたがらないのは知っている。

 俺は、凛恋が嫌がることはしたくないからお化け屋敷に行く気はない。ただ、怖がった凛恋が悲鳴を上げて俺に抱き付いて少し胸が腕に当たる、という位までの妄想はした。


「凡人のエッチ」

「今の会話のどこにエロい成分があったんだよ」

「顔がエロいこと考えてる顔してた」

「そんなことは考えてません」


 凛恋にバレバレで言い訳しても意味が無いのは分かっている。だが、それが分かっていても男としては言い訳をするものだ。たとえ、隣で凛恋が口を押さえてクスクス笑っていても。


「あ! 凡人! あれ行ってみない?」

「ん? クイズ迷路?」


 凛恋が指さした先には、クエスチョンマークをモチーフにした『クイズ迷路! クエスチョンキャッスル』という、分かりやすい看板を掲げた建物があった。キャッスルと名が付くだけあって、外観は小さなお城を模している。


「上手く行くと豪華賞品だって」

「豪華賞品か~」


 凛恋がクエスチョンキャッスルの近くにあった看板を見てそう言う。しかし、豪華賞品が何かは書いていないし、大体こういうものの豪華賞品は大して豪華ではないのが常だ。


「さっきは声出してテンション上がったし、これで少し休憩しよ。それに、凡人が居ればクイズは楽勝でしょ」

「よし、凛恋のために頑張る」


 勉強がそこそこ出来るのとクイズが出来るのは決してイコールではないと思うが、可愛い彼女の期待を背負うとなると頑張らないわけにはいかない。


「キャアッ!」


 凛恋と一緒にクエスチョンキャッスルの中に入った瞬間、照明が消えて室内が真っ暗になる。それと同時に凛恋が驚いて悲鳴を上げ、思い切り俺に抱きついた。その拍子に、俺の胸に凛恋の柔らかい胸が押し付けられて腕を優しく包み込む感触が伝わった。


「凛恋、単なる演出だから大丈夫だって」


 お化け屋敷の妄想で期待したことと同じことが起こり、俺は凛恋とは違う意味で胸がドキドキしながら周囲を見渡す。

 照明が消えたのは一瞬だけだったが、明るかった室内は淡い照明だけになり薄暗くなる。

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