【一八一《愛の存在証明》】:一

【愛の存在証明】


 何も話さないということが辛いことだと知るのは、大分時間が経った後だった。時間を掛けてジワジワと心の中を蝕み、気が付いたら心の中が何も話さないと決意したことへの罪悪感に埋め尽くされている。

 嘘を吐いているわけじゃない。でも、何も話さないということは、嘘を吐くよりも罪が重いんじゃないかと思ってしまう。


『嘘を吐いてないって大義名分が通用することじゃないだろ。凛恋は俺から何でも話して欲しがってる』


 真っ白い部屋の中。中央に一台だけ置かれた姿見に映った俺が呆れた目を向けて言う。でも、俺は姿見に映る俺に首を振った。


「稲築さんは凛恋の友達なんだ……凛恋が大学で一番仲が良い友達なんだ。だから、その稲築さんと凛恋を――」

『でも、向こうは凛恋を友達だなんて思ってない』


 姿見の俺は冷たいことを言う。確かに稲築さんは凛恋を友達ではなく恋愛対象として見ている。友達という関係は稲築さんの心の中にある本心を上手く隠す隠れ蓑でしかない。でも……凛恋は稲築さんを大切な友達だと思っている。


『安心しろよ。凛恋は俺の話は真剣に聞いてくれる。凛恋にとっては突拍子もない話だとしても、絶対に俺が稲築さんを貶めようとしたなんて思わない』

「そういう問題じゃない。凛恋が傷付くのが問題なんだ」

『でも、稲築さんが自分の本心をそのうち凛恋に伝える時が来る。その時に、絶対に凛恋は傷付くぞ』

「そうならないように稲築さんを諦めさせれば――」

『今まで、凛恋を好きだった男が簡単に凛恋を諦めたか? 俺っていう彼氏が居ても、俺くらいなら別れさせられるって思って奪いに来ただろ。稲築さんだって同じようにしてくる』

「それは……」


 口籠もったことが悔しかった。俺はまだ……心の底では凛恋に相応しい人間だと言い張れない。それが、堪らなく悔しくて……情けなかった。


『どう足掻いたって俺じゃ凛恋を奪いに来る人間を追い払えない。結局は凛恋が俺を好きで居てくれてる気持ちに頼るしかないんだ。でもそれが一番確実で安全だ。凛恋から拒絶されれば、よっぽど諦めの悪い人間じゃない限り諦める』

「それじゃ……俺は凛恋を俺の力で守れないみたいじゃないか……」

『認めろよ。俺は栄次みたいに容姿が良いわけじゃないし、羽村さんみたいに社会的な地位や名声があるわけじゃない』

「羽村さんの名前を出すな……」

『そうやって避けようとするってことは、男として負けてるって認めてるのと同じだぞ?』

「そんなこと思ってないっ!」

『そうやって声を張り上げてムキになって言い返してくる時点で言い逃れなんて出来ない』


 冷静に淡々と事実を突き付けてくる姿見の俺に、俺は拳を握り締めて視線を逸らす。


『困ったらそうやって視線を逸らす。昔からそうだよな。自分がいじめられることを諦めて視線を逸らしてきた。凛恋と付き合う前、凛恋に好きな人が居るって思った時もそうだ。俺は辛いことがあったら全てのことから目を背けて対処してきた』

「どうしろって言うんだよ。相手はミリオンセラー連発の凄腕編集者だぞ?」

『確かに羽村さんは、雑用係の俺よりも社会的には重要な人間だ。月ノ輪出版も俺みたいなインターン生が居なくなるより羽村さんが居なくなる方が困るに決まってる。社会全体を見てもそうだ。数一〇億、数一〇〇億規模の経済効果に貢献してる羽村さんの方が、月一〇数万円の経済効果しか生み出してない俺なんかよりよっぽど必要な人間に決まってる。だけど、凛恋はそうじゃないだろ? 凛恋は誰よりも俺を必要としてくれる』


 そう。凛恋は、俺を必要としてくれる。大金を稼ぎ出す羽村さんなんか眼中になく、むしろ気持ち悪いと嫌っている。

 凛恋はいつだってそうだ。凛恋はいつでも俺を必要な人間だと言ってくれて思ってくれていた。間違いなく、世界で一番俺という人間を必要としてくれている人なのは間違いない。


『凛恋にとって俺の代わりは居ないんだよ。だったら安心して話せば良いじゃないか。稲築さんのことも、羽村さんのことで不安に思ってることも。俺に関することで凛恋を頼っても大丈夫なことは、俺が一番分かってるだろ? 何度凛恋に助けてもらった? 凛恋に信じてもらった?』

「どう言えばいいと思う?」


 俺は姿見の俺にそう問い掛ける。すると、姿見の俺は苦笑いを浮かべて腕を組んだ。


『そのまま言えば良い。稲築さんは凛恋のことが好きだって言ってた。羽村さんは凛恋を奪いに来てる。だから、俺以外の人を好きにならないでくれって』

「……めちゃくちゃ格好悪い」

『どの面して格好付ける気だよ。今まで、俺が格好良かったことなんて一度もないだろ?』

「でも、凛恋は俺を格好良いと思ってくれてる」

『まあ、選ぶのは俺だからな。俺の勝手にすればいいさ』


 その言葉と共に姿見にひびが入る。そして、音も無く姿見は砕け散った。




 目を覚まして、ちっともスッキリしない意識のまま体を起こす。頭痛がして頭が重い。体も気だるく風邪を引いてしまったかのような感じがする。きっと、あの嫌な夢を見たせいだ。

 汗でぐっしょり濡れたシャツの胸元を掴んで胸を刺す痛みを抑えようとした。

 日に日に心の傷が増えるのが分かる。今日見た夢と同じものを見るわけではないが、稲築さんと羽村さんのことを考えさせられる夢を見る機会が増えた。


 何度繰り返しても、俺は凛恋に言わないと決めたのだ。俺が稲築さんと羽村さんを押し退ければ良い。そうすれば、凛恋に友達を失う悲しみと男に付き纏われる恐怖を抱かせなくて済む。

 ただ、そうするために何をすれば良いかなんて分からなかった。


 夢の中の俺が言っていたように、俺は男として魅力がない。それは凛恋にとって俺が魅力的であるかどうかじゃない。世間一般の人から見ての印象の話だ。

 凛恋は俺以外はあり得ないと言ってくれる。でも、端から見れば凛恋に相応しい男なんてもっと居る。凛恋は魅力的な女性だから、俺より遥かに顔が良くて社会的地位の高い人だって凛恋のことを好きになる可能性は大いにある。いや、今まで何度だってあった。


 羽村さんは、自信満々で凛恋を奪うと言ってきた。

 ゲームで言えば、レベル九九の羽村さんの目の前に、レベル一の俺が敵として出てきた状況だ。そんな状況で負けるなんて思うわけがない。だけど、恋愛はゲームの様に単なる数字では表せないこともある。


 ベッドの上に座ってスマートフォンを手に取る。今日は凛恋と会うことになっている。改めて約束をしなくても、俺は毎日凛恋とは会っているが、今日は俺の家でゆっくりしようなんて話になっていた。その約束の時間までまだ余裕がある。

 ベッドから立ち上がろうと思った。でも、どうしても立ち上がれずに俺は座った姿勢からまたベッドに体を横たえる。すると、部屋のドアがノックされてゆっくり開いた。


「カズくん? もう起きないとお爺さんに怒られちゃうよ?」

「栞姉ちゃん、起きてる」

「大丈夫? 凄く顔色が悪いけど」

「大丈夫。時々寝起きが悪い時があるから、今日がたまたまその日だっただけだよ」

「そう?」


 心配そうに顔を近付けて来た栞姉ちゃんは、俺の額に手を当てて空いてる手を自分の額に当てる。そして、小さく唸って首を傾げた。


「熱はないけど、一応風邪薬飲んでおいた方が良いよ」

「分かった。朝飯――は、いいかな……」


 朝飯を食べてから飲む。そう言おうとして、自分に食欲がないのを自覚して言い換える。しかし、その言葉を聞いた栞姉ちゃんは目を細めて更に心配そうな表情を深めた。


「食欲もないなんて本当に大丈夫? 病院に行った方が良いんじゃ――」

「大丈夫だって、栞姉ちゃんも寝起きが悪かったり食欲がなかったりする時はあるだろ?」

「そうだけど」

「俺は健康そのものだから心配しないで。今日は凛恋も来るしすぐ着替えるから」

「うん」


 栞姉ちゃんが部屋を出て行った後、俺は小さく息を吐いて閉じたドアを見詰める。

 全部変な夢を見るせいだ。夢を見ない日は気持ち良く起きられるし食欲もある。変な夢を見てテンションが落ちているから、それで体が重く感じるし食欲も湧かない。ただそれだけのことでしかない。


「着替えないと、凛恋に怒られる」


 その言葉で自分の心に活を入れ、体をベッドから起こして立ち上がり、俺はのろい動きで着替えを始めた。




 本来は凛恋と部屋でまったりする予定だった。しかし、凛恋から予定変更を伝えられ、俺は高校時代によく使っていたファミレスに向かった。そして、店内に入ってすぐ、いつも使っている席に凛恋が座っているのが見えた。そこには凛恋以外に、優愛ちゃんとステラが座っていた。


「凛恋」

「おはよう。凡人」

「おはようございます。凡人さん」

「凡人、おはよう」


 席に近付くと、凛恋、優愛ちゃん、ステラがそれぞれ俺を見て挨拶をする。その挨拶を受けながら凛恋の隣に座ると、斜め前に座っていた優愛ちゃんが俺にずいっと身を乗り出す。


「凡人さん! 私達、お姉ちゃんと凡人さんみたいに一緒に住みたいんです!」

「……え? えっ!?」


 なんの脈絡もなく唐突に出された優愛ちゃんの言葉を聞いて、一瞬なんの話か分からなかった俺は、その言葉を自分の中で噛み砕いて理解して目を見開く。そして、交互に優愛ちゃんとステラを見た。


「い、いつから二人はそんな関係に?」


 俺と凛恋みたいに一緒に住みたい。つまりは同棲したいということだ。

 同棲は大抵の場合、恋人同士の男女が結婚する前に一緒に住むことを指す。しかし、優愛ちゃんは女性でステラも女性だ。だが、世の中には同性愛という恋愛の形がある。

 この前、里奈さんが女子校では同性のカップルがよく居ると言っていた。実際、理緒さんは大学で同性から告白されたという経験がある。それに……稲築さんの件もある。


「結構前から考えてたんです。真剣に考え始めたのは、去年の秋くらいからで」

「去年の秋から……ごめん。俺って鈍感らしくて、全く気付かなかった」


 口の中が一瞬にしてカラカラになり、コップ一杯の水が欲しくなってきた。しかし、そんな俺を隣に居る凛恋が少し目を細めて見ていた。そして、そのままの目で凛恋は正面に居る優愛ちゃんを見た。


「優愛。あんたが話を端折(はしょ)りに端折り過ぎて、凡人が勘違いしてるわよ」


 優愛ちゃんにそう言った凛恋は、再び俺に視線を戻して小さくため息を吐く。


「はぁ~……。凡人、優愛とステラはルームシェアをしたいって話をしてるの。凡人が勘違いしてるような内容じゃないわよ」

「な、なんだ……ルームシェアか」


 凛恋の説明を聞いて体の緊張が一気に抜け、俺はソファーの上に全体重を預けて背中を付けた。


「私達が住んでるアパートに一緒に住むつもりらしいの。それで、私と凡人にパパとママの説得を手伝ってほしいんだって」

「お父さんとお母さんの説得か~。俺じゃ無理じゃないかな?」

「そんなことないです! 凡人さんはパパとママからの信頼バッチリですし!」

「いや。信頼云々の話じゃなくて、優愛ちゃんのお父さんとお母さんって凄くしっかりしてるでしょ? それに筋が通ってないことは好きじゃない。もし優愛ちゃんとステラが本気でルームシェアしたいんだったら、二人が直接話して納得させるしかないと思うけど」

「そ、そんなぁ……パパはともかくママを説得出来る気がしないんですよ……」


 弱音を吐く優愛ちゃんはシュンとしてしまったが、俺はかなり罪悪感を覚えながらも言葉を重ねた。


「優愛ちゃんのお母さんは決してめちゃくちゃな人じゃない。物凄く優愛ちゃんと凛恋のことを大切にして真剣に考えてる。だから、ちゃんと優愛ちゃんがなんでステラとルームシェアしたいか説明出来れば頭ごなしに否定はしないと思うよ? ちなみに、どうしてルームシェアをしたいの?」


 俺がその質問をすると、優愛ちゃんはステラの方を見て小さくため息を吐きながら言った。


「ステラを一人にするのが心配なんです」

「ああ、なるほど」


 俺は優愛ちゃんの言葉に素直に同意した。確かにステラを一人にするのは、ありとあらゆる観点から見てあまりにも危険過ぎる。

 まず、ステラは何をしでかすか分からない動きの読めなさがあるから、誰か近くで見張っているべきだということだ。それとそもそもの話、ステラは可愛いから変な男が寄りつかないか心配でもある。


 地元では宗村さんが保護者の代わりをしてくれていたが、大学に出て一人暮らしをすればそういうわけにもいかない。ステラの両親が海外を渡り歩く生活は、ステラが大学生になっても変わらないだろうから、このままではステラは正真正銘一人暮らしになる。


 俺達は同じ地域に住むことにはなるが、それでも住んでいる場所が離れていれば様子を見に行くというのにも限度がある。その点、優愛ちゃんとルームシェアしてうちのアパートと同じアパートに住めば、俺も安心ではある。


「でも、それだとステラとのルームシェアを認めてもらうには弱いだろうな。聞いた李油だけだと、優愛ちゃん側にはルームシェアをする理由がない」

「ステラが心配なのもあるけど、単に一緒に居たいんです。ステラのヴァイオリンは大好きだし、一緒に居て楽しいし!」

「うーん……」


 優愛ちゃんの言った言葉は、現実的な理由としては弱過ぎる。でも、目をキラキラとさせている優愛ちゃんを見ると、俺なら良いと言ってしまうと思った。多分、お父さんとお母さんも相手が女性のステラであるし、俺と凛恋の時よりも精神的なハードルは低いだろう。


「でもやっぱり、それを二人でちゃんとお父さんとお母さんに話すしかないと思う。それに、それが一番簡単で確実な方法だと思う」

「そうですか……。頑張って説得するしかないかぁ~……はぁ~……」

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