【一八〇《煩えば煩うほど重なる思い》】:二

 まな板やフライパン、包丁にボウル。それから陶器製の食器類が並ぶ棚の間を抜けて、製菓用具のコーナーに行く。

 電子式の秤(はかり)、英語で言うとデジタルクッキングスケールを見てから、タルトやマドレーヌの型を手に取って頭を傾ける。どれもこれも、萌夏さんの家にあるのを見たことがある物ばかりだ。


「多くのプロが愛用するパレットナイフ……」


 いかにもな謳い文句が書かれたポップを読んで、一際丁寧に陳列されているヘラを見る。

 パレットナイフという名前があるのだから、ヘラと言うのは良くないのだろうが、よくケーキ作りの映像でクリームを平らにする時に使っているヘラにしか見えない。


 長さと形の違うヘ――パレットナイフが三本セットになっている商品のようで、プロが愛用しているにしては三〇〇〇円と安かった。まあ、パレットナイフの相場が分からないから、パレットナイフにしては高価な物なのかもしれない。


 これも持っているに決まっている。しかし、妙にそのパレットナイフが気になった。

 持っていると分かっていても、他の製菓用具とは違ってなんとなくこれが良いのではないかと思えてきた。


「パレットナイフならよく使うだろうし、萌夏も喜ぶんじゃない?」

「うわッ!? り、凛恋!? どうしてここに!?」


 後ろから急に声を掛けられ驚いて振り向くと、両頬を膨らませた凛恋が俺を見ていた。


「こら、彼女に声掛けられて悲鳴を上げない」

「ご、ごめん」


 謝ると、凛恋は小さく笑って俺の隣に並んで腕を抱く。


「私の分を選び終わったから探しに来たの」

「ごめん、大丈夫だったか?」


 ランジェリーショップから離れた場所にあるこのキッチン用品店まで来る間、凛恋は沢山の男性とすれ違ったはずだ。だから、俺を探させてしまって申し訳なかった。


「凡人が側に居ないと不安だったから必死に探した。でも、ちゃんと見付けられた」


 ニコッと笑った凛恋は、俺の頬をツンツンと指先で突く。


「萌夏に嫉妬しちゃうな。凡人に真剣に悩んでプレゼントを選んでもらえるなんて」

「俺は凛恋のプレゼントだって悩む」

「ありがとう。でも、それって凡人が私のことを真剣に考えてくれてるってことだから嬉しい。きっと萌夏もそうだから」

「凛恋……」

「それに決めたんでしょ? もう目がそれに決めたって目をしてる」

「ああ。持ってる物だろうけど、これが良い気がするんだ」

「うん。きっと萌夏も喜ぶ。黙って送ったらきっとビックリするよね。萌夏の喜んだ顔を見るの楽しみだな」


 クスクス笑った凛恋はそう声を弾ませて言った。




 次の日、真弥さんのおごりで焼き肉屋に来た俺は、右隣でグビグビとビールを飲む真弥さんを横目に見て小さくため息を吐く。


「私も凡人くんからプレゼントがほしいぃ~」

「……あげたでしょ」

「お土産のお菓子も嬉しかったけどー、他のも欲しいっ! 何かちょーだい?」

「じゃあ、俺が大事に育てた肉を――」

「この肉は元々私のだから~。いただきまーす」


 俺の言葉が言い終わる前に肉を箸で摘んでタレに漬け、真弥さんは口へ放り込んでビールと一緒に流し込んだ。


「そういえば理緒、あの話どうなったの?」

「どうなったって、断ったよ」

「ん? 何の話だ?」


 里奈さんと理緒さんの話に加わると、ニタァーっと笑った里奈さんがジュースを飲みながら理緒さんを視線で指す。


「理緒、告られたんだって」

「そっか。理緒さんはモテるし、告白もされ――」

「女から」

「…………はっ!?」


 俺の言葉が終わる前に付け加えられた里奈さんの言葉に、俺は思わず聞き返す。そして……すぐに稲築さんの顔が頭に浮かんだ。


「女子校ではよく居るって聞くけど、一ヶ月で五人から告られたんだって。しかも全員女」

「よく……居るのか?」


 俺は恐る恐る視線を理緒さんに向けて尋ねると、理緒さんは苦笑いを浮かべて肩をすくめた。


「男の人と付き合ってる子も居るけど、うちの大学には同性のカップルも居るみたい。多い少ないは分からないけどね。でも、私は凡人くんが好きだから男の人も女の人も断ってる」

「理緒。私の目の黒いうちは凡人は渡さないから」


 俺の皿の上に焼けた肉を置きながら、凛恋がキッと視線を尖らせて理緒さんに言う。それを受けて、理緒さんはニッコリ笑いながらまた肩をすくめた。


「凛恋のところも女子大でしょ? 告られた?」


 里奈さんの何気ない凛恋への質問に、俺は凛恋の隣で体を強張らせた。


「うちもそんな人達が居るって話は聞くけど、私の周りには居ないわよ。みんな、他の大学の人と合コンするとかで盛り上がってるし」

「そうなんだ。でも、凛恋は関係ないわよねー? 凡人くんが居るし」

「当たり前でしょ。私は凡人以外は女子でも男子でも恋愛対象外よ」


 凛恋の言葉が嬉しくて、つい俺はテーブルの陰で凛恋の腰に手を回して凛恋の体を引き寄せる。すると、凛恋もさり気なく座る位置を俺に近付けた。

 凛恋がちゃんと言葉にしてくれるから、凛恋が俺のことだけを好きで居てくれると確信出来る。凛恋が言葉にしなくてもそう信じているが、やっぱり言葉にしてくれるのとは違う。


「みんなと飲むお酒は美味しいな~」


 ゆらゆらふらふら揺れながら、真弥さんはご機嫌そうにビールを飲んでいる。あまり飲ませるといけないのだが、楽しそうにしているのを見ると止めるのも野暮な気がしてきた。




 焼き肉屋でご飯を食べ終えると、今日のところは随分飲んだ真弥さんのことも考えて解散になった。

 俺は背中に真弥さんを背負って歩き出すと、隣を凛恋が黙って歩き出す。

 街の通りは店々の明かりが道を照らしていて、空は真っ暗でも明るい。その道をただ黙って歩く。


 きっと凛恋は嫌なんだと思う。俺が真弥さんを背負って帰ることが。だけど、それを嫌だと俺に言うことが躊躇われて言葉にしないのだと思う。

 酔い潰れた真弥さんを放っておくわけにはいかない。それに一人で帰らせようものなら、変な輩に目を付けられる可能性だってある。それを心配するくらいなら自分でちゃんと送り届けた方が良い。


 そういう、俺のわがままを凛恋は黙って許してくれている。

 繁華街を離れて、見慣れた住宅街を歩き真弥さんの家を目指しながら視線を凛恋に向ける。すると、同じように俺の方を見ていた凛恋と目が合った。


「カラオケ行きたかったぁ~」

「まともに立てないのに無茶言わないで下さい」


 後ろから真弥さんが不満げな声で言って、俺は凛恋から視線を離して後ろを振り返る。


「春休みにもう二回はみんなと会いたいな~。次はカラオケに絶対行くから!」

「分かりました。またみんなにも話しておきますね。それと、萌夏さんに送る物のことも忘れないでくださいよ?」

「忘れるわけないよぉー! 大切な教え子のことだもん!」

「安心しました」

「切山さん、今頃はどうしてるのかな~?」

「フランスは日本より七時間遅いですから、今は午前中でスタージェを頑張ってますよ」

「そっか~。切山さんにも会いたかったなぁ~」


 背中の上で足をパタパタ振りながら空を見上げて真弥さんは呟く。


「また会えますよ。必ず」

「うん! 切山さんも頑張ってるんだから、私も頑張らないとね!」


 背中で暴れる真弥さんを落っことさないように支えながら俺も空を見上げようとする。しかし、視界の端には俺をジッと見つめる凛恋の顔が映り、俺はその凛恋の視線に自分の視線を合わせた。でもやっぱり、凛恋は一言も話さなかった。




 真弥さんを自宅に送り届けてすぐ、凛恋は俺の手を握って歩き出した。でも、それでも凛恋は一言も話そうとしない。

 方向は俺の家でも凛恋の家でもない繁華街に戻る方向に歩いている。もっと言えば、元来た道を引き返していた。


 静かだった住宅街から賑やかな繁華街に戻ると、凛恋は近くにあったファストフード店に迷わず入っていく。


「俺はホットコーヒーを飲もうかな。凛恋は何にする?」

「メロンソーダ」

「分かった」


 やっと凛恋が喋ってホッと安心してから、今度は俺が凛恋の手を引いてレジカウンターに行く。レジカウンターで店員さんに俺と凛恋の分の飲み物を注文して受け取ると、俺達は人の少ない二階の端の席に座った。

 正面に座った凛恋は、唇を尖らせてストローに吸い付いてメロンソーダを飲み、俺に視線を向けて口を開いた。


「絶対に露木先生、凡人におっぱい押し当ててた」

「……いきなりどうした」

「だって! 凡人の首に手を回してしっかり抱き締めてたし! 露木先生おっぱい大きいし!」

「凛恋、落ち着け。真弥さんの胸の大きさは全く関係ないだろ」

「大きくないとおっぱい押し付けられないじゃん!」

「俺に怒るなよ。それに、怒ってるポイントがよく分からなくなってるぞ」


 随分興奮しているようで、凛恋の言ってることは支離滅裂(しりめつれつ)になっている。でも、冷静になれないのは俺でも分かった。

 俺からすれば、凛恋が俺じゃない男の背中に背負われているのを横で見せられたということなのだ。冷静になれるわけがない。たとえそれが栄次や瀬名だとしても、多分に思うことがあるに決まっている。


「……分かってるのよ。帰る方向が私達と同じだし、凡人はたとえ逆方向でも女の人を一人で帰すような人じゃないってことくらい。でも……絶対に露木先生は凡人の優しさを利用して、私から凡人を奪おうとしてる」


 凛恋の手が、凛恋が瞬く間に飲み干したメロンソーダの入っていたカップを握り潰す。凛恋は物に当たるような子じゃない。そんな凛恋が、そういう行動に出たことに驚いた。


「露木先生は凄く良い人で大好きだけど――……」


 凛恋はそこで言葉を途切れさせて唇を噛む。そして、震える言葉を漏らした。


「露木真弥さんは凄く嫌な人で大嫌い」

「凛恋……」

「凡人に振られてるのに、涼しい顔で平気な顔で、凡人に好かれようとしてる。しかも、正当な方法もズルい方法も全部使って。悪い言い方をすれば見境がないって言うのかもしれないけど、そのなりふり構ってない感じが……本気で凡人を奪おうとしてるんだって分かるから……焦る」

「焦る必要なんてないだろ。俺は凛恋以外とは付き合わない。俺が好きなのは凛恋だけだ」


 俺は、凛恋が俺に言葉にしてくれたように、俺も凛恋へ言葉にする。たとえ分かり切っていることでも、凛恋も信じて疑わないと信じていることでも、俺は口にして凛恋へ確信させる。俺は凛恋だけが好きなのだと。


「……ごめんね。嫌な話聞かせて」

「彼氏だろ? それに、将来凛恋の旦那になるつもりなんだ。何でも話せるようにならなきゃいけない。……まあ、話せないことだってあると思うけど、出来るだけストレスになるようなことはぶつけ合わないと」


 俺は途中で言おうとした言葉を換えた。自分の言おうとしていることが、自分に矛盾を作ることに気付いたからだ。

 俺は、凛恋に言えないことを持っている。俺は、稲築さんが凛恋のことを好きだということを凛恋に隠している。だから、全てに置いてなんでも言わないといけないと言ってしまったら、俺は自分の言ったことを自分で破ってしまう。


「はぁ~、凡人にぶっちゃけたらすっきりした~」

「真弥さんを送る間ずっと黙ってたから、やっぱり嫌なんだとは思ってたけど」

「嫌に決まってるじゃん! 真横で凡人におんぶされながらおっぱい押し当ててるのよ? 平常心で居ろって無理に決まってるし!」


「胸は押し付けられて――」

「当たってたでしょ?」

「それは……」

「ペケ、一億」

「…………ごめんなさい」


 否定に被せられた追及につい口籠もり、俺はペケ一億の刑に処される。押し当てていたか単に当たっていただけかはさておき、実際に当たってはいたのだから男なら多少は意識してしまって仕方のないと思う。


「相手が露木先生じゃなかったらビンタして引きずり下ろしてるわよ。……はぁ~、ほんと手強すぎ。露木先生じゃなかったらガツンと、凡人に二度と近付くなって言えるのに……」


 慕っている真弥さんだからぞんざいに扱うことが出来ない。でも、凛恋にとっては恋敵であるから真弥さんの行動は看過出来ない。その二つの凛恋の気持ちが、凛恋を悩ませてしまっている。それは俺も同じだ。

 俺は凛恋の彼氏で、凛恋のことしか好きになれない。だから、俺は真弥さんの気持ちには応えられない。でも、だからと言って、俺の恩人でもあり友達でもある真弥さんを自分から遠ざける勇気も持てない。


「とりあえず、凡人からちゃんと言葉で私のことだけが好きだって聞けたしホッとした。このまま帰ってたら、きっと露木先生に凡人を盗られた夢とか見てたと思――……ッ!?」


 表情を柔らかくした凛恋は、ふと視線を下げる。その視線の先には、凛恋が自分の手で握り潰したカップがあり、それを見た途端に凛恋が顔を真っ赤に染めてなぜかテーブルの下に握り潰されたカップを隠した。


「……凡人、私こういうことしょっちゅうしてるわけじゃないから」

「何年一緒に居て、一年も一緒に住んでるんだぞ? それくらい分かってるって」

「ありがと……」


 シュンと小さくなった凛恋は、唇を尖らせてチラリと俺を見る。その凛恋の顔を眺めながら、俺はホットコーヒーに口を付けながら考えた。

 この流れで、稲築さんのことを言うべきだろうか? ……いや、言うべきじゃない。このまま、凛恋が知らない間に俺が稲築さんと決着を付けるべきだ。

 やっぱり、どんなに大切な人でも、いや……かけがえのない大切な人だからこそ言えないことだってある。稲築さんの話は、そういう部類の話だ。


「凡人」

「ん?」

「凡人の家とホテルどっちが良い?」

「あー、今日は爺ちゃん達居るしホテルにしよう」

「分かった~。ママにちょっと遅くなるってメールしとく」


 当然のようにそんな会話をして、スマートフォンを取り出して操作する凛恋を眺める。

 これだけあけすけに話す話なのかは分からない。世の恋人達も同じなのかもしれないし、俺達が特別なのかもしれない。だけど、あけすけに話せることが互いの信頼関係の強さを感じさせる。


 付き合っていない男女なら、余程互いが好き合っているか、互いに性に対して奔放な性格でなければこんな会話は成立しない。付き合っている恋人同士の男女でも、仲が深まっていなければこんな会話は出来ないと思う。


「ん? どしたの?」


 ふと視線を上げて俺を見た凛恋が首を傾げる。


「俺達は信頼関係の強い恋人同士になれてて嬉しいなって思って」


 首を傾げた凛恋に微笑みながら言うと、凛恋はニッと笑って答えた。


「当たり前じゃん。私世界で一番、凡人のことを信頼してる!」


 人の少ないファストフード店の二階席で、俺はそう言って満面の笑みを浮かべる凛恋の手を、テーブルの下から手を伸ばして握った。

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