【一七九《湯煙でゆったりと》】:二

 今日泊まる旅館の部屋に入った瞬間に、奥の大きなガラス窓から綺麗な山々が見える。

 山肌を覆う木々にはもう緑の葉が付いていて、今が春だと視覚から感じさせる。


「チョーヤバい……」


 靴を脱いで上がった凛恋は、感嘆した声を出しながらガラス窓へ近付いて行く。

 部屋の手前にセミダブルの大きなベッドが二台並んでいて、その奥には畳床の上にちゃぶ台と二脚の座椅子がある。

 和洋折衷(わようせっちゅう)という感じだが、外の景色が和の要素を強めて穏やかで落ち着く部屋の雰囲気を作っていた。


「こんな素敵な部屋で凡人とお泊まりなんて……私、幸せ過ぎでしょ……」

「俺も可愛い凛恋とこんな良い部屋に泊まれて幸せだ。夢じゃないかって疑いたくなる」

「大丈夫。ちゃんと凡人の手の感触が分かるから現実」


 凛恋の隣に立つと、凛恋がそう言いながら俺の手を握る。俺も柔らかくて温かい凛恋の手の感触を確かめて、今が現実であることを感じた。


「高校の時は二人きりで旅行とか夢のまた夢だったよね。凡人の家に泊まりに行ったりうちに泊まりに来てもらったり、それから家族旅行に行ったりすることが貴重だった」

「ロンドンに行った時は、二人してはしゃいだよな」

「そうそう。凡人と一緒に居たくて、強引にホテルの部屋を一緒にしてもらったよね」

「お父さんとお母さんにめちゃくちゃ申し訳なかったけどな」

「だって、凡人と一緒に居たかったから。ううん、凡人と二人きりで居たかったの」

「俺も凛恋と二人きりになりたかったから、凄く嬉しかった」


 高校の頃は当然別々の家に住んでいて、まるで無理矢理引き離されているような感覚で居た。ただ会うことに予定を立てないといけなくて、ただ会うことに了解を得なくちゃいけない。そして、会う場のほとんどが二人きりではない。そういうことが、余計に『二人きり』ということに俺達をこだわらせた。


「今なんて高校時代より重症。凡人が常に側に居ないと不安だし」

「そうなのか?」

「そーよ? それに、時々めちゃくちゃ不安になる。私のこと嫌いになっちゃったのかなって」

「そんなわけあるか」


 後ろから凛恋を抱きしめてすぐに凛恋の言葉を否定する。俺から凛恋を嫌いになるなんてことはあり得ない。


「だから、いっぱいイチャイチャしてほしいなー」

「分かった」


 振り返って俺を見上げる凛恋を見て返事をすると、凛恋が嬉しそうにはにかんだ。


「でも、無理はしないでね。凡人が元気なのが一番大切なんだから」

「ああ。凛恋も体調悪かったらちゃんと言えよ? また風邪を引かれたら困る」

「うん。でもね、私は凡人には全然無理してないよ。凡人と一緒に居ると、ちょっと張り切り過ぎることはあるけど」

「じゃあ、今日はのんびりしよう。とりあえず座るか」

「うん。あっ! お茶淹れるね」

「ありがとう」


 座椅子に座り、凛恋が備え付けの電気ポットを使ってお茶を淹れてくれて、ちゃぶ台を挟むように置かれていた座椅子を、わざわざ移動して並べて凛恋が隣に座る。


「凡人の隣取った!」

「俺と凛恋しか居ないだろ?」

「それでも凡人の隣を取った!」


 ニコニコ笑う凛恋は、俺の腕を抱きながら湯呑みから温かいお茶を一口飲む。


「露天風呂付きの部屋が安く取れて良かったね」

「ああ、時期外れじゃなかったら、貸し切り露天風呂にランクを下げてたところだ」

「でも、私は貸し切りの方でも良かったよ?」

「ダメだ。何処の男が入ったか分からない風呂に凛恋を入れられるか」

「流石に温泉掛け流しだから、新鮮なお湯だって」


 口を手で隠しながら可笑しそうに笑う凛恋は、そっと俺の口の端へキスをする。その凛恋のキスに応えるように、俺は凛恋の肩を抱いて唇を重ねた。

 静かな部屋の中、俺と凛恋が鳴らす音だけが響き、凛恋は目を閉じながらも甘えたようなキスを続ける。


 この唇を羽村さん、そして稲築さんが狙っていると思うと胸がよじれるほど締め付けられた。

 羽村さんは俺がシャットアウト出来るが、稲築さんはどうしようもない。


 俺は、稲築さんに腹が立っていた。それは凛恋を奪うと宣戦布告をされたこともあるが、稲築さんの行動が凛恋に対して不誠実だと思ったからだ。

 同性愛が難しいことは分かる。でも、凛恋は同性愛者ではなく、その凛恋に近付くために稲築さんは友達の振りをしているのだ。凛恋は稲築さんのことを大切な友達だと思っているのに……。


「んっ……はぁっ……やっば……凡人のキス、ズル過ぎ」


 凛恋が唇を離して大きく息を吸って吐くと、俺の手を握って視線をベッドに向ける。しかし、慌てた様子で首を振って両手で自分の頬を押さえる。


「ダメダメダメ! せっかくの温泉旅行なんだからもっとロマンチックに行かないと!」


 そう言って、凛恋は真っ赤で明るい笑顔で俺に小首を傾げる。


「凡人、お風呂入ろ?」

「ああ。せっかくの露天風呂だしな。ゆっくりと楽しもうか」


 俺が立ち上がると、凛恋が俺の手を繋いで俺と凛恋の分の着替えを持って脱衣室へ行く。


「着替えの下着見ないでね」

「見てないって」

「新しい下着だから、後で見せて、あ・げ・るっ!」


 ニタァーっと笑う凛恋は服を脱ぎながらニタニタ笑う。


「"後で"ってことは、後で何かするのか?」


 からかってきた凛恋をからかい返そうとすると、凛恋が目を細めて俺を見た。


「エッチするに決まってるじゃん。何のために温泉旅行に来たのよ」


 きっぱりそう言った凛恋に面食らって、俺は戸惑いながら首を傾げる。


「そ、そのために、きっ、来たのか!?」


 彼氏としてというか男としてはテンションが急上昇する言葉だが、いざストレートに言われると身構えてしまう。


「確かにエッチのためだけじゃないけどさ。私にとっては大切なことの一つなの」

「凛恋がそう言ってくれるのは嬉しいよ。でもなんだろうな、悪いことをしてるってわけじゃないんだけど罪悪感があるというか……」

「それは私もちょっと思う。高校時代、ママには知られてるって分かってても隠れてしてたしね。そのせいで、エッチが悪いことだって感覚が残ってるのかも。全然悪いことじゃないんだけどさ」

「まあ、凛恋の言うとおりだ。エッチ自体は悪いことじゃないんだよな」


 世の中でエッチをするということは、あまり良いことだと言われない。特に、俺と凛恋のような未成年で生活力が無い人に対しては厳しい。

 子供が出来た時に責任が取れるのか。そう言われれば、俺は自信を持って出来るなんて言えない。今の俺の収入は、レディーナリー編集部でのインターンで得た収入だけだ。そんな少ない収入で凛恋と、もし出来た場合の子供を養っていけるわけがない。そして、避妊をしているからと言って、ちゃんとしてると言えないことも分かっている。俺と凛恋で出来るようなコンドームでの避妊方法は、一〇〇パーセント避妊出来るという保障はない。


 だけど、それでも俺はエッチが悪いことではないと思う。長い時間を掛けて俺にこびり付いた倫理観が罪悪感を抱いても。


 少なくとも、俺と凛恋は互いを本当に好きで好きで堪らなくて、その結果の最上の愛情表現としてエッチをしている。だから、俺達はお互いに相手に対して真剣で真摯(しんし)だ。


 それだからと言ってなんでも許されるわけではない。でも、少なくとも、俺と凛恋は真剣な気持ちを持っている。それが、自分の中にある罪悪感に負けない気持ちを持てる理由になっている。


「凡人は初めての時からずっと変わらず優しいよね。慣れてきてたどたどしさがなくなっても、それはずっと変わらない。だから、私は凡人になら自分を任せられるって思えるの。そういう信頼感って、絶対エッチしてなかったら出来なかったと思う。エッチしてなかったら、凡人が一番人間が本能に素直になる時でも私を大切にしてくれる人って分からなかったから」

「凛恋、ありがとう」

「まあ、高校の頃から大人がエッチは悪だ、みたいな話をしてるのは違和感しかなかったけどね。大人達だってエッチした結果で子供が生まれて世の中が回ってるわけでしょ? エッチを悪いことだって言うのは、子供が悪いことをして生まれたって言ってるのと同じだし」

「そこまでは言い過ぎな感じもするけどな。やっぱり、子供が出来ることってことを考えて大人も止めるんだろ。人を一人育てた経験があるから、それがどれだけ大変で生半可な気持ちじゃ出来ないことだって分かってるんだと思う」

「そっか、そうだよね。うん、確かにそれはそうかも。やっぱり、凡人は私より頭良いししっかりしてるし、私を任せる人にピッタリ!」


 俺の言葉を聞いて頷き同意しながら、凛恋は俺の腕を抱いて微笑む。


「じゃあ、ちゃんとそのことを理解した上で、今日エッチしようね!」

「わ、分かった」


 結局するのか、なんて野暮なことは言わなかった。そんなことを言うのは無粋だし、そもそも…………俺だって凛恋とエッチしたいし。

 脱衣室で服を脱いで、引き戸を開けて露天風呂にでる。そこで、俺と凛恋は並んで立ち止まった。

 広い木製の湯船は温泉で満たされ、温泉の周りには滑らかに磨き上げられた石造りの床が広がる。左右は木製の仕切りで隠され、上は木目の綺麗な屋根で覆われている。しかし、正面だけは大きく開けていて部屋からガラス窓越しに見た山の景色が広がっていた。


「凡人、背中流してあげる!」

「ありがとう。俺が終わったら凛恋の背中も流すから」


 とりあえず湯船に浸かる前に俺と凛恋は体を洗い合って、体を洗い終わると手を繋いで一緒に湯船に浸かった。

 家の風呂とは比べものにならない広さの湯船の中で足を伸ばして座ると、思わず深く長いため息が出た。


「家の狭いお風呂も良いけど、広いお風呂もやっぱりいいよね。これならずっと入ってられそう」

「お湯の温度もぬるめだし、油断してのぼせないように気を付けないと」


 顔を見合わせて笑い合って、俺と凛恋は同時に正面に広がる山の景色に視線を向けた。


「今日は旅館に入ったら、お互いに会わないようにしようって希と話してたの。お互いに大好きな彼氏との時間を過ごそうって」

「俺は別に会っても良いと思ったけど?」

「凡人が良くても、私がダメなの。それに、希と栄次くんは二人きりでゆっくり出来る機会なんて本当にないんだから」

「そうだよな。遠距離だしな~」


 そう言いながら、俺は二人にそれを強いたのは俺だと思う。でも、その思いはすぐに凛恋の言葉で否定された。


「希と買い物に行った時にね、よく希に言われるの。凛恋、凡人くんと付き合ってくれてありがとうって」

「それはどんなお礼だよ」


 凛恋が言った希さんの言葉に笑って返すと、凛恋はニッコリと優しい笑みを浮かべた。


「お昼も、凡人は希と栄次くんのキューピットだって話したけど、それ、私より希が一番思ってるみたい。それにね、やっぱり希ってずっと男友達が居ない子だったから、男の親友ってのが凄く嬉しいみたい」

「まあ、希さんは大人しいしな」

「うん。それに、希に話し掛ける人ってほとんど……ううん、全員下心があるから。それで、刻季に進学した時には男嫌いになってたし」


 凛恋は温泉の中で、指を組んで俺の手を握り少し力を込める。


「当時の私は全然理解出来てなかった。確かに下心があるって分かる男は私も何人もあってたけどさ、当時の私は男ってそういう生き物だし仕方ないかって軽く考えてたことがあったの。それで、そのせいでいっぱい嫌な思いをして、希の気持ちが分かった。男って怖いな、気持ち悪いなって……」

「凛恋は何も悪くない。悪いのは、凛恋にそんな辛くて悲しい思いをさせた男だ。それに、そんな話を改めてしなくて良いだろ?」

「そうだけどさ、希が栄次くんって大切な彼氏を見付けられた話には切っても切り離せない話だから。そこまで思ってる希を凡人は変えたの。もちろん、栄次くん本人が真面目で優しいってことも重要なんだけど、あのカラオケで凡人が希に向けてくれた優しさが、希の男に対する印象を変えてくれたのは間違いない。希の親友としてそれは断言出来る。ありがとう。本当に信頼出来る大切な彼氏が居ることがどんなに自分の助けになるか分かるから、そんな存在を希に作ってくれた凡人に感謝の気持ちでいっぱい」

「希さんと栄次の努力の結果だって」

「もちろん二人の気持ちは大前提。でも、凡人のお陰なのは変わらないから、ありがと!」


 ピタッと頬を俺の肩に付けてもたれ掛かって来た凛恋は小さく息を吐く。


「すっかり凡人も一緒にお風呂入るの慣れたよね。初めは私の体見てドキドキしてばっかりだったのに」

「今もドキドキするぞ?」

「知ってる。いつもお風呂入ると胸とか足とか見てるし、私の体洗う時も手付きがやらしいし」

「やらしくはしてないだろ? 凛恋の体を傷付けないように丁寧になってるんだよ」

「ありがと。ちゃんとそれも分かってる。凡人はどんな時でも私に優しくしてくれるから」


 凛恋は俺から視線を外して、また視線を山へ向けた。




 夕食は山の幸と海の幸の合わさった豪勢なもので、野菜の天ぷらや新鮮な魚の刺身があり、凛恋と料理の感想を言い合いながら舌鼓を打った。

 外はもうすっかり暗くなっていて、街中のように明るくない旅館の周りは真っ暗で山の景色も見えない。

 カーテンを閉めて振り返ると、浴衣姿の凛恋がベッドに座って俺を見る。


「かーずと」


 凛恋は俺の名前を呼びながら自分の隣を手でポンポンと叩く。

 凛恋に呼ばれた俺が隣に座ると、凛恋はそっと手を握ってゆっくりと俺へ唇を重ねた。


「祭りの浴衣も華やかで綺麗だけど、その浴衣も落ち着いた柄で良いな。めちゃくちゃ色っぽい」

「嬉しい。凡人も浴衣着るとチョー色気出て格好良い」


 凛恋は浴衣の胸元から俺の胸に触れて、頬に細かくついばむようなキスをする。

 凛恋の胸元はしっかり浴衣を着ているせいで見えない。

 風呂に入る時から今日の下着は秘密にされていて、秘密にされているから余計に気になってしまう。


「凡人、そんなに下着気になる?」

「えっ?」

「食い入るようにここ見てるから」


 凛恋が自分の胸元を指差してニヤッと笑う。


「本当は誰にも見せたくないんだけどー。凡人なら特別に見放題だよ?」


 俺は凛恋に煽られた気持ちを抑え切れず、凛恋の浴衣に指を引っ掛けて胸元を開く。そして、胸元を開いて見えたブラを見て固まった。

 細かなレースが使われたブラ。しかし、それよりもインパクトがあるのはその色だった。

 黒。素材が良いのか光沢を放つそのブラをじっと見つめていると凛恋が俺の手首を掴んで胸に触れさせた。


「いつも白とか淡いピンクとかでしょ? だから、たまにはこういうのはどうかなっ――」


 思わず凛恋をベッドの上に押し倒してしまい、俺は上から凛恋を見下ろしてはだけた胸元に視線を向ける。


「良かった。凡人がチョー興奮してる」


 下から俺の頬を優しく撫でた凛恋は、俺の首に手を回して俺の首を抱き寄せ耳元で囁いた。


「下も見てみたくない?」

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