【一七九《湯煙でゆったりと》】:一

【湯煙でゆったりと】


 新幹線の座席に座って視線を横に向けると、ニコニコ笑った凛恋が正面に座る希さんに話し掛けた。


「希も大胆になったよねー。栄次くんを温泉に誘うなんて」

「だって、凛恋と凡人くんが温泉でお泊まりって聞いて羨ましかったから……」


 凛恋にからかわれて赤面する希さんは、チョコレート菓子を一粒手に取って口に放り込む。

 俺と凛恋は地元に帰るのを当初の予定より前倒しして、凛恋の提案で温泉旅館に一泊してから帰ることにしていた。それを凛恋が希さんに話したら、希さんも栄次も同じ旅館に泊まることになった。


 一緒の旅館と言っても部屋は別で、夕食も各部屋で食べるから別。それに温泉も部屋に付いた露天風呂に入ることになるから別。一緒になるのは、旅館の内外で遊ぶ時くらいになるだろう。


「年末年始にも会ったけど、やっぱり寂しくて。それに、こういう機会がないと一緒にお泊まり出来なさそうだし」

「まあ、確かに言い辛いよね。うちもママにしか言ってないし。パパは反対はしないだろうけど、寂しそうな顔するからさー」

「そりゃあ、大事な娘が男の子と二人きりでお泊まりって聞いたら、多少は思うところがあるんじゃない?」


 希さんが俺に視線を向けながら小さく笑う。高校時代から、希さんは俺に対しては容赦ないからかいを向けてくる。


「どうせ栄次と希さんも同じようなもんだろ? 昨日電話で栄次が、希さんが可愛い下着着るねって言ってくれたってテンション上がってたぞ」


 俺へ向けたからかいよりも強烈なネタを返すと、希さんは顔から湯気でも噴き出しそうなくらいに真っ赤に顔を染めた。


「栄次のバカ……」


 真っ赤な顔のままボソリと呟いて、希さんは恥ずかしそうに俯く。すると、凛恋がクスクス笑いながら俺の耳元で囁いた。


「私も希と一緒に可愛い下着買ったよ」

「……そ、そうか」


 凛恋の囁きに、俺は危うく弾けそうになった気持ちを抑えて必死に冷静を装う。

 凛恋が希さんと二人で出掛けるのはよくあることだが、まさかこの日のために下着を買うなんて思っていなかった。全く……めちゃくちゃ楽しみとしか言いようがない。


 栄次とは温泉旅館の最寄り駅で待ち合わせになっていて、栄次にとっては地元を一旦通り過ぎて来ることになる。しかし、栄次にとっては希さんと泊まり掛けのプチ温泉旅行が出来るのだから大したことではないのだろう。俺だって、凛恋と泊まり掛けの旅行と聞いたら、多少の遠回りくらい屁でもない。

 俺達を乗せてしばらく走った新幹線は、温泉旅館の最寄り駅で停車し、俺は凛恋と希さんの荷物を持って二人と一緒に降りた。


 今の時期は、温泉旅館があるような観光地は人の少ない閑散期(かんさんき)らしく人も少ない。

 実際、新幹線のチケットも閑散期料金で安くなっていたし、旅館の宿泊代も割引があった。通常時や人の多い繁忙期(はんぼうき)は、閑散期よりも料金が高いらしく、この時期に旅行に来たのは正解だったのかもしれない。

 人の少ないホームに降り立って、凛恋と希さんが駅の売店に走って行くのを追う。


「このキーホルダー可愛い!」

「凛恋、こっちも可愛いよ」


 お土産品を見て早速楽しそうに話している二人を眺めていると、後ろから肩に手を置かれた。


「俺の彼女をジロジロ見てるのはお前か」


 その声の主を振り返り目を細め、俺は視線の先で爽やかな笑顔を浮かべる栄次にため息を吐いた。


「早いな。さては始発で出てきたな」

「当たり前だろ? 希に一秒でも早く会いたかったんだから」

「だったら一秒でも早く会ってやれ。ほれ、希さんの荷物だ」

「サンキュー」


 栄次は希さんの荷物を受け取ると、お土産品を見ている凛恋と希さんに近付いて行く。その栄次の後ろを俺もゆっくり歩き出してついて行く。


「希!」

「栄次!」


 振り返った希さんはパッと明るい笑顔を向けて栄次を見る。その希さんに、栄次は俺に向けた笑顔より遥かに優しい笑みを希さんに向けた。

 再会を喜び合う二人の側からそっと離れた凛恋は、俺の隣に来て俺の腕を抱きしめる。


「希も誘って良かった。希も栄次くんと二人で泊まりたいだろうなって思ったんだ」

「凛恋はやっぱり友達思いで優しいな」

「だってさ、私が大好きな凡人と温泉旅行ってチョー嬉しいんだから、希も栄次くんと行けたら嬉しいじゃん?」

「そうだな。実際、栄次はめちゃくちゃ喜んでるし。特に、希さんから誘ってもらえたのが嬉しかったみたいだ」

「まあ、希にしては頑張ったよね。泊まりに誘うって」


 凛恋は口を手で隠しながらクスクスと笑う。


「私は全然頑張らなかったよ? ただ、ちょっとおねだりしてズルかったかなって思うけど」

「ズルくない。凛恋はもうちょっとわがままで良いと思うぞ」

「じゃあ、凡人には夜にもうちょっとわがまま言おうかな~」


 俺の腕に絡めた腕の先にある柔らかい手で俺の手を握りながら、凛恋はニタァーっと俺をからかう。そして、凛恋は俺から希さん達の方に顔を向けた。


「希! 栄次くん! 行くよ!」


 ニコニコ笑った凛恋が希さんと栄次に声を掛け、俺の腕を引っ張って歩き出す。

 チェックインまでまだ時間があることもあり、俺達は駅を出て周辺に広がる街を散策する。


 全国的に主要な温泉地というわけではないが、その知名度が下手に高くないことと閑散期という時期のおかげで、街全体がうるさくなく落ち着いている。人が多いところが苦手な俺は、人が少ないおかげでかなりリラックス出来た。


「う~ん! 空気が気持ち良い!」


 背伸びをした凛恋は、周囲に軒を連ねる店々を左右交互に見ながらゆっくりと息を吐いた。


「大学生は丁度閑散期のこの時期に春休みだからね。カズはインターンは大丈夫だったのか?」

「ああ。一応、俺の仕事はやってきたんだけど、な」


 何気なく尋ねてきた栄次に、俺は苦笑いを浮かべてそう答えた。

 俺は帆仮さんと共同で作っていた企画の企画書を仕上げ、古跡さんに提出して後は会議で通すか通さないかの判断を委ねるところまで来た。会議自体には、企画の立案者である帆仮さんが参加するから問題ない。しかし、帰省の際に小言ではないが、若干帆仮さんや他の編集さんに残ってほしいようなことを言われた。ただ、編集長である古跡さんに言われたのだ。


『学生の時に目一杯遊んでおきなさい。じゃないと、社会に出てからもっと遊んでおけば良かったって後悔するから』


 という言葉を言われ、編集長が許可することを帆仮さん達が止められるわけもなく、俺は長期休暇に送り出された。


「凡人って編集部で頼りにされてるから、凡人が抜けるとみんな困っちゃうみたい」

「やってることは雑用なんだけどな」


 誇らしげに栄次へ自慢する凛恋の後に、俺はそんな大したことではないと補足を付ける。すると、栄次はニコッと笑って凛恋を見てから俺に視線を向けた。


「相変わらず二人は仲が良いな」

「相変わらずって年始に会ったばかりだろ」


 からかう栄次に言い返すと、栄次の向こう側で希さんがクスクスと小さく笑っているのが見えた。彼氏彼女揃って俺をからかうのが好きらしい。


「凡人、温泉饅頭だって!」

「温泉って言うと温泉饅頭とか温泉卵とかよく聞くな」

「食べてみようよ!」


 甘い物好きの凛恋は、通り掛かった饅頭屋に寄って温泉饅頭を買う。栄次と希さんも一つずつ買い、俺達は四人並んで歩きながら温泉饅頭にかじり付いた。


「んっー! ホクホクでふわふわ! 美味しー!」


 温泉饅頭を食べた凛恋はご満悦で、心なしか歩くリズムがさっきよりも軽やかになった。


「栄次、始発でって凄く早起きだったんじゃない?」

「楽しみだったから早く来たかったんだ」


 栄次は俺と凛恋の方を気にしながらそう言う。別に「希に早く会いたくて来た」と素直に言えばいいものを、変に恥ずかしがるのは栄次の良くないところだ。だから、毎年恒例の真夏のすれ違いが起きるのだ。日頃から素直に思いを口にしていれば、希さんと栄次はなんのすれ違いも起きないのに。


「さっき言ってた、希さんに一秒でも早く会いたかったって話はどこ行ったんだ」


 素直じゃない上に俺をからかった栄次をからかうために言うと、希さんはニコニコと嬉しそうに栄次を見つめ、栄次は恥ずかしそうに希さんへ笑みを返した。


「凡人はやっぱり二人のキューピットね」

「キューピットは、こんな仏頂面してないでもっと可愛いだろ」

「そうやって照れ隠しするところが凡人の可愛いところじゃん」


 クスクス笑う凛恋に頬を指先でツンツンと突かれ、俺は反対側で顔を見合わせて笑う栄次と希さんに視線だけ向ける。


「凡人くんは正真正銘、私と栄次のキューピットだよ」

「そうだな。カズには俺達のピンチを何度も助けてもらってるし」


 希さんは真面目に言ってくれてるのだろうが、栄次の方は半笑いだからからかう気が見て取れる。まあなんにしても、栄次と希さんと、そして凛恋が楽しそうだから良かった。


「あ! 足湯じゃん! 足湯入ろ! 無料って書いてるし!」


 木造の四阿(あずまや)の横に、温泉マークの描かれた幟(のぼり)が立っていて、その幟に『無料足湯』と書かれている。

 凛恋は俺達の家計を握り始めて、無料とか割引とか特売という言葉に敏感になった。それは、凛恋がうちの家計を担当する時に「将来結婚した時のために今から練習しておきたい!」と言っていたことも理由だと思う。


 その真剣な表情と鬼気迫るような言葉は、可愛いとしか言いようがなかった。それは、凛恋も俺と結婚することをちゃんと考えてくれてるのだと伝わって、凄く嬉しかったのもある。それに、一生懸命、俺との将来のために動いて努力をしてくれていることが心底嬉しくて嬉しくて、堪らなく幸せだった。


「ほら! 凡人! 入るよ!」

「そうだな。少し足を休めるか」


 凛恋が無邪気な笑顔で俺の手を引っ張り、足湯の四阿まで駆けていく。

 街の中に設置されたその足湯に、俺は靴と靴下を脱いで足を浸ける。ふくらはぎの中程まで浸かるくらいの深さで、じんわりと足先から温まって気持ちが良い。


 俺は足を浸けながら、鞄からタオルを出して靴とタイツを脱ごうとした凛恋の腿に載せる。すると、凛恋がニィーッと笑って顔を近付けた。


「ありがと」


 凛恋の腿にタオルを置いたのは、靴とタイツを脱ぐ時に足を持ち上げて凛恋のパンツが見えないようにするためだ。それを察した凛恋がお礼を言ったのだが、凛恋の笑顔は俺をからかう時の笑顔だった。


「はぁ~……気持ち良い~」


 足湯に浸かった凛恋は、両手を上に伸ばして背伸びをする。そして、屋根の下から見える青空を見上げて微笑んだ。


「なんか、こんな良い天気にこんなにのんびり出来てると、チョー贅沢してるみたい!」

「まあ、一泊二日の温泉旅行だからな。日頃の生活よりは贅沢してるよな~」

「それもこれも全部、凡人のお陰!」


 俺が旅費の全額を持ったからか、凛恋は露骨に甘えた声でベッタリくっつく。その凛恋を見ていると、凛恋の後ろで栄次が申し訳なさそうな顔をして希さんを見ていた。


「栄次、私がどうしても栄次と行きたかっただけだから」

「でも、ごめんな。俺、バイトしてないから」

「気にしないで。私も、元々は栄次に会うためにアルバイト始めたんだし」


 今回の温泉旅行で、希さんに旅費を半額出させたことが気になっているらしい。

 栄次はアルバイトをしていないのだから、自分の分だけでも旅費を出せたのは凄いと思う。それに、別にお互い学生同士なんだから割り勘だって何の問題もない。


 俺だって割り勘は悪いものではないと思う。ただ、俺が旅費を凛恋の分までアルバイト貯金から出したのは、凛恋に見栄を張って褒められたかったからだ。

 ただ、栄次の場合は俺と同じように見栄を張りたいというわけではなく、どうやら俺と栄次自身を比べているらしい。


 俺は彼女の凛恋の分まで旅費を持ったのに、栄次は希さんの分まで持たなかった。そう、栄次は考えてしまうのだろう。全く、考える必要さえ無いことだが、それでも栄次は気にしてしまう。しかし、そんな栄次の男のプライドを、希さんは傷付けずに優しく包み込んでくれている。


 謝る栄次と謝らないで良いと言う希さん。その二人は、手を握り合って初々しい笑顔を向け合っている。俺達と同じで、付き合って四年になるのに、なんでそんなに初々しい雰囲気を作れるのか不思議だ。


「そういえば切山さんが帰ってこられないのが残念だな」

「萌夏さんはフランスだぞ? しかも、留学に行ったばかりじゃないか」


 栄次がふと萌夏さんの話をして、俺は小さくため息を吐く。

 製菓専門学校の課程でフランスに留学した萌夏さんは、インターネットのテレビ電話で話した時に、春休みに地元に帰る話をしたら「私も地元に帰りたい」と言っていた。


 ホームシックであるのは間違いないのだろうが、やっぱり高校時代のみんなで集まるというのを羨ましがっていた。しかし、そんなに簡単に帰ることが出来ない場所に留学したことは萌夏さんも分かっているから、本気半分冗談半分のような感じではあった。


 萌夏さんが日本に帰ってこられるのは、早くとも来年の年末という話だった。それは、同時に留学が終わる時という意味でもある。つまりは、萌夏さんは留学が終わるまで日本には帰ってこられない。


 それを知って、率直に寂しいと思った。萌夏さんはいつでも明るくみんなの会話を盛り上げてくれたし、同じく会話の盛り上げ役の里奈さんが居るとしても、萌夏さんが抜けた穴は大きい。いや、誰が抜けてもその抜けた穴は大きくなる。

 萌夏さん達が冗談で多野組なんて呼び方をしていたが、俺達の集まりはかなり絆が強くなった。


 里奈さんとは揉めたというか、微妙な関係になったこともあるが、今は大切な友達だ。時々、瀬名が男らしくないという愚痴の電話が掛かってくることもあるくらいの関係にもなった。


「萌夏はみんなで集まるの好きだから、凄い悔しがってた。冗談で日本に帰るって言ってたし」

「萌夏のコーヒーとケーキ、久しぶりに恋しくなっちゃった」


 凛恋と希さんはそう微笑み合い、フランスで頑張る萌夏さんを思う。

 俺も空を見上げて、見上げた空と同じ空の下に居る萌夏さんのことを考えて、ポッカリと心に空洞が空いたような寂しさを抱いた。

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