【一七八《守護者》】:二

 帆仮さんと二人で作った企画書は古跡さんがしっかり受け取ってくれた。しかし、俺と帆仮さんの企画が採用されるかは編集会議の結果次第になるらしい。

 そして、家に帰ってから企画の話を凛恋にすると、凛恋は唇を尖らせて俺を見る。


「へぇ~、帆仮さんと二人きりで仕事したんだぁ~。ふぅ~ん、へぇ~」

「なんか、予想してた反応と違うんだけど……。雑誌でモデルをやることになるかもしれないことには何もないのか?」

「ちょっとモデルとか憧れあるし、それに私は凡人のためなら何でもするし。それよりも、帆仮さんが美人なのが問題よ!」

「帆仮さんが美人かどうかは何も問題じゃないだろ」

「私の精神的に問題なの! ほんっと、凡人の周りには何でこんなに美人ばっかり寄り付くのよ。凡人は格好良いし性格も良いしチョー完璧だから仕方ないのかもしれないけどさ……」

「別に帆仮さんはインターン先の良い先輩ってだけだって。凛恋が心配するようなことは何もない」

「この前、下着の入った紙袋を持たされてた」


 ジトっとした目で凛恋に見られながら言われ、俺は先日のことを思い出して冷や汗を掻く。


「やっぱり見てたんだ」

「見てたわけじゃない。荷物を渡された時に、たまたま見えただけで!」

「帆仮さんのパンツとブラ見て興奮してたんだ」

「興奮なんてしてない! ただ気まずかっただけで!」

「興奮するなら、私のパンツとブラだけにしてよ」


 ぷくぅっと両頬を膨らませた凛恋は、俺の前にあひる座りをして俺の顔を下から覗き込む。


「でも、凛恋は帆仮さんの紙袋の中身は見てないだろ? 何で中身が下着だって分かったんだ?」

「ロゴマークが下着屋さんのだったのよ」

「ああ、なるほど」

「なるほど、じゃないわよ! 凡人は私だけでドキドキして興奮してれば良いの! 分かった?」

「いや、だから興奮はしてないって……」

「でも、ドキドキはしたでしょ?」

「まあ、それは下着の入った袋なんて持たされたら緊張はするだろ」


 プリプリ怒る凛恋に言い訳をしながら、俺は凛恋の体を抱き寄せる。


「凛恋、いじめないでくれよ」

「そうね。大好きな凡人のためにこのくらいで勘弁してあげる」


 凛恋に優しく頭を撫でられ軽く唇にキスをしてもらう。


「ありがとう」

「私がチューしたかっただけだし」


 頬を赤くした凛恋はギュッと俺を抱き返す。


「凡人~」

「ん~?」

「地元帰る前に、お泊まりしない?」

「お泊まり?」


 凛恋が下から上目遣いで見上げながら猫なで声で言う。

 俺が凛恋の言葉に首を傾げると、凛恋は俺から離れてノートパソコンを開き俺に見せた。


「凡人と二人っきりで温泉に行きたいなーって」

「そういえば、前に見たな」

「うん。でもね、タダってわけには当然いかなくて……」

「なるほど。凛恋がおねだりしてくれたら、全部予算を出しちゃうかもなー」


 ジッと俺を見つめる凛恋に、俺はいたずら心をくすぐられて聞き返してみる。

 凛恋は、春休みを利用して地元に戻る前に、二人で旅館に泊まりたい。しかし、それには当然宿泊費が必要ということになる。


 多分、凛恋は他の家と八戸家から貰っている生活費の中から出さないか? と言っているのだろう。しかし、凛恋が節約を色々考えて毎月余りを出してくれていると言っても、もしもの時のために使えるお金はあった方が良い。


「えっ!? せ、生活費の余りでって思ったんだけど?」

「生活費はもしもの時のために取っておく必要があるだろ? だから、凛恋が可愛くおねだりしてくれたら、俺のバイト貯金から出す。凛恋も、そんなに高くないところを選んでくれたみたいだしな」


 パソコンの画面に表示された旅館の宿泊費をチラ見してから凛恋に視線を戻すと、凛恋は俺の両手を握って俺の目をまっすぐ見つめる。


「凡人と一緒に温泉行きたい」

「俺も凛恋と温泉に行きたいから行こう」

「やった! じゃあ一緒に旅館を予約しよ!」


 ぴょんと体を跳ね上げた凛恋は、嬉しそうに俺と腕を組んでパソコンを操作する。

 嬉しそうに微笑む凛恋の横顔を眺めて、凛恋の笑顔が見られる幸福感を抱きながら、凛恋の笑顔が見られてホッとした。


 羽村さんはまだ、凛恋のことを諦めようとしない。

 毎日、俺は凛恋と一緒に買い物をしている。その時に必ずスーパーに居る羽村さんが凛恋に声を掛けられないように、俺はずっと凛恋の側に居てガードしている。それなのに、羽村さんは諦める気配はない。


 今までも、凛恋の彼氏が俺だということで凛恋を諦めないやつは居た。でも、最後は凛恋が俺以外の男を否定して、それで諦めていった。石川は粘り強かったというか、かなりしつこかったが、高二の修学旅行の一件で俺達とは関わろうとはしなくなった。しかし、羽村さんは凛恋が拒絶しても気にする気配がない。まるで、自分が拒否をされることは想定内のことであるかのように。


 実際、羽村さんは自分が拒否されることを想定していたのだ。自分で自分の良いところは諦めが悪いところだと言っていた。だから、ちょっとやそっとの拒否では、羽村さんが凛恋のことを諦める理由にならない。かと言って、凛恋に直接羽村さんに拒否する言葉を言ってほしいとは思わない。


 凛恋にとって羽村さんは恐怖の対象だ。そんな相手にわざわざ怖い思いをさせてまで話し掛けさせたくはない。だから、俺がなんとかしなきゃいけない。


「凡人、どの部屋が良い~?」

「ん? 凛恋が好きな部屋で良いよ」

「ダメよ。二人でちゃんと選ぶのも楽しいんだから! 部屋からの眺めはこっちの方が良さそうじゃない?」


 凛恋が俺の服を引っ張って楽しそうにパソコンの画面を指さす。俺はその凛恋の横顔を見ながら、頭の中にあった羽村さんのことを振り払うように消し去った。




 レディーナリー編集部でのインターンが終わって、凛恋の待つアパートに向かって足を進める。

 すっかり暗くなった夜空の下、静かな住宅街を通る道にはポツポツと街灯の小さな光があるだけで薄暗い。

 すっかり帰り慣れた道を歩いていた俺は、正面から歩いて来る人影に気付く。その人影がほんの数メートル先まで来て、街灯の明かりに照らされるとはっきりと顔が分かった。


「……稲築さん、凛恋と会った帰り?」


 俺は無視されるとは思ったが、出くわした稲築さんにそう声を掛ける。しかし、今日はいつもと違い、稲築さんは無視して俺の横を通り過ぎなかった。

 街灯の明かりに照らされたまま、稲築さんはジッと俺の目を見返す。


「男って最低」

「えっ?」

「凛恋から聞いた。凛恋に変な男が付き纏ってるって」


 その稲築さんの言葉を聞いて、凛恋が羽村さんのことを話したのだと察した。羽村さんのことを男という一括りに対して言われるのは良い気持ちはしない。しかし、羽村さんのことを最低と言ったのは納得出来る。俺も、あの人は最低だと――。


「貴方も最低。凛恋に付き纏ってる男と同じ」

「俺は――」

「凛恋が可哀想。こんな薄汚い男達に好かれて纏わり付かれて。綺麗で可愛い凛恋が穢される」

「俺は凛恋を大切にしてる。凛恋に付き纏ってる男と同じじゃない」


 やっぱり男嫌いなのか、稲築さんは一方的に男というだけで取り付く島もないように否定する。その否定を覆そうと、俺は正当な言葉を発した。その言葉は俺が自信を持って言えるし、凛恋自身だって認めてくれる言葉だ。


「男なんて女を性欲処理の道具としか思ってない」

「そんなことない!」

「そんなことある。世の中は女性を商売にしてる。雑誌のグラビアもそうだし、成人向け雑誌やアダルトビデオなんてその典型。性風俗店なんて男の醜い思考の結果の産物。男なんて全員性犯罪者予備軍の汚い生き物」

「稲築さんが男嫌いだからって、そこまで否定する必要はないだろう。それに、俺は凛恋が好きだし、凛恋も俺を好きで居てくれる。そのことで稲築さんに迷惑は掛けていないはずだ。俺は凛恋に稲築さんと友達を辞めてほしいなんて思わない。俺とは気が合わなくても、凛恋の友達は凛恋の友達だ。だから、仲良くしようとは言わないけど、無難に――」

「私は迷惑してる。凛恋に男が居るせいで」


 俺をジッと見ていた稲築さんの目がキッと鋭くなる。でも、その目から怒りの熱は感じず、ただ冷たい否定が鋭く俺を突き刺してきた。


「凛恋と別れて」

「なんでそんなことを稲築さんに言われないといけないんだ。俺は絶対に凛恋と別れたりなんてしない」


 怒りを見せない稲築さんの代わりに、俺は怒りを稲築さんに向ける。

 凛恋の友達だからと言っても、稲築さんの言葉は軽く聞き流せる言葉じゃなかった。

 なんの権利があって、俺に凛恋と別れろなんて稲築さんが言えるのだ。そんな権利、この世の誰も持ち合わせていない。


「凛恋は男が嫌い。だから、凛恋は男よりも私と居た方が良い」

「凛恋は確かに男が苦手だけど、俺と居る時は――」

「その自分は特別だって勝ち誇ってる態度が、ずっと前から嫌いだった。そうやって私の可愛い凛恋を穢してると思うと、身が引き裂かれそうなくらいに辛くて……腹立たしかった」


 俺は稲築さんの言葉に違和感を覚えた。

 なんだろう。嫌悪を向けられているのも憤りを向けられているのも分かる。しかし、それ以外のものも稲築さんが向けているように思えた。


「ただ凛恋を性の対象にしか見てない男の貴方よりも、女の私の方が凛恋を大切に出来る。だから別れて」


 稲築さんはそう言って俺を睨み続ける。

 それはまるで、恋敵に向けるような、憎悪に満ちた暗い視線だった。


「稲築さんは、凛恋のことを――」

「私は凛恋が好き。友達としてじゃなくて恋愛対象として」


 俺が恐る恐る発した言葉を遮り、稲築さんははっきりとそう言った。

 俺の嫌な予感は、感じた違和感は正しかった。


「男が嫌いな私なら、凛恋の苦しみが分かる。男と居ることがどれだけ苦痛なことか、男の貴方には分からない」

「凛恋は俺と居ることを苦痛だなんて思わない」

「凛恋は貴方のことを好きだと勘違いしてるから、苦痛じゃないと思い込んでる。でも、私には分かる。凛恋は無理を――」


 いつもは俺が稲築さんに無視される。でも今日は、俺が稲築さんの言葉を無視した。

 聞く必要なんてない。ただのたわ言に付き合う必要なんてない。凛恋は俺を好きで居てくれて、凛恋は俺と居る時は自然体になれる。俺がそう信じていればそれで良い。

 稲築さんの言葉には根拠がない。ただ自分が凛恋と同じように、男に対して良い印象を持てないというだけでの仮定に過ぎない。それにそもそも、凛恋ではない稲築さんの言葉では、凛恋の心の中を断言することなんて出来ない。


 俺は凛恋の待つアパートに向かって足を進める。でも、さっきよりもその足は焦っていた。

 今、凛恋は家に一人だ。それに、稲築さんは帰っているのだから凛恋には近付かない。でも……それでも不安で仕方なかった。

 アパートの建物が見えて短い階段を駆け上がった俺は、凛恋がきちんと戸締まりをしたドアの鍵を開けて中に入る。


「凡人おかえりー!」

「ただい――わっぷ!」


 部屋に入った瞬間に飛びついて来た凛恋が、俺の頬に自分の頬を当ててスリスリと擦り付ける。


「今日もお疲れ様!」

「ありがとう、凛恋」


 頬を離して顔の正面にある凛恋の顔を見ながら、凛恋の頬に手を添えて顔を近付ける。


「んっ……」


 凛恋は俺の顔が近付くのを見てそっと目を閉じる。そして、俺は凛恋とただいまのキスをした。でも、軽いキスではなく、ほんの少しだけ凛恋に甘えるキスをした。


「仕事場で何かあった?」

「いや……帰りに稲築さんに会って……」

「飛鳥……」


 俺は、稲築さんから言われたことをそのまま凛恋に言えなかった。だからきっと、凛恋はまた稲築さんから俺が無視されたと思ったのかもしれない。

 恋愛対象として凛恋が好き。そう言った稲築さんの言葉は、文字通り凛恋のことを恋愛対象として好きということなのだろう。


 自分で稲築さんの言葉通りのことを反すうして、それで混乱する。


 稲築さんの恋愛対象は男ではなく女性だった。つまり、稲築さんは同性愛者だった。

 俺は今まで同性愛者に会ったことがない。話では聞いたことがあるし、大抵の人が知っている程度の知識はある。でも、理解しているわけではない。


 俺は気持ちとしては同性愛者を許容出来るとは思う。ただ、俺は同性愛者じゃないから理解は出来ない。

 同性愛者の存在は否定はしないものの、同性を好きになるという感情は理解出来ない。だけど、稲築さんに関しては理解も出来ないし許容も出来ない。


 もし凛恋が、稲築さんから恋愛対象として好かれていると聞いたらどう思うだろう…………きっと凄くショックを受ける。稲築さんとは親しくない俺でも衝撃的だったのだ。仲の良い凛恋は俺よりも遥かに大きいショックを受ける。


 今、稲築さんは俺を凛恋の側から排除しようとしている。それは凛恋が俺のことを好きだと、稲築さん自身が理解しているからだ。だから、稲築さんは凛恋への想いを叶えるには俺を排除しなければならない、俺を排除することが大前提だと考えているはず。それなら、俺が凛恋から離れなければ良い。ただそれだけで、稲築さんは凛恋に何も出来ない。


 稲築さんだって、同性愛ということのハードルは分かっているはずだ。いくら社会的に認知されてきたとは言っても、世間的に数が少ない恋愛の形であるのは変わらない。だから、凛恋には自分が同性愛者とは告げずに友達として接しているのだと思う。

 俺が凛恋と別れずに凛恋の側に居続けたら、稲築さんは自分の想いを告げるチャンスを得られない。だったら、わざわざ凛恋に言って凛恋に嫌な思いをさせる必要はない。


「変に心配させてごめん。これまで通り無難にやるから」

「私こそごめんね。私の友達のことで凡人に嫌な思いをさせて……」

「さっ、買い物行って――」

「凡人、これからは毎日買い物行かなくて良いよ」

「えっ……」


 雰囲気を切り替えるために買い物に行こうとして、凛恋に言われた言葉に戸惑う。


「凛恋! 俺は凛恋と買い物に行くのは好きなんだ! だから全然面倒くさくないし、負担にも思ってない!」


 とっさに思ったのは、俺が仕事終わりに買い物へ行くのは疲れるのではないか? そう凛恋が考えて気を使ったということだ。でも、俺は凛恋と買い物に行くのは負担になんて思っていない。それに何より……羽村さんが凛恋に近付く機会を作りたくなかった。


「昨日行った時に、三日分の買い物をしてきたの」

「えっ?」

「凡人の言う通り、毎日来てもらうのは凄く凡人にとって負担だと思うから。でも買い物には一人で行きたくないし……。だから、まとめ買いして、買い物に行く回数を減らそうって。……あいつに会うのが嫌だからさ」

「凛恋、ごめんな…………ごめんっ……」


 凛恋が目に涙を浮かべてしがみつくのを見て、心が締め付けられるような辛さと悲しさと苦しさに襲われた。


「凡人は悪くないって何度も言ってるじゃん。それに私は凡人に感謝しかしてない。凡人が居なかったら、私は今ある楽しいことを何一つ楽しめなかったから。凡人が側に居ることで、私は心を救われてるの。それにさ、疲れて帰ってきて買い物に行って、それから……」


 凛恋は俺の顔を見上げて、涙が残った目で微笑む。


「買い物から帰ってきてご飯食べてお風呂入って寝て、を毎日繰り返してたら凡人の体が保たないわよ。私は、私のせいで凡人が辛くなったり苦しくなったりするのは絶対に嫌。凡人にはいつも元気で笑って側に居てほしいから」


 凛恋はそう言って、またギュッと俺を抱きしめる。

 誰がなんと言おうと、何が遮ろうと、凛恋は俺のことを好きで居てくれる。凛恋は俺のことを大切にしてくれる。

 だから、というわけじゃない。でも……。


 俺は誰がなんと言おうと、誰に遮られようと、俺は凛恋のことを好きで居る。凛恋のことを世界で一番大切にする。


 そして、何が何でも、俺が凛恋を守る。

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