【一七七《自信家と劣等者》】:二
「多野くん、ごめんね。立ち聞きするつもりはなかったんだけど……羽村さんに連れて行かれるのを見て心配になって」
「いや、聞かれて困るのは俺じゃなくて羽村さんの方ですから」
どこからどこまで帆仮さんが聞いていたかは分からない。でも、俺に気まずさを感じるくらいの内容は聞いていたというのは分かった。
「隣に座って良い?」
「どうぞ」
帆仮さんが座りやすいように横にずれながら答えると、帆仮さんはゆっくりと俺の隣に腰を下ろす。
「私、羽村さんって結構苦手なんだ。直接話したことはないけど、雰囲気が独特でしょ? それに性格も結構自己中みたいだし。文芸編集部は羽村さん一人に振り回されてるって話も聞くし」
「でも、結果は十分出してますからね」
「うん。あれが一人で二人分くらいまでなら文句も言えるんだろうけど、一人で一編集部以上の仕事をしてるからね。文芸編集部の編集長も文句は言えないし、その上も同じみたい」
「まあ、実力社会ですから、どうこう言ったって結果が全てですよ」
「でも、私はあの人と仕事したくないな。私は、今のレディーナリーみたいにみんなで一つの雑誌を作るってスタイルが好きだから。羽村さんみたいに、自分一人で、みたいな仕事をする人とは一緒にやりたくない。……多野くんの良いところは仕事が出来るところ。でも、羽村さんと違ってみんなの仕事をやりやすくしながら仕事が出来るところだよ」
「帆仮も良いことを言うわね」
俺と帆仮さんの前に缶コーヒーが置かれ、正面のソファーに微笑を浮かべた古跡さんが腰を下ろした。
「経営側から見ると、羽村は一人で一〇〇〇の仕事が出来る人間だとすると、多野は一人で一五〇の仕事が出来る人間。だから、間違いなく経営側としては多野より羽村の方が重要。でも、一緒に仕事する私達の立場から見たら、二人は全く違うのよ」
「経営側と一緒に仕事する立場からの違い、ですか?」
「そう。私達からしたら、羽村は一〇〇〇の仕事が出来て、他人の仕事効率を一〇〇落とす人間。対する多野は、二〇〇の仕事が出来て周りの仕事効率を一〇〇上げる人間。帆仮が言ったみたいに、多野と仕事をするとみんな自分の仕事がやりやすくなる。うちみたいに全員で一つの雑誌を作ってるような編集部は、いくら自分の仕事は一〇〇〇出来ても他の仕事を遅らせるような人間はいらない。ただ邪魔なだけよ。ただ、文芸編集部みたいに一人の担当が複数の作品を扱うような部署は、一人で捌ける仕事量が格段に多い羽村みたいな人間は喉から手が出るほどほしい」
そう言った古跡さんは缶コーヒーを開けながら言う。
「つまり、人には適材適所があるってこと。多野はうちの編集部に適してる人材ってこと。まあ、女の中に男一人っていうのは多野には辛いかもしれないけど」
「いえ、毎日楽しくやらせてもらってます」
「それなら良かったわ。それにしても、多野は結構マイペースで他人と自分を比べずに仕事をする性格だと思ってたけど、羽村と比べるなんてね」
帆仮さんと違って俺と羽村さんの話を聞いていなかったようで、古跡さんは俺が仕事の出来で羽村さんと自分を比べたと思っていたらしい。
「多野くんは、仕事で比べたわけではないんですよ。羽村さんが、多野くんの彼女を盗るとか言ってました。それで、黙ってられなかったんだと思います」
俺の隣に座っていた帆仮さんが、ムッとした表情で缶コーヒーを開けながら、正面に座る古跡さんへ唇を尖らせて言う。それを聞いた古跡さんは、表情は変えなかったが、目から伝わる感情がスッと冷たくなった。
「そういうこと。それなら、多野が羽村と比べる理由になるわね。でも、その点は心配しなくて良いわ。八戸さんは、人の年収や仕事でコロコロ男を変えるような子じゃない。まあ、そういうのは多野が一番分かってると思うけど」
「はい。でも、凛恋と俺が買い物するスーパーに羽村さんが毎日居て、凛恋が怖がってるんです」
「「はぁっ!?」」
俺がため息混じりに発した言葉に、古跡さんと帆仮さんが同時に同じ声を吐き出す。その声は、どちらとも不快感が露わになっていた。
「気色悪。あり得ないわ」
背もたれに背中を付けた古跡さんがそう吐き捨てる。
「買い物するスーパーに毎日居るってストーカーじゃない。何かされなかった?」
「凛恋は男性が怖くて、知らない男性とはまともに話は出来ないんですけど、凛恋が買い物をしてる時に羽村さんから声を掛けられそうになって。それで凛恋が安心出来るように毎日買い物について行ってるんですけど、それでも羽村さんは毎日買い物先のスーパーに居て。スーパーを五箇所変えても何日後かには必ず居るんです。それで、彼女が怖がってるから止めてくれって言ったんです」
「それで、多野から八戸さんを盗るとか言ってるの? 良かったわ、そんなのと同じ部署じゃなくて」
古跡さんは自分の体を抱いてブルリと身を震わせる。
「居るんですよね。女は押しに弱いから強気で行けば何とかなるとか思ってる人って」
「羽村の場合、仕事で評価されてる分の自信が上乗せされてるのよ。多野、安心しなさい。八戸さんは一〇〇パーセント羽村にはなびかないわ。好きでもない男から好きだ好きだ言われても、印象が良くなるどころか悪くなるだけよ」
「凛恋の気持ちがぶれることは心配してないんです。ただ、凛恋に怖い思いをさせたくなくて」
「そうよね……。分かった、私に任せておいて」
「いや、私事で古跡さんに迷惑を掛けるわけには」
俺が腰を浮かせて両手を振ると、古跡さんは首を振って否定する。
「多野には亜弓奈を助けてもらったし、私の方が私事で迷惑を掛けてるわ。大丈夫、そのうち羽村とは会わなくなるから」
古跡さんはそう言って、ニッコリと笑顔を浮かべる。
いつもなら、古跡さんがそう得意げに笑う時は、仕事のピンチを切り抜けられる前触れで頼りになる。でも、今の笑顔を見て俺は、いつものような安心感を抱くことは出来なかった。
月ノ輪出版の新年会から数日後、ある日突然、羽村さんは買い物先のスーパーに現れなくなった。
その理由は、俺と凛恋が買い物をする時間に、羽村さんに仕事が入ったからだ。
古跡さんと文芸編集部の編集長は、部長繋がりで話す機会があったらしい。そこで、羽村さんが凛恋に付き纏っていることを話してくれたらしく、文芸編集部の編集長が仕事の時間を調節してくれたらしい。
やり手編集者の羽村さんは担当作も多く、部単位の編集会議だけでは収まらず、羽村さんの担当作だけの編集会議というものが存在するらしい。その時間が、俺と凛恋が買い物をしている時間に被った。
買い物をする時に羽村さんを見掛けなくなり、凛恋は前と同じように笑顔で買い物をするようになった。ただ、俺と凛恋が必ず一緒に買い物をすることは続けている。
元々は一緒に行っていたし、凛恋が羽村さんを見掛けなくなってからも「凡人と一緒が良いな~」と甘えた声で言ってくれた。それだけあれば、一緒に行かない理由はない。
今日も仕事が終わり次第、凛恋と一緒に買い物へ行く。今は、帰りの時間に間に合わせるために仕事をこなしてやっと仕事が終わったところだ。
「今日は定時に帰れる~」
両手を上に伸ばして背伸びをした帆仮さんは立ち上がり、俺の両肩に手を置いてニコニコ笑う。
「多野くん、奢るからコーヒー一緒に飲もー」
「ありがとうございます」
ニコニコと機嫌の良さそうな帆仮さんに背中を押されて編集部を出て、廊下の先にある自販機コーナーに向かう。
編集者は多忙で、ほとんど定時で帰れることなんてない。上手く仕事の配分や進み方が噛み合った時に、時々定時で帰れる日が訪れる。帆仮さんにとってのその日が今日だったらしい。
「定時に帰って何するんですか?」
「ご飯食べてお風呂に入ったら寝るよ。平日にたっぷり寝られる日なんてないから」
「まあ、編集者は大変ですよね。毎日遅くまで」
「多野くんが毎日残ってくれると、もう少し私の睡眠時間も――」
「帆仮、インターン生の多野に頼り過ぎ。少しは自分でも効率を上げるように努力しなさい」
「す、すみません」
先輩の編集者に笑いながら言われた帆仮さんは、身を縮めて弱々しく謝る。
「でも、良かったわね。良い後輩が出来て。先輩として、ちゃんと面倒見なさいよ」
「任せて下さい」
手を振って去っていく先輩編集者に胸を張ってそう言った帆仮さんは、俺を振り返ってニコッと微笑んだ。
「多野くんは何飲む?」
「帆仮さんと同じやつでお願いします」
「はーい」
帆仮さんがボタンを押すと、自販機の取り出し口に二本の缶コーヒーが落ちてくる。
「はい」
「ありがとうございます」
帆仮さんから缶コーヒーを受け取ると、帆仮さんが開けるのを待って俺も缶コーヒーを開ける。
「今日目一杯休んどかないと、明日からまた忙しいからなー。多野くんにも、そろそろ読者からの質問に答えてもらわないといけないし。今回も、毒舌回答よろしくね」
「いや……毒舌のつもりはないんですけどね」
帆仮さんに肩を叩かれながら頼まれ、俺は苦笑いを浮かべた。
「あっ……」
笑っていた帆仮さんは、廊下の奥を見てそう声を漏らしながら目を細める。その帆仮さんが見ている廊下の奥からは、カジュアルファッションの羽村さんがゆっくりと歩いてくる。
「今度も答えやすい質問を選んで下さいね」
俺は羽村さんから視線と意識を逸らして、帆仮さんとの会話を再開させる。それは、俺も意識しないようにという意味もあるが、帆仮さんにも気にしないようにと言うメッセージを込めるためだ。
「あっ、君」
会話を再開させた俺の目の前を通り過ぎようとした瞬間、羽村さんは俺の前で立ち止まって俺に視線を向ける。
「そこまでして俺を排除したい?」
「は?」
缶コーヒーを片手に、俺は羽村さんの言葉に首を傾げる。
「編集会議を古跡編集長に言って、編集長経由でずらさせただろ?」
「いや、俺は何もやってませんけど」
「だったら、どうして急に午前で良かった編集会議が午後の定時後になるんだ?」
羽村さんは顔に笑顔は当然浮かべていないが、怒りも浮かべていない。しかし、語調は強く心の奥底で沸々と煮えたぎった怒りを感じる。
「俺は何もしてません」
「そうか。でも、この前も言っただろ? 俺の良いところは諦めの悪いところなんだ。さっき役員に話をして来たよ。仕事を頑張って結果も出した上で定時で帰ろうとしてるのに止められるって。そうしたら、役員から文芸編集長に話してくれるそうだ」
羽村さんは俺にそう言ってニッコリと笑った。
「俺と勝負しようか。君の彼女がどっちを選ぶか。それとも――」
「勝負する必要はありません。凛恋は俺しか選ばないので」
「そう言いながら必死だろ? 毎日買い物について回って、その上、インターン先にプライベートなことで迷惑を掛けている。はっきり言うけど、君、社会人として失格だから」
「そう言う羽村さんは人間として失格でしょ!」
睨み合う俺と羽村さんの間に、帆仮さんが割って入る。しかし、羽村さんが小さく笑った。
「君は誰だっけ? 関係ない人は黙っててくれるかな?」
「多野くんはうちの部の大切な後輩です。あなたのせいで多野くんが辞めたら、その責任を取れるんですか?」
「インターン生くらいいくらでも居る。ごめん、今日は久しぶりの定時だから。帰りに買い物もしないといけないし」
羽村さんは俺にチラリと視線を向け、俺に背中を向けて廊下を歩き出す。
「……何なのあいつ」
隣から、帆仮さんの苦々しい声が聞こえる。しかし、俺はすぐに缶コーヒーの空き缶をゴミ箱に入れて帆仮さんに頭を下げた。
「帆仮さん、コーヒーご馳走様でした」
「うん、また明日。あいつの言葉なんて気にしちゃダメだよ」
「はい。ありがとうございます。お疲れ様です」
俺は急いで編集部に踵を返してタイムカードを押し、その勢いのまま出版社を飛び出す。
俺の足は、ただ一刻も早く凛恋の側に行くためだけに、薄く曇って黒灰に染まる夜空の下を走った。
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