【一七七《自信家と劣等者》】:一

【自信家と劣等者】


『ネットで検索してみたけど、かなり出版業界じゃ有名な人だな』


 耳にスマートフォンを付けながら、俺は電話の向こうから聞こえる栄次の声に小さく息を吐いた。


「二二歳の入社から担当作が全部一〇〇万部越えらしい」

『それで凛恋さんをナンパして来たのが、そのやり手編集者だったってことか。カズ、そんなこと気にする必要はないだろ。凛恋さんの彼氏はカズなんだぞ? それに、凛恋さんがそんなことで男を選ぶような人じゃないってカズが一番分かってるだろ』

「もちろん分かってるって。でも、毎日居るんだ。時間をずらしてみたけど、何日後かには居るんだよ」

『少しずつ時間をずらして、凛恋さんが居る時間帯を探してるのかもな。……凛恋さんは?』

「嫌がってるし怖がってる。本当に迷惑だ。…………はぁ~」


 俺は洋室の床に座って電話をしながら大きくため息を吐く。

 あれから羽村さんは変わらずスーパーに居る。そして、毎日声を掛けるようなことはせずに、ただ凛恋の方を見ている。


 ただ見ているだけでも、知らない男から見られるのは凛恋にとって恐怖でしかない。しかも、毎日同じスーパーでというのは、付きまとうストーカーを連想させてしまう。


『行くスーパーを変えるのは?』

「もう五軒目だ……」

『五軒も変えて付いてくるのか!? それって、完全に付き纏われてるだろ。警察に相談した方が良いんじゃないか?』

「警察に言ってもダメだった。ただ居るだけじゃどうしょうもないって……」

『そうか……声を掛けてくるわけじゃなくて、ただ買い物してるだけだもんな……』


 栄次は困ったように言葉を発する。

 栄次が言ったように、明らかに付き纏われている。でも声を掛けてくるわけでもなく、ただ店に居合わせているだけだからどうしようもない。でも、たまたまなんてことはあり得ない。店を変えて早くて三日後には同じスーパーに居る。それを偶然という言葉で片付けられるわけがない。


『でも、その羽村って人と会うのは買い物の時だけなんだろ? それに、他の時は凛恋さんも希か大学の友達と一緒に居るし』

「そうなんだけどな。それでもやっぱり気になるんだよな……」

『それは、そうだよな……』


 励ましてくれた栄次だったが、俺の吐いた言葉に同意して言葉を萎ませる。

 もし、羽村さんの行動が更にエスカレートしたらと考えると、胸の奥がキリキリと痛む。

 俺は心配し過ぎなのかもしれない。でも、やっぱり心配するなというのは無理だ。

 凛恋だけじゃなく、俺もストーカーの醜悪さを知っている。だから、あのどす黒く汚らしい悪意に凛恋が晒されるなんてことはあってはならない。


『でも、カズなら凛恋さんのことをちゃんと守るだろ。俺はカズが居るなら心配ないと思うぞ』

「栄次も凛恋も俺を過大評価し過ぎだ」


 何があっても凛恋は守る。その覚悟はある。でも、覚悟があればなんでも完璧にこなせるわけじゃない。

 実際、高校の頃のストーカーに対しても、俺は何も出来なかった。警察に頼らなければ、凛恋を安心して生活させられなかった。

 精神的には、俺が側に居ることで凛恋を安心させられていたのかもしれない。でも、精神的にだけではダメなのだ。現実にある凛恋の不安の根源から絶たないといけない。


「栄次、忙しいのに悪かったな」

『何言ってるんだよ。カズの相談だったら夜中に掛かって来たって大丈夫だ。カズは俺の親友で、俺と希の恩人だからな』

「ありがとう。また何かあったら電話する」

『ああ。何もなくても電話しろよ』


 電話を終えて真っ暗になった画面を見て、俺の情けない顔が映る。

 ベストセラー連発のやり手編集者と、社会的に批判の的にされた大学生。その二人を比べる必要も意味もない。でも、どうしても比べてしまう。

 社会的地位、経済力……男としての価値。そんな言葉を頭の中に並べて、気分が落ち込む。社会的地位も経済力も、俺は羽村さんに――。


「ウワッ!」


 ふと視線を前に向けたら、しゃがんだ凛恋の顔がすぐ目の前にあった。それで驚いた俺が身を仰け反らせると、凛恋が離れた俺に顔を近付けて唇を尖らせる。


「凡人がその顔する時は、凡人に良いことなんてないから嫌だ」

「そんな変な顔してるか?」


 俺がそう聞き返すと、凛恋は表情を険しくして俺の体を正面から抱きしめた。


「私のこと心配してくれてありがとう。でも、私は凡人にそんな辛そうな顔してほしくない。それが、私のせいだなんてもっと嫌だ」

「凛恋のせいなんかじゃ……」


 凛恋は俺の両腕を掴み、すぐ目の前で揺らめく二つの瞳で俺の顔を見上げた。


「凡人は優しいから私のこと凄く心配してくれて……それで……悩んで辛くなって……私のせいで……」

「凛恋のせいなんかじゃないって言ってるだろ」


 凛恋をしっかり抱きしめ返しながら、俺は凛恋に言い聞かせるようにはっきり言う。

 凛恋は当然悪いなんてことはない。それに、俺自身も悪くなんてない。悪い人が居るとすれば……いや、悪い人は羽村さんだ。


 一度無視された相手がスーパーを変えても、そのスーパーを探し出して同じスーパーで買い物をするなんて異常だ。たとえ話し掛けることをしないとしても、付き纏っているのは事実だ。

 なんとかして、羽村さんを凛恋から遠ざける。俺は凛恋の体を強く抱き返しながら、心の中でそう決意した。




 月ノ輪出版の新年会。

 ホテルのパーティー会場を貸し切って行われたその新年会に、俺はレディーナリー編集部の一員として参加していた。

 俺が参加したいと言ったわけではなく、古跡さんに「編集部全員で参加する決まりになっているから」と誘われた。でも、それは運が良かった。


 レディーナリー編集部で働いている俺は、羽村さんが所属する文芸編集部とは関わりが薄い。いや、全く関わりがない。だから、同じビルで働いていても話す機会なんてなかった。しかし、この新年会には文芸編集部の羽村さんも参加する。


「多野くん、遠慮せずに食べなよ」

「はい」


 帆仮さんに並べられた料理を勧められるが、俺は料理に手は付けずに視線をパーティー会場の端に居る羽村さんに向けた。

 羽村さんはやはり有名人だからか、周囲には常に人が居る。その人は入れ替わりはするものの途切れることはなく、羽村さんに話し掛けるタイミングが未だない。


「多野も羽村と話したいの?」

「古跡さん。ええ、まあ」


 俺は後ろから話し掛けてきた古跡さんに上の空で答える。今、羽村さんの周りに居る人達とは、絶対に俺が話したい理由は違う。俺は羽村さんに興味があるわけじゃない。羽村さんに文句があるだけだ。

 俺の彼女に付き纏うな。そう言って、凛恋の周囲に近付かないように釘を刺しておきたいだけだ。その目的さえ達成すれば、あとは高そうな料理を楽しく食べられる。


 俺がジッと羽村さんの方に視線を向けていると、周囲の人達と談笑していた羽村さんの視線が俺に向く。すると、羽村さんは周囲に集まっていた人達に軽く頭を下げて歩き出す。

 ゆったりと余裕のある歩調で歩いてきた羽村さんは、俺の後ろに居た古跡さんの前に立って頭を下げた。


「古跡編集長、こんにちは」

「こんにちは。文芸が女性誌の編集に話し掛けると目立つわよ?」

「ジャンルで優劣を付ける人間ではないので」

「そう。私は一度、羽村に本を一〇〇万部売れる売り方を聞いてみたいと思ってたのよ」

「よく聞かれるんですけど、私は面白いと思った物を世に出してるだけなので、イマイチ売れる売り方って言うのは分からないんですよね」


 古跡さんと羽村さんの会話をすぐ近くで聞いていると、羽村さんが俺に一度視線を向けてまた古跡さんに視線を戻す。


「若いですね」

「うちのインターン生。かなり優秀よ?」

「古跡編集長は厳しいって話ですから、その古跡編集長が褒めるなら相当な人材ですね」

「引き抜こうとしたってそっちにあげないわよ?」

「私には作家を拾い上げる権限はあっても、会社の人事をどうこう出来る権限はありませんよ」


 朗らかな笑顔を浮かべる羽村さんは、また俺に視線を向けて古跡さんに言った。


「古跡編集長の褒める人材に興味があるので、少しだけお借りして良いですか?」

「仕方ないわね。すぐに返しなさいよ?」

「はい。少し良いかな?」


 古跡さんに頭を下げた羽村さんは、俺に落ち着いた声で話し掛ける。


「はい」


 俺は羽村さんの申し出に短く返事をして、前を歩く羽村さんを追い掛ける。

 向こうから話し掛けてくるとは思っていなかった。しかし、向こうから話し掛けてきたということは、羽村さんも俺の存在に気付いていたのだ。

 パーティー会場を出て、ホテルの通路にある休憩スペースで、羽村さんは柔らかそうなソファーの上に腰を下ろした。


「君も座って」

「失礼します」


 俺は羽村さんの正面にあるソファーに座り、背筋を伸ばして羽村さんの目を見返した。


「スーパーで見掛ける時と同じ目をしてるね。よっぽど俺のことが嫌いなのか」

「すみません。彼女が怖い思いをして、羽村さんはその原因になった人なので、つい」

「俺は声を掛けようとしただけなんだけどな」

「それが怖かったと言ってるんです。それに、こっちがスーパーを変えても付き纏って来られるのも怖がってます」

「そうか。でも、こっちも簡単に諦めたくないんだよね」


 表情は曇って罪悪感を見せている。でも、言った言葉からは反省を感じなかった。


「俺、昔からモテなかったけど、彼女は居たんだ。なんでか分かる?」

「意味の分からない話で話題をすり替えないで下さい。こっちは迷惑してて――」

「諦めが悪かったんだよね。昔から」


 羽村さんは、苦笑して背もたれに寄り掛かって小さくため息を吐く。


「中学一年の頃、好きになった女の子に告白したら根暗とは付き合いたくないって言われたんだけど、諦めずにアタックし続けたんだ。そしたら、そういう積極的なところを認めてくれて付き合ってくれたんだよ。その後も、付き合った彼女はそういう諦めの悪さを良く思ってくれて付き合えた子ばかりだった。大学二年の時は、当時、大学で一番美人だった先輩と付き合ってた」

「俺は羽村さんの自慢話を聞きたいわけじゃないんです。彼女は迷惑してるんです。だから、彼女の周りを――」

「それは無理だな。俺、彼女のこと好きだから」

「なっ! 怖がらせておいてそんな抜け抜けと!」


 羽村さんの言葉に俺は思わず立ち上がって声を荒らげる。その俺を、羽村さんは冷ややかな視線で見上げた。


「落ち着きなよ」

「落ち着けるわけないでしょ! 彼女を怖がらせてる人に諦めずに付き纏うって言われてるんですよ!」

「彼女を初めて見掛けたのは、一ヶ月くらい前かな。俺は挨拶から始めようって思ってたんだけど、彼女目も合わせてくれなくて。挨拶出来る雰囲気もなかったよ」


 俺の話を無視してまた関係ない話をする羽村さんは、俺を見て笑った。


「話をしようとしても無視されてしまったけど、また頃合いを見て話し掛けるつもり。きっと仲良くなれると思うし、俺の良いところもそれから分かってもらうから」


 羽村さんはそう言うと、ソファーから立ち上がって俺に視線を合わせる。そして、笑いのない真剣で鋭い視線と言葉を俺に突き刺した。


「どっちが彼女に好かれるか勝負しようか」

「勝負する必要はありません。俺の彼女は俺のことが好きです。他の誰も好きになりません。怖がっている相手なんて尚更です」

「今怖がられているからと言って、これから先も怖がられてるとは限らない。それに、彼女に君よりも好きな人が出来るかもしれない」


 まただ。また……俺は凛恋の彼氏として相応しいという認識をされなかった。

 俺が凛恋とは不釣り合いだと思ったから、羽村さんは身を引くことをしなかった。それどころか、俺からなら簡単に凛恋を奪えると思って、全く表情を変えずに宣戦布告までしてきた。

 悔しさを抱く前に、純粋な怒りが浮かんだ。


「じゃあ、俺はこの後、仕事があるから。平の社員は忙しくてね。君もインターン頑張って」


 羽村さんは表情を変えずにそう言って、俺の横を通り過ぎて行く。その羽村さんを振り返らず、俺はソファーに腰を落として両手を握りしめた。

 お互いに言いたいことを言い合って相手の話なんて聞き入れてない。だから、そういう意味ではフェアな話だった。でも、怒りを抱いている俺の方が負けた気分だった。


「多野くん」

「帆仮さん?」


 ソファーに座ったままローテーブルの木目を見つめていた俺に、後ろから帆仮さんが声を掛けてくる。その帆仮さんの表情は、何か気まずそうな雰囲気を醸し出していた。

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