【一七六《警鐘》】:二

「鮭のムニエルだけじゃ味気ないし、お味噌汁とサラダも作ろ!」

「俺はムニエルとご飯だけでも良いけど」

「ダメよ。栄養バランスはちゃんと考えないと」


 買い物をする凛恋を眺めていると、ついついボーッと凛恋を見つめてしまう。やっていることは、鮭の切り身パックを両手に持って見比べていることなのだが、凛恋がやっていると何をやっていても見惚れてしまう。


 凛恋に腕を引かれて生活用品のコーナーに入ると、凛恋が俺の腕を引き寄せながら小声で言う。


「後ろからこっち見てる」


 凛恋の言葉を聞いて、俺は特に興味もない棚に体の正面を向けながら、横目で通路側を見る。すると、カジュアルな服装の男性がこっちを見ているのが見えた。手に持っているカゴには、惣菜弁当と缶ビールが入っている。


「凛恋、大丈夫」


 俺は男に見えるように凛恋の肩を抱き寄せながら凛恋に声を掛ける。

 男は俺が視線を向けた瞬間、洗剤を手に取ったが視線は俺と同じように横目でこっちを見ている。

 年齢は俺と凛恋より年上だろうが、中年とまではいかない。おそらくいっていても二〇代後半だろう。


「凛恋、さっさと買い物を済ませよう」


 腕を抱く凛恋を連れてレジカウンターに行くと、例の男も少し離れたレジカウンターで会計をする。ただ、男の方が買う物が少なかったこともあり、すぐに会計を終えて店から出て行った。

 俺達も会計を済ませて外に出ると、凛恋は周囲をキョロキョロ見渡して大きく深いため息を吐いた。


「良かった」


 男が居ないことを確認して安心したらしく、体に入っていた力もスッと抜けた。


「やっぱり凡人に来てもらって良かった。昨日はペアリングを付けてても声掛けられたし」

「男はいちいち見てないんじゃないか?」


 凛恋が持ち上げた左手の薬指にはまった指輪を見ながら言うと、凛恋が困ったように眉をひそめる。


「声掛けてくるような軽い男には効果ないのかもね。でも、これからはずっと凡人が一緒に来てくれるから安心安心!」

「インターンのある日とかは遅くなるけど」

「凡人と一緒に行けるなら、いつまででも待てるから大丈夫!」

「ちゃんと家で待ってろよ? 迎えに来て夜に一人で出歩くのはダメだからな」

「はぁーい」


 クスクス笑った凛恋は、両手で俺の腕を抱きしめて軽くぶら下がるように俺に身を委ねる。


「さっ! さっさと帰ってご飯食べてお風呂入って、凡人とラブラブしよー」


 凛恋がグイグイと俺の腕を引っ張って歩き出す。その凛恋の元気な様子を見て、俺はホッと心を撫で下ろした。




 大きく深いため息を吐く帆仮さんの隣を歩きながら、俺は視線だけでお疲れモードの帆仮さんの様子を窺う。


「今月もなんとかなったぁ~」

「お疲れ様でした」

「毎月締め切りに間に合うのは多野くんのお陰だよ。多野くんメモがなかったら危うく業者への発注忘れるところだったし」

「業者の発注の話をしてた後に別の仕事が入ってたんで、そっちの仕事が忙しくて忘れそうだと思って」

「その先読みは本当に助かったけど、編集部の先輩としては複雑だなー」


 苦笑いを浮かべた帆仮さんは、両手を上に伸ばして背伸びをした。

 毎月恒例の締め切りを乗り切り、古跡さんからの頼みで、仕事終わりに合わせて俺と帆仮さんは買い出しに出た。今はその買い出しの帰りになる。


「落ち着いて良かったね」

「ご迷惑をお掛けしました」

「全然全然! 週刊SOCIALも、今は散々叩かれてるし良い気味。うちの後輩に手を出した報いね」


 腕を組んでニヤッと笑った帆仮さんは、俺の背中をパンパンと叩いて明るい笑顔を向ける。


「そう言えば、俺以外にインターン生来ませんね」


 俺は歩きながら、ふと疑問に思ったことを尋ねる。

 女性向け雑誌の編集部でのインターンは、女子大生にとって興味を引くもののはずだ。しかし、俺が入って来てから誰一人インターン生が入って来ない。


「一応募集はしてるらしいけど、今は古跡さんが面接で弾いてるみたい」

「面接で?」

「今まではとりあえずやらせてみてたんだけどね。インターン生にやらせるような仕事は、多野くんが全部一人でやれちゃうし。とりあえず入れる必要が無くなったのかも。でも、他の部署にはインターン生が居るらしいよ。まあ、直接話すことはないだろうけど」

「月ノ輪出版の他部署って言うと、営業とかですか?」

「もちろん営業部もだけど、うちみたいな女性誌じゃなくて、漫画雑誌とかそれこそ文芸誌とかの編集部もあるし、月刊週刊誌だけじゃなくて普通の書籍編集部もあるからね」

「そっか。そりゃあそうですよね」

「結構、漫画雑誌の編集部はインターンの希望が多いらしいよ。あと最近はライトノベルの編集部も。そう考えると、多野くんがうちに来たのは不思議だね」

「まあ、お金を稼ぎたかったって不純な理由ですけど」

「それを古跡さんに直接言ったって聞いた時は、凄い度胸のある子だなって思った」


 クシャッと顔を歪ませてお腹を抱えながら笑う帆仮さんに、俺はばつが悪くなり苦笑いを浮かべる。


「でも、うちとしては幸運だったよ。多野くんが入ってくれて仕事も楽になったし。きっと、多野くんがフリーだったらみんなで取り合いだったかもね」

「いや、それはないと思いますよ」

「そんなことないよ。多野くん、編集部で可愛いって評判だよ?」

「か、可愛い、ですか?」


 思わぬ言葉に困って聞き返すと、楽しそうに笑う帆仮さんがウンウンと頷きながら口を開く。


「一生懸命仕事してる姿が可愛いってみんな言ってるよ。それに多野くんは絶対にエレベーターもドアもレディーファーストだし、編集部のお姉さん達のハートをがっちり掴んだね」


 笑いながらそう言った帆仮さんは、俺に人さし指の腹を向けて指さす。


「でも、そういうの誰にでもやるのは気を付けた方が良いよ。そういうのでコロッと行っちゃって勘違いしちゃう人も居るんだから」

「気を付けます」


 褒められた後に釘を刺されて複雑な気持ちになりながら、月ノ輪出版の本社ビルに入る。


「これから多野くんは帰り?」

「はい」

「ご飯食べて帰れば良いのに」


 エレベーターを待つ間、帆仮さんにそう言われて俺は困って笑顔を返す。

 毎日買い物に行く時は一緒に付いていくという約束を守るため、俺は少しでも早く帰る必要がある。俺の帰りが遅くなれば遅くなるほど、凛恋の買い物も遅くなるし凛恋の夕飯も遅くなる。


「彼女ちゃんと用事があるの?」

「ええ、まあ」

「羨ましいなー」


 帆仮さんに頬を突かれて言われ、俺はからかう帆仮さんに視線を向けて言葉を発しようとすると、エレベーターが到着した音がなってドアが開いた。

 俺が帆仮さんと一緒に足を踏み出そうとすると、正面を見た俺は足を止めて固まる。


 エレベーターの中には、少し髪を染めてカジュアルな服を着崩した男性が立っていた。その男性は、俺の方をチラリと見ながら、エレベーターから下りて俺の横を通り過ぎていく。


「多野くん?」

「えっ? あっ、はい」


 エレベーターに乗った帆仮さんに声を掛けられて我に返った俺は、慌ててエレベーターに乗り込む。


「多野くん? どうかしたの?」

「帆仮さん、さっきエレベーターから下りてきた人って、誰か知ってますか?」

「さっきの人って、文芸の羽村(はむら)さんのこと?」

「は、はい」


 動き出したエレベーターの中で、隣の帆仮さんに尋ねると、帆仮さんは小さくため息を吐きながら肩をすくめて俺に言う。


「知ってるもなにも、出版業界じゃ知らない人は居ないやり手編集者だよ。初担当小説からミリオンセラーを連発してて、うちの文芸編集部だけじゃなくて、下火になってた文芸界を盛り上げた立て役者だって言われてる。やり手だから引き抜きの話が絶えなくて、うちも羽村さんの引き止めに必死だって噂もある」

「そう、なんですか」

「年が二五歳だって言うから驚きだよね。私と二歳しか変わらないのに、業界の有名人なんて本当にすごいと思う」


 話を続ける帆仮さんの横で、俺は視線を落として握ったビニール袋の持ち手を握りしめる。

 見間違いじゃない。スーパーで俺の方を、いや……凛恋の方を見ていた男性だった。服装は違っても顔は同じだった。


 まさかこんなところで顔を合わせることになるなんて思ってもいなかった。それに、出版業界で有名だと言われる編集者。

 心配しなくても、凛恋は俺以外は好きにならないと言っているし、第一凛恋は、そんな仕事が出来る出来ないで男を見るような子じゃない。だから、何も心配する必要なんてない。


 心配する必要はないと分かっているのに、自分の近くに凛恋へ好意を向けているかもしれない男が居ることが気になって仕方がない。いや……向けている"かもしれない"じゃない。

 男が面識のない女の人に声を掛けようとしたのだから、間違いなく好意がある。しかも、無視して凛恋が帰った次の日も、羽村さんはスーパーに居て凛恋の方を見ていた。しかも、俺が初めて羽村さんを見た日から毎日居る。


 俺は女性に声を掛けたことなんてないが、無視されれば気まずくなって同じ店は使おうとは思わなくなるはず。でも、羽村さんは同じ店に居た。おそらく、俺が凛恋と一緒に居なかったら、また凛恋に声を掛けてきたに違いない。

 俺が居るから声を掛けようとはして来ない。でも確実に、同じ時間に絶対に居る。


 すれ違う時も、羽村さんは俺を見て俺が誰だか分かったはずだ。自分が声を掛けようとして無視された女子大生と一緒に腕を組んで買い物をしていた男だと。でも、羽村さんは俺を見ても何も反応を示さなかった。視線も逸らさなかったし、表情も一切変えなかった。


 もう俺という彼氏の存在を確認して凛恋のことは諦めてくれただけなのかもしれない。同じ時間に居るのも、毎日あのスーパーで夕飯を買っているだけに過ぎないのかもしれない。でも、どうしても俺はそんなポジティブな思考に向かなかった。

 もしかしたら、羽村さんの方は俺のことを、俺が羽村さんを認識する前から知っていたのかもしれない。文部科学大臣の件で顔が売れてしまったから、知っていた可能性は高い。


 俺はただの大学生で、羽村さんはやり手の編集者。それなら、社会として考えれば、人としての価値は明らかに羽村さんの方が上だ。

 もし、羽村さんが俺からなら凛恋を奪えると思っていたら……。

 そう考えて、俺はすぐに否定する。仮に羽村さんが俺からなら凛恋を奪えると思っていても、現実はそんなことはあり得ない。


 凛恋は羽村さんから声を掛けられたことを嫌がって無視したし、今も羽村さんのことを怖がって、羽村さんを避けるために俺と一緒に買い物へ行っている。それにそもそも、さっきも思ったが凛恋は俺以外は好きにならないと言ってくれた。だから、凛恋のことを信じている俺は心配する必要なんてない。

 心配する必要なんてない。…………でも、気になってしまう。


「多野くん?」

「あっ……すみません!」


 いつの間にか開いていたエレベーターのドアを抜けて、俺は編集部まで歩き出す。

 でもその足は、早く帰りたい一心で行きよりも数倍に速くなっていた。

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