【一七六《警鐘》】:一

【警鐘】


 編集部から帰って来てドアを開けると、激しい足音を立てて走ってきた凛恋が俺の体に抱きつく。


「凛恋!? どうした?」


 俺は抱きついて来た凛恋の体が震えているのを感じて、凛恋の両肩を掴んで少し身を屈めながら、凛恋の顔を真正面に捉える。


「凡人……明日から毎日買い物に付いてきて……」


 凛恋の目には涙が滲み唇は小刻みに震えている。凛恋の怯え様を見れば、何か良くないことが起こってしまったのは間違いない。


「買い物の時、何かあったのか?」


 部屋に上がってテーブルの横に座りながら、俺は凛恋の肩を抱いて引き寄せる。すると、凛恋は俺の腕にしがみついてか細い声を発した。


「男の人にずっと見られてて……スーパーを出る前に話し掛けられそうになった……」

「話し掛けられそうになった? 実際には話し掛けられなかったのか?」

「うん。近付いて来て怖くて……走って逃げたから……」

「そうか」


 優しく凛恋の背中を撫でながら、俺は凛恋の頭に頬を付ける。

 日頃、街で他人から話し掛けられる機会は少ない。特に俺は、滅多に人から話し掛けられない。もし話し掛けられたとしても道を聞かれるくらいだ。でも凛恋は可愛いから、凛恋に興味を持った男から話し掛けられる。

 凛恋が外出するほとんどの場合、凛恋は一人じゃない。俺が居ない時でも希さんか稲築さんが居る。だから、男が寄って来ても間に立ってくれる人が居た。でも、夕飯の買い物をしていた今回は凛恋一人だった。


「明日から、俺と一緒に行ける時間に行こう」

「うん……ごめん」

「なんで凛恋が謝るんだよ。大切な凛恋を守るためなら、俺はなんだってやるぞ」

「ありがとう。んっ……」


 指を組んで手を繋いだ凛恋は、ゆっくりと顔を近付けてそっと唇を重ねる。


「あっ、ごめん。すぐご飯の準備するね!」

「ありがとう、凛恋。でも、焦らなくて大丈夫だから」

「うん。待っててね!」


 凛恋はなんとか元気を取り戻してくれたようで、台所に向かって夕食の準備を始める。

 凛恋は女子大に入ってから、極端に男と接する機会が減った。そのお陰で、凛恋が男から声を掛けられるというのは、高校の時よりも格段に減っていた。その油断が、俺の中にあったのかもしれない。


 インターンを始めてから、凛恋と買い物に行く機会が減ってしまった。全く行かなくなったわけではないし、むしろ一緒に行けない日は編集部でのインターンがある日だけだ。それでも、俺が一緒に行かない――いや、行けない日に凛恋が声を掛けられた。


 凛恋にとって、知らない男性から声を掛けられるのは恐怖でしかない。そんな凛恋が急に男から声を掛けられたのだ。凄く辛くて心細くて怖かったに違いない。

 しばらくして凛恋が準備してくれた夕食を凛恋と一緒に食べた俺は、いつも通り風呂に入るために着替えを出していると、凛恋が隣に並んで俺のTシャツを一枚手に取る。


「凛恋?」

「……今日は、凡人のTシャツ着て寝る」


 両手で俺のTシャツを握り締めた凛恋は、真っ赤な顔で俺を見上げる。


「ダメ?」

「良いけど。まだ寒いからTシャツ一枚じゃダメだからな」

「うん! 凡人が高校の頃使ってたジャージ着る!」


 凛恋が俺のジャージを引っ張り出して胸に抱えると、俺の腕に自分の腕を回して隣に並ぶ。


「凡人とお風呂~凡人とお風呂~」


 凛恋に腕を引っ張られて浴室に行くと、棚に着替えを置いた凛恋が俺に背中を向けて着ていたシャツを脱ぐ。

 綺麗な凛恋の背中と、その背中に見えるブラ紐に俺は思わず生唾を飲み込む。そして、自然と後ろから凛恋の体を抱き締めた。凛恋は、俺が前に回した手に自分の手を重ねる。

 凛恋は何も話さず、ただ黙って俺の手に自分の手を重ねたまま重ねた手に力を込める。

 後ろから凛恋を抱きしめながら、俺は気を落ち着かせて凛恋に声を掛ける。


「風邪引く前に入るか」

「うん」


 服を脱いで浴室に入ると、凛恋が俺の背中をペシペシと叩いて椅子に座らせる。


「今日もお疲れ様!」

「凛恋もお疲れ様。今日もご飯美味しかった」

「ありがとう。凡人に美味しいって言ってもらえて良かった」


 ボディーソープを手につけて泡立てた凛恋が、明るい声で話しながら背中を優しく洗ってくれる。


「ママとパパがね、優愛が住む場所もここの近くにしたいって言ってるの」

「まあ、そりゃそうだろ」


 優愛ちゃんは成華女子大の合格を決めて、新生活の準備を始めている。そして、一年前の俺達と同じように、一人暮らしをする部屋も探さなくてはいけない。お父さんとお母さんとしては、姉の凛恋が近くに居た方が安心だろう。


「私と凡人が近くに居た方が安心なんだって」

「良いんじゃないか? まあ、決めるのは凛恋を含めた八戸家の四人だけど」

「多分、近くになるのは決定よ。優愛、絶対に一人暮らしとか無理だし」

「そう言えば、このアパートってまだ部屋が空いてるだろ?」

「うん。ママもパパも知ってるから、多分ここになると思う。口ではこの近くとか言ってたけど、もうこのアパートにしようってパパとママの中では決まってるのよ」


 そう言った凛恋は、小さくため息を吐きながら俺の背中にお湯を掛けて泡を洗い流す。


「優愛が近くに住むと私も安心だけど、せっかくの凡人との二人暮らしが……」

「優愛ちゃんももう一八なんだし、野暮なことはしないだろ。それに、優愛ちゃんの年頃なら彼氏が居ても良い年頃だし、そっちで忙しくなるだろ」

「優愛に彼氏ねぇー」


 凛恋はそう言ってまたため息を吐く。まるで、優愛ちゃんには彼氏は出来ないというような口振りだ。


「優愛ちゃんくらい可愛い子ならモテるだろ。実際、中学からモテてたんだろ?」

「告白はされるけど、優愛があんまり男に興味がない感じなんだよね。ステラと遊んでる方がまだ楽しいみたい」

「そっか」

「それに、身近に比べる相手が居るとハードルが高くなるし」


 凛恋が後ろから手を回して抱き付き、後ろから俺の頬にキスをする。


「こんなに頭が良くて格好良くて優しい完璧な男の人が居たら、優愛の周りの男はみんな子供に見えるのよ」

「俺以外に良い男なんていくらで――」

「絶対に居ないから。凡人以上に良い人なんて絶対に居ない」


 後ろからそう言う凛恋は、俺の背中に胸を押し付けながら抱きしめる手に力を込めた。

 風呂から上がると、凛恋がすぐに布団を敷き俺の手を引いて布団に入る。

 俺のシャツとジャージを着て横になっている凛恋は、ジャージの襟を鼻に付けて大きく息を吸い込む。


「はぁ~凡人の匂いがする」

「洗剤の匂いだろ?」

「ううん。凡人の匂いもちゃんとする。でも、やっぱり凡人から直接嗅ぐ方が好き」


 俺の首筋に鼻を付けた凛恋は小さく息を吸い、手は俺の背中に回す。


「ずっと凡人が帰ってくるの待ってた」

「ごめんな」

「ううん。今日は残業もなかったし」


 凛恋は俺のシャツの背中側を回した手で握りしめ、顔を近付けて唇を押し付ける。さっきした軽いキスよりも深く熱いキスで、俺は凛恋の背中を引き寄せながら凛恋のキスに応える。


「怖かった……」

「凛恋……」

「本当はね……何日か前からいつも居たの」

「なんで早く言わなかったんだ」

「そんなことで凡人に心配掛けたくなくて」

「凛恋のための心配だったら俺はいくらでもする。いくらでも、凛恋のために心配させてくれよ」


 凛恋はストーカーの被害に遭った過去がある。だから、また凛恋に同じような思いをさせるわけにはいかない。もしそんなことになれば、俺に凛恋を任せてくれている凛恋のお父さんとお母さん、優愛ちゃんに申し訳が立たない。


「ジロジロ見られてて気持ち悪くて、それで今日声掛けられそうになって……」

「思い出さなくて良い。明日からは俺が一緒に居るんだから大丈夫だ」

「でも……さ。あの時みたいに、凡人が怪我して……それで――」


 思い出そうとする凛恋の唇を塞ぎ、俺は必死に凛恋の背中や肩を擦る。擦る凛恋の体は小刻みに震えていた。

 消すことは出来ない傷だと分かっている。そして、その傷が俺が間違ったせいで付いてしまった、付けてしまった傷だと言うことも。


「ごめん……」


 恐怖に震える凛恋を見て、冷たく重い後悔が伸し掛かり心を押し潰す。その勢いに負けて、俺の目からはじわりと涙が溢れた。その涙を、凛恋が親指の腹で拭ってくれた。


「凡人……安心させて」


 凛恋は俺の目を見て、潤って煌めく唇で艷やかにそう口にした。その寂しさの滲む甘い言葉に、俺は理性を投げ捨てて凛恋を抱きしめる。

 凛恋を安心させるため。俺が凛恋を抱きしめる理由はそれだ。でも、そんな凛恋のための理由に隠れて、俺の独りよがりな理由も顔を出す。


 安心したい。凛恋を抱きしめて、凛恋が俺だけの凛恋だと感じて、凛恋に俺だけの凛恋だという痕跡を残したい。触れ合った唇の感触でも良い、凛恋の背中や腰、太腿、胸やお尻に触れた感触でも良い。

 いや……どれかだけじゃ嫌だ。全部残したい。それだけじゃない。もっと……もっと恋人だけしか残せない痕跡を、凛恋の心と体に残したい。


「あっ……」


 気が付けば、俺は凛恋の着ていたTシャツとジャージを脱がして、火照った凛恋の胸元に唇を付けて吸い付いていた。そして、赤い跡が付いた凛恋の綺麗な肌を手で撫でる。


「凡人だけズルい。私も、凡人にキスマーク付けたい」


 シャツを脱がされ、俺は胸元に吸い付く凛恋の頭を優しく抱きしめる。強く吸われている小さな痛みが心地良かった。


「凡人も私も独占欲強過ぎ」

「嫌だったか?」

「今更? 嬉しいに決まってるじゃん」


 震えが止まってニッコリ笑った凛恋は、俺の頬に手を添えて首を傾げる。


「キスマークだけで満足してないよね?」

「当たり前だろ?」


 俺が当然の答えを返すと凛恋はクスッと笑い、可愛い顔でいたずらっぽく俺に言った。


「私もキスマーク付けたくらいじゃ満足しないから」




 次の日、凛恋と一緒にスーパーへ夕飯の買い物に出た。

 俺も何度も行っているスーパーの中に入って俺が買い物カゴを持つと、凛恋が嬉しそうに笑って隣に並ぶ。


「いつも持ってくれてありがとう」

「どういたしまして。今日は何にするんだ?」

「うーん。昨日お肉だったから、今日はお魚かなー」

「鮭のムニエルはどうだ? あれ、美味しいんだよなー」

「あんなので良いの? ムニエルってチョー簡単なんだけど」

「凛恋の作る鮭のムニエルはめちゃくちゃ美味しいんだよ」

「まあ誰が作っても同じだと思うけど、凡人が食べたいなら今日は鮭のムニエルね。もちろん、私の愛情入り!」

「やった! 楽しみだなー」


 明るく笑った凛恋が腕を組んで歩き出す。それに付いて行きながら、俺はそれとなく周囲を見る。

 周囲には主婦っぽい女性が多く、一人で居る人や子連れの人も居る。しかし、まだ男性の姿はない。


「私も凡人も今年で二〇歳か~」

「そうだな」


 買い物をしながら、お酒のコーナーをチラッと見た凛恋が呟く。俺と凛恋は誕生日が少し離れているから、一緒にお酒が飲めるようになるのはまだまだ先だ。

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