【一七四《不知案内》】:二

 俺は女性へ頭を下げて、部屋を出て行く女性を見送る。すると、女性と入れ違うようにさっき出て行った中年男性が戻ってきた。


「大臣は――」

「お手数をお掛けしてすみません。失礼します」


 何かを聞こうとした男性の言葉を遮り、俺は頭を下げて部屋を出る。

 文部科学大臣の関係者が、実家に電話を掛けて来ているのは知っていた。しかし、直接訪ねて来たのは初めてだ。散々断り続けたことで、直接会わなければ話も出来ないと思ったのだろう。


 俺はずっと、週刊誌に文部科学大臣の隠し子報道が出てから、俺には両親は居ないと言い続けた。マスコミの報道にも、興味半分で聞いてくる学生にも、そして、文部科学大臣の関係者にも。

 俺は大臣の事情なんて分からない。でもきっと、早くこの騒動を治めたいと思っているのかもしれない。


 俺は静かに放っておいてほしいのに、周りが放っておいてくれない。

 現実は小説よりも奇なり、という言葉を考えた人は凄い。本当に、俺の現実は小説よりも不思議で、トラブルばかりが舞い込む。

 ただ俺は、楽しく凛恋と生きたいだけなのに、まるで誰かの作為が働いているかのようだ。


「あいつだろ? 多野凡人って」

「バカ、指さしたら人生終わるぞ。文部科学大臣の息子なんだろ?」


 大学内ですれ違った男子学生がそんな話をしている。あれで聞こえてないと思っているのなら底抜けのバカで、聞こえていると分かっているとしたら人間として終わってる。

 当然だが、俺と関わりが深い人はみんな気にして話題に出さないが、関わりが薄くなれば薄くなるほど話題を出す。

 関わりが薄い人のことを俺がとうでも良いと思っているように、関わりが薄い人は俺からどう思われても良いと思っている。だから、気を遣う必要がなくて好き放題に話をする。その辺りは、年を取って大学生になろうが、小学生と何も変わらない。


 大学の構内を出てさっさと家に帰ろうと歩き出す。構外へ出ると気が楽だった。外へ出れば、俺はただの通行人になれる。

 今、世間ではもっぱら、文部科学大臣の隠し子問題で国会が大騒ぎになっている。不倫をして子供を作っておいて捨てたという事実は、世間から見れば当然不誠実だと判断される。だから、それで世間が騒ぐのも分かるし、その事実を好機と見て野党の国会議員達が文部科学大臣に追及するというのも分かる。しかし、どうしてそれで何も関係ない俺が面倒事に巻き込まれないといけないのか分からない。


 俺と文部科学大臣に親子関係はない。血縁は調べていないから分からないが調べるつもりはないし、遺伝子的な問題以前に、俺は自分に父親も母親も居ないと思っている。俺はそれで十分だ。

 両親が居ないからと言って、全ての人間が悪い人間に育つわけがない。そもそも、悪い人間に、悪い考え方をする人間に育つことに両親の有無は関係ない。結局は、その人間が歩んできた人生で経験したことで全てが決まる。


 俺は、決して良い人間じゃない。今まで沢山の人間に対して憎しみを持ったし、本気で人を殺したいと思ったこともある。でも、実際に俺は世間から責められるようなことはしたことがない。


 週間SOCIALの記事で色々と誇張……いや、大分人目に付きやすいように脚色された俺のことが報道されて、雑誌だけではなくテレビもその悪ふざけに載って報道した。そして、それを見た一般人達が更に尾ひれを付けて広めて、俺は今や『文部科学大臣の威を借りた素行の悪い男子大学生』になっている。


 俺自身は、人から悪口を言われることには慣れている。今回の件だって、スケールが大きくなっただけで、学校内で悪い噂が広まったのとなんら変わらない。そのうち、新しい関心事が起これば俺への関心なんてすぐに薄れる。

 だけど、俺の周りに居る人達は、俺が悪口を言われることを慣れてはいない。特に、凛恋は過敏に反応する。


 高校の頃、出会ったばかりの頃から凛恋はそうだった。同じ高校の同級生に好き放題言われる俺を見て、凛恋は本気で怒ってくれて、本気で悲しんでくれた。

 今も、凛恋は世間で俺が好き放題言われていることに怒って悲しんでくれている。でも、それで凛恋の心が傷付くのが見えるから、自分が凛恋を傷付けてしまっているのが見えるから、辛かった。

 ただ、俺も凛恋がもし俺と同じように、世間から好き勝手に言われたら辛い。それに、凛恋のことを何も知らない人が好き勝手に言いやがってと腹が立つに決まっている。そしてそれが、気にしないでほしいという簡単な言葉で整理出来るような話ではないのも分かる。


「多野くん」


 家へ帰る足を速めていると、後ろから肩を叩かれて声を掛けられる。振り返ると、俺の肩に手を載せた女性の姿が見えた。


「あの……どちら様ですか?」


 声を掛けてきた女性の顔を見て、俺は率直に思ったことを尋ねた。

 俺はこの女性の名前を知らない。それに、俺の記憶が正しければ話したことはおろか、顔を合わせたこともない。


「私、塔成大の文学部三年なの」

「は、はあ」


 女性の返答を聞いても俺は納得が出来なかった。

 俺は大学内では悪い意味で顔を知られている。だから、俺が知らない人が俺の顔と名前を知っている可能性は高い。でも、直接俺に話し掛けてくる人は居なかった。


「少し時間ある?」

「すみません。用事があるので」


 見知らぬ人に声を掛けられて用事があるかと尋ねられれば、用事がなくてもあると言って立ち去るのが普通だ。明らかに怪し過ぎる。


「お願い、少しだけ時間をくれない?」

「いや、本当に用事があるので」


 食い下がる先輩にそう言って立ち去ろうとすると、俺は先輩に腕を掴まれて引き止められる。


「多野くんにお願いがあるの。多野くんのお父さんに、私の就職の力になってもらえないかな? もちろんお礼はちゃんとするから」


 俺は先輩から手に何かを握らされる。その握らされてる物を見て、俺は視線を先輩へ向けた。


「二度と俺に話し掛けるな」

「なっ!」


 俺は握らされたコンドームの小袋を突き返しながら、そう吐き捨てて足早に歩き出す。ここ最近で、最も嫌な出来事だった。

 あの先輩は、自分の体と引き換えに、俺から文部科学大臣に話をして、先輩の就職の口添えをしてもらえるように頼んでほしいと言ったのだ。おそらく、あの先輩は文部科学省に入りたかったのだろう。それで、手っ取り早く入れそうな方法として俺を使おうとした。


 俺が抱いている感情は、文部科学大臣の息子だと決め付けられたことではない。きっと、自分自身を軽く見られたことに対する怒りに近いのかもしれない。でも、そこまではいかない単純な気分の悪さだった。だけど、その気分の悪さは分厚く重く黒ずんでドロドロと心の中でうごめいている。


 好き勝手な妄想を並べて俺を批判するやつらに、好き勝手な妄想を並べて俺を利用しようとするやつら。そんなやつらが居ることが煩わしかった。

 一分一秒でも外に居たくなかった俺は急いでアパートへ帰る。そして、誰も居ない部屋の床に座り込んだ。


 凛恋の姿はない。多分、稲築さんとどこかに寄っているのだろう。

 今日は何だかいつもより疲れた気がする。身体的にもだが、精神的な疲労の方が大きく感じた。


「凛恋……」


 居ないと分かっていながら、俺は凛恋の名前を口にする。そして、その言葉に返事がないことで、心に心細さや寂しさが湧く。でも、凛恋にも凛恋の用事があるのだから仕方ない。

 凛恋が居て、凛恋の笑顔を見られれば、俺の心のドロドロとした感情も綺麗に洗い流せた。しかし、それは凛恋が帰ってくるまでお預けだ。


 俺が何か飲み物を飲もうと立ち上がり冷蔵庫へ向かうと、部屋の外がやけに騒がしいのに気付いた。

 台所にある小窓を少し透かして外の様子を窺うと、アパートの敷地の出入り口にテレビカメラとマイクを持った集団が居た。その集団は俺を目的に来たに決まっていた。


 その集団はゾロゾロとアパートの建物に入って来て階段を上って来た。それを見て、俺は慌てて小窓を閉めて台所から離れた。

 複数の足音が外で鳴っているのが聞こえ、インターホンの呼び出し音が鳴る。


「多野凡人さん。インタビューをお願いします」

「多野さん。文科相の湯元氏についてコメントをお願いします」

「湯元氏側からコンタクトがあったというのは本当ですか? こちらの情報では、面会を拒否したようですがどうしてでしょうか?」

「湯元氏は政務活動費を使ってあなたの母親と会っていた疑惑もありますが、その辺りは息子としてどう思いますか?」


 薄いドア一枚を隔てた向こう側から、複数の声が聞こえる。今までマスコミが全く来なかったわけじゃない。でも、こんなに一度に沢山来るのは初めてだ。

 外の騒がしさを無視するために、俺はテレビを点けようとリモコンを手に取る。その瞬間、隣の部屋と隔てる壁からドンッという激しい音が響いた。


「うるせえぞ! どうにかしろッ! てめぇのせいだろうがッ!」


 壁越しでくぐもってはいるが、その声の内容ははっきり聞こえた。

 俺はリモコンを持とうとした手を止めて、その場に座り込んで視線を床に向けた。

 俺のせいじゃない。俺は何も悪いことなんてしていない。周りが勝手に騒いでいるだけだ。


「多野さん、ずっとだんまりは不誠実ではないですか? あなたの両親のことでしょう」


 ドアの向こう側から聞こえた声に、俺は両手の拳をギリギリと握り締め、怒鳴り返したい気持ちを堪えるために歯を食いしばった。

 両親なんて思っていない。俺は今の今まで、爺ちゃんと婆ちゃんに育ててもらったんだ。それに、俺は今回のことで何かを話す義務はない。

 騒がしい外の音を聞きながらスマートフォンを手に取って電話を掛ける。


『もしもし凡人くん?』

「希さん、いきなりで悪いんだけど、しばらく凛恋を希さんの家に泊めてくれないか?」

『凛恋を? 何かあったの?』

「家にマスコミが来てるんだ。表に群がってて」

『凡人くんはどうするの!?』

「しばらく家の中に閉じ籠もってればそのうち諦めるだろ。押し掛けてきてるマスコミには男も居るし、凛恋には辛い」

『ダメだよ。それに、私だけじゃなくて凛恋も納得しない』

「でも、今の状況はどうしようもない。外に出られる状況でもないし、外から入って来られる状況でもない」

『凛恋は絶対に許さないと思うよ』

「今から電話して――」


 希さんとの電話の途中、外の騒がしさが更に大きくなった。そして、息を振り絞った金切り声のような叫びが聞こえた。


「迷惑ですッ! 帰って下さい!」

「凛恋!?」

『凡人くん!? 凛恋がどうしたの!?』

「希さんごめん! 凛恋が帰ってきて家の前に居る」


 俺は希さんの返答を聞く前に電話を切って外へ飛び出す。

 外へ飛び出した俺の目には、マスコミに囲まれながらも必死に部屋へ来ようとする凛恋の姿が見えた。周囲には、当然大勢の男性も居る。


「凛恋ッ!」

「凡人っ!? 凡人、大丈夫!?」

「俺は良いから中に入れ」

「凡人ッ!」


 凛恋の腕を引っ張って部屋に押し込んでドアを閉めると、俺はそのドアを背にして正面を見た。


「先ほどの女性が交際中という女性でしょうか?」

「それを聞いて何の意味があるんですか? 近所迷惑です。帰って下さい」


 目の前にマイクを突き出され、俺はそのマイクを持った男性に視線を向ける。もちろん、全く好意的な視線ではない。


「湯元氏から数一〇〇万の賠償金を受け取ったというのは本当ですか?」

「そんなもの貰ってません。第一、文部科学大臣になんて会ったこともありません。それに何度も言いますけど、俺と文部科学大臣は親子じゃありません。他人です」

「あっ! 多野さん! 待ってください!」


 ドアを閉めて、俺は大きなため息を吐いた。


「マスコミに追われる芸能人ってこんな感じなんだな~」


 俺は呑気にもそんな感想しか浮かばない。それは、俺のことなんかよりも考えるべきことがあるからだ。


「凛恋、ごめんな」


 部屋に入った瞬間に、俺へ抱きついた凛恋の頭を撫でながら謝る。凛恋には心配を掛けっぱなしだ。


「なんで凡人が謝るのよ……凡人は何も悪くないじゃん」


 凛恋は目にいっぱい涙を浮かべながら首を横に振って言う。

 凛恋の手はがっちりと俺の体を離さないように締め付ける。その強い凛恋の力を感じて、希さんの家に泊まれとは言えなかった。それに、たとえ言ったとしても凛恋は聞かないだろう。でも、こんな場所に凛恋を居させて良いわけはなかった。だけど、俺は凛恋の体を自分から離すことは出来ない。


「凡人、今からご飯作るから」

「いつもありがとう」


 凛恋は手の甲で涙を拭いて台所に歩いていく。俺はその凛恋の手を握って一緒に台所へ歩いていく。

 俺には、凛恋のために凛恋を自分から離す強さはない。俺には、凛恋に側に居てほしいと思う弱さしかなかった。

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