【一七一《愛に酔うこと》】:二

 そんなやりとりがあってから最初の給料日。目に見えて先月より多くなった給与明細の数字を眺めて、俺はニンマリと微笑んだ。


「多野くん、お疲れ様」

「帆仮さん、お疲れ様です」

「昇給おめでとう」

「ありがとうございます。やっぱり嬉しいものですね。言葉で言われるのも嬉しいですけど、こうやって数字に表れるのも」

「実はね。古跡さん、後悔してたの」

「後悔?」


 隣に座ってコーヒーを飲む帆仮さんは可笑しそうにクスクス笑う。


「もっと早く上げるべきだった。多野の仕事量に時給が釣り合わなくなってるって」

「古跡さんがそんなことを」

「多野くんが来てくれてから、編集同士での些細な確認が減ったの。多野くんって、メモを添付してくれるじゃない? そのメモが助かる助かる。細かい確認とか、あれは何だっけ? って思うような些細な疑問が無くなったの。そういうのが多野くんのメモには全部書かれてるから」

「そうなんですか」


 褒められて照れ臭くなりながら、俺も両手でカップを持ってコーヒーを飲む。


「些細なことでも確認しないわけにはいかないことってあるから。それが、予めメモされてるかどうかで変わってくるの。仕事の途中で、確認しなきゃってなると集中も切れちゃうし。多野くんって雑用の才能があるのかも」

「それって褒められてます?」


 クスッと笑った帆仮さんに、俺は冗談めかして笑いながら返す。


「帆仮の言う通り、多野には雑用の才能があるわよ。雑用ってストレスになるような細々とした作業の集まり。それを、他の編集に全くストレスを感じさせないようにこなすのは、才能があると思うわ」

「古跡さんまで」


 後ろに立った古跡さんに笑われながら言われて、俺は苦笑いを浮かべる。


「ほら、彼女が家で待ってるんでしょ。さっさと帰りなさい」

「はい。じゃあお先に失礼します。お疲れ様でした」

「「「お疲れ様」」」


 編集部のみんなに挨拶をしてビルを出ると、俺はいつもより軽い足取りで家に向かって歩く。

 時給が上がったことは、凛恋にはまだ言っていない。数字が増えた給与明細を見せて驚かせるつもりだからだ。

 きっと凛恋なら一緒に喜んでくれるし褒めてくれるし労ってくれる。でも何より、凛恋の笑顔が見られるのが嬉しい。


 若干テンションが上がった俺は、帰りに日頃は寄らないちょっとお高いケーキ屋に寄って凛恋の好きそうなケーキを選んで買う。贅沢と言われるかもしれないが、今日くらいは良いだろう。


「ただいま!」


 アパートに帰って来て、ドアを開けた俺は元気の良い声で部屋の中に居る凛恋に声を掛ける。すると、エプロン姿の凛恋が玄関に出て来て不思議そうな顔をする。


「凡人、おかえり。あれ? そのケーキどうしたの?」

「帰りに買ってきた」

「えっ? これ、良いとこのやつじゃん! そんな高いの良かったのに」

「凛恋、これ見て」


 予想通りケーキを見て困惑している凛恋に俺が鞄から給与明細を取り出して差し出す。それを受け取った凛恋は、給与明細を見て目を見開いた。


「えっ? 時給、上がったの?」

「ああ。編集長の古跡さんが、頑張ってるからって上げてくれたんだ。本当は前に聞いてたんだけど、凛恋を驚かせ――」

「チョー凄いじゃん! まだ初めて一年も経ってないのに時給アップなんて! 流石凡人っ!」


 凛恋がムギュと力いっぱい抱きしめてくれて、声を上げて喜んでくれる。それも想像していた通りだったが、想像していたよりも嬉しさは数倍上だった。


「もー! そうなら夕飯も豪華にしたのに! よりによって、今日はアジの塩焼きだし!」

「凛恋の料理は毎日ご馳走だから俺はそれで良いよ」

「ヤバ……仕事が出来る上に優しいとか完璧な旦那さんじゃん! ほら、早く上がって」


 凛恋は俺の手を引いて部屋に上がらせ、ケーキを冷蔵庫に仕舞うとまたべったりと抱き付いてきた。


「凡人、チョー凄い! それに、チョー頑張ったね!」

「ありがとう。俺も時給が上がったのはびっくりした」

「編集長さんは見る目があるわね! 本当に凄い!」


 抱き付きながらぴょんぴょん跳ねる凛恋は、俺の首に手を回して勢い良くキスをする。


「とりあえずご飯にしよ! お腹減ってるでしょ?」

「ありがとう。お腹ペコペコだ」


 凛恋が夕飯の準備をしてくれて一緒に夕飯を食べると、いつも通り風呂に入る。その時、いつも通り体を洗い合ったが、今日はいつも以上に凛恋の洗い方が丁寧だった。

 先に上がった凛恋に続いて部屋に行くと、まだ買って日の浅いノートパソコンに凛恋が向かっていた。


「萌夏! 聞いて聞いて! 凡人の時給が上がったの!」


 パソコンに向かってそう言う凛恋の後ろ姿を見ながら、俺は軽く頭を押さえて小さく息を吐く。凛恋のこの喜び様は予想外だった。


『本当に!? あっ、凡人くん! 時給が上がったんだって? おめでとう』

「ありがとう。でも、まさかそんなことで萌夏さんにテレビ電話するのは予想外だった」

『些細なことでも連絡してよ』


 凛恋の隣に座りながら画面に映る萌夏さんに話し掛けると、萌夏さんの明るい声と笑顔が返ってきた。


「じゃあ、今日から毎日する!」

『本当に? めちゃくちゃ嬉しい! やっぱり、寂しくて日本が恋しくなるからさ~』


 凛恋と萌夏さんが、パソコン越しにキャッキャッと話をするのを見ながら、やっぱりノートパソコンを買って良かったと思った。


『いきなり、凛恋からメールが来て、凡人くんについて重大な話があるって言われてびっくりしたけど、良い話で良かった』

「萌夏さんの方はどう?」

『こっちは、店でのスタージェが始まって一週間。店の人に褒められたよ、動きが素人じゃないって』

「そりゃあ、こっちでバリバリ働いてたからな」

『本当、その経験がめちゃくちゃ役に立ってる。バイトしてなかった子は、初めての現場で戸惑ってるんだけど、私は少しは経験あったから落ち着いて出来てる。一足先に、本格的に作らせてもらえてるし』


 ニヤッと得意げに笑った萌夏さんは、画面の向こうで背伸びをする。


『ほんと、それもこれも凡人くんのお陰なんだよねー。凡人くんに励ましてもらってバイトを続けてたから、こっちに来てから本場の技術を吸収出来る機会が増えてるんだし』

「そりゃあそうよ! だって凡人だもん! 凡人はチョー優秀で凄いんだから!」

『ほんとそれよ。凡人くんは良い上司になると思う』


 国境を跨いで絶賛されるのを横で見ながら、俺は気恥ずかしくなりながらも嬉しくなって凛恋と萌夏さんを交互に見る。


『私も何とか頑張れてるって報告したかったから、丁度良かった。連絡してくれてありがとう。そっちはもう遅い時間でしょ?』

「うん! 私も萌夏が元気で良かった! 明日も連絡するね!」

『ありがと! これでもっと毎日頑張れそう。おやすみ、凛恋、凡人くん』

「おやすみ!」

「萌夏さん、おやすみ」


 テレビ電話を終えてノートパソコンを閉じると、凛恋がうーんと背伸びをして俺を見る。


「凡人。いつもありがとう」

「俺の方こそいつもありがとう。凛恋の料理、毎日美味しいし力になる」

「凡人だって、毎日洗濯と掃除を手伝ってくれるじゃん!」

「そりゃあ、料理は出来ないからな。せめて掃除と洗濯くらいはするに決まってるだろ?」

「ありがとう。チョー助かってる。あと、洗濯する時、私の下着ジーッと見てるのも嬉しい」


 ニヤッと笑った凛恋がツンツンと俺の頬を指先で突く。俺は凛恋の下着をジーッと見ていたつもりはないのだが、凛恋の目にはそう見えたらしい。いや、本当に断じてジーッとなんて見ていない。ただまあ……他の衣服よりは手に持っている時間が少しばかり長いかもしれないだけだ。

 凛恋は俺の顔を下から上目遣いで見上げる。その凛恋の胸元から見えた真っ白のブラは、凛恋が勝負下着にしているブラだった。


「私からはアジの塩焼きしかなかったから」

「凛恋……」


 胸がドキドキと高鳴り、その高鳴りを押さえようとした手は凛恋の手に繋がれる。そして、ゆっくりと凛恋の唇が俺の唇に触れた。

 優しく濃厚なキスを受けて、俺は一気に体の熱を上げられ、脳が溶かされそうな幸福に包まれる。


「毎日やってることじゃ、お祝いにならないけど……」

「そんなことない。めちゃくちゃ嬉しい」

「良かった」


 俺の膝の上に座った凛恋は、赤くした顔で首を傾げる。


「ねえあなた。脱がせて?」


 ドキンッと心臓が跳ね上がり、全身に熱い血が駆け巡る。そして、俺の手は凛恋が着ているルームウェアのボタンに伸びていた。

 凛恋のシャツを脱がせると、凛恋がまた真っ赤な顔で首を傾げる。


「あなた、下も」


 心臓が張り裂けそうなくらいの鼓動を必死に抑えながら、俺は凛恋の両肩を掴む。


「ここだと背中が痛いだろ。布団に行こう」


 俺が真面目にそう言うと、凛恋がプッと吹き出した。それを見て、一気に心臓の高鳴りが収まる。


「り、凛恋?」

「もー、チョー凡人らしい。別にこのまま押し倒しても良かったのに」

「そんなこと出来るわけないだろ。凛恋が怪我したら嫌だ」

「凡人は優しくしてくれるから、怪我なんてするわけないんだけど。それでも優しい凡人らしい」


 シャツを脱いだ状態の凛恋は、パッと立ち上がって和室に敷いた布団に飛び込む。そして、俺を振り返ってニヤッと笑った。


「このまま寝ちゃおうかな~」

「えっ!」

「早く凡人が来てくれないと寝ちゃうぞ~」


 布団の上を転がって言う凛恋の言葉に、俺は慌てて布団の上まで掛けていく。そして、凛恋の上に覆い被さるように四つん這いになった。


「がっつく凡人、チョー可愛い」


 クスッと笑った凛恋は、下から俺の頬を撫でる。

 俺は、再び高鳴った鼓動で心臓が弾けるのを抑えながら、ゆっくりと凛恋のズボンを脱がす。

 上下揃いの勝負下着姿の凛恋を見下ろしていると、下で凛恋がクスクス笑う。


「凡人、目がギラギラ」

「し、仕方ないだろ!」

「でもチョー嬉しい。そうやって、目をギラギラさせて私にがっついてくれて。まあ、それもいつも通りだけ――」


 はやる気持ちを抑え切れず、俺は凛恋の唇を塞ぎながら凛恋の体に手を触れた。

 すべすべでふわふわの凛恋は、ただ抱きしめているだけで幸せになれる。でも、そんな凛恋が俺には全てを許してくれる。それが幸せでたまらない。それに、凛恋から求められるというのが、飛び上がりたいくらい嬉しい。


 街を歩けば沢山の男が振り返る美少女の凛恋が、他の男には絶対に向けない気持ちと姿を俺にだけは向けてくれる。

 凛恋と抱き合う度に感じる優越感に、俺は凝りもせずに酔いしれる。お酒を飲んだことなんてないが、きっと酔うというのはこういう感覚なんだと思う。


 正常な判断が出来なくなる。

 凛恋に凄いと言われれば俺は凄い人間なんだと思えるし、凛恋に格好良いと言われたら自分が格好良いと思えてしまう。そして、凛恋に体を許されれば、俺は何でもして良いとさえ思えてしまう。でも、きっとここはお酒とは違うのだろう。


 愛に酔うと正常な判断が出来なくなる。でも、相手を尊重することは絶対に忘れない。

 凛恋というか弱く儚い存在を傷付けないように、慎重に触れることは絶対に忘れない。

 がっついてしまっても、止めどない愛が溢れてしまっても、凛恋を大切に想う気持ちだけは、掻き消されずにちゃんと持ち続けられた。




 布団の中で抱き合いながら、ルームウェアを着た凛恋の背中を引き寄せる。


「幸せ」


 気だるげな凛恋は、そう艷やかな声で言う。そして、俺の頭を優しく丁寧に撫でた。


「本当、お互いにエロいよね、私達って」

「そうだな。他の人は分からないけど、ちょっと平均よりはエロいかもな」

「でもさー、仕方ないと思わない? だって、凡人と同棲してるんだよ? それなのにエッチ出来ないとか生殺しじゃん」

「俺もそう思う。こんなに魅力的な凛恋と一緒に寝てるのに、我慢しろって言われても無理だ」


 凛恋の腰に手を回すと、凛恋がこれ以上ないくらい密着した体を自ら更に近付けてくる。


「じゃあ、これからも毎日しよーね!」

「分かった。ただし、凛恋の体調が悪い時はちゃんと休むのは条件な」

「はぁーい」


 クスクス笑った凛恋は、俺の背中に回した両手で俺を引き寄せる。


「はぁ~早く大学卒業したい。そしたら結婚出来るのに」

「そうだけど、今も結婚してるみたいなものだけどな」

「婚姻届を出すのが大事なの! 婚姻届を出したら、正真正銘、凡人の奥さんになれるし、何より凡人の家族になれるんだから!」

「そっか。家族か~」

「そう! でも、もう気持ちだけは凡人の家族だから」

「じゃあ、俺も凛恋の家族って思って良いか?」

「思ってくれなきゃ拗ねる」


 冗談めかして唇を尖らせた凛恋は、すぐにクシャッと笑う。そして、チュッと軽く唇にキスをした。


「凡人、私と出会ってくれてありがとう。私のこと好きになってくれてもっとありがとう。それから、私と付き合ってくれてもっともっとありがとう」

「凛恋……」


 凛恋の言葉に思わず目頭が熱くなる。そんな言葉、不意打ちで言うなんてズル過ぎる。

 凛恋は優しく何度も何度も俺の頭を撫でながらありがとうを繰り返してくれて、俺は凛恋の胸に顔を埋めながら、さり気なく涙を流した。


「ずっと一緒に居てね」

「ずっと一緒に居る」


 顔を上げて、俺は凛恋と抱き合いながらまたキスをした。そうして俺と凛恋は、いつものように最高に心地良いまどろみへ一緒に下りていく。

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