【一六五《顧みる人、顧みない人》】:一

【顧みる人、顧みない人】


『凡人くん、大丈夫?』

「大丈夫です。まあ、何も感じないわけではなかったですけど」


 編集部での仕事終わり、俺は真弥さんから掛かって来た電話を取って話す。話しているのは、稲築さんとのことだった。


『八戸さんの友達だから気を遣うかもしれないけど、あまり気にしちゃダメだよ?』

「はい。もう、無難にやることにしました」


 真弥さんから毎日来るメールと電話は今も続いていて、会話は特に込み入った話はなく大抵は短く済む。でも時々、真弥さんの愚痴が長くなったり、今日みたいに俺の方に悩みの種があったりする場合には少し長くなる。


『それくらいが丁度良いよ。凡人くんが無理して辛い思いをする必要は無い。それに私は、その子は凡人くんが無理してまで仲良くする必要がある子ではないと思う。その子に気持ちを傾けるなら、他に気持ちを傾けた方が凡人くんにとって良いことだよ』

「そうですね。多分凛恋も、もう俺と稲築さんを無理に関わらせようとはしないでしょうし」

『それにしても、その子の男性嫌いは筋金入りみたいだね。大して話したことも無い凡人くんに仲良くする気はないってはっきり言うなんて。普通、友達の彼氏がいくら気に食わない人だとしても、そんなことは口が裂けても言えないんだけど……』

「それくらい、俺が嫌いだったんでしょうね」

『凡人くんはその子とほとんど関わってなかったんだよね? だったら、凡人くんが嫌われたってわけじゃなくて、男の子が嫌いだから同じ男の子の凡人くんも嫌いってパターンだよ』

「まあ、同じ大学の同級生の男も嫌われてましたからね」


 飾磨の顔を思い出しながら答えると、真弥さんは電話の向こうでクスッと笑い声を発した。


『凡人くんがそういう話をしてくれて嬉しい』

「えっ?」

『そうやって悩みを相談してくれるってことは、私のことを頼りにしてくれてるってことでしょ?』

「真弥さんは頼りになる大人ですからね」


 俺はそう答えて、電話越しに苦笑いを浮かべる。上手く躱した、と言って良いのだろうか?


『ごめんね、今日は長電話しちゃって』

「いえ、俺の相談が長かったせいですから」

『凡人くんの相談ならいつでも乗るから。いつでも電話して』

「はい、ありがとうございます。じゃあ、おやすみなさい」

『おやすみなさい』


 電話を切って、俺はスマートフォンをポケットに仕舞いながら小さく息を吐く。

 もう、稲築さんのことは考えないようにしよう。俺からは無理に踏み込まないと決めた以上、これ以上何かを考えたって仕方ない。


「あれ? 多野くんじゃん!」


 仕事の疲れでノロノロ歩きの俺の前から明るい声が聞こえる。その方向に視線を向けると、俺に向かってブンブンと手を振る空条さんの姿が見えた。日頃見ると、元気の良い人だなと思うが、仕事疲れがあると少し騒がしい人に見える。もちろん、空条さんにはなんの罪もないが。

 空条さんの周囲には空条さん以外に女性が数人居る。その女性達は、大学で空条さんから声を掛けられる時に時々一緒に居る人達だ。ただ、今日はその中に、空条さんと仲の良い宝田さんの姿はない。

 空条さんとその他の女性以外に、俺達と同年代くらいの男性達が居る。複数の男女。それを見れば、その集まりが合コンのような集まりだというのが予想出来る。


「千紗ちゃん?」

「ごめん! 私、やっぱりこれで帰るね」


 空条さんの後ろに居た男性の一人が、俺に視線を向けた後に空条さんに声を掛ける。声を掛けられた空条さんは、両手を合わせて全員に申し訳なさそうに謝った。

 一緒に居た人達に手を振った空条さんは、小走りで俺の方に駆けて来る。そして、空条さんと一緒に居た人達は、空条さんに背を向けてどこかへ歩いて行った。


「今、インターンの帰り?」

「ああ。空条さんは?」

「私は、合コンの人数合わせ」


 ペロッと舌を出しておどけた空条さんは、すぐに疲れた顔をして肩を落としながらため息を吐く。


「友達にどうしても付き合ってって言われて、みんなはこの後カラオケに行くみたい」

「そうか」


 まあ、ご飯からのカラオケというのはありきたりな流れだが、大体大学生が集まったらそんなものだろう。


「これから一人で帰るの?」

「そう。本当はご飯にも行く気なかったから、真っ直ぐ帰って早くシャワー浴びてゆっくりしたい」


 俺は辟易した表情で話す空条さんから、少し視線を空に向ける。

 とっくの昔に日が沈んだ空は真っ暗で、これから女の子が一人で帰るのには不安な時間帯だった。

 俺はスマートフォンを取り出して、凛恋へ『帰りに空条さんに会った。一人で帰すのが心配だから送ってから帰る』とメールをする。するとすぐに『分かった。優しい凡人、チョー格好良い』とメールが返ってきた。


「空条さん、家の近くまで送るよ」

「えっ?」

「時間が時間だろ。このまま一人で帰すと、俺が家に帰ってから気になって眠れなくなるから」

「でも、多野くんには八戸さんが――」

「凛恋には今メールした。ここで俺が空条さんを送らずに帰った方が、凛恋に幻滅される」


 俺がそう答えると、目を丸くしていた空条さんはニコッと笑って両手を体の前に重ねて丁寧に頭を下げた。


「ありがとう。お世話になります」

「お礼は良いよ。遅くならないうちに行こう」

「うん」


 俺が歩き出すと、空条さんも俺の隣に並んで歩き出す。


「もう大学に入って半年経っちゃうんだよね。早いなー」

「確かに言われてみればそんなに経つのか」

「大学入る時は不安だったなー。でも、今では親の監視もないし、結構伸び伸び出来て気が楽かな」


 クスクス笑った空条さんは、両手を後ろに組んで暗い空を見上げる。


「多分、人数合わせでも、私が合コンに行ってるなんて聞いたら、お父さんはカンカンに怒って、お母さんは倒れちゃうかも」

「良い家に生まれるっていうのも大変だな」

「どうだろ? うちが特殊なだけだと思うけど? 今の時代、世間体が~、家柄が~って嘆く人が珍しいと思うよ。うちの両親はちょっと思考が前時代過ぎるの」


 親への愚痴を言っているのに、空条さんは可笑しそうに笑う。


「私、幼稚園から大学まで女子校の一貫校に通ってたの。お金さえ払えばまず間違いなく大学までエスカレーター式にスーって卒業出来ちゃうような」

「えっ? じゃあなんで塔成に?」


 幼稚園から大学までエスカレーター式なら、わざわざ塔成大みたいな外部の大学を受験する必要はない。


「もっとレベルの高い大学に行きたい」

「なるほ――」

「っていうもっともらしい理由を言って受験したけど、なんか敷かれてるレールの上を走りたくなくなったから。塔成大を選んだのは、私の学力で行けそうで、世間体を気にする親も文句を言わないだろうって思ったから」

「敷かれてるレールの上を走りたくなくなったから、か」


 エスカレーター式は、一切の試験が無く自動的に進学出来るシステムのことだ。見方によれば、入ってしまったら安心の楽なシステムに見えるが、空条さんからはそうは見えなかったらしい。


「それに、やっぱり親が問題だったかな。私がね、小学校の頃にお小遣いで漫画の単行本を買ったの。そしたら、その単行本をお母さんが見たせいで家族会議になっちゃって」

「漫画で家族会議!?」


 俺は空条さんの言葉に思わずそう声を上げて聞き返してしまう。家族会議になるような漫画って、いったいどんな漫画を買ったんだろう。


「家族会議って聞くと、とんでもない漫画を買ったと思うでしょ? でも、普通の少女漫画だったの」

「普通の少女漫画?」

「うん。普通に本屋さんで売ってる漫画雑誌に載ってる漫画の単行本。でも、それがちょこっと過激な描写がある恋愛物で。それを見たお母さんがお父さんにその漫画を見せて、こんないやらしい物は読むなって言われちゃって」

「ああ、少女漫画って意外と描写が激しいって聞くからな」


 少年漫画には、ヒロインのスカートが捲れてパンツが見えたり、主人公が何故かヒロインの着替えやお風呂に突撃して裸を見たりすると言った、お色気要素があるものがある。それは、読む側の男の年齢層が、エロに興味がある年齢層だからだ。しかし、男だけではなく女の子の方も興味はあるらしい。ただ少年漫画のエロと違って、少女漫画のエロは恋愛の延長線上にあるらしい。


 少年漫画のエロは、唐突なエロが多い。最近は、あまりにもバカバカしいお色気シーンも多く、一種のギャグ要素にもなっている。ただ、少女漫画の方は恋愛の延長線上にエロが描かれていることが多く。ギャグ要素が少ない分、生々しく見えることがある。凛恋が読んでいた漫画にも、結構過激な描写のものが多かった。


「学校でもみんな読んでるし、そもそも漫画がフィクションだっていくら小学生だって言っても理解出来る。そう言っても、お父さんお母さんは許してくれなくて、漫画は処分されちゃった」

「……それは酷いな」

「でも、買い直して今度は隠して読んでたけど」


 プッと笑いながら空条さんは言う。捨てられても買い直して隠すという思考が出来るあたり、やはり裕福な家庭の人なんだなと思った。


「そのことがあってからかな。なんか、親になんでもかんでも口を出されるのが嫌になって、私はお父さんとお母さんの操り人形じゃないって思い始めたのは」

「漫画くらいは好きに読ませてほしいよな」

「でしょー? その漫画事件の後から、男の人がどれだけ怖くて汚いかってお母さんが毎日説明し始めて、それをバカじゃないの? って思いながら聞いてた」

「それは……結構偏った教育方法だな……」

「でも、聞き流してたから洗脳されなかったけど」


 空条さんはことも無げに笑うが、俺としては結構壮絶なエピソードだった。両親にそこまで偏った教育をされていたという話は。

「世の中には、彼女じゃないのにわざわざ送ってくれる多野くんみたいに優しい男の人も居るのにね」


 それを聞いて、もしかしたら稲築さんも空条さんと同じなのではないかと思った。

 稲築さんは女子校出身らしいし、空条さんのように周りから男に近付かないように男に対する悪い話を吹き込まれたのかもしれない。空条さんはそれを信じずに聞き流したそうだが、悪い話を稲築さんが信じたと考えれば、あの徹底的な男嫌いにも納得がいく。


 ただそうなると、より俺が稲築さんと仲良くなるのは無理に決まっている。

 もし俺の想像通りだったら、空条さんの言葉通り洗脳に近い。その洗脳のような固定観念は簡単には変えられない。

 俺は空条さんと話しながら最寄り駅に向かい、空条さんの家に近い駅に止まる電車に乗る。


 電車の中は、丁度帰宅ラッシュとぶつかったせいか、人でごった返している。しかし、その満員電車も毎日のことになれば慣れてしまうものだ。


「わぷっ! 多野くんごめん」

「大丈夫」


 満員のせいで吊革にも掴まれない空条さんは電車の揺れで俺の胸に思い切り顔を埋める。そして、真っ赤な顔で申し訳なさそうに謝った。


「こんなことなら、合コン断ってすぐに帰れば良かっ――ッ!?」

「空条さん、大丈夫?」


 苦笑いを浮かべていた空条さんが、急にハッとした表情をする。その空条さんに声を掛けるが、空条さんはすぐに明るく笑って首を横に振った。


「ううん。何でもない何でもない! ごめん、乗ってる間だけ掴まらせて」


 両手を振って否定した空条さんは、ニコニコ笑いながら俺の腕を掴んでバランスを保つ。その空条さんの反応を不審に思った俺は、斜め上から空条さんを見下ろして様子を窺う。すると、空条さんの背中側で紺色のスーツの袖に包まれた男性の腕が、デニム生地のスキニーパンツに包まれた空条さんのお尻の後ろで動くのが見えた。


「――ッ!?」


 俺が空条さんの後ろに手を回して、男性の腕を掴む。俺に腕を掴まれた男性は真っ青な顔をして俺を見返す。その男性の腕を強く握って車掌に突き出そうと思ったが、男は俺の腕を振り払って電車の奥に消えていった。


「ごめん、逃がした。大丈夫?」


 すぐに視線を下に落として空条さんを見る。


「う、うん……ありがとう」


 空条さんは少し俯いて頷きながら返事をした。でもその返事には元気がなかった。

 さっきの男から空条さんは痴漢をされていた。その状況で明るく振る舞うことなんて出来るわけがない。

 俺の腕を掴んでいる空条さんの手から、空条さんが震えているのを感じて、俺は腕を掴まれたまま車内にある路線図に視線を向けた。


「空条さん、次の駅で降りよう」

「多野くん……」

「下りた方が良い」


 満員電車は当然狭いしすぐ近くに人が居る。さっきの痴漢男は離れて居なくなったが、それ以外の男性が空条さんの近くに居る。その状況は今の空条さんにとって怖いはずだ。だったら、一刻も早く電車から出なければならない。


「ありがとう……丁度、次の駅だから……」


 空条さんは顔を上げて無理に笑うが、顔色は青い。


「そっか。良かった」


 良かったと手放しに喜べる状況じゃない。むしろ、空条さんが無理をして気丈に振る舞っている分、良くない状況だ。

 それでも俺に出来るのは、出来るだけ空条さんが辛い思いをしないように振る舞うしかない。

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