【一六五《顧みる人、顧みない人》】:二

 数日後、月ノ輪出版レディーナリー編集部で、俺は恐ろしい量のコピーと郵便物の振り分けを同時に行っていた。

 締め切りが立て込んでいるのか、記事のチェック関連の仕事が多く、編集部の中もいつも以上に編集者達が動き回っている。


「多野、今日、ちょっと残れる? うちも締め切り前で仕事が詰まってて、人手が欲しいの」

「分かりました」

「ありがとう」


 古跡さんは俺にそう一声掛けると、すぐに自分のデスクに戻って作業を始める。そして、俺の脇にはいつの間にか大量の書類の山が積み上がっていた。

 ただコピーをするというのは、もう俺は止めた。コピー一つでも、編集さん達が扱い易いように考えた。それに郵便の振り分けもただデスクに配るだけじゃなくて、重要な郵便物は直接知らせたり目に付きやすくしたりした。


 やってることは本当に些細なことでしかない。ぶっちゃけ、やってもやらなくても変わらないのかもしれない。それでも、本当の意味で仕事の経験をするには、そういうことも必要なのかもしれない。

 勝手な仕事内容の改変は言語道断だが、味付けを足すくらいは誰も咎めないはずだ。


「ふぅ……」


 山のような書類のコピーや整理を終えて、俺は小さく息を吐く。


「多野、夜食の買い出しに行ってくれる?」

「はい」


 古跡さんからお金とメモを受け取っていつも通り買い出しに行こうとすると、古跡さんに肩を掴まれる。


「量が多いから一人じゃ無理よ。帆仮! 多野の買い出し手伝って! そっちは落ち着いたでしょ?」

「はい!」


 椅子に座ってほとんど放心状態だった帆仮さんは、古跡さんの声に我に返って立ち上がった。


「お疲れ。自分の仕事は終わったんだから、多野と買い出しして息抜きしてきなさい」

「は、はい! ありがとうございます!」


 帆仮さんはデスクに戻る古跡さんを見送り、明るい表情で俺を見る。


「じゃあ、行こうか」

「はい」


 俺は帆仮さんと歩き出しながらメモを見る。メモに書かれている買い足しの量は、確かにいつもよりは多い。でも、一人で持って来られないほど多くはない。ということは、きっと古跡さんは帆仮さんに息抜きをさせたくて、俺と一緒に買い出しに行かせたのだろう。


「多野くん、ありがとう」

「はい?」

「多野くん、私達が仕事をやりやすいように気を遣ってくれてるでしょ? 実際、そのお陰で仕事がやりやすくなったし私も締め切りに間に合った」


 背伸びをしながら、エレベーターのボタンを押した帆仮さんが言う。


「気付いてもらえてるとは思いませんでした。ちょっと前に、作業と仕事の違いを古跡さんから聞いて、自分なりに考えてやってみたんです。やってることは、些細なことなんですけどね」

「その些細なことのお陰で仕事が捗ったの。ホント、締め切り間に合わなかったらと思ったら……」


 帆仮さんは自分の体を両手で抱いて身震いをした。

 帆仮さんと月ノ輪出版のビルを出て、近くのサンドイッチ屋に向かって歩く。


「帆仮さんは男って好きですか?」

「えっ!?」

「あっ、すみません! 今のは無しでお願いします」


 俺は会話が途切れた時、ふと気になっていたことを聞いてしまった。そしてすぐに、女性に聞くべき話ではないと思い、すぐに話を取り消した。


「好きか嫌いかって聞かれると、嫌いとは思わないよ? 何かあったの?」


 失礼な話に律儀に答えてくれた帆仮さんは横で首を傾げる。その反応を見て、俺は話しても良いのかもしれないと思い、話を続けることにした。


「彼女の友達が男嫌いで、彼女がその友達と仲良くしてほしいって言うんで頑張ってみたんですけど、取り付く島もないくらい拒絶されて、無理に仲良くなるのは止めたんです。それで、なんで男を嫌うのかと思って」

「あー、でも、男の人に対して嫌な印象を持つのは私も理解出来るよ」


 帆仮さんは少し苦笑いを浮かべて眉をひそめる。


「大学時代はよく飲み会に誘われて、同級生とか先輩の男子にしつこくお酒を進められることは日常茶飯事だった。興味のない人からの誘いを断ったら不機嫌な顔されて、特に先輩の誘いを断ったらビッチだなんだって噂が広められたこともあった。街を歩けば胸とかお尻とかを男の人から見られることも多いし。そういうのがあると、なんで男の人って女の人をそういう目でしか見ないの? そういうの嫌なんだけど? って思うよ。編集部に入ってからも仕事で男の人と接する時、時々食事に誘われたり飲みに行こうって誘われたりすることもある。それが自然な感じなら良いんだけど、結構年上のおじさんとかが下心たっぷりの顔で誘ってくるから嫌だなって思う。でも、そういうのを気にし過ぎて過剰に拒否すると、自意識過剰だって陰で言われることもある」

「やっぱり――」

「でも、そういう人って一部の人だし。胸とかお尻を見られるのも慣れちゃったかな。それに、良い男の人も居るし。多分、その彼女さんのお友達は、良い男の人に出会ったことがないんじゃないかな? 逆に、出会った男の人が嫌な男の人ばかりだったのかも」

「出会った男の人、ですか……」


 稲築さんの男嫌いの原因は、空条さんから聞いたら男性嫌悪を洗脳するような教育の可能性もあるし、帆仮さんの言った出会った男の人がたまたま悪い人ばかりだったという可能性もある。

 ただまあ、どっちにしても俺はどうしようもないが。


「多野くんは真面目だよね。塔成大の子ってみんなそうなの?」

「はい?」

「私が大学生の頃の男子学生って、どうにかこうにか女子と仲良くなってあわよくば……みたいな男子ばかりだったから。男の人としては、そういう男子の方が正常なんだけどね」

「真面目ってわけではないです。ただ、やっぱり女性から見たら男って醜いのかなって思って」


 俺はそう言いながら、空条さんに痴漢をした男の顔を思い出した。

 痴漢男は、良い年した大人だった。下手すれば家庭を持っていて子供が居る可能性もあるような人だった。でも、あの男は自分の欲求を満たすために、女性である空条さんを傷付けた。そういう男は、同じ男の立場からしても醜いと思う。


「私は多野くんのことは醜いなんて思わないよ。真面目に頑張ってるし、私が見てる範囲だけだと、多野くんは誠実な男の子だから。裏ではどんなことしてるか分からないけどね」


 帆仮さんは俺をからかうように冗談で言う。


「多野くんは今のままで良いと思うよ。特別何かをしなくても、多野くんには良い人が周りに集まると思う。それでも、その彼女さんのお友達が多野くんと仲良くなれなかったら、それは相性が悪かったって軽く流した方が良いよ。あまり考え込み過ぎるのも良くないし」

「はい。そうすることにします」


 話しているうちに目的地のサンドイッチ屋に着き、隣を歩いていた帆仮さんが駆け出して店内に入っていく。それを後ろから眺めながら、俺は稲築さんの問題を考えるのを止めた。




 透明のビニール傘を差して傘越しに空を見る。

 空からは雲が見えないくらい隙間なく雨が地面に落ちてくる。その勢いは叩きつけるようなもので、ビニール傘が壊されるのではないかと心配になるほどだ。


 今日は一日中雨の予報。だから、編集部に来る時も今みたいな大雨だった。

 締め切りを過ぎたら今度は次の企画のための仕事が始まり、編集部の人達は相変わらず忙しそうにしていた。

 俺に出来ることは限られているが、その中で考えてやったことが評価されていたことは嬉しかった。あれ以来、大変さの方が強かった仕事に、楽しさが前よりも増えた気がした。


 自宅の最寄り駅で下りて、いつも歩き慣れた道を歩く。

 自宅アパートまで近付いてきた頃、住宅街の道を歩いていた俺は足を止める。視線の先に、俺の道を塞ぐように立っていた人影が見えたからだ。

 ラフなデニム生地のズボンに白地のプリントTシャツ姿のその男性は、何か右手に持った紙を見てから俺に視線を向けてニヤッと笑った。


「こんばんは。多野凡人さんですよね?」


 その男性は俺に近付きながらそう話し掛けてきた。言葉は丁寧なのに口調は軽く、表情もヘラヘラと笑っている。

 雰囲気だけでも気味の悪さを感じるが、俺の名前を知っているということが一番気味が悪い。


「無視は酷くないですか?」


 無視して通り過ぎようとした俺の肩を男性は掴み引き止める。男性に振り向かされた俺は、男性の手を振り払いながら睨み返した。


「どちら様ですか」

「どうも。私、本労社(ほんろうしゃ)の週刊SOCIALという雑誌を担当しています。柳町(やなぎまち)と言います」

「……週刊SOCIAL?」


 名前は薄っすらと聞いた記憶がある。確か写真週刊誌、いわゆるゴシップ誌の名前だ。


「まさか、架空請求詐欺犯の息子さんが、あの塔成大の秀才とは驚きましたよ。新入生総代の挨拶を断ったのは、お母様の多野瞳さんの事件が原因ですか?」

「あの人とは縁を切りました。関係ないので帰ってください」

「まあ、生まれて間もない凡人さんを自分の両親に押し付けて、自分は色んな男と遊び歩いていたような母親ですからね」

「用がそれだけなら、俺はこれで失礼します」

「それで、お父様は誰だかご存知ですか?」


 俺は男性から離れて歩き出そうとした。その俺に、男性の笑い混じりの声が届く。


「お母様は父親が誰か教えて下さらなかったんですか?」

「俺には父親も母親も居ませんから」

「そんな悲しいことを言うと、お父様が"霞ヶ関"で泣いてしまいますよ?」


 男性のその言葉を言い終えると、ニヤリと笑って頭を下げる。


「今日は挨拶と謝罪に来ただけです」

「挨拶と……謝罪?」

「はい。人の人生をぶち壊す代わりに、美味い飯を食べられそうなので」


 男性はそう言って背中を向けて、夜の住宅街から離れていく。そして、道の奥の闇に男性が消えるのを見送って、底冷えするような寒気を感じた。

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