【一六四《思い通りの幸せ》】:二

「稲築さん、こんばんは」


 俺はその場で立ち上がるが、下手に稲築さんに近付くことなく挨拶をする。しかし、稲築さんは俺に視線を向けると、硬い表情から鋭い視線の厳しい表情に変化させて口を動かした。


「凛恋に頼まれたから来ただけ。私はあなたとは仲良くする気はない」


 明らかに不快感を露わにした表情と声で言われ、俺は何も言葉を返せず苦笑いも浮かべられなかった。


「さ、さあ! 夕飯の準備するから飛鳥は座ってて。今日のために私、結構頑張ったんだから」


 一瞬冷たくなった雰囲気を凛恋が明るくしようとする。それに、俺へ厳しい表情を向けていた稲築さんは、まるで別人のように満面の笑みを浮かべて凛恋に近付いた。


「私も手伝う。凛恋の手料理、楽しみにしてたの」

「ありがと。じゃあ、飛鳥にはシチューを温めてもらおうかな」

「任せて」


 台所で並んで立つ凛恋と稲築さんの後ろ姿を見て、俺は軽く拳を握った。でも、すぐに握った拳の力を抜いてゆっくりと開く。そして、何も表示されていないスマートフォンを見てから凛恋に声を掛けた。


「凛恋、ちょっと電話が掛かってきたから外に出てるな」

「えっ? うん」

「飯の準備が終わっても戻ってこなかったら、先に食べてて良いから」

「…………」


 俺がそう言うと、凛恋は視線を落として返事をしない。しかし、凛恋の肩に横から色白の細い指が付いた小さな手が載っかった。その手は、稲築さんの手だった。


「お言葉に甘えて先に食べちゃおう。凛恋のせっかくの料理なんだから、冷ましたらもったいないし」


 稲築さんは笑顔でそう凛恋に言う。


「ダメだよ。せっかくみんなで食べようって集まったんだから」


 そんな稲築さんの言葉に反論したのは、希さんだった。希さんはそう言いながら俺を見る。しかし、その視線は怒っているわけではなく、少し俺を心配しているような気遣いが感じられる優しい視線だった。


 稲築さんが凛恋に向ける態度と、希さんに向ける態度は違う。でも、俺に向ける態度は明らかに違う。しかも、その態度の違いを隠そうとはしない。

 人という生き物は、かなり周囲の自分に対する評価を気にする生き物だ。だから、稲築さんも俺に対して冷たい態度や理不尽な態度を取れば、凛恋から向けられる自分に対する評価が落ちることを懸念するはずだ。でも、稲築さんはそれを気にする様子はない。つまり俺は、稲築さんから周囲の評価が落ちても構わないと思われるほど嫌われているということだ。


 人から嫌われることには慣れている。それに、稲築さんから嫌われているのは分かり切っていたことだし、そんなに簡単に仲良くなれるとも思っていなかった。そして、冷たい態度を取られるだろうということも想定し覚悟していた。だから、精神的な準備は万全だった。

 でも……仲良くなろうとしている相手から向けられる拒絶は、思いの外堪えた。


 稲築さんとはどう足掻いても仲良くなれるわけがない。それが本能的に分かってしまう。どの方向からアプローチしても稲築さんは心を開かない。それを感じてしまう。

 稲築さんが、どんなことをされても俺とは仲良くならないと、どんなアプローチを受けても絶対に心を開かないと、そう決意しているのが分かってしまう。


 俺は部屋の外に出て、ドアの脇に背中を付けて小さく息を吐く。

 俺は逃げたのだ。方法がないと分かってしまったから、無理だという答えが出てしまったから、どうすることも出来なくて逃げるしかなかった。


「人と仲良くなるのって、難しいんだな……」


 俺は、分かり切っていたことを、もうずっと前から知っていたはずのことを口にして、再認識する。

 小学校中学校と、人と仲良くなることが出来なかったから俺は一人だったし、人と仲良くなることが出来なかったから俺は人から悪意を向けられてきた。だから、人と仲良くなるということがとても困難なことだというのは分かっていた。でも、俺はそれを忘れていたのだ。


 高校の時はもちろん、大学に入ってからも、俺は運良く人と普通に話せる間柄になれていた。俺に初っ端から嫌悪を向けてくる人よりも、普通に接する人が多いという認識を持っていた。だから、自分が人に嫌われる人間で、人と仲良くなることが困難な人種だということを忘れてしまっていたのだ。

 それを思い出させられて、俺は運の良さで持っていた自信を簡単に砕かれた。


 俺が人と仲良くなれたのは周りの人のお陰だ。高校の時の友達はみんな凛恋のお陰だった。凛恋が繋いでくれた友達だった。

 飾磨だって、鷹島さんと本蔵さんが一緒に居たから俺に話し掛けてきた。その鷹島さんも本蔵さんも、俺が凛恋に出会わなければ友達になることもなかった人達だ。


 俺は、俺の力で誰かと仲良くなれたことなんてない。全部、凛恋という社交的な彼女が居たから、自分の周囲に人と関わる機会が増えただけだったのだ。そして、社交的な凛恋の彼氏であるから、俺は人と仲良くなれることが出来た。


「凡人くん」


 俺が外廊下の床を見下ろしていると、部屋から出てきた希さんが俺の隣に立って声を掛けてくれる。その声も、部屋の中で見た表情と同じ気遣いが溢れた声だった。


「凛恋が稲築さんに怒ってたよ。凡人くんと仲良くしてって」

「凛恋が?」

「うん。怒鳴るようなことはしなかったけど怒ってた。私もムッとしたから、彼女の凛恋はもっとムッとしたんだと思う」


 変に怒って雰囲気を壊すのは良くない。だから、凛恋はあのまま雰囲気を変えて流すべきだったのだ。俺も、流すべきだったから一度外に出た。


「凡人くんだって凛恋に対して失礼なことした人にはムッてするでしょ? それと同じだよ」


 希さんはそう言いながら、小さくため息を吐く。


「私は凡人くんと初めて会った時から、苦手って感じはしなかったけど、何で稲築さんはあんなに凡人くんのことが苦手なんだろ……」


 希さんは困ったように言う。でも、希さんは気を遣ってくれたが、稲築さんは俺のことが苦手ではなく、俺のことが嫌いなのだ。


「とりあえず戻る。流石に、このままここでボーッとしてるわけにもいかないだろ。それに、凛恋の友達が来てるからな」

「凡人くん……」

「無難に何とかやってみることにする。凛恋には申し訳ないけどな……」


 そうは言ったが、何とかやってみる自信はなかった。元からそんな自信はなかったけど、稲築さんと実際に会って、改めて嫌悪を向けられて俺と稲築さんの間には深い溝でも高い壁でもなく、世界の境界線を感じた。稲築さんに、稲築さんの世界に入って来るなと言われた気がした。


 そこまでの拒絶を感じて、本当に俺は稲築さんと仲良くなる必要があるのか分からない。元から必要があるのか分かってはいなかった。それでも凛恋が望むならと動いたのだ。だけど、やっぱり稲築さんは俺を拒絶している。それなら、もう俺にはどうすることも出来ない。


 人には人それぞれの感性がある。人と関わった方が良いと感じる人も居れば、人とは最低限の関わりで良いと感じている人も居る。俺はどちらかと言わなくても後者の人間だ。だから、その点では稲築さんの態度に理解が少しは出来る。

 俺だって、小中の頃はあんなツンツンして周りを寄せ付けないような人間だった。


「凛恋と稲築さんが関わって、もし自分の世界を広げてみようと思って、それで広げた先に俺と関わることがあるなら、俺は凛恋の彼氏として稲築さんと関わることにする。でも、それまでは稲築さんの世界に踏み入らないようにするよ。他人の世界に踏み込めるのは、踏み込むことを許された人と、踏み込んでも相手に嫌な思いをさせない人だけだ。俺は、稲築さんにとって入って来てほしくない人みたいだし」


 稲築さんと無理に仲良くしないと考えた途端、気分が楽になった。

 その俺に、希さんはにっこり笑いながら言った。


「優しい凡人くんらしいね」




 食事会自体はつつがなく終わった。

 稲築さんが凛恋に怒られたというのは、希さんから聞いていた。多分、その影響があったのか、稲築さんは俺に対して一言も言葉を発しなかった。そして、俺の方も稲築さんには話し掛けなかった。


 凛恋は稲築さんにずっと話し掛けられていて、それを見ていた希さんは俺に話し掛けてくれた。もちろん、凛恋は俺を会話に混ぜようとはしていた。しかし、俺が無難な答えを返すことと、稲築さんが俺に対して無視を決め込んだことで、食事会の後半には、俺と稲築さんを会話させようとはしなくなった。


 食事会が終わると、稲築さんが帰ると言い。もう暗くなっていたから、俺は凛恋と一緒に希さんと一緒に稲築さんを家まで送った。送ったと言っても、俺は凛恋達に付いて行ったと言う方が正しいが。しかし、日が沈んで暗くなった外を女の子達だけで出歩かせるという選択肢はなかった。


 稲築さんと希さんを送り届けて、俺と凛恋が部屋に帰ってきた時には、それなりに遅い時間になっていた。

 俺は凛恋がシャワーを浴びると言って風呂場に行ったのを見送り、俺は和室に布団を敷いてその上に寝転ぶ。


 稲築さんの世界には無理に踏み込まないと決めて、仲良くならなければと意気込む必要がなくなった分、気持ちは楽になった。しかし、気を遣うことには変わらず気疲れをした。

 布団の上でうつ伏せに倒れながら大きく息を吐く。久しぶりに気疲れというやつをした気がする。


 凛恋は俺なら稲築さんと仲良くなれるのではないかと期待していた。でも、俺はその期待に応えられなかった。

 荷が重いと思っていたし、無理だとも思っていた。だから、稲築さんと食事会で仲良くなれなかったこと自体には残念感はない。だけど、凛恋の期待に応えられなかったのは、本当に申し訳ないと思う。


 きっと凛恋は、俺と希さんが稲築さんと仲良くなって、もっとみんなで一緒に遊びたかったのだ。それを叶えてあげられなくて、俺は俺自身を情けなく思う。


「凡人」

「凛恋、シャワーから上がっ――ッ!?」


 振り返ると、バスタオルを体に巻いた凛恋が立っていた。濡れた髪が蛍光灯の白い光に照らされて光沢を放ち、ゆっくりと俺の横にあひる座りをする。

 時々、凛恋は俺をからかうために「バスタオル一枚だと思った? 下に短パンとTシャツ着てまーす」みたいなことをしてくることがある。しかし、凛恋が巻いているバスタオルの上からは凛恋の綺麗な肩が露わになっていて、少なくともTシャツは着ていないのが分かる。いや、あれはブラの肩紐も見えないから、ブラもしていないのではないだろうか。


「凛恋……下は?」

「着けてない。どうせすぐ脱ぐし」

「すぐ脱ぐのか……」

「だめ?」

「ダメじゃないダメじゃないっ!」


 小首を傾げて聞き返した凛恋に、俺が慌てながら言う。すると、凛恋は小さく微笑んだ。


「良かった」


 今日の凛恋は、元気いっぱいの凛恋ではない。アンニュイというか少し憂いの感じられる表情と声色をしている。小さく吐かれる凛恋の吐息も少し湿っぽい。でも、それが落ち着いた女の色気を際立たせていた。


 一瞬で凛恋の魅力に当てられた俺は、凛恋の体を抱き寄せて唇を重ねる。柔らかく温かい凛恋の唇に触れながら、俺は露わになっている凛恋の肩をそっと撫でた。


「ごめんね……」

「凛恋?」


 唇を一旦離すと、凛恋の唇が小刻みに震えて、凛恋の口から震えた言葉が溢れた。


「凡人のこと、私のせいで傷付けちゃった……」


 凛恋はそう言葉を続けて、瞳から涙をホロリと一粒溢す。その涙の伝った道を指先で拭いながら、俺は凛恋に笑い掛ける。


「稲築さんのことを謝ってるのか?」

「うん……」

「そっか。心配してくれてありがとう。何も思わなかったわけじゃないけど、凛恋がそんな悲しい顔をして心配するほどじゃない」

「ううん。凡人が気付いてないだけで凡人は傷付いた。……私は凡人の彼女なのに、凡人のことを一番傷付けちゃいけない存在なのに、その私が凡人の心を傷付けちゃった……」


 凛恋は一粒だけだった涙を、二粒、三粒、四粒五粒と止めどなく溢れさせる。その涙を、俺は根気よく何度も何度も、凛恋の綺麗な肌を擦り切らせないように優しく拭った。


「こんなんじゃ……理緒と露木先生に凡人を盗られちゃうっ……」

「盗られないって」


 不安モードになった凛恋はとことん不安な思考に陥る。その不安を安心に変えさせるため、俺は明るく笑いながら軽い口調で答える。それでも、凛恋は唇を震わせながら不安そうな表情をしていた。


「こんなに可愛い凛恋の彼氏、自分から辞めてやるつもりなんて俺は無いぞ」

「凡人……良かった……」


 凛恋は俺の体に腕を回して抱きつき、俺の胸に顔を埋めてそう言った。俺はその凛恋の頭をそっと撫でた。


「俺の方こそごめんな。俺じゃ、俺から稲築さんと仲良くなるのは難しそうだ。稲築さんは俺のことを拒絶してるみたいだし」

「うん……でも、飛鳥のあの言葉はムカついた。ちゃんと部屋まで送った時に言ったから。次、凡人を傷付けたら許さないって」

「良かったのか? もっと仲良くなりたい友達なんだろ?」


 俺は凛恋にそう聞き返す。

 凛恋は稲築さんを俺と希さんと仲良くさせようとしていた。それは、凛恋が稲築さんともっと仲良くなりたかったからだ。でも、凛恋が稲築さんに怒って言った言葉は、二人の関係にヒビを入れかねない言葉だ。


「……凡人の方が大事だもん」

「凛恋……」

「飛鳥とも仲良くしたい。それは変わらないけど、どうしても凡人か飛鳥のどっちかしか選べないなら凡人を選ぶ。もう二度と、凡人を手放さない」

「誰が手放されてやるか。ずっと俺から凛恋にしがみついてやる」


 凛恋が高校の頃に一度別れたことを思い出し、またじんわりと瞳に涙を滲ませる。

 俺はゆっくりと凛恋の体を布団に寝かせて、上から覆い被さって凛恋の唇を塞いだ。俺は、凛恋が不安に震える余裕も起きないくらい、唇と気持ちを押し付けて凛恋にがっつく。それに、凛恋もがっつき返してくれた。


 思うように行かないこともある。それは、人生一九年しか生きて居ない俺でも嫌というほど分かっている。でも俺は、そんな思うように行かない人生でも、思うように行けたことがある。


 好きな人と両想いになって一緒に居られること。それが、人生で一番思うように行って良かったことだ。それから思うように行っただけで、他の何もかもが上手く行かなくても良かったと思える。

 そんな幸せを感じながら、俺は凛恋の背中を引き寄せて凛恋を抱きしめる。そして、思い通りになった幸せを噛み締めた。

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