【一五七《爪紅(つまくれない)は弾け、種を撒く》】:二

 大学の夏休みは長い。だから、高校では夏休み最後のイベントだった花火大会も夏休み最後ではない。

 今日も、その毎年恒例の花火大会が行われる。そして、今年もみんなで花火を見に行こうと約束をしている。ただ、俺は少しだけ不安だった。


 一緒に花火を見に行く中に、露木先生が居るから。

 もちろん、露木先生と一緒に行くのが嫌なわけではない。でも、キャンプの日から俺は何も出来ていない。露木先生が訴えたことを、ちゃんと俺が人に頼らないことだと心の中に入れられても、俺がどうすれば良いのか答えが出たわけじゃない。


 ただ、今はまだ仕事で遅れる露木先生が居ないから、気まずさを感じず居られた。

 大人数で移動している間は、俺は黙って居ても問題ない。いつも俺はそこまで喋る人間ではないし、いつもの面々で会話を回すのは萌夏さんと里奈さんの役割だからだ。今更、その役割を俺が担わされているわけではない。


 俺はそういうこともみんなに頼っている。苦手なことは任せている。出来ないと分かっていることは無理にやろうとはしていない。だから、頼っていないわけではない。

 それに、これくらいの軽いことだから頼れるのだ。重いことなんて頼られたら、ただの迷惑でしかない。


 俺は凛恋と出会って友達が出来て、人との付き合い方が分かるようになった。それは、古い言葉を使うなら、親しき仲にも礼儀あり、だ。

 いくら俺を信じてくれている、俺の友達で居てくれる人でも、俺がその人達に遠慮をなくし過ぎたら離れて行ってしまう。俺は、それが嫌だし怖い。だから、どんなに親しい間柄でも最低限の遠慮は必要なのだ。

 それが分かっているから、俺は今みんなと一緒に居られるのだ。その分かっていることを、実行していることを変に崩して壊したら、みんなとの関係が崩れてしまうかも知れない。


 案配(あんばい)は大事だ。その俺が考えている案配は、何の問題もなくみんなで仲良く出来ていることから正しいと分かる。


「凛恋、大丈夫か?」

「うん……」


 俺は思考を完結させて、すぐに凛恋に全思考を向ける。隣を歩いている凛恋は俺に笑顔を向けるが、やはり人が混み合っているお祭り会場のような場所に長居するのはまだ無理だ。


「みんな、凛恋とちょっと休憩してくる」

「オッケー。じゃあ、花火が始まる前にみんなで集合しよ」

「ああ。じゃあ、また後で」


 萌夏さんの言葉を聞いて、俺は凛恋の手を引いてみんなとは別の方向へ歩き出す。


「とりあえず何か食べ物を買おう。焼きそばとたこ焼きは必要だな。凛恋は何か食べたい物はあるか?」

「私も焼きそばとたこ焼きで良いよ」

「じゃあ、半分ずつ食べよう」

「うん」


 凛恋と手を繋いで焼きそばとたこ焼きを買った俺と凛恋は、去年も行った公園のベンチで俺は凛恋と一緒に買った焼きそばとたこ焼きを広げる。


「凡人」

「どうした?」


 話を切り出した凛恋が、俺の目を真っ直ぐ見ている。その凛恋の目は、僅かに揺れていた。


「凡人は何も言ってくれないから聞くけど、何かあった?」

「ん、ああ……キャンプに行った日の夜に露木先生に言われたんだよ。俺の心が壊れないか心配だから、もっと頼って下さいって」


 凛恋の言葉を聞いて、俺が重い話にならないように軽い口調で言うと、凛恋は俺の手首を掴んでジッと目を覗き込む。


「なんで、私が聞くまで話してくれなかったの?」

「いや、だって別に凛恋に相談するようなことじゃないだろ?」


 凛恋の言葉にそう答えると、凛恋は首を横に振って否定する。


「違う、私は凡人に話してほしい。何でも良いの! それに……何でも私に頼ってほしい。塩がどことか醤油はどことか、トイレットペーパーが切れてるとかでも良い。アルバイトが辛いよって言ってほしい。学校でこんな面倒なやつに会ったとかでも良い。それに……誰かに――」

「八戸さん」


 その声を聞いて、俺は視線を公園の入り口に向ける。そこには、朱色の巾着を両手に持ち、白地に赤い花柄の浴衣を着た露木先生が立っていた。

 色っぽい大人の女性。結い上げた髪の露木先生を見て、そういう印象が浮かんだ。俺よりも年上だから大人なのは間違いない。でも、年齢だけではなく、雰囲気が違った。


「八戸さんは多野くんのそういう性格をどう思う? 誰にも頼ろうとしない、多野くんの性格」

「心配です」


 ゆっくりこちらに歩きながら凛恋に話し掛ける露木先生。その露木先生を見たまま、凛恋はベンチから立ち上がる。俺は、握っていた凛恋の手が離れて、心にスッと冷たく押し潰されるような不安を感じた。

 向かい合う凛恋と露木先生の間に、いつもの明るい和気あいあいとした雰囲気を感じられなかった。


「じゃあ、どうすれば良いと思う?」

「凡人に頼ってもらえるように――」

「八戸さん、残念だけどそれは無理だよ」

「凡人とちゃんと話して、凡人にちゃんと頼ってもらえたら――」

「八戸さんにはその時間がいっぱいあったよね。二人が付き合い始めたのは高校一年生の頃からだって言ってたから、四年も時間があった。でも、多野くんは今八戸さんが見ている通りだよ」


 凛恋の前に立った露木先生は、笑いもしないし怒りもしない真顔で俺を見る。でも、その何も色がない表情が少し怖かった。


「私が多野くんを見ていた時間はとっても少ない。ほとんど、私が見た多野くんはよそ行き用の、外用の顔ばかり。それでも分かったよ? 無理してるなって。無理してる自覚なしに無理をしてるって。だけど、私は任せてたの。そういうところは、教師の立場じゃ踏み込めないからね。踏み込もうとは出来る。でも、多野くんは相手が教師というだけで遠慮をするし、心の中を全部見せようとはしない子だから。多野くんの心の中に入れるのは家族のお爺様とお婆様か……恋人の八戸さんくらいだと思った」


 俺から視線を外した露木先生は、凛恋を見ながら風で流れた髪を耳に掛ける。


「だけど、まだ多野くんは自分でどうにかしようとしてる。無理してるよね? 八戸さんから見ても」

「それは……」

「でもどうして、八戸さんは多野くんが無理してるのに支えてあげなかったの?」

「露木先生、俺は――」

「多野くんは黙ってて」


 声を荒らげたわけじゃない。でも、その露木先生の言葉に、俺は言葉も行動も止められた。でも、それは威嚇(いかく)で止められたわけでもなかった。一瞬で、口出し出来ない雰囲気にされた。たった一言言われただけで。


「八戸さん、どうして?」

「凡人が、凡人が頼ってくれたら――」

「多野くんは自分から頼れないって分かってたよね?」

「凡人は、私が聞いても自分から頼ってくれないから……凡人が本当に辛く――」

「ごめんね、八戸さん。私、八戸さんは多野くんの恋人として相応しくないと思う。ううん、八戸さんは多野くんに人として相応しくない」

「露木先生ッ!」


 止められていた言葉が、喉から弾けて出た。それくらい、露木先生の言葉が耐えられ――いや、許せなかった。


「勝手なことを言わないで下さい! 凛恋は俺に十分過ぎる子です! 相応しくないって言われるのは凛恋じゃなくて俺の方です!」


 初めてだ、露木先生に怒りを向けるのは。でも、露木先生の、一瞬揺らめいた目を見て分かった。いや、高校時代、沢山俺にアドバイスをしてくれた露木先生の姿を見ていたから分かった。

 わざとだ。わざと、露木先生は俺や凛恋が傷付くことを言った。


「ごめんね、じゃあ言い方を変えようか。二人は相性が悪いよ」


 露木先生は分かり切っている。露木先生の言葉を聞いた俺と凛恋が傷付くことくらい。俺の知ってる露木先生は優しい人で、そんな俺達を傷付けるような言葉を平気に吐けるような人じゃない。だから、きっと理由がある。でも、その理由を解明するよりも前に、俺は露木先生にこれ以上言葉を重ねさせないように叫んだ。


「露木先生ッ! 何でそんなことを言うんですか! 露木先生はそんなことを言う人じゃないでしょ! 露木先生は――……つゆ、き……せんせ……」


 叫んだ俺は、叫んだ先の露木先生を見て固まる。露木先生はまた、キャンプの夜のように涙を溢れさせていた。


「言いたくなかったよ? 私だってこんなこと言うつもりはなかった。でも、この前の内笠くんの事件でもう耐えられなくなった。あんなに怖い思いをしたのに、辛い思いをしたのに……多野くんは誰かに弱音を吐いた?」

「えっ? 俺は……」

「ほら……だからだよ。だから、これ以上多野くんを誰かに任せておけなくなった」

「内笠の事件は、俺は何も感じな――」

「命を危険に晒されて何も感じないことが問題なのッ!」


 シンとしていた公園の空気を弾けさせる露木先生の叫びに、俺は体と心を震え上がらせる。それで、俺はただ目の前に居る露木先生に視線を返すことだけしか出来なくなった。


「私はッ! 私はっ……多野くんの命がないって手紙が来ただけで怖かったッ! 多野くんを守らなきゃ! 何をしても、内笠くんの思い通りにされても守らなきゃいけないと思ったッ! 絶対にみんなも同じだよッ! 赤城さんも切山さんも溝辺さんも筑摩さんも神之木さんもそうッ! 他の人だって、みんなが思ったよッ! 多野くんの命が奪われることを怖くなったッ! でも、多野くんはそうじゃなかった! 怖いなんて思わなくて誰にも泣きつかなかった! 命の危機に晒されたのに誰一人にも頼らなかったッ! それは強さじゃないよッ! 強さじゃなくて、もう心が壊れる寸前で、何も感じられなくなってるだけだよ……。そんな状態の多野くんを……もうこれ以上放っておくことなんて、誰かに任せておくなんて出来ないっ!」

「私がっ! 私が凡人を支えますッ!」


 凛恋が俺と露木先生の間に入って、両手を広げながら言う。でも、露木先生はその凛恋に真っ直ぐ、冷たい目を向けた。


「八戸さん、さっきも言ったけど。八戸さんは気付いてないわけじゃなかったよね? 私は分かっているよ。八戸さんはとても優しい子だし凄く人の気持ちを理解出来る子。そんな子が、一番近くに居るはずの多野くんのことに気付かないわけがない。だったら何で、多野くんに手を差し伸べなかったのか」


 そう言った露木先生は、右手で凛恋の体を押し退けた。


「八戸さんは目を逸らしたんだよ。弱い多野くんの心から」


 押し退けられた凛恋は、手をダラリと垂れ下げて俯いて立ち尽くしていた。


「優しくて頼りになって格好良い彼氏。八戸さんは多野くんにそうであってほしかったの。八戸さんのピンチに、多野くんは何度も駆け付けて八戸さんを助けてくれた。だから、自分の、八戸さんの見えている多野くんには、ずっと強くて正義のヒーローみたいな、おとぎ話の白馬の王子様みたいな多野くんで居てほしかったの。だから、普通の、辛い思いや悲しい思いをしたら心を痛める、一人の弱い人間の多野くんから目を逸らしたの」

 露木先生は、立ち尽くす凛恋に視線を向けて微笑む。……とても冷たく。


「怖かったんだよね? 自分の想像で、理想で造った多野くん像が崩れるのが。だから、私は相応しくないって言ったの。相性が悪いのも同じ。強がろうとする多野くんと、誰かに頼ろうとする八戸さん、その二人じゃ多野くんの方が先に、精神的な限界が来ちゃう。それが、数一〇年後なのか、数年後なのか、それとも一週間後なのか明日なのか……今日なのかは分からないけど」


 凛恋にそう言った露木先生は、俺を見て頭に手を置く。そして、ゆっくりとその手を動かして撫でた。


「多野くんに必要なのは適度に頼れる人、気軽に弱音を吐ける人、弱音を吐いたって頼ったって絶対に大丈夫だって心の底から思える人……私は、多野くんのそういう人になれるよ」


 露木先生は後ろを振り返る。その振り返った先、公園の入り口には、栄次、希さん、萌夏さん、瀬名、里奈さん、理緒さんが立っていた。


「だから多野くんに、この人なら頼れて、気軽に弱音を吐けて、弱音を吐いたって頼ったって絶対に大丈夫だって、心の底から本当に思わせた人が、多野くんに相応しい人になれる」


 露木先生は沢山の涙を流した顔で俺に首を傾げ、尋ねた。


「多野くんにとってそういう人は……いったい誰なのかな?」

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