【一五七《爪紅(つまくれない)は弾け、種を撒く》】:一

【爪紅(つまくれない)は弾け、種を撒く】


 ベッドに寝転がっていると、軽くドアが開く音がして、すぐにベッドが軽く軋む。

 天井を見上げた俺の視界に、ジーッと俺を見下ろすモナカの顔が入った。

 モナカは俺の顔を覗き込んだ後、俺の隣に伏せて顔だけ俺に向ける。


「モナカも俺のことを心配してくれるのか?」


 モナカ"も"と言って、俺は小さくため息を吐く。すると、モナカが小さくクゥーンと鳴いた。

 悪いことがあったわけじゃない。露木先生に心配を掛けたということに関しては、悪いことをしてしまったと思う。でも今は、それ以上に衝撃が強かった。


 人に心配や迷惑を掛けたくない。そう思って生きてきた。特に、俺の味方で居てくれる人達には絶対に心配と迷惑を掛けたくないと思っていた。でも、思うように行かなくて、心配と迷惑を掛けることもあった。だけど、露木先生をあそこまで感情的に取り乱させるほど、心配を掛けてしまっていたなんて知らなかった。


 ごめんなさいと謝るべきだったんだと思う。あの時、すぐに心配掛けてごめんなさいと言うべきだったのだ。でも俺は、露木先生に「大丈夫ですよ。体を冷やしますから戻りましょう」と言ってしまった。


 要は、俺は逃げたのだ。驚いて戸惑ってすぐに答えが出なかったから、俺はとりあえずその場を収めようと逃げた。

 逃げた結果、罪悪感でいっぱいになっている。


「モナカ、俺はどうすれば良いと思う?」


 俺がモナカに顔を向けると、モナカはワンと一声鳴いて返す。……俺に犬語が分からないのが辛い。

 モナカは俺の頬をペロペロ舐めてくれて、グリグリ鼻を押し付けてくれて、スリスリ頭を擦り付けてくれる。これはきっと、モナカなりに俺を励ましてくれているんだと思う。


「内笠の件は、どうしようもなかったよな? みんなの住所を知ってるって言われてるようなものだったし、警察署を出た直後はまだみんなの安全が確保出来なかった。だから、内笠の言う通りに動くしかなかったよな?」


 分かっている。露木先生が俺に言ったのは、俺が危険な行動を取ったことを咎めるような言葉じゃない。俺の心の持ち方の話だ。

 それが分かっていながら他のことを考えるしかないのは、俺が露木先生が求めた心の持ち方を分からないからだ。


 俺は俺なりにちゃんと生きているつもりだ。確かに考え方はみんなとは違って少し……いや、大分捻くれているかもしれない。でも、それでもちゃんと生きているつもりだった。しかし、露木先生にとっては俺の心の持ち方、考え方が、酷く俺自身を傷付けているように見えた。


 俺は傷付くことには慣れている。それは心が傷付くネタが、他の人より圧倒的に多いからだ。だから、昔から傷付くような経験は豊富だ。その傷付く経験から、俺はそれを上手く自分で処理することが出来るようになった。それで、いつしか俺は大抵のことでは、傷付くことさえもなくなった。


 俺は、陰口や悪口を言われても、心の中で相手のことをバカにして処理する。それで俺は陰口や悪口に負けなくなったし、それで心をスッキリとさせられていた。だから、俺個人としては問題なかったのだ。それで、ちゃんと生きているつもりだった。

 だったらなぜ、露木先生はあんなにも取り乱して、それで露木先生を頼ってほしいと俺に言ったのか。


 キャンプの夜も俺は露木先生に言った。頼らなかったわけじゃないと。でもその時に俺は露木先生に言われた。それでは遅過ぎるのだと。


「もっと頼って下さいって、いったいどうすれば良いんだろう」


 モナカに尋ねてみる。でも、今度はモナカはうんともすんともワンとも言わない。ただ、俺に目をジッと向けるだけだ。

 聞かずに自分で考えろ。そう言われているのかもしれない。


 ついにモナカは俺のベッドの上で目を瞑った。どうやら役目を終えたから、寝ようとしているらしい。いや、寝ても良いけど、俺の悩みは解決していない。

 そんな時、スマートフォンが震えて俺はモナカの上から手を伸ばしてテーブルの上のスマートフォンを手に取る。


「空条さんからか」


 大学の同級生、空条さんからメールが一通届いていて、俺はメールを開いて文を見る。


『今、海水浴に来てるの。多野くんはどこか行った?』


 その文と一緒に画像ファイルが添付されていて、それは水着姿でピースサインをする空条さんの自撮り画像だった。眩しい笑顔が楽しさを表している。

 俺はそのメールに『楽しそうで良いね。俺は彼女と夏フェスとキャンプに行ったよ』とメールを送った。俺は自撮り画像を撮る柄でも気分でもないから、添付ファイルは何もなしだ。


 俺がメールを送っている間に、完全にモナカは寝てしまう。寝ているモナカを見ていると癒やされるが、寝ているモナカを見ても心のモヤモヤが晴れるわけじゃない。

 俺は、高校時代からずっと露木先生に頼りっぱなしだった。確実に、露木先生の助けがなかったら、俺は高校を卒業出来なかったと言える。でも、その露木先生に頼ることと比例するように、俺は露木先生に心配を掛けていた。それは、露木先生にとって相当な負担だったはずだ。


「でも……頼ってほしいって……」


 考えは巡る。でも答えを見付けるためにさまよっているはずなのに、行き着く先は同じ問題。グルグルと同じ道を歩かされているようで、答えが出ないもどかしさを感じる。でも、その問題から目を背けるどころか頭がよじれるほど考えさせられる。

 頼ってほしい……頼る……頼るとは、誰かに助けを求めること。助けを求めるには、俺自身に助けを求めるような問題が必要だ。

 俺は一度置いたスマートフォンを手に取って、宛先を設定していないメールを作成する。


『頼って下さいって、どういうことですか?』


 その宛先のないメールを作成してから、俺はすぐに削除した。

 その削除したメールに宛先は入力しなかったが、俺は露木先生に送るつもりだった。だけど、冷静に考えてそれが出来ないことは分かっていた。


 露木先生は泣いて訴えていた。それに、その訴えはどういう意味かを馬鹿みたいに聞き返すことが出来るだろうか? いや……出来るわけがない。聞き返せたとしても、もう遅い。聞き返すなら、問われた時、あの瞬間に聞き返さなければならなかった。


「カズくん、モナカ知らない?」


 部屋のドアをノックする音がして、ドアの向こう側から栞姉ちゃんの声が聞こえる。


「モナカなら、ここで寝てる」

「やっぱり。入っていい?」

「どうぞ」


 俺の返事を聞いた栞姉ちゃんが部屋の中に入って来て、ベッドで寝ているモナカと俺を見てクスクス笑う。


「仲の良い兄弟みたい」

「随分ちっちゃい弟だけど」

「違うよ。カズくんの方が弟」


 モナカの背中を撫でながら言う栞姉ちゃんの言葉に、俺は眉をひそめる。どこからどう見ても、俺の方が兄だろう。それに、前はモナカに俺のことをカズお兄ちゃんだと言っていたのは栞姉ちゃんの方だ。


「眉をへの字に曲げてずーっと悩んでる弟を心配するお兄ちゃん。と、お姉ちゃんの図かな」


 栞姉ちゃんは俺の顔を見て首を傾げる。


「何か八戸さんとあった?」

「何もないよ」


 凛恋とは何もない。だからそう答えた。でも、栞姉ちゃんの表情を見ると、そういう捻くれた言い方は通用しないようだ。


「カズくんは、いつもそうやってはぐらかすんだから。ちょっとは私も頼りにしてほしいな」


 栞姉ちゃんがからかうように言いながら笑う。俺は、その栞姉ちゃんの言葉を聞いて露木先生の言葉をまた思い出した。


「俺って、そんなに人を頼りにしてないかな……」

「してないよ。本当に全然してない。でもそれは、カズくんのせいじゃないんだよね」


 モナカを撫でてモナカに視線を向けながら、栞姉ちゃんは言う。


「カズくんはビックリするくらい頼りになるの。いつもはボーッとしてるっていうか、無頓着なのに、私達がピンチになったら正義のヒーローとか王子様みたいに颯爽と現れて、私達を助けてくれる。だからね、カズくんが頼らないわけじゃなくて、周りがカズくんに頼っちゃう。私が施設で……元彼から暴力振るわれた時にここへ戻って来たのも、カズくんなら……ううん、凡人くんなら私を助けてくれるって思ったから」

「栞姉ちゃん……」


「でもね、それって大きな間違いなの。カズくんも凡人くんも、正義のヒーローなんかじゃないし、おとぎ話の王子様でも何でもない。私達と同じ一人の人間。でも、辛い時悲しい時、カズくんに、凡人くんに頼る私達はそれを忘れちゃう。自分が辛いから悲しいからって理由だけで、凡人くんの限界を超えた何かを期待して求めちゃう。そのせいで、凡人くんは周りに頼れない。だって、凡人くんを頼らせられる人が誰も居ないんだもん。凡人くんが誰かに頼れるわけがない。全部、凡人くんに頼るばかりの私達の責任」

「でも、俺はみんなを頼った。二年の時に、みんなに頼ってみんなが協力してくれたお陰で、俺は高校に居続けられた」

「でも、カズくんが頼ったのはギリギリまで追い詰められてから。それまでは、自分だけでどうにかしようとしてたよね?」


 栞姉ちゃんは露木先生と同じことを言う。ということは、栞姉ちゃんから見ても、俺は頼らない人間に見えているようだ。


「俺は他にも頼ったよ」


 一年の夏に凛恋と気まずくなった時には栄次と希さんに頼った。母親のことで心が辛く冷たくなった時も凛恋にすがった。それだけ、頼っていれば十分なはずだ。


「カズくんはなんでも自分一人でやらないといけないって思ってる。でも、カズくんは頭が良いから分かってる。人間一人で出来ることには限界があるって。でも、それでもカズくんが一人でなんとかしないといけないって思うのは、私達のせいでもある。でも、私達がカズくんに、凡人くんに出会う前に、凡人くんがそういう考え方をしてしまうようになるまで、誰も凡人くんを助けなかった。何もかも全部、凡人くんに自分一人でなんとかすることを当たり前だって思わせるようにしてしまった人達のせいでもある」


 栞姉ちゃんは、モナカの背中を撫でていた手を離して、俺の頭にそっと触れて撫でる。


「本当は、お姉ちゃんの私がそうじゃなきゃいけないの。カズくんが困った時苦しい時に弱音を吐けて、困ったこと苦しいことを相談出来る相手にならなきゃいけないの。でも、私は凡人くんにもカズくんにも頼り過ぎた。だからきっと、カズくんには見えなくなってるの。私が“頼りになる人”には……」

「栞姉ちゃんは頼りになる。栞姉ちゃんは――」

「お爺さんお婆さんが居ない時にお昼ご飯を作ること?」


 俺が言おうとした言葉を、栞姉ちゃんは笑顔で言う。でも、その笑顔はどこか寂しそうな乾いた笑顔だった。


「そんなの、カズくんにとって困ったうちには入らないよ。それに、カズくんが誰かに頼らないといけないくらいの問題じゃない。私は確かにカズくんより料理は出来る。それに、年齢も一個だけだけど年上だから、社会的立場でもカズくんよりも大人。でも、カズくんは私よりも精神的に大人過ぎるんだよ。ううん、違うかな……成熟してるっていう意味じゃなくて、カズくんは精神が磨り減り過ぎてるの」

「精神が……磨り減り過ぎてる?」


「カズくんは精神的な経験が多過ぎる。…………カズくんは、同年代の子達よりも遥かに精神的に辛い経験をし過ぎてる。だから、そういう辛い経験が、他の子達よりもカズくんの精神を削ってしまうの。でも、カズくんと同年代の子達は少しずつ時間を掛けて綺麗に削るはずなのに、カズくんは短い時間で強く削られた。それも、片っ方だけから。だから、カズくんは精神的に偏った考え方をするの。まずは、自分で何とかしなきゃって」

「でも、何でも人に頼るのは良くない」

「確かにそうだよ? 何でもかんでも人に頼るのは良くない。でもね、カズくんは度が過ぎてる。私もそういう考え方をしちゃうけど、それでもカズくんは異常に見えるの。端から見たら、カズくんの心が壊れてしまわないか心配になるの」


 また、栞姉ちゃんは露木先生と同じことを言う。だから、やっぱり……俺は露木先生と栞姉ちゃんの言う通り、人に頼っていないのだ。自分に自覚はないけれど……。

 自分から見える自分と周りから見える自分は違う。それは分かった。周りから俺が周りを頼りにしていない人間だと見られているということも分かった。でも、これ以上どう人を頼りにして良いか分からない。


 頼るということは、自分の抱えている問題を他の誰かに手伝ってもらうことだ。ということは、やっぱり周りに迷惑を掛けてしまうということになる。

 迷惑を掛けるのは良くない。だから、出来るだけ迷惑を掛けないようにしないといけない。

 だから……頼るのは最後の手段にしなきゃいけない。

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