【一五六《懇願》】:三

 萌夏さんは俺の数歩前を歩き出す。視線の先に見える萌夏さんの背中は、俺より身長が低く小柄なのに、ずっと大きく見えた。


 萌夏さんとバンガローに戻って来てから、俺は再び布団に入って目を閉じる。そして、ゆっくりと眠気が体全体に行き渡り、意識が――。

 トンッ。その控え目に腕に何かが置かれた感覚に目を開けると、視界に何も見えなかった。でも、頭を横に向けると。床に膝を突いた理緒さんが見えた。

 理緒さんは熟れたりんごのような鮮やかな赤に顔を染めながら、少し潤んだ目で俺を見下ろす。


「か、凡人くん……あの……」

「理緒さん……あっ、丁度良かった。昼間、トイレの場所を確かめるのを忘れてて、今のうちに教えてくれないか?」


 腿を擦り合わせて恥ずかしそうにしている理緒さんを見ながら、俺は困ったように言う。流石に、トイレにそれとなく誘う理由も三度目になると苦しくなってきた。


「えっ? あっ、うん! ついて来て」

「ありがとう。栄次達を起こすのも悪いなって思ってて。助かったよ」


 俺は布団から起き上がり、前を歩く理緒さんと一緒にバンガローを出て三度目のトイレに向かう。

 心無しか早歩きの理緒さんについて行って男性用トイレに入った俺は、用を足さずにトイレの中で一度あくびをしてから外に出る。間が空かず三度も行けば出るものもない。


 トイレの前にあるひさしの柱に背中を預けて待っていると、女性用トイレから出て来た理緒さんが笑顔を向ける。


「ありがとう、気を遣ってくれて」

「そこはそのままスルーしてくれても良いのに」

「だって、スルーしたら他に凡人くんを起こした理由がいるでしょ?」

「ああ、まあ確かに言われてみればそうだな」


 理緒さんの言葉に納得すると、理緒さんがパッと俺の手を握って隣に並ぶ。


「理緒さん?」

「萌夏から聞いたよ? 凡人くんに背中を擦ってもらって、手を握らせてもらったって」

「あれは……」

「でも、萌夏はそれで心を救ってもらった。萌夏の友達として、ありがとう」

「いや、俺も萌夏さんとは友達だから」

「じゃあ、バンガローに戻るまで、凡人くんの友達の私も良いよね?」

「まあ……良いのかなぁー?」

「それに、足元が暗くて危ないし」


 そう言いながら、理緒さんは問答無用で歩き出す。


「そういえば、理緒さんの大学はどんな感じ?」

「女子校だから女の子ばかりだけど、毎週末合コンに誘われて困ってる」

「まあ、理緒さんは同性から見てもモテるって分かるんだろうな」

「昔の私だったら喜んで行ったけど、今は凡人くん以外の男の人に興味ないから迷惑かな~」

「え~っと……ごめん」

「もう少しちゃんと謝ってほしいな。凡人くんのせいで、私はもうすぐ彼氏が居ない歴三年なんだから」


 ニッコリ笑った理緒さんは、俺に顔を近付けて耳元で囁く。


「運転してる凡人くん、凄く素敵だったよ」

「緊張しっぱなしでとにかく必死だっただけだぞ?」

「その真剣な目が良かった。そういう一生懸命なところが、凡人くんの良いところだよ」


 いつの間にか手を離していた理緒さんは、体の後ろで両手を握って、横から俺の顔を覗き込む。


「向こうの大学でも、凡人くんはモテてるんじゃない?」

「モテないモテない。そもそも、女子学生との関わりが皆無だ」

「本蔵さんがいるでしょ?」

「本蔵さんとは学校で話すくらいだよ」

「でも、塔成まで追い掛けて行ったってことは、それだけ本気だってことだよ? 凛恋と付き合い続けるなら、どこかで本蔵さんに諦めてもらわなきゃいけない。私と萌夏みたいに、納得した上で好きで居続けるのとは違うから」

「告白されたらちゃんと断るよ」

「まあ、それしか方法ないよね」


 理緒さんは困ったようにへの字に口を曲げて、小さく息を吐く。


「でも、結構本蔵さんは手強そうなんだよね~。一回二回振られただけじゃ諦めなさそう」

「それでも、俺は凛恋以外とは付き合う気ないから」


 俺が理緒さんにそう言うと、理緒さんは困ったように笑う。


「それはそれで私としては複雑な気持ちだけど、凡人くんがしっかりそう言ってくれてるなら、凛恋も安心だね」


 理緒さんは、明るく俺を見て微笑み俺の目を見て言う。


「でも、ちゃんと気を付けてね。女の子は分からない生き物だから」


 三度目のトイレを終えて……いや、三度目はただの付き添いだった。

 ただの付き添いを終えた俺は、適度に疲れを感じる体を横たえてすぐに眠りにつく。


「――ッ!?」


 突然、激しく体を揺すられて俺は飛び起きた。すると、俺の横に、俺の腕を両手で掴んだ露木先生が座っていた。


「露木先生!? 何かあ――」

「多野く~ん……トイレどこ~?」

「……………………」


 目をとろんとさせて、言葉が若干舌足らず。どうやら、酔いというのは少し寝たくらいじゃ抜けないものらしい。


「露木先生、トイレは外にあるんですよ?」

「お外?」

「お外って……」


 露木先生は酔ったら幼児退行する人だったっけ? という疑問が浮かぶが、酔いの進度によって酔い方が変わるのかもしれない。


「多野くん、お外でトイレ~」


 言葉だけ聞くと色々マズい。いや……今の露木先生なら、本当に言葉通りのことをしそうで不安だ。


「露木先生、ついて行きますから一緒に行きましょう」

「はぁーい!」


 右手をフラフラ挙げて元気の良いお返事をする露木先生。きっと、小学一年生の良いお手本になるだろう。フラフラはしているが。

 完全に足元までふらついている露木先生の体を支えながら、俺は四度目のトイレへ向かう。いやいや、二度目の付き添いだ。


「多野くん、行ってきまーす」

「露木先生! そっちは男性用です。女性用はこっちですよ」

「ありがとー」


 フラフラと女性用トイレの中に入っていく露木先生を俺は不安いっぱいで見送る。不安で仕方ないが、男が女性用トイレに入るのは、男性用トイレが一杯という緊急事態でやむを得ない時だけだ。それ以外は建造物侵入罪になる。それに、露木先生がちゃんとトイレを出来ているか確認するなんて、そもそも法律的にどうこうというよりも人としてダメだ。


 なかなか出て来ない露木先生に一抹の不安を抱きつつ、俺はひさしの柱に背中を付けて女性用トイレの出入り口を見つめる。…………なんだろう、露木先生を心配しての行動のはずなのに、自分の行動が変態に思えてきた。


「多野く~ん」

「露木先生、手は洗いましたか?」

「洗ってきまーす」


 また右手を挙げて返事をした露木先生はトイレに戻って行く。そして、再びトイレの外へ出てきた露木先生は、水が滴る両手を前に出しながら、相変わらずのとろんとした目を向け、相変わらずの舌足らずな言葉で言う。


「ハンカチを忘れました!」

「俺のを使ってください」


 俺は自分のハンカチを差し出しながら、忘れ物を自己申告する小学生かな? と思った。

 手を拭いた露木先生からハンカチを受け取ると、露木先生は俺の腕に自分の腕を絡めてしがみつく。


「多野くんは、やっぱり身長高いね~」

「戻りますよ」

「わー、多野くんごーいん~」


 ケタケタ笑う露木先生を引っ張りながら、俺はバンガローに向かって歩き出す。


「多野くん多野くん」

「はい?」


 露木先生に呼ばれて振り向くと、俺の頬に露木先生が突き出した人さし指がめり込む。


「引っ掛かったぁー」


 してやったりという感じで楽しそうに笑う露木先生は、俺の頬にめり込ませた指をグリグリ押し込む。


「露木先生が楽しそうで何よりです」

「うん! 凄く楽しい!」


 何だかその笑顔が、ミュージックフェスティバルに行ってた時の露木先生の笑顔と重なった。あの時も今と同じように、無邪気に楽しんでいたんだろう。


「多野くん、少しそこにお座りして」

「はい。お座りします」


 露木先生がベンチを指さしながら言うのを聞いて、俺はそれに素直に従う。少し夜風を浴びたら露木先生の酔いも覚めるかもしれない。

 露木先生の体を支えながらベンチに座らせて、俺もゆっくり腰掛けると。隣で露木先生がパタパタと足を動かしながら鼻歌を歌う。流石音楽教師と言うべきなんだろう。酔っていても全く音が外れていない。テンポは随分スローだが。


 露木先生のスローな鼻歌を聞いていると、眠気を誘われ俺は危うく眠りそうになる。しかし、首を振って目を開いて必死に眠気に耐えた。


「露木先生」

「はぁーい?」


 酔いは覚めましたか? と尋ねようと思い声を掛けたが、小首を傾げた露木先生の返事から覚めていないのが分かった。


「はぁーい?」


 露木先生は今度は反対側に小首を傾げて、二度目の返事をする。


「……露木先生、あんまりお酒飲まない方が良いですよ」


 酔っている露木先生に言っても多分理解してもらえないだろうが、一応そう言ってみる。


 去年の夏は、萌夏さんのお父さんとお母さんが居た。だから、生徒の保護者の前ということできっと飲む量をセーブ出来たんだろう。でも、今回は俺達だけだった。だから、飲み過ぎてしまったようだ。

 酔うとここまで頼りなくなると、ちゃんと面倒を見てくれる人が居ないところで飲むのは危険だ。


「多野くんは高校生の頃から、いーっつもそう」

「えっ? いーっつも?」


 突然、ムッとした表情で両手を腿の上に置いた露木先生が俺に言う。


「いっつもいーっつも、危ないことして! この前も、内笠くんに……私っ……心配したんだからぁ~……」

「つ、露木先生!?」


 露木先生は目にじわりと涙を滲ませてキュッと唇を噛む。この前の、内笠の事件のことを露木先生は心配してくれた。いや……心配を掛けてしまった。


「すみません。でも、他にどうすれば良いか分からなくて」

「電話が途中で切れて……何度も何度も電話しても繋がらなくて……」


 俯いた露木先生の顔からベンチの上にポトポトと涙が落ちて、両手をベンチの上に突いた露木先生は体を震わせる。


「警察の人に大丈夫だって言われたけど……不安で……多野くんが……多野くんが私のせいで……」

「露木先生は何も悪いことしてないですよ」


 露木先生は激しく首を横に振る。その露木先生の顔から涙の雫が散った。


「私が内笠くんの言う通りにしてたら……多野くんは内笠くんに狙われなかった……。あの時、内笠くんの言う通りにしてたら……内笠くんは多野くんに目を付けなかった」

「露木先生、俺はそんなことして守ってほしいとは思いません」

「私は多野くんのためならそこまでしたっ! 多野くんが……多野くんが危ない目に遭うなら……私は何だって……したよ……」


 露木先生は酔いが覚めてきたのか、言葉がしっかりしてくる。でも、泣いているから体も声も小刻みに震えていた。

 何度も何度も手で目を拭う露木先生だが、目から溢れる涙は止まらない。


「多野くんはいつもそう。いつも……そうやって多野くんだけ守ろうとする。多野くんだけみんなを守って……自分は誰にも守らせない……」


 俺の両肩に置いた露木先生の手が、力強く俺の両肩を掴む。


「転学して来た時からずっと変わってないよ……それじゃ、多野くんが……苦しいだけだよ……」


 俺は誰かに守らせないなんてことはない。実際に、俺はみんなに守ってもらった。


「露木先生達に守ってもらったじゃないですか。学校から自主退学を要求された時に」

「あれは遅過ぎたんだよっ!」


 露木先生は声を張り上げて俺に叫んだ。俺はそれに驚いてただ露木先生の顔を見返すしかない。


「あんなに追い詰められてからじゃ遅いの! 多野くんがみんなに助けを求めるまで、どれだけ多野くんが傷付いたと思ってるの!? 自分じゃ分からないからって大丈夫だとは限らないんだよ! 傷付くのに慣れちゃったら……傷付ける限界を超えちゃったら……多野くんの心が壊れちゃうんだよ?」

「露木先生……」

「心配だよ……多野くんが壊れないか……私は多野くんが……」


 露木先生は俺の胸に額を付ける。その露木先生が、俺の胸の前で必死に泣き声を押し殺そうとする。

 ここまで露木先生に心配を掛けているなんて知らなかった。俺の身だけじゃなくて、心まで心配してくれているなんて知らなかった。


「だからね……だから、もっと私を頼って下さい……」


 露木先生はそう言いながら、俺のシャツを強く頼んだ。

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