【一五八《蔓延(はびこ)るか鳴り響くか》】:一

【蔓延(はびこ)るか鳴り響くか】


 早朝、リードを握ってモナカの散歩をする俺は、河川敷にあるベンチに座って、日が昇り掛けの空を見る。足元ではモナカが座って俺と同じように空を見ていた。

 俺は座りながら自分の胸に手を当てて、軽く当てた手を握ってみる。気のせいか、胸が締め付けられるように、少しだけキュッと痛んだ。


「凡人ッ!」

「凛恋!? どうして!?」


 俺は全く予想していなかった人物に声を掛けられて驚く。こんな朝早くに、凛恋から声を掛けられるなんて思っていなかった。いや、そうじゃなくて、こんな朝早くに凛恋が居るなんて思うわけがない。


「今日から、毎日私もモナカのお散歩に行く!」

「ちょっ、毎日って朝早いんだぞ?」

「凡人と一秒でも長く一緒に居たいの!」


 そう言った凛恋の言葉には、ただ一緒に居たいというだけの気持ち以外に、別の気持ちがあるのが分かった。でも、俺はそれを確認する勇気がなかった。

 今までの気持ちの中に、何か別の気持ちが混ざったのは凛恋だけじゃない。あの、花火大会の日の夜に公園へ居合わせたみんなの心の中にある。それは、俺も同じだ。

 心の中に混ざった何かは、明確な形はなくても少し怖いものだ。それが膨れ上がって成長したら、嫌なことが起きそうな気がしてならない。だから、その何かから俺は目を逸らす。


「おはよーモナカ」


 凛恋は足元に座るモナカの背中を優しく撫でる。そして、俺の隣に座って頬にキスをする。


「凡人、大好きっ!」

「俺も凛恋が大好きだ」

「嬉しいっ! ありがと!」


 凛恋はピッタリと俺の体に自分の体をくっつける。

 凛恋は花火大会の日の話題を出さない。他のみんなも出さない。俺も、花火大会の日の夜に露木先生に言われたことに触れようとはしなかった。でも、花火大会の日に露木先生が言った言葉は、確実に全員の心の中に居座っている。


「凡人、いつまでこっちに居る?」

「そうだな~少なくとも、夏休み終わりの一日前には戻りたいけど」

「私も。移動した次の日はダラッてしたいよね」


 そう言う凛恋は俺の顔を横から覗き込んでいる。その表情はいつも通りに見える。でもなぜか、俺の心を探り探り確かめるような視線にも見えた。


 どうすれば良いかなんて考えられない。どうするかは決まっているからだ。

 俺に相応しい人は凛恋しか居ない。だから、考えるまでもないことだ。


 露木先生に問われた。俺が頼れて、俺が気軽に弱音を吐けて、弱音を吐いたって頼ったって絶対に大丈夫だって思える人は凛恋だ。俺は凛恋だけが――。

 そっと優しく重ねられた凛恋の唇が、俺の唇を優しくほんの少し刺激的についばむ。俺はその凛恋の唇をついばみ返し、凛恋の体を引き寄せるように抱き寄せる。

 キスしただけでこんなに幸せになれる人は居ない。キスしただけで、こんなに心を渇かされる人は居ない。

 どんどん満たされていくはずなのに、満たされているはずなのに、どんどんどんどん渇いていく。


 凛恋に潤して欲しくて、俺は無意識に自分で心を渇かしていく。でも、渇かした心が潤い切る前に、ゆっくりと俺の唇から凛恋の唇が離れる。だけど、目の前にある凛恋の唇が動くと、俺の唇をサッと撫でる。


「今日……みんなと会う約束があるの」

「そうなのか。じゃあ、予定を――」


 俺がそう言い掛けた時、凛恋が俺の手をギュッと握って振るわせる。


「……ダメ。女子会だから」

「そう、か。まあ、女子会に男が交ざるわけにもいかないからな」


 凛恋に明るく答えながら、俺は凛恋の手を強く握り返す。凛恋の手から不安が伝わる。その不安の正体は分からない。でも、凛恋の言った女子会が関係しているのは明らかだ。

 凛恋は俺が握った手を握り返しながら、俺の唇に僅かに触れる唇を震わせる。その口から漏れる吐息と声も小刻みに震えていた。


「だからね……その前に、今から凡人の家に行って良い?」

「もちろん」


 断る理由なんてない。断るわけがない。凛恋が体を震わせて、心を震わせて言っているのだ。その凛恋を拒むなんて俺がするわけがない。




 ベッドに寝転がって天井を見る。そのまま俺はゆっくり目を閉じた。

 結局、聞けなかった。凛恋に、今日の女子会で何があるのかを。


 凛恋の口振りと不安な表情と声と、震えた凛恋の体と心から分かる。それだけ、凛恋が不安に思うようなことがあるのだ。

 女子会と言えば、いつも凛恋は「女子だけで盛り上がってくる」と言って、楽しそうに行くのだ。でも、今日はそうじゃない。

 頭をよぎるのは、花火大会の日の夜、公園で露木先生が言った言葉。


『多野くんにとってそういう人は……いったい誰なのかな?』


 疑うまでもない。そういう人とは……俺が頼れて、俺が気軽に弱音を吐けて、弱音を吐いたって頼ったって絶対に大丈夫だって思える人は凛恋だけだ。凛恋、たった一人だけなんだ。

 そういう、俺が何もかもを委ねて俺の中で一番だと思えるのは凛恋だけなんだ。


 ベッドの上で寝返りを打ち、ほのかに温かさの残る布団の上を手で撫でる。

 不安だ。何かが変わってしまいそうで、何かが壊れてしまいそうで、不安で不安で仕方がない。


 変わらないと、壊れないと確信していても、その俺の確信を遥かに超える衝撃が変えて壊してしまうのではないかと不安になる。

 もし変わったらどうしよう。もし壊れてしまったら俺はどうすれば良い? 俺がどうすれば変わったものを、壊れたものを元に戻――……せるわけがない。

 変わってしまったら。壊れてしまったら、元に戻すなんて不可能だ。そんなの俺が一番よく分かってる。それでも、元に戻す方法を考えてしまう。考えても無駄だと分かっているのに。


「カズ、起きてるか?」

「凡人、おはよう」

「…………なんで栄次と瀬名が居るんだ」


 俺は部屋の出入り口に背を向けたまま、布団の温もりを撫でていた手を止めながら尋ねる。すると、栄次は悪びれる様子もない言葉で答えた。


「爺ちゃんが入って良いって言うから」

「爺ちゃんが許可したのは玄関を入るとこまでだろ。俺の部屋に入る時はノックくらいしろよ」


 俺はベッドから起き上がって栄次と瀬名を振り返る。視界に映った栄次の方は相変わらず爽やかな笑顔を浮かべ、瀬名の方は穏やかな笑顔を浮かべて手を振っていた。


「案外元気そうで良かった」

「何しに来た」


 栄次と瀬名は手に持った袋をテーブルに置きながら座る。袋にはハンバーガーショップのロゴが入っている。


「男子会をしに来た」

「俺は参加をするなんて言った覚えはないぞ」

「どうせ三人共、今日は暇だろ?」

「彼女が女子会に行っているからって俺を暇だと決め付けるとは――」

「何か予定があったのか?」

「それは――」

「この前の露木先生の言葉について考えるなら、一人より三人の方が良いと思うぞ」


 二度も俺の言葉を遮った栄次は、今度は俺の思考まで遮る気のようだ。

 俺はベッドから下りて、栄次と瀬名が買ってきてくれたハンバーガーの袋からハンバーガーを一個掴む。


「いくらだった?」

「カズには場所を提供してもらうからいい。その代わり、場所代は取るなよ?」

「俺は一度たりとも友達から場所代なんて取った覚えはない」


 財布を出しながら俺が睨むと、栄次と瀬名が買ってきた物のレシートをテーブルの上に置いた。


「瀬名はドーナツを買ってきたのか」

「辛い物だけじゃ飽きるし、こっちは長くなってまたお腹が減った時にって思って」


 ニコッと笑う瀬名は、ドーナツの箱をテーブルの端に置いて視線を隣に座る栄次に流す。栄次は、その視線にチラリと自分視線を合わせた後、俺に視線を向けた。


「今日の女子会。露木先生が開いたらしい」

「露木先生が……」

「カズについて話したいことがあるって言われたって、希が言ってた」


 俺は包みを開いたハンバーガーに乱暴にかじり付いて乱暴に噛み砕く。


「俺と瀬名は、昨日露木先生に呼ばれた。それで、この前の話についてまた話されたよ」

「露木先生はなんであんなことをしたんだ?」

「それは、カズにはまた自分から話すって露木先生が話すって言ってたから、その時に露木先生の口から直接聞いた方が良い」

「それじゃあ、栄次と瀬名は何しに来たんだ? ハンバーガーとドーナツを食いながらゲームでもするか?」


 俺が手に持ったハンバーガーを揺らしながら尋ねると、栄次は真っ直ぐ俺の目を見て言った。


「俺は、露木先生の話は間違ってなかったと思う」

「露木先生との話の内容は話さないって言った側から、話の内容について話すのかよ。俺は露木先生と栄次と瀬名が話した話の内容を知らないんだから、話されても全く理解出来ないぞ?」

「露木先生に言われたことは覚えてるだろ? カズが人を頼り過ぎないってことは」

「俺は人に頼ってる」

「ああ、全く頼らないわけじゃない。でも、カズはいつもほとんど手遅れになりかけてからだ。一年の夏に凛恋さんとすれ違った時も、一年の終わりに声を失った時も、二年の終わりに自主退学を迫られた時も。全部誰かには頼ってる。でも、遅かった。もう少し時間が経ってたら手遅れになってたかもしれない」


 栄次の言葉を聞きながら、俺はハンバーガーを食べ終えて付け合わせのポテトに手を伸ばす。


「栄次の言う通りだよ。二年生の時、凛恋さんと凡人が別れて辛い思いをしてる時も、凡人は一人になろうとしてた。一人で辛い思いに耐えて、一人で辛い思いに向き合ってた。あの時も、誰にも、僕にも助けてって言わなかった。全部自分の中で答えが出来て、それからみんなに謝ってた。全部、一人で綺麗にしてた」


 ポテトを食べながら瀬名の言葉を聞く。でも、視線は栄次にも瀬名にも向けていなかった。


 二人の言うことは事実ではある。二人がたとえに出したことは全て、言葉の言葉面(ことばづら)だけは合っている。ただ、そこには二人が知り得ない俺の心の中の葛藤は含まれない。まあ、二人は俺ではないのだから含めなくて仕方がない。皮肉でも何でもなく、二人は俺の心の中を知ることは出来ないのだから。

 でも、俺は頼った。最後には頼ったんだ。


「露木先生はよくカズのことを見てるよ。昨日も露木先生が言ってた。きっと、八戸さんから女子会のことを聞いたら多野くんは悩むから、二人には多野くんを一人にしないであげてほしい。多野くんは考え込むとネガティブな方向に考えてしまうから。そう言ってた」


 そう言った栄次は、自分の分のハンバーガーを取り出しながら、ボソッと言った。


「俺は親友失格だなって思った。露木先生の話を聞いて」

「僕も、凡人の友達として恥ずかしいって思ったよ」


 瀬名は少しだけ声を震わせながら、声を絞り出して言う。


「僕は凡人に頼り過ぎてる。……鷹島さんの時も里奈の時も、凡人に頼ってばかりだった。自分から行動出来なくて、凡人にそれとなく確かめて答えをもらおうとしてた。実際に答えを出したのは僕だけど、その答えを出すための判断材料は全部凡人に出してもらった。自分自身のことなのに……」

「俺も、何度も希とすれ違ってその度にカズに助けてもらった。今、俺が希と付き合えてるのはカズのお陰だ。……でもそれは全部間違ってるわけじゃない。俺の方だけカズに頼ってたからだ。頼り合うバランスが、明らかに俺の方だけ大きかった。そんなの、親友同士の関係じゃない」

「人には個人差がある。栄次や瀬名にとって大きな問題でも、俺にとって大きい問題とは限らない。それに栄次や瀬名が一人で処理出来ない問題だからって、俺が一人で処理出来ない問題とは限らないだろ」

「それだよ。それがダメなんだ……」


 俺の言葉に、栄次が唇を噛みながら言う。その栄次の表情には悔しさが滲んでいた。


「何でも相談出来るのが親友だって俺は思う。大きい小さいとか重い軽いなんて関係なく、どんなことでも話せるのが親友だと思ってる」

「相談されても処理出来ないくらい大きな問題とか相談されても困るだろ。相談されてもどうしようもない重い話をされても困るだろ。親友にそういう思いさせるくらいなら――」

「だったら一緒に困れば良いだろッ! ――ッ!? ごめん……」


 栄次は声を張り上げて俺にそう怒鳴る。少し腰を浮かした栄次は、すぐに我に返って謝りながら浮かせていた腰を下ろした。


「一緒に困って、一緒にどうすれば良いのか考えて、それで一緒に答えを見付ければ良いだろ。彼女には情けなくて話せないことだってある。俺も、だから希に直接言えなくてカズに相談したことだってある。そういう存在に俺は居なくちゃいけないんだ。カズの親友なら……」


 栄次の言うことを、俺は……栄次が自意識過剰だと思った。

 俺が栄次に相談しなかったことは、栄次に相談出来なかったわけじゃない。相談しなかっただけだ。栄次に相談しなくても、自分でなんとか出来ると判断したからだ。ただ、栄次が切り取って俺に例に出したことは“たまたま”俺一人では処理出来なかったことなだけだ。


 栄次のことを自意識過剰と思った。でも、栄次のことを傲慢だと思ったわけじゃない。栄次が俺を助けようと、俺の力になろうとしてくれることは嬉しい。栄次の優しさは嬉しいし、やっぱり栄次は良いやつだと思う。もちろん、俺のことで一生懸命に声を震わせながら考えてくれる瀬名も、優しくて思いやりのある良いやつだと思う。

 でも、栄次と瀬名が見ているのは、俺が処理出来なかった問題に直面した時の俺だけだ。俺一人で処理出来る問題を処理した俺は見ていない。自分だけで処理している時点で二人にはもう見えなくなっているのだから、見えなくても仕方がない。それでも、俺は二人が俺の失敗した俺だけのことしか見えいないようにしか見えなかった。


 人には個人差がある。全ての人間が、自分の抱えている問題をつまびらかにペラペラ話せる人間ばかりじゃない。

 人は歩んできた人生が自我を作っていく。俺が歩んできた人生は、一人で問題を処理しなければ進めなかった局面が多かった。


 両親が居ないと学校でからかわれた時も、爺ちゃん婆ちゃんに相談したってどうにか出来る話じゃない。爺ちゃんと婆ちゃんはただ謝るしかない。ただ謝って、自分達を責めて、それで悲しむことしか出来ない。でも、それは二人が感じる必要のない思いばかりだ。


 俺が一人で処理すれば、俺のかけがえのない家族である爺ちゃんと婆ちゃんに悲しい気持ちをさせなくて済む。だから、俺が一人で処理するのが最善策で最適解だったんだ。

 同じような問題は一度じゃなかった。でも、一回目の問題を処理出来たから、同じ方法で処理が出来た。それで、同じ方法で処理出来なくて、爺ちゃんや婆ちゃんを悲しませてしまった時は、同じような失敗をしないように新しいやり方を覚えた。


 それは、凛恋と出会って、沢山の友達が出来てからも同じだ。

 大切だからこそ、自分のせいで悲しい思いをしてほしくないと思うのは自然なことだ。そう思うことを俺は誰にも否定されたくない。それが、俺の恩人である露木先生でも、俺に初めて出来た親友の栄次でも、瀬名を含めた沢山の友達でも、俺のかけがえのない恋人の凛恋でも。


 俺が周りを守ったなんておこがましいことは思わない。でも、俺が大切で、傷付けたくなくてしたことは、みんなのことが好きだからだ。みんなのことが好きだからこそ俺はみんなを悲しませたくないと思ったし、傷付けたくなんて絶対にしたくないと思った。

 それは周りから見たら、酷く悲しい自傷(じしょう)に見えるのかもしれない。でも、俺にとってはキラキラと輝いている名誉の負傷なんだ。


「俺は、みんなが大切だから余計なことは言わないんだ。余計な不安や悲しさを持たせて傷付けたくないから自分で処理出来ることは処理してる。だけど、無理だったら頼ってる。それは間違ってるか?」

「間違ってない。でも、間違ってるんだよ。カズが俺達のことを大切に思ってくれている気持ちは間違ってない。だけど、そのために取る行動は間違ってる。俺達は誰一人だって、カズに一人で我慢してほしいなんて思ってない」

「仕方ないだろ。俺は今までこうやって人生を歩いてきたんだ。今更変えろって言われても無理な話だ」

「ああ、だから変わるのはカズじゃなくて良い」


 栄次は手に持ったハンバーガーを乱暴にかじり付いて俺から視線を逸らす。


「変わるのは、俺の方だ」

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