【一四九《季節の変わり目》】:一
【季節の変わり目】
アルバイトを終えて帰宅すると、凛恋が笑顔で玄関まで歩いてくる。
「凡人お帰り」
「凛恋、ただい――……凛恋? どうした?」
俺は凛恋の顔を見て一瞬で凛恋の様子が変なのが分かる。額に汗が滲んでいて、顔色が悪い。今朝とは全く違う体調が悪そうな様子だった。
「え? 大丈夫大丈夫」
「大丈夫じゃないだろ。とりあえず熱を測れ」
俺は慌てて家の中に入り、体温計と風邪薬を取り出して凛恋に体温計を差し出す。
凛恋が脇に挟んだ体温計が電子音を鳴らして計測終了を伝える。その体温計の表示を見て、俺は顔をしかめた。
「三八度五分……凛恋、すぐに風邪薬を飲んで寝ろ」
「大丈夫だって、凡人のご飯作ってないでしょ?」
「俺の飯なんかどうだっていい。安静にしてろ」
「どうだって良くないって……凡人のご飯は大せ――」
「頼む。俺のために休んでくれ」
「…………分かった。ごめんね」
「謝るなよ。凛恋は何も悪いことはしてないだろ? ちょっと待ってろ。布団を敷いてくるから」
凛恋の背中を擦って、俺は和室に行って布団を出す。俺は布団を出しながら、布団を掴む手を強く握り締めた。
なんで気付かなかった。三八度五分は高熱だ。そんな高熱になる前に、何か風邪の引き始めの症状があったはずだ。でも、俺はそれを気付いてやれなかった。だから、高熱になるまで風邪が悪化したのだ。
「凛恋、頭痛とか関節痛とかはしないか!?」
「ううん。ちょっと頭がボーッとして体がだるいだけ……」
「そうか」
急に高熱になったからインフルエンザを疑った。でも、インフルエンザの症状は出ていないらしい。
明日から土日で病院は休み。その二日のうちに風邪薬で症状が良くなることを祈るしかない。それでもダメだったら、すぐに病院に連れて行って診てもらう。
「とりあえず寝てろ。でも、まだ薬は飲むなよ。何か食べてからじゃないと良くない」
「うん……」
俺は凛恋を布団に寝かせて掛け布団を掛ける。そして、和室とダイニングキッチンを隔てるドアを閉めて、部屋の隅にある台所を見る。
何か凛恋に食べさせないといけない。
凛恋が風邪を引いたのは俺のせいだ。俺がもっと早く凛恋の異変に気付いていれば、ここまで酷い症状が出る前に治せたかもしれない。
スマートフォンでお粥(かゆ)の作り方を調べながら台所に立つ。
「卵はある、ご飯もある。鶏がらスープの素は……あった!」
台所の周辺を漁って、スマートフォンで調べた卵粥の作り方に載っていた材料を引っ張り出す。
「まずはご飯と水を鍋に入れる。……計量器と計量カップはどこにあるんだ?」
レシピに書かれている分量を守らないといけない。しかし、計量器は見当たらないし計量カップも見当たらない。
「そうだ! 体積!」
俺は鞄からノートとシャーペン、そして定規を取り出して茶碗とマグカップの体積を計算する。それを基準に、ご飯の量と水の量を量ればレシピ通りに出来る。
俺が自分で食べる物なら、適当に材料をぶち込んで適当に味見をして自分好みに作れば良い。でも、凛恋に食べさせる物を適当になんて作れない。絶対に失敗したくない。
何とかマグカップと茶碗の体積を計算してご飯と水を計り鍋に入れ、レシピ通りに煮込む。
「中火で煮て、グツグツしてきたらすぐに弱火にして鶏がらスープを入れる」
次の工程を口に出しながら、卵をボウルに割る。
「しまった! 殻が!」
小中の家庭科の時にやったはずなのに、卵の殻割りを失敗して、卵の殻が一欠片入ってしまう。
「くっそ! 大人しく出て来い」
卵の殻座(からざ)を取るついでに箸で入った殻を取り出そうとするが、ヌルヌルした白身の中で俺の箸から上手く逃れる。
「大人しく出て来――だぁー! お前がモタモタしてるせいで、鍋がグツグツして来ちゃっただろうが!」
ボウルの中の生意気な卵の殻に文句を言いながら、グツグツして来た鍋を見てすぐに弱火にし鶏がらスープを入れる。
「お前が出てこないと次行けないだろうがっ! よし取れた!」
卵の殻を取り除き、慌てた手付きで卵を溶きながら、中火に戻して溶いた卵を入れながら、鍋の中で掻き混ぜる。
「後は、味見をしながら塩で味を調える」
引き出しの中からレンゲを取り出して、俺は鍋の中のお粥をすくって口へ運ぶ。
「アツッ!」
慌てていたせいで冷ますのを忘れていた俺は、熱く熱せられた卵粥に舌を焼かれそうになって思わず水道水を直接蛇口から飲む。
「痛えぇ……」
舌を軽く火傷したが、火傷していない場所で味を確かめ、鍋から丼にお粥を入れる。
何とか完成した卵粥の入った丼を持って、洋室に戻ると、凛恋が布団の中から俺を見ていた。
「凛恋……良かったら、これ食べてくれ」
「凡人? えっ……お粥?」
「食べて風邪薬を飲まないといけない。口に合うかどうか不安だけど――」
「食べるっ! ありがとう」
凛恋が両手で俺から丼を受け取り、レンゲでお粥をすくう。
「熱いから冷まして食べろよ」
「うん。……いただきます」
息を吹き掛けてレンゲですくったお粥を冷まし、凛恋が口へ運ぶ。大丈夫、俺が味見をして死んでないんだから、ちゃんと食える物になっているはずだ。
「美味しい」
「本当に?」
「うん。凄く美味しい」
凛恋はまたお粥をレンゲですくって冷まし、二口目を食べる。それを見て、俺はホッと一息吐く。
「それを食べ終わったら、ちゃんと薬を飲んで寝てくれよ」
「ありがとう……凡人」
凛恋がお粥を食べるのを見ていると、凛恋が食べる手を止めて俺を見る。
「やっぱり食欲ないか?」
「ううん。……凡人、隣に座ってほしい」
「そんなことで良いならずっと座ってる」
俺が凛恋の隣に座ると、凛恋は体を俺にもたれ掛からせる。
「ごめんね凡人。凡人に迷惑掛けちゃって……」
「迷惑なわけあるか。謝るのは俺の方だ。凛恋の体調不良に気付かなかった俺が悪い」
「バカ。凡人は全然悪くないし。……チョー嬉しい。凡人がお粥作ってくれて、凡人が側に居てくれて」
お粥を食べ終えた凛恋は、畳の上に空の丼を置いて俺の腕を引き寄せるように抱く。
「わがまま言っていい?」
「何でも言え。何でも叶えてやる」
「風邪、移しちゃうかもしれないけど……チューして良い?」
「良いに決まってるだろ?」
俺は、そっと凛恋と唇を重ねる。そして、心の中で祈った。
凛恋の風邪が俺に今すぐ移るように。
そんなことは言葉には出せない。そんなことを言っても凛恋は、俺に風邪を移したくないと怒るだろう。でもそれでも、凛恋が楽になるなら……。
俺は凛恋の辛いことを全部引き受けたって耐えられる確信がある。だから心の中でずっと、凛恋の風邪が俺に移るように祈り続けた。
次の日、凛恋の熱は三七度まで下がった。下がったが、まだ少し体調が悪そうに見えた。
「朝ご飯も卵粥だったから、昼と夜は別の何かが良いだろ」
スマートフォンを片手に、風邪の時に食べやすい物とネットで検索すると、食べやすい物としてうどんが出てきた。
うどんなら、市販の茹でるだけで作れるうどんが売っているらしい。それに市販の天かすと市販の刻みネギを買えば昼飯は何とか出来る。後は夕飯だが、夕飯はもっと栄養のあるものがいい。
「……ポトフかぁ~」
ネットの記事に『ポトフ』という三文字が見える。
ポトフはフランスの家庭料理で、肉と野菜の煮込み料理らしい。しかし、家庭料理と言っても、ポトフというおしゃれな名前が付いているのだから、卵粥で悪戦苦闘していた俺が作れる物かどうか不安だ。
俺は凛恋が寝ている洋室のドアを一度見てから、スマートフォンに視線を戻して希さんの番号を表示させる。そして、意を決して希さんに電話を掛けた。
『もしもし?』
「希さん、おはよう。早速だけど、希さんに頼みがある」
『どうしたの?』
「ポトフを一緒に作ってほしいんだ」
『ポトフ?』
電話の向こうでは、希さんの疑問の声が聞こえる。いきなりポトフを作って欲しいと言われても戸惑って当たり前だ。だから、今の状況を説明しないといけない。
「実は……凛恋に風邪を引かせてしまって……」
俺は、彼氏として恥ずかしい事実を希さんに口にしながら拳を握り締める。
『えっ!? 今すぐ行くッ!』
「ちょっ、希さ――……切れた」
凛恋が風邪を引いたと聞いた瞬間、希さんが電話を切ってしまう。
レシピを見ただけでは、具材を入れて煮込むだけだった。しかし、手順が少ないということは、何かをミスすれば取り返しのつかないことになる。だから、希さんに協力してもらおうと思った。だが、かえって希さんに心配をさせただけだった。
しばらくそわそわしながら部屋の中で待っていると、インターホンが鳴った。
「希さん、ごめん」
「凛恋は!?」
「今は寝てる」
ドアを開けて出迎えると、希さんは右手にスーパーの買い物袋を持ち、左手にはケーキ屋さんの箱を持っていた。
「ケーキなら凛恋も食べられると思って」
「ありがとう、希さん」
部屋に入った希さんは、ケーキとスーパーで買ってきた具材を冷蔵庫に仕舞いながら俺に視線を向ける。
「昨日の夜と朝は何か食べた」
「どっちも卵粥を食べた。でも、流石に今日の昼と夜は他の物を食べさせてあげたくて……」
「卵粥は凡人くんが?」
「ああ」
「そっか。きっと凡人くんのお陰で凛恋も元気が出たよ」
希さんはテーブルの前に座って小さく息を吐いた。息が上がっているのを見ると、きっと凛恋のために急いで来てくれたんだろう。
希さんは優しい笑顔を向けてゆっくり俺の頭を撫でる。
「希さん?」
「凛恋だったら、良く頑張ったねって褒めるでしょ? 今は、凛恋が風邪で出来ないから私が代わりにする。凡人くんは凄く頑張った」
「栄次に怒られそうだな……」
優しく撫でてくれる希さんの手を見上げながら呟く。これは、栄次に知られたら散々文句を言われる未来しか見えない。
「私と凡人くんの秘密ね。ありがとう。凛恋の看病を頑張ってくれて」
「俺は凛恋の彼氏だからな」
「そうだね。でもありがとう。凛恋の親友として嬉しい」
希さんはクスクス笑って俺の頭から手を離す。
「凡人くん、今日は一日ここに居ても良い?」
「ああ。でも凛恋は風邪を引いてるから、今日は洋室で寝てくれ。凛恋も希さんに風邪は移したくないだろうし」
「うん。でも、凡人くんはどうするの?」
「俺はここで寝るよ」
俺は自分が座っている床を指さす。凛恋が和室で寝て希さんが洋室で寝るなら、俺はダイニングキッチンで寝るしかない、
「でも、お布団二組しかないんだよね?」
「俺は大丈夫。希さんをまともな寝床に寝せなかったなんて、栄次に合わせる顔がない」
「ありがとう。…………でも、もし良かったら私と一緒に寝る?」
希さんが首を傾げながら言った言葉に眉をひそめる。
当然、俺をからかっているのは分かる。流石にそれほど露骨なからかいは、狙い過ぎてからかいにもなっていない。
「希さん、流石にそれは狙い過ぎだと思うぞ?」
「えっ……本気だったのに……」
希さんがシュンとした表情をして、チラリと俺に視線を向けた瞬間、和室のドアが開いた。
「だめ……」
「「凛恋!?」」
和室から出てきた凛恋は、すぐに俺に抱き付いてギュッと俺を抱き締める。ただ風邪を引いているせいか力は弱々しい。
「だめ……希と一緒に寝ちゃ……」
「り、凛恋!? 冗談だよ!? 凡人くんと一緒に寝るなんて絶対にないから!」
希さんは凛恋の肩に両手を置いて必死に凛恋へ言い聞かせる。それを見ていると、凛恋が俺の手を握って顔を見上げて涙を浮かべる。
「凛恋、希さんは凛恋が風邪を引いたって聞いて飛んで来てくれたんだ。ケーキも買って来てくれたんだぞ?」
「希……ありがと」
俺から離れた凛恋は、今度は希さんに抱きつく。それを見て、希さんは優しく笑って凛恋の背中を擦った。
「今日は私も居るから凛恋は安心してて良いよ」
「ありがと……希」
俺は凛恋と希さんのやり取りを聞きながら、コップに冷茶を入れてテーブルの上に置く。
「ちゃんと水分取って寝ろよ。まだ風邪気味なんだから」
「うん……ありがと、凡人」
また凛恋が俺のところに戻ってきて、俺の手を握りながらコップを片手で持って冷茶を飲み干す。
凛恋が冷茶を飲み終えたのを確認して、俺は凛恋を洋室に連れて行って布団に寝かせる。
「凡人くんじゃなくて凛恋を驚かせちゃった。ごめんね」
希さんは両手を合わせて俺に謝る。
「いつもの凛恋ならあんなに取り乱さないからな。……風邪で頭が上手く働かないんだろう」
「凡人くん、自分のことを責めちゃダメだよ。そういうことしたら、凛恋も悲しむでしょ?」
「分かってる。……分かってるけど、一緒に住んでたのに何でって思うんだ」
「大丈夫だよ。自分で立って出て来られるんだから、凛恋の体調も良くなってる」
「そうだな」
希さんに励まされて、俺は閉じられた洋室のドアを見詰める。
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