【一四九《季節の変わり目》】:二
抱きついて来た凛恋の体はまだ熱かった。まだ三七度あるのだから熱くて当然ではある。
「夜はポトフにするけど、お昼は雑炊にするね。凡人くんはゆっくりしてて良いから」
「いや、手伝うよ。凛恋のために何かしたい」
「そっか。うん、じゃあ一緒にやろう。あっ、凡人くん電話鳴ってるよ?」
「ありがとう」
テーブルの上に置いてあった俺のスマートフォンが震えて希さんが俺に手渡してくれる。そして、スマートフォンの画面を見て俺は手を止めた。
「凡人くん?」
「店長からだ」
希さんに答えながら、俺は画面に表示された『店長』という文字を睨み付ける。
店長から電話が掛かってくる用件は一つしかない。休みだけど人が足りないから出て来いということだ。
俺が電話に出ようとすると、希さんが横からスピーカーホンのボタンを押す。
『今日、出勤しろ』
挨拶も何も無しに店長は用件だけ言う。いつものことだが、昨日の一件があるからいつもより腹が立つ。
「すみません。今日は用事があるので出られません」
今日は流石に無理だ。希さんが居ると言っても、体調不良の凛恋を残してアルバイトには行けない。もし今日が本来出勤するべき日だったら話は別だが、俺は元々休みだったのだ。
『わがままを言うな。お前一人のせいで周りに迷惑が――』
「凡人くんは貴方の都合の良い存在じゃありません」
『は? ……赤城?』
横から希さんが真っ直ぐ俺のスマートフォンを睨み付けて言う。それに、店長は戸惑った声で希さんの名前を口にした。
「自分が困ったから休みの日に出勤しろだなんて、店長の方がわがままです」
『赤城、俺は多野と話して――』
「とにかく凡人くんは今日は出られません」
希さんはそう言ってスマートフォンの画面をタッチして電話を切る。そして、俺の手からスマートフォンを取り上げてテーブルに置いた。
「凡人くんは凛恋の側に居なきゃダメだから」
「もちろん、出る気はなかったよ。凛恋のことを放ってアルバイトになんて行けない」
「うん。それでこそ、凛恋の彼氏」
ニッコリ笑った希さんは、その場で立ち上がって俺を見る。
「さて、そろそろ雑炊を作ろっか」
「ああ。希さん、よろしくお願いします」
俺は立ち上がりながら希さんと一緒に台所へ向かい、雑炊作りに取り掛かった。
俺はアルバイト先の事務所に立たされ、目の前でふんぞり返って座る店長に睨み返される。
「俺に恥を掻かせてそんなに楽しいか? ああん?」
ああん? って、一昔前の不良かよ。と思いながら、俺は心の中で大きく深いため息を吐く。
目の前に座る店長が俺に怒りを向けているのは、先日の小竹さんが誤発注してしまった大量の魚肉ソーセージの件だ。
あの時、俺は大々的に「店長に弁償させられる」と言いながら売っていた。それは恥を掻かせるつもりなんてなかったが、店長への当て付けではあった。
明らかに小竹さん一人に全額弁償させるなんて頭がおかしい話だし、仕入れ値ではなく売値でというのも馬鹿げた話だった。
その馬鹿げた話が、どうやらお客さんからのクレームとして本社に入ったらしい。
おたくは部下に全額弁償させるような店長を雇っているのか、と。
そのクレームを受けたエリアマネージャーが、店長に注意をしたようだ。もちろん、誤発注をしてしまった小竹さんにも落ち度はあったから、小竹さんは再発防止策を纏めた書類の提出を言い渡されている。そして俺も、ちょこっとエリアマネージャーに叱られた。
もう少し大人な対応をしなさい、と。
確かに、店長の行動が酷かったとしても煽り文句に使うべきではなかった。だから俺も大人げなかったと思う。でも、店長は小竹さんに一切謝っていないし、突き飛ばされて怪我をした俺も謝られていない。
それを考えると、相手が全く大人ではないのだから、俺に大人になれというのが不公平な話だ。
「一筆書いてもらおうか。もう二度と生意気なことは――」
「お断りします。それでは仕事があるので失礼します」
俺はそう言って店長に頭を下げて事務所を出る。すると、そこには小竹さんと保谷さんが立っていた。
「多野くん……ごめん。私のせいで……」
「小竹さんのせいじゃないですよ。店長がやったことがおかしかったんです」
アルバイトの俺には、店長が『店で一番偉い人』ということしか分からない。だから、部下のミスで生じた損害を部下に押し付けて、自分は全く責任がないとふんぞり返って良い人間だということも分からない。いや、分かってやるつもりはない。
「さあ、いつも通り品出ししましょう」
「ありがとう」
小竹さんの言葉を聞きながら店内に入ると、俺は早速仕事に取り掛かる。しかし、仕事に取り掛かりながら、俺はそろそろ潮時なのかなと思った。
魚肉ソーセージの一件以来、店長の俺に対する当たりは酷くなっていた。
最初は気にしていた希さんの目も気にしなくなるくらい露骨にだ。まあ、希さんの目を気にしなくなったのは、希さんに遠距離恋愛中の彼氏が居て、アルバイトに行くのも彼氏に会いに行くための資金稼ぎと知ったからだ。
もちろん、希さんが直接言ったわけではなく、レジ部門の人達の話を盗み聞きして知ったようだ。
俺がアルバイトを始めようと思った理由には、誰にも言っていない秘密の理由がある。その秘密の理由はもう既に達成されているから、店長の居るスーパーで働き続ける理由もない。
希さんも店長から誘われることもなくなったし、希さんのことと心配いらなくなった。だから、俺がアルバイトを辞めても問題はない。
「多野くん、彼女いるんだよね。私も彼氏欲しいな~」
隣で一緒に品出しをする小竹さんが、明るい声でそんな話をする。それが、少ししんみりとした雰囲気を掻き消すためにしているというのは、なんとなく分かった。
「スーパーって出会いないんですか?」
「うーん。ないわけじゃないよ? 前の彼氏は、ここに来てたお客さんだったし」
「なら、良い人に出会えるかもしれませんね」
「そうだと良いけど」
小竹さんは自分の分の品出しを終えると、苦笑いを浮かべながら次の仕事へ向かっていく。
その日の仕事は、仕事始めに店長からチクリと――いや、ブスリと言われただけで他には何もなかった。ただ来月のシフト表が出され、それを見た時に軽くため息を吐いた。
「私、店長に言ってくる」
「小竹さん、そんなことしなくて良いです」
仕事終わり、隣で一緒にシフト表を見た小竹さんを引き止めて、俺は改めてシフト表を見る。
今月までは最低でも週に三日は出勤日があった。でも、来月は四日。週四日ではなく、月に四日だ。つまり、週一ということになる。
特にこちらからの希望もなしにシフトが減らされるということは一つしかない。
店長は俺に辞めてほしいと思っているのだ。だから、シフトを意図的に減らして自分から辞めると言うのを待っているのだろう。
俺は、自分では仕事が出来ていないわけではないと思う。
アルバイトを始めて長いわけではないが、自分の担当するグロッサリーの仕事は一通り一人で完結させられるし、他部門の仕事も応援程度なら出来るようになっている。だから、俺の能力不足でシフトを減らされたわけではない。
そうなると、もう店長から嫌われているという理由しか思い当たらない。
俺は時々店長と小さく揉めることはあったが、先日、小竹さんの発注ミスの件で大揉めした。だから、それで店長が俺のシフトを減らして辞めるように仕向けているというのは、簡単に想像出来ることだった。
「店長、どこに居ました?」
「今は、店の裏で煙草を吸ってると思うけど……」
「ありがとうございます」
小竹さんにそう言い終えて、俺は店長の居る店の裏に出て行く。そこでは、煙草を吹かしながら缶コーヒーを飲む店長の姿があった。
「店長」
「なんだ?」
「今月いっぱいで辞めさせていただきます」
「そうか」
俺の言葉を聞いた店長は、煙草を吹かしながら笑う。きっと、俺に対する嫌がらせが上手く行ったと思って喜んでいるのだろう。でも、俺は特に店長の嫌がらせで悲しい思いはしていない。どちらかと言えば、かなり呆れていた。
正確な年齢は分からないが、俺よりも明らかに一回り以上年上の大人が、アルバイトの大学生に対してシフトを減らすという嫌がらせをする。それは大人げないという言葉を使うことすらも出来ない低レベルな行動だ。
俺は他人からあらゆる嫌がらせを受けてきた。だから、店長がやっていることは嫌がらせではあるが、効果的な嫌がらせではない。
それを、俺に嫌な気持ちを抱かせて辞めさせてやったとほくそ笑んでいるであろう店長を見て、俺は滑稽な人間だと思う。
俺も魚肉ソーセージを売った時に店長の悪行を広めたから、決して良い行動をしたとは言えない。でも、少なくとも自分の思い通りにことが運んだと笑っている、目の前の薄らハゲよりは良い人間だと思う。
俺は店長に背中を向けて事務所に戻るために振り返る。すると、視線の先にシフト表を持って立っている小竹さんが居た。
いつも優しく笑っている小竹さんが、その時は明確な怒りを滲ませた鋭い視線を店長に向けていた。
「店長ッ! これはどういうことですか!」
「どういうこととは、どういうことだ?」
「多野くんのシフト、明らかに先月より減ってます! なんでこんなことを――」
「シフトの決定権は俺にある。小竹が口出しすることじゃない」
平然とした表情で――いや、勝ち誇ったように笑いながら言う店長に、小竹さんは一歩踏み出して食って掛かる。
「多野くんは今まで、突然の欠勤が出た時に何度も助けてくれたじゃないですか! それに、元々グロッサリー部門なのに、今は全部の部門の仕事が出来るようになってます! 他の部門の人達も多野くんのことを頼りに――」
「店長の俺に楯突いた挙げ句、出勤命令も無視する。そんな生意気なバイト風情なんていくらでも代わりは居る」
店長のその言葉を聞いて、小竹さんは手に持っていたシフト表を手の中で握り潰した。
「それと、多野は今月までだそうだ」
店長は煙草を片付けてコーヒーの缶を片手に店の中へ戻っていく。
それを見送った小竹さんは、俺の両肩に手を置いて俺の顔を真剣に見詰めた。
「多野くん、思い直して。多野くんが居ないとみんな困るしみんな寂しくなる。赤城さんだって多野くんを頼りにしてここに入ったんでしょ?」
「希さんはレジ部門の人達に可愛がられてますし大丈夫ですよ。それに、店長が言ったみたいに俺の代わりなんていくらでも居ますって」
俺は本心からそう思ってそう言った。
俺が一ヶ月も経たないうちに出来るようになった仕事だ。だから、他の人が入っても俺と同じように一ヶ月も経たないうちに出来るようになる。
そうなれば、俺が居る必要なんてない。
小竹さんのような社員さんは、任せられる仕事に重要なものが多い。だから、社員さんは欠けると困る。でも、俺のようなアルバイトやパートさんは他の誰かが入っても、それなりにでもこなせる程度の仕事しか割り振られていない。だから、店長が言ったように俺の代わりなんていくらでも居る。
「居ないよ。全部門の仕事が出来て、魚肉ソーセージ二〇〇〇個売れるアルバイトなんてそうそう居るわけない。私はそんな人、多野くん以外に見たことがない」
「でも、店長は代わりが居ると言ってますから」
俺は小竹さんの手を肩から退けながら微笑む。引き止めてくれるのは嬉しいが、もう踏ん切りがついたことだった。
「それに、アルバイトを始めた一番の目的も達成できましたし。そろそろ潮時だと思ってましたから」
「多野くん……私は続けてほしい」
「すみません。小竹さんも良い人ですし、他の部門の方もみなさん良い人達ばかりです。でも、肝心の店長があの人なので、これ以上はここで働きたくないです。本当にごめんなさい」
小竹さんに、ここで働きたくないと言うのは躊躇われた。でも、そうでも言わなければ、きっと小竹さんは納得してくれないと思う。
悪いのは店長だけだ。店長以外は誰も悪くないどころか、良い人達ばかりだ。でも、俺のシフトを決めるのは店長で、俺に仕事の指示をしてくるのは店長だ。そして、この店舗で一番権力を持っているのは店長だ。
俺はこのスーパーに来て良い経験をしたと思っている。それは、仕事の大変さを知ったのもそうだし、人の善意の素晴らしさを改めて知ったのもそうだ。人の善意がなければ、きっと二〇〇〇個の魚肉ソーセージは売り切れなかった。
そして、悲しいけど……。
俺はこの場で、大人の世界でのいじめを見た。
大人の世界でもいじめがあるというのは知っていた。だが、目の当たりにするのは始めてだった。
学生のいじめは、せいぜい悪口を言われるとか無視するという程度だった。
場合によっては物を隠されたり暴力を振るわれたりすることもあるが、学生のいじめは自分の心での処理の仕方で大抵は何とか出来た。でも、大人の世界のいじめはそうじゃない。
学生のいじめは大抵が対等な立場の人間が、勝手に相手を下に見ていじめをする。でも、大人の世界では立場が上の人間が下の人間をいじめるのだ。
俺と店長は、アルバイトと店長という明らかに対等ではない立場の人間だった。
人としては対等でも、社内では明確に上下が設定されている。そして、店長には上の立場の人間に持たされている権限があった。
上の人間が持っている権限を使って部下をいじめる。その状況に立たされるのは、今回が初めてだった。そして、俺はそれで分かった。
下の人間に出来ることには限りがあると。
店長が仕事の中で指示をする。それがたとえ他の人にはやらない理不尽な指示でも、業務命令ならやらなければいけない。
シフトを減らされたのも、シフトを決定する権限を持っている店長がそういうのなら従うしかない。
だけど、きっとエリアマネージャーに訴えれば改善されることだと思う。店長がやっているのは明らかにパワーハラスメントだ。でも、俺はそれを訴えない。
もし俺が、どうしてもこのスーパーでアルバイトを続けたいと思ったのなら、どうにかして店長の不正を上に伝えてしがみついたと思う。でも、俺は店長の行動を見て見切りを付けた。そういう店長と戦うこと自体が時間の無駄だと思った。
店長は俺に、俺の代わりは居ると言った。それと同じように、俺にもアルバイト先の代わりは他にもある。
社内での立場に上下はあったとしても、労働者と雇用主は対等な立場だ。
労働者の方にも選ぶ権利がある。その選ぶ権利で、俺は店長のような人間の下で働くことを選ばなかった。ただそれだけの話だ。
「今月末までよろしくお願いします」
「多野くん……私の力不足で嫌な思いをさせてごめんね」
「小竹さんは何も悪くありませんよ」
俺は小竹さんに笑顔でそう言う。そして、俺は、残りの仕事を片付けるためにスーパーの中へ戻った。
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