【一四二《ありがたさ》】:一

【ありがたさ】


 ゴールデンウィークも終わり、また大学生活が始まった俺は、今日もアルバイト先でひたすら商品の品出しをする。


 今日はアルバイトの予定ではなかったが、別のバイトの人が急な休みになってしまい、その補充要員として呼ばれた。ただ、経緯が分かっている今だからこそ納得出来るが、店長から電話が掛かってきた時は酷かった。


『今すぐに来い』


 店長が俺に電話で言った言葉はそれだけだ。何の説明も無く、しかも補充を俺に頼んでいるはずなのに命令口調なのが腹が立つ。

 でも、幸いだったのは、既に俺が一人で作業出来るようになっていたことだ。それなら、一人で黙々と作業出来る。


 アルバイト先のスーパーに来てから、小竹さんに、子供が熱を出してパートさんが来られなくなったことを聞いた。最初からその理由を説明してくれれば納得して来られたのに、何でそんな簡単なことを店長が省くのかよく分からない。


「多野」

「はい?」


 品出しをしている最中、店長に声を掛けられて俺は顔を店長に向ける。すると、視線が合った店長は酷く不機嫌そうな顔をしていた。


「さっき電話口で不満そうにしてただろ」

「いえ、そんなことはありません」


 実際は不満で仕方なかったが、それを馬鹿正直に言うわけもない。そんなことを言えば余計なトラブルになるに決まっている。


「塔成大だがなんだか知らんが、礼儀というものがなってない。いったいどんな育てられ方をしたんだ? 親の顔が見てみたいな。どうせ、大した親でもないだろうが」

「何の事情の説明もなく、ただいきなり出てこいっていうのは礼儀がなってるんですか?」


 店長の失礼な物言いに、俺はそう言い返していた。でも、それを俺は後悔はしなかった。

 店長は今、俺の爺ちゃん婆ちゃんを侮辱したのだ。それをニコニコ笑って聞く気にはなれなかった。


「お前、上司に向かって!」

「ちゃんと、パートさんが急用で出られなくなったから、代わりに出てほしいって説明がほしかったんです。何も分からず呼び出されて、自分がシフトを間違えたのかと思いましたし」

「少し頭が良いからって粋がりやがって! バイトは上の指示に従っとけばいいんだ!」


 怒って俺の側から離れていく店長が見えなくなると、俺は品出しに意識を戻しながら呟く。


「あーあ、やっちまった」


 小竹さんの話では、店長に目を付けられると面倒くさいと聞いていた。きっと、いや確実に俺はさっきので目を付けられた。でも、やっぱり後悔はない。


「多野くん、店長に何かしたの?」

「小竹さん。育て方がどうのこうのって言われたんで、ちょっと言い返しちゃいました」


 少し焦った顔で俺のところに来た小竹さんに答えると、小竹さんは苦笑いを浮かべる。


「店長にはあまり関わらない方が良いよ。多野くん、店長に目を付けられたみたいだし」


 小竹さんがダンボールを片付けてくれながら言う。


「ありがとうございます。まあ、さっきの件で確実に目を付けられちゃいましたよね」


 俺が品出しを終えてダンボールを片付け始めると、小竹さんが苦笑いを浮かべて俺の顔を見る。


「多野くん、パートの人達に人気なのよ。礼儀正しいし良い子だし背が高くて若いって。それで力仕事とか率先してやってくれるし、頼み事をしても全然嫌な顔をしないでしょ? 前までは力仕事とか店長に頼む人が多かったんだけど、今は私を含めてみんな多野くんに頼むようになったの。多分、それで自分より多野くんが頼りにされてるから、店長が多野くんに焼き餅を焼いてるのかも」


 小竹さんの話を聞いて、俺は嬉しくもあり、面倒なことになってるとも思った。


 どうやら、俺は口答えする前から店長に目を付けられていたらしい。そう考えると、電話のやり取りのぞんざいさも頷ける。

 ただまあ、仕事に関連する重要な伝達事項を私怨で省くということに、今まで以上に店長に対して大人としてどうかと思った。


「本当にみんな店長には迷惑してるのよ。今回みたいに、せっかく戦力になってくれたパートさんとかバイトさんとかいびって辞めさせちゃうから」

「一応、まだ辞めるつもりはありませんけど」

「良かった」


 小竹さんとダンボールを片付けて店の裏に捨てに行くと、もうそろそろ終わりの時間になっていた。


「今日は急な出勤ありがとう」

「いえ、ちゃんとした事情があってのことですし」

「小竹さん!」


 俺が小竹さんの手からダンボールを受け取って捨てていると、駐車場の奥から小竹さんを呼ぶ声が聞こえた。


「あっ、保谷(ほや)さん。お子さん大丈夫でしたか?」


 中年の女性が走って来て、小竹さんに声を掛ける。保谷さんと呼ばれた女性は初めて見る人だった。


「出勤を代わってくれた人ですか?」


 保谷さんが俺の方を一度見てから小竹さんに尋ねる。


「はい。多野凡人くんです」

「初めまして、多野凡人です」


 小竹さんに紹介され、俺は自己紹介をする。すると、保谷さんは俺に深々と頭を下げた。


「急に代わってもらって本当にごめんなさい」

「い、いえ、お子さんが病気なら仕方ないですよ。頭を上げてください」


 深々と頭を下げられ、俺は恐縮して戸惑う。


 出勤を代わってもらうということに関しては、確かにお礼を言う必要があると思う。俺も保谷さんの立場だったら絶対に頭を下げてお礼を言う。だが、自分がお礼を言われる立場になると、頭を下げさせてしまうことに俺の方が申し訳ない気持ちになる。


「本当にありがとう。急な休みは店長が嫌うからどうしようかと思ったんだけど、子供をどうしても放っておけなくて……」

「それで間違ってませんよ。バイトの代わりはいくらでも居ますけど、母親の代わりは居ませんから」

「多野くん、良いこと言うね」


 クスッと笑った小竹さんが俺の背中を軽く叩く。それを見て、保谷さんがニッコリ笑った。


「本当にありがとう。これ、急な出勤をさせてしまったお詫びに」

「えっ? そんな! 悪いですよ!」

「良いの。こっちは小竹さんに」

「気を遣わせてしまってすみません。ありがとうございます」


 俺は保谷さんに持っていた紙袋を手渡される。俺は困って断ろうとしたが、小竹さんは素直に受け取った。


「店長には買ってないから秘密にしてね」


 ニコッと笑った保谷さんは、人さし指を口に手を当ててそう言った。




 バイトが終わり家に帰って来て、夕飯の後、凛恋と一緒に紙袋の中身を出す。すると、中には洋菓子店の箱が入っていた。


「わぁー! 美味しそうなシュークリーム!」


 箱を開けた凛恋が子供のような歓声を上げて、箱の中に入っていたシュークリームを見下ろす。


「凡人、私にも頂戴!」

「凛恋に食べさせないわけないだろ? それに四つも一人じゃ食べ切れないし」

「ありがとう! 凡人大好きっ!」


 俺に抱き付いた凛恋が頬にキスをしてピタッと頬を付ける。


「「いただきます」」


 凛恋と一緒にシュークリームを箱から取り出して、一緒にシュークリームへかじり付く。


「うーん! チョー美味しい!」

「今度、保谷さんに会ったらお礼を言わないと」

「真面目で優しくてチョー格好良い凡人のお陰で私も良い思い出来ちゃった! ありがと! あっ!」

「ん? ――ッ!?」


 凛恋が声を上げて振り向くと、凛恋が俺の口の端を舌で舐める。


「り、凛恋?」

「クリームが口の端っこに付いてたから」

「クリームが付いてるって教えてくれれば良かったのに」

「だって~こうやってイチャイチャ出来るのが同棲の良いところじゃん!」


 甘えるようにべったりくっついた凛恋を抱き寄せて、俺は凛恋の唇を優しく塞ぐ。

 凛恋は手に持っていたシュークリームをゆっくりテーブルの上に置き、俺の体に手を回してキスを受け入れてキスを返してくれる。


「バイト先でなんかあった?」

「えっ?」

「凡人のキス、凛恋~話聞いて~って感じのキスだったから」

「バイト中に、朝の電話で不満そうにしてただろって店長に言われて」

「そりゃあするに決まってるじゃん。あの時、何の説明もなしに来いって言われたじゃん」

「そうなんだよ。それで、どういう育てられ方したんだって言われたから、ちょっと頭に来て言い返しちゃったんだ」

「はぁあ!? こんだけ真面目で優しくて気が遣えて格好良い凡人にどういう育てられ方した? そいつ頭おかしいんじゃないの?」


 凛恋は俺をギュッと抱き返しながら俺の頭を撫でてくれる。


「凡人は全然全くこれっぽっちも悪くないからね。そいつの言ってることが頭おかしいことなんだからね。てかそいつ店長でしょ? 社員の指導とかする立場のくせしてそんなこと言うとか最っ低ッ!」

「ありがとう。凛恋が味方してくれて凄く楽になった」

「味方するに決まってるじゃん! 私は一生、凡人の味方だし!」


 俺はそのまま凛恋を押し倒したい衝動に駆られたが、すんでのところで我慢して体を離す。


「食べ掛けのシュークリームを食べよう。余った二個は凛恋と希さんで食べて良いからな」

「ありがと。明日、希が泊まりに来るし、絶対に喜ぶ」


 凛恋と一緒に食べ掛けのシュークリームを食べ終えると、凛恋が余ったシュークリームを冷蔵庫に仕舞う。

 冷蔵庫にシュークリームを仕舞う凛恋を後ろから眺め、凛恋が穿いている短パンを見る。


 この部屋には俺と凛恋しか居ない。だから、凛恋が無防備な格好をしたって俺以外の誰にも見られるわけがない。それにしても、お尻を突き出した姿勢を見ると気になってしまう。


 短パンの布地は薄手で凛恋の綺麗なお尻の形も分かるし、短パンの下に穿いているパンツのラインも浮いている。その短パンが部屋着用で、外で穿くことはないと分かっていても、やっぱりどうしても落ち着かない。


「その短パン、絶対に外で穿くなよ?」

「穿かないわよ。下着のラインが浮いちゃうし、完全に部屋着用」


 当然、凛恋もパンツが浮くのは知っているようで、それを聞いて安心出来る。

 シュークリームを仕舞った凛恋は、俺のところに戻って来てすぐに俺の隣に座りべったりとくっつく。


「今度、美鈴がサークルとか関係無しにテニスに行こうって誘ってくれたの。ほら、希もまだ美鈴と飛鳥に慣れてないし。四人でコートを借りて遊ぼうって」

「そっか。でも……心配だな」


 凛恋がごく短い期間所属していたテニスサークルのことがある。そのテニスサークルは良くないサークルで、凛恋達が辛い思いをさせられるところだった。その時のことがあるから、手放しに行ってこいとは送り出し辛い。


 テニスをする男の人が、みんなこの前のサークル活動に関わった男達と同じとは言わない。でも、この前の男達のような人間が居るのだから安心出来ない。

 また凛恋達が男の邪な考えに晒されるかもしれない。


「分かった。じゃあ断る」


 凛恋は俺が素直に不安を口にすると、凛恋がすぐに断ると答えを出した。でも、それが胸に長くいたぶるような傷を付ける。


 心配だ。凛恋をテニスに行かせるのは、心配で心配で仕方がない。だから、断るという答えはその心配がなくなる良いことだ。だけど、それで俺は凛恋の意思を強制してしまった。


「…………瀬尾さん達に、俺も行って良いか聞いてくれ」

「えっ? で、でも、凡人、運動嫌いだからテニスするの嫌でしょ?」


 悩んだ末に絞り出した俺の言葉に、凛恋が目を見開いて聞き返す。でも、それしか方法がないと思う。


 凛恋をテニスに行かせるのは不安だ。でも、それだからと言って、凛恋との友達との付き合い方を強制するなんてしたくない。だったら、俺も一緒にという方法しかないと思う。ただ、それには問題がある。


 女子だけではなくなるということだ。


 もし瀬尾さんや稲築さんが、女子だけで気軽にテニスを楽しもうと考えていたなら、俺の参加は邪魔でしかない。

 せっかく女子だけだと思っていたのに、男の俺が入ってしまうのだから。だから、それでも大丈夫か凛恋に確認してもらわないといけない。


「運動はあまり好きじゃないけど、凛恋達だけで行かせるのは不安だから、だったら俺もついて行った方が良い。もちろん、女子だけで気軽にやるつもりだったなら、俺は行けないけど」

「凡人! ありがと!」


 凛恋は力強く俺の体を抱き締める。そして、ピッタリと頬を付けて俺の耳元で話す。


「美鈴と飛鳥に聞いてみる。希の方はきっと凡人が居てくれた方が安心すると思うから」

「ありがとう。瀬尾さんと稲築さんには、遠慮せずに嫌なら嫌って言ってくれって言っといてくれ」


 俺を抱き締める凛恋にそう言うと、凛恋が急に体を離し和室の方に駆けていく。そして、ドサドサと音を立てながら布団を焦るように敷いた。


「凡人、お布団入ろ」


 布団を敷き終えた凛恋が俺の側に戻ってくると、俺の手を取って和室の方に引っ張る。俺は、その凛恋の引っ張る力に逆らわず体を持ち上げて和室に入った。

 和室とダイニングキッチンを隔てる引き戸を閉じて、俺は凛恋の体を後ろから抱き締める。照明を点けていない室内は真っ暗だった。


 後ろから凛恋の頭に頬を付けると、凛恋の髪から甘い香りがする。

 二人暮らしをするようになってから、俺は風呂上がりに凛恋の髪をドライヤーで乾かすようになった。凛恋が実家に居る時は、優愛ちゃんと髪を乾かし合っていたらしい。


 俺はドライヤーなんて使ったことがなかったし、凛恋の綺麗な髪を俺が乾かしても良いのかと不安になった。でも今は、凛恋の髪を乾かせることが嬉しい。

 ただ髪を乾かすことを任されただけで、もっと凛恋に近付けた気がした。


「凡人、ずっとそうしてたらお布団入れないじゃん」


 クスクスと笑いながら、凛恋が俺の手に自分の手を重ねながら振り向く。


「私は凡人とお布団入りたいんだけど?」

「布団に入ったら我慢出来なくなる」

「引っ越して来てから、我慢したことあったっけ?」


 俺に体の正面を向けた凛恋はニコニコ笑って俺のお尻に軽く手を触れさせる。


「私のお尻見てエッチなこと考えてたでしょー」

「考えるなっていうのが無理な話だ。パンツのラインが浮いてたし、凛恋のお尻は形が綺麗で――」

「チョー嬉し過ぎる。凡人は私にずっとドキドキしてくれてる」


 凛恋は俺から離れて布団の上に立ち、ゆっくり自分でシャツを脱ごうと裾に手を掛ける。しかし、胸の下まで裾を持ち上げた瞬間、俺を見てシャツの裾から手を離して後ろに組む。そして、クスッと笑っていじらしく首を傾げた。


「さーて、エッチな凡人に我慢出来るかな~?」

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