【一三六《新しい生活》】:一

【新しい生活】


 俺は大きく開いた窓の窓際で背伸びをする凛恋の背中を見た。

 凛恋はこっちに来る前、新幹線に乗る直前はお母さんや優愛ちゃんに抱き付いて大泣きしていた。それで、新幹線の座席に乗ったあともずっと泣いていて、それで泣き疲れた凛恋は新幹線の中で眠っていた。そして多分、悲しさは通り越せたと思う。


 今日から俺と凛恋は、二人暮らしを始める。

 今は新しく住むことになった部屋の掃除を終えたところ。家電製品は早めに注文したお陰で配送の日付指定が出来、俺達が個別に荷造りした荷物も既に届いている。


 当初、こっちで買わなければいけないと思っていた布団も日付指定で送れて、俺達が買いに出る物は食材くらいだけになった。


 ダイニングキッチン以外の部屋は和室と洋室になっている。そして、爺ちゃんの想定では柔らかい畳の敷かれた和室に凛恋が寝て、硬いフローリングの洋室には俺が寝ることになっている。でも、その想定通りになるわけはない。


 凛恋は換気のために開けていた窓を閉じて、俺が取り付けたカーテンを閉める。そして、俺に駆け寄って抱き付いた。


「ヤバー、本当に私と凡人、同棲するんだ」

「実際に引っ越して掃除は終わったけど、まだ実感が湧かないな~」


 凛恋と住むなんて、大学を卒業して就職したその先の話だと思っていた。当然、結婚と同時にということだ。でも、それがかなり前倒しになった。

 今でも、俺と凛恋が二人暮らしなんて、そういう夢を見ているのではないかと思ってしまう。


「ねえ凡人。ちょっと散歩しない?」

「いいぞ。ついでに買い物もしてきたいな」

「そうだね。今晩は何にしようかなー」


 今晩のメニューを考える凛恋の髪を手ですくと、凛恋がニコッと笑って目を閉じる。俺はその凛恋の唇にそっとキスをした。


「なんか同棲してるって感じした」

「凛恋はキスすると同棲してるって感じするのか?」

「ううん。誰の目も気にしないでチュー出来ること。向こうに居る時は、ママとかお婆ちゃんとかのこと気にしてしてたでしょ?」

「いつドアがノックされるか不安だったな」

「一回、チューしてる時にお爺ちゃんがドア開けて焦ったよね」


 凛恋がクスッと思い出し笑いをする。あの時は、一瞬凛恋と離れるのが遅かったら爺ちゃんにボコボコに殴られていたのは間違いない。まあ、婆ちゃんならクスクス笑ってスルーしてくれたかもしれないが。

 凛恋と一緒に部屋のドアを開け、俺が戸締まりを確認して振り返ると凛恋が手を後ろに組んでニコーっと笑う顔が見えた。


「とりあえず適当に歩いてみよっか!」

「こら凛恋、走ると危ない」


 短い外廊下を駆け出した凛恋は、これまた短い階段を軽快に下りていく。その凛恋を追い掛けて、階段を一番下まで下りたところで凛恋を見失う。


「凛恋!?」

「ばあっ!」

「うわっ!」


 階段の影から飛び出して来た凛恋が、横から声を出しながら抱き付く。一瞬、凛恋が居なくなってしまったと思って焦った。


「凛恋、心臓に悪い」

「えへへ~凡人ビックリした?」

「ビックリした。凛恋が居なくなったかと思った」

「私が凡人の前から居なくなるわけないじゃん」


 凛恋がクスッと笑ってしっかりと俺の手と指を組んで手を握る。


「とりあえずこっちに行ってみよ!」


 楽しそうに弾んだ声で言いながら凛恋が歩き出す。その凛恋に引っ張られ、俺もアパートを離れて歩き出した。


 俺と凛恋が住むことになった箕蔓(みづる)という街は、いわゆる住宅街。だから、周囲は俺達の住むアパート以外にも他の集合住宅や一軒家が建ち並んでいる。その一棟一棟、一軒一軒はどこにでもあるような建物だ。でも、そのどこにでもあるような建物が寄り集まって、俺の見慣れない風景を作っている。


 来てしまった、そういう感想が浮かぶ。もちろん凛恋と一緒に暮らせるのは嬉しい。でも、それと同じくらい不安がある。


 これからは爺ちゃんや婆ちゃん、栞姉ちゃん、それから俺のことを知っている沢山の人達が居ない箕蔓で暮らすことになる。それに、不安を感じていた。

 もう大学生になると言っても、俺はまだ力が無い子供だ。そんな俺が上手く箕蔓で生きていけるか心配だ。


 大学ではどう動くかを考えないといけない。高校では凛恋のお陰で沢山の友達が出来た。でも、大学では凛恋は居ない。

 バイトも始めようと思っている。でも、コミュニケーション能力が皆無の俺にバイトが出来るか不安もある。まずは面接を受けて採用してもらわないといけない。その後は、バイト先の人達と無難に出来るかも心配だ。


 家に居る時とプライベートの大部分は凛恋と一緒だ。でもそれ以外は、正真正銘、俺の力だけでなんとかしないといけない。でも、俺は今まで一人でなんとか出来たことはない。

 全部、誰かに助けられてなんとかしてもらっていた。それが、急に誰の力も借りられない現実に直面すると、途方もない不安に襲われる。


「こらー凡人、顔が暗いよ?」

「ごめんごめん」

「私が居るから大丈夫。一緒に助け合って行こ」


 指を組んだ凛恋の手にギュッと力が籠もり、優しく微笑んで凛恋が言ってくれる。

 やっぱり凛恋は凄い。凛恋が側に居て、凛恋が励ましてくれるだけで不安が洗い流される。そして、残るのは凛恋と一緒に居られる幸せだけだ。


「俺は凛恋が居ないとダメだな」

「そうよ~、凡人は私が居ないとすーぐ食生活がぐちゃぐちゃになるんだから。でも、私も凡人が居ないとダメ。凡人が居ないと、私は寂しくて泣いちゃう」

「俺はずっと凛恋の側に居るから大丈夫」

「うん。ありがと」


 凛恋と楽しく幸せな会話をしながら、線路沿いの道を歩いて周囲を見渡す。


「なんか落ち着かないよな、周りの風景」

「まあ来たばっかりだしね。でも、お店が近いのがチョー便利。スーパーもあるしコンビニもあるし、それからホームセンターもちょっと歩くけどあるし。それに、ドラッグストアはかなり近いし」

「なんだよ」


 ニタァーっと笑う凛恋にそう言葉を返す。が、凛恋の笑みの理由は分かっている。ただ、あえて触れないだけだ。


「もー分かってるくせにー。凡人のムッツリ」

「俺はムッツリじゃない。ただ、時と場合を考えてるだけだ」

「えー。なんかそれ、私が時と場合考えてない痴女みたいじゃん」

「痴女とまでは言ってない」

「あー、時と場合は考えてないと思ってたんだー。じゃあ、帰りにドラッグストアには寄らなくて良いわね」

「ごめんなさい。帰りに寄って下さい」


 すぐに降伏宣言をすると、凛恋が手で口を隠して可笑しそうに笑う。


「言われなくても寄るし。寄らないと私が困るもん。色々と"常備薬"が必要だしねー。風邪薬とか胃腸薬とか。あれあれ? 凡人くん、ビックリした顔してるけど、どうしたのかなぁ~? もしかして、別の物のことを考えてたー?」

「常備薬は向こうでお母さん達が買ってくれただろ」

「あっ、そーだった! じゃあ行く必要なかったねー」


 白々しい態度の凛恋にまたからかわれ、俺は口を閉じてもうこれ以上何も言わないように黙る。


「凡人ー、拗ねないでよー。凡人ってばぁー」


 横で腕を揺すって笑う凛恋の顔が視界にチラチラと映るが、俺は黙って真っ直ぐ歩き続ける。


「ちょっとぉー凡人? …………凡人? ねえ、凡人ってば……」


 俺をからかう凛恋の余裕たっぷりの声がしぼみ、不安たっぷりの心細そうな声になる。


「凡人、ごめん……からかい過ぎた。本当にごめんなさい」

「凛恋にからかわれて傷付いた」

「ごめん。どうしたら許してくれる?」


 凛恋が斜め下から目をうるうるさせて見上げる。

 俺はいつも、俺をからかう凛恋に仕返しすると、凛恋の悲しい表情を見て罪悪感に苛まれる。その度に、仕返しなんかしなければ良かったと後悔する。


「怒ってないから良いよ」

「ごめんなさい。また調子に乗り過ぎて」

「じゃあ、今日は肉料理にしてくれたら許してあげようかな」

「うん! 凡人のために美味しいご飯作るね」


 凛恋がギュウっと腕にしがみついてニコニコと嬉しそうに笑う。その凛恋の笑顔を見てホッとし、俺は凛恋の体を引き寄せながら見慣れない街に視線を戻した。




 買い物を済ませてアパートまで戻って来ると、凛恋はすぐに夕飯の準備を始めた。

 八戸家で使っていたエプロンを着けて調理をする凛恋の後ろ姿を見ながら、俺は風呂場に行ってお湯を湯船に張りに行く。

 お湯を張りに行くと言っても、給湯器の操作パネルのボタンを押すしかやることはない。だから、すぐに俺のやることは終わって待つことしかやることがなくなってしまう。


「凡人ー、スマホ鳴ってるよー」

「分かったー」


 凛恋の声が聞こえてダイニングに戻ると、テーブルの上に置いてあった俺のスマートフォンがブルブルと震えていた。


「はいもしもし」

『カズ、凛恋さんと楽しくやってるか?』

「ああ。昼間に散歩しながら周りを探索してきた」

『そうか』

「そっちは?」

『部屋の片付けも終わって一段落したところ。今から夕飯だ』

「そうか。こっちも今凛恋が作ってくれてる」

『羨ましいな。彼女の手料理』


 ニヤニヤ笑う顔が簡単に思い浮かぶ声で栄次がからかう。


「希さんはどうなんだ?」

『希も一段落したところ。凛恋さんに電話するって言ってたけど』


 栄次のその言葉の直後、テーブルの上に置いてあった凛恋のスマートフォンが震えて、俺は立ち上がって料理をする凛恋に持っていく。


「ありがと。もしもし、希?」


 俺が手渡したスマートフォンを操作して凛恋がスピーカーフォンにすると、料理をしながら希さんと電話を始める。


「今、希さんから電話来て話してる」

『そうか』


 テーブルの前に戻りながら栄次に言うと、電話の向こうから小さく吐かれたため息が聞こえる。


『次に希に会えるのはゴールデンウィークか~』

「一ヶ月ちょいだろ?」

『そうだけど、今まで一ヶ月も会わないなんてことなかったし。頼むからな、希のこと』

「大丈夫だって。三人でどこか行ったり飯食ったりしようって話してるし、今まで以上に頻繁に会って近況を聞くようにする」

『希は寂しがりだから、凛恋さんが近くに居てくれて良かった』

「結局、俺じゃなくて凛恋頼みじゃないか」

『どっちも頼りにしてるんだよ』


 笑う栄次の声が聞こえて、俺も小さく笑いを返す。


『凛恋さんとの時間を邪魔して悪かったな。カズの様子を聞こうと思ってただけだからこれで切る』

「ああ、ありがとな」


 栄次との電話を切ると、凛恋がテーブルの上にしょうが焼きの盛られた皿を置く。

 更に、サラダと味噌汁、そして白飯の盛られた器が運ばれてきて俺は凛恋に視線を向けた。すると、凛恋はエプロン姿でニコッと笑う。


「あなた、ご飯出来たわよ?」

「凛恋、こんなに頑張らなくて良いって。しょうが焼きとご飯があれば」


 凛恋の料理を見て、かなり手が込んでいるように見える。しょうが焼きはどうやら市販のしょうが焼きのタレを使っている訳ではなさそうだ。

 味噌汁は出汁入り味噌を買っていたから、昆布で出汁を取るところから始めているわけではない。ただ、それでも品目が多いような気がする。


「ダメよ。栄養のバランス考えるって言ったじゃん」


 隣に座った凛恋が、人さし指で俺の頬をツンツン突く。


「でも、最初から気合い入り過ぎだ。しょうが焼きはタレを買ってくれば良いだろ?」

「良いのよ。私がやりたくてやってるんだから」

「う~ん」


 やりたくてやっていると言われてしまえば、それ以上は何も言えない。俺の方も凛恋の手料理を食べられて嬉しい気持ちも当然あるからだ。だが、それで凛恋に対する負担が大きくなるのは良くない。


「疲れたらちゃんと手抜きしろよ」

「分かった。時間ない時とか体調が悪い時は楽させてもらう。それで良い?」

「ああ。それと付け加える。体調が悪い時はすぐに俺に言ってくれ。絶対に無理するなよ」

「ありがと、凡人。ちゃんと言うようにするね。じゃあ食べよっか? いただきます!」

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