【一三六《新しい生活》】:二
凛恋が腕を抱いて頬に軽くキスをする。そして、すぐに合掌をして箸でしょうが焼きを食べ始めた。
「いただきます」
少し頬の赤い凛恋の横顔から視線を外し、俺も合掌をして凛恋の手料理を食べ始める。
箸でしょうが焼きの肉を口に運んで、すぐに白飯を口に入れる。市販のしょうが焼きのタレよりも少し甘めだが、不思議と白飯を食べたくなる。
次に味噌汁の入ったお椀を持って汁をすすると、凛恋が俺の方を見て微笑んだ。
「凡人がご飯食べてるところ、今日から毎日見られるなんて幸せ」
「俺は凛恋と今日から毎日一緒に居られるなんて幸せだ」
「あ! もー、凡人はいっつもズルい! 私だって凡人と一緒に居られるの幸せだし! あっ!」
「あっ?」
「さっきの電話、希からだったんだけど、やっぱり一人って心細いみたい」
「まあ、希さんは正真正銘一人暮らしだからな」
希さんは俺達とは少し離れた旺峰に近い街のアパートに住んでいる。電車で行き来が出来る距離だし、会おうと思えば簡単に会える。
「明日、希さんも誘ってちょっと遠出してみるか?」
「それさっきの電話で希とも話してたの。でさ、明日は希と三人でご飯食べよ」
「良いな」
「でね、結構希とご飯食べる頻度を多くしたいなって思うの。希も一人でご飯食べるより三人で食べた方が美味しいと思うし」
「そうだな。希さんが良いって言うなら俺は良いぞ」
「うん! あとで希にメールしとくね!」
凛恋がニコニコ笑って嬉しそうにご飯を食べる。
二人が行き来が出来る距離に居るのは、栄次の言っていた通り良いことだった。寂しいのは希さんだけではなく凛恋もだ。
こっちに来る前に沢山泣いて、お父さん、お母さん、優愛ちゃんとの別れを惜しんでいた。あの、家族と離れ離れになる寂しさだけは俺ではどうしようもない。
俺が凛恋と一緒に居て、ずっと凛恋を安心させたからと言って、俺はお父さんやお母さん、優愛ちゃんの代わりになんてなれない。凛恋にとって、お父さん、お母さん、優愛ちゃんの代わりになれる人なんて誰も居ないのだ。
だとすれば、俺に出来るのは凛恋を楽しい気持ちにして寂しい気持ちを抱かせないこと。でも、それを俺よりも出来るのは希さんだ。
凛恋の嬉しそうな横顔をまた見て、俺はホッとする。そして、俺も嬉しくなった。
夕食を終えて凛恋と一緒に食器洗いをした後、俺が準備していた風呂に入った。当然というか、当然になってしまったというか、風呂も凛恋と一緒だった。
流石に凛恋の裸を直視出来るようになったわけではないが、最初に一緒に風呂に入った時よりも緊張はしなくなった。まあ、凛恋は俺をからかい辛くなったからつまらないようだったが。
風呂から上がれば、あとは二人で並んで座ってテレビを見るくらいしかない。ただ、地元よりもテレビのチャンネルが多く、凛恋と並んで色んなチャンネルに切り替えてみたり、番組表を見てどんな番組があるか見ていたりするだけで時間が過ぎていった。
「凡人、明日は服を見に行くことになったから」
「分かった」
「こっちは色んなお店があるし、この前来た時には見て回れなかったお店が沢山あるから楽しみ」
「明日一日で見て回らなくても良いんだからな? 何回かに分けて見て回ろう」
「凡人はこの前ぐったりしてたもんね」
「凛恋と優愛ちゃんのエネルギーには勝てないって」
俺と凛恋が住むこのアパートの契約に来た日、手続きが終わった俺達は凛恋と優愛ちゃんの要望で観光をした。しかし、凛恋と優愛ちゃんが効率的にどれだけ多くの店を見て回れるかを追求した結果、恐ろしくハードなスケジュール設定になってしまった。それに引っ張られる形で連れ回された俺は、帰りの新幹線に乗る頃には疲れ切っていた。
ただ、凛恋のお母さんも凛恋と優愛ちゃんと同じようにハードスケジュールにも涼しい顔をしていたのが印象的だった。八戸家の女性陣はかなり強いというのが分かった一日でもあった。
「優愛、ちゃんと勉強してるかな~」
そう呟いた凛恋の声を聞いて、俺はしまったと心の中で後悔した。俺が優愛ちゃんの名前を口にしてしまったから、凛恋が地元のことを思い出してしまった。
「大丈夫だって! 優愛ちゃんしっかりしてるし!」
「それに、優愛もパパも家事をやらないから、ママは大変だろうな。大丈夫かな……」
「大丈夫に決まってるだろ。凛恋のお母さんは何年主婦をやってると思ってるんだよ」
「一番心配なのはパパよ。パパ、ちょっとお酒を飲み過ぎちゃう時があるから、ちゃんと見てセーブさせないと……」
「凛恋のお母さんが飲み過ぎにさせるわけないだろ」
凛恋を安心させようと、俺は明るい声で凛恋の背中を擦りながら話し掛ける。しかし、俯いた凛恋の目には小さな雫が溜まっていた。
「凛恋、家に電話してみろよ。まだみんな起きてるだろ?」
「うん……」
凛恋がスマートフォンを持って洋室の方に歩いて行く。俺の側で電話しないということは、俺は側に居てほしくないということだろう。結構寂しいが、家族の時間を邪魔しようとは思わない。それに、寂しくて泣いてしまったことが恥ずかしかったのかもしれない。
別れで泣くということは、それだけその人のことを大切に想っているということだ。大切に想っていなかったら、別れが寂しいとか悲しいなんて思いもしない。だから、凛恋が家族との別れで涙を流すのは、八戸家が凄く仲が良い証拠でもある。
「ん?」
凛恋が洋室に行ってからボーッとテレビを眺めていると、俺のスマートフォンが震える。画面には栞姉ちゃんの名前が表示されていた。
「もしもし、栞姉ちゃん?」
『もしもしカズくん。今大丈夫?』
「大丈夫。何かあった?」
『何かないと弟に電話しちゃダメ?』
「いや、ダメじゃないけど、何かあったのかなって思って」
繋がった電話の向こうで栞姉ちゃんがクスクスと笑う。
『カズくんはご飯食べた?』
「食べた。今日はしょうが焼きと味噌汁とサラダだった」
『八戸さんの手料理が毎日食べられるようになって良かったね』
「それは嬉しいんだけど、凛恋が手抜きをしようとしないから心配なんだ。しょうが焼きも市販のタレを使わずに、自分で色々調味料合わせて作ったみたいだし」
『そっか。でも、好きな人に作ってるんだから楽しいんじゃないの?』
夕飯の話をして凛恋の料理の話に変わった時、栞姉ちゃんが思い出したように声を発した。
『あっ、今日夕飯の時に、お爺さんが久しぶりにお酒飲んで』
「あー、大丈夫だった?」
『それが、居間で酔いつぶれちゃって、お婆さんが毛布を掛けて居間で寝ちゃってる』
「まったく……幾つになっても酔いつぶれる前に止めるってことが出来ないんだよな、爺ちゃんは……」
居間で酔いつぶれている爺ちゃんの姿が鮮明に頭に浮かび、俺は大きくため息を吐く。
『カズくんが居てくれたら運べたんだけどね』
栞姉ちゃんはケラケラと笑う。しかし、その笑い方に違和感を抱く。栞姉ちゃんは、そんな大袈裟な笑い方はしない。
「栞姉ちゃん、何かあった?」
『うん……カズくんが居ないの寂しいなって思って。ごめんね、カズくんの声が聞きたくて……』
元気のない震えた栞姉ちゃんの声が聞こえて、俺は座り直してスマートフォンを握る力を込める。
「またゴールデンウィークに帰ってくるから」
『うん。その時はお土産とお土産話楽しみにしてるね』
「分かった。何か良いお土産を探しておくよ」
栞姉ちゃんとの電話を終えると洋室の方から凛恋が出てきて、少し赤くなった目で俺を見る。
「どうだった?」
「優愛が引くぐらい号泣してた」
そう言いながら、凛恋が俺の隣に座る。でも、さっきの寂しさで暗くなった顔はしていなかった。
スマートフォンさえあればどこに居ても会話が出来る。だから、寂しくなったら話せば良い。実際に顔を合わせることは出来ないが、それでも声を聞けるだけでも全く違う。
凛恋は黙って俺の側に寄り添い、手を握って俺に寄り掛かる。俺はその凛恋の腰に手を回して抱いた。
「…………凡人、お布団敷こっか」
立ち上がった凛恋は俺の手を引っ張って和室の方に歩いて行く。
和室に入って照明のスイッチを入れると、凛恋が自分の布団を広げて手を引っ張った。
「凛恋?」
「一緒の布団で寝るの」
「いや、それは――」
「良いじゃん。二人っきりだし」
布団を敷き終わった凛恋は、俺に正面から抱き付いてキスをしながらゆっくりと布団の上に腰を下ろす。俺も凛恋に引っ張られるように布団の上に座った。
キスをしながら凛恋の頭を撫でていると、唇を離した凛恋が呟く。
「凡人と一緒で良かった。凡人が居なかったら、寂しくて耐えられなかった……」
涙を流して俺の胸に顔を埋める凛恋は、そう声を漏らしながら俺の背中に回した手でシャツを掴む。
「耐えなくて良い。泣きつける相手が居るんだから泣きつけば良いだろ? 俺は凛恋のためにそれくらいは出来るつもりだぞ」
「ありがとう、凡人っ……」
どうやっても止められない涙を我慢させるより、止められない涙を受け止めた方がずっと良い。受け止めた方が凛恋に無理をさせない。無理をさせなければ、凛恋が無理をして壊れることを防げる。
どれだけの時間、凛恋を抱き締めていただろう。ずっと凛恋を抱き締めて頭を撫で続けた。そして、俺がまた撫でるために凛恋の頭に触れた瞬間、凛恋が体を離して俺の顔を見る。
「危ない、危うく寝るところだった」
「えっ? 別に寝ても良かったんだぞ?」
布団のうえにアヒル座りをした凛恋が真っ赤な目を擦って首を振る。
「ダメダメ! せっかく二人暮らしの記念日なのに、このまま寝ちゃうなんて」
凛恋は慌てた様子で布団の上から四つん這いで離れていき、昼間にドラッグストアで買った物が入っているビニール袋を漁る。それを見て俺は凛恋が何をしているのかを察し、急に落ち着かなくなって胡座をかいていた姿勢から正座に変えてみる。
袋から小箱を手に持って戻って来た凛恋は、右手に小箱を持ったまま俺にキスをする。
優しく触れるだけだったキスは、すぐに熱く深いキスに変わる。更に、凛恋は左手で俺の肩を押して布団の上に押し倒した。
上から見下ろす凛恋は俺の隣に寝転び耳元で囁いた。
「凡人に、慰めてほしいな」
カーテンがしっかり閉め切られた窓の外から、バイクのマフラーの排気音が通り過ぎていくのが聞こえる。でも、それよりも大きく下から凛恋の甘い吐息が聞こえた。
照明も消された部屋の中にはカーテンの隙間から、僅かな明かりが入ってくるだけでほとんど真っ暗に近い。でも、夜目の利いた俺には色っぽく俺を見上げる凛恋の顔が鮮明に見える。
凛恋が俺に、俺と一緒で良かった、俺と一緒じゃなかったら寂しさに耐えられなかった、そう言っていた。でもそれは俺の方だ。
俺は本当に不安でいっぱいだ。大学もバイトも普通に家で過ごすのも、たった俺一人ではまともに出来る気がしない。それでは本当はいけないのだが、凛恋が居なかったら心細くて仕方が無かった。でも、俺の側には凛恋が居てくれる。
凛恋は俺に甘えてくれる。凛恋は俺に弱さを見せてくれる。だから、俺は強く居られる。凛恋が頼ることが出来る最低限の強さを持ち続けられる。その最低限の強さは、俺が心を覆い尽くそうとする不安に打ち勝てるだけの強さにもなっていた。
俺も地元から離れて寂しい。でも、俺は凛恋が居るからその寂しさに耐えられる強さを持てている。だけど、凛恋は寂しさに耐える必要なんてない。
そんな苦しいことを凛恋には絶対にさせたくない。強く居なければいけないと思うのは俺だけでいい。
俺は凛恋が安心して甘えられるように、頼れるように、強く居なくてはいけない。でも、それでは肝心な時に心が重荷に耐えきれず砕けてしまうかもしれない。だからきっと、こうやって夜だけ、ほんの少しだけ凛恋に甘えるくらいは許してもらえると思う。
俺は凛恋の熱い体の熱を感じながら凛恋に甘える。その俺の背中に凛恋が手を回して、必死にしがみついて俺から体を離さないようにしている。それが、途方もない幸せで俺の心を埋め尽くす。
不安も寂しさも、その他の暗い気持ちが一切入り込めないくらい心が凛恋で満たされる。
俺と凛恋の唇が重なり、想いが溶け合って混ざり合い、一つになる。それは相愛という名の愛情で、俺は凛恋と、凛恋は俺としか混ざり合わせない想い。
俺と凛恋が混ざり合う感覚を味わいながら、俺は凛恋にバレないように凛恋の顔の横で雫を流した。
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