【一三五《ただそれだけ》】:二

 俺達が露木先生に連れて来てもらったのは焼き肉店。

 俺はその焼き肉店の店内に入り、周囲を見渡して戸惑う。外観も綺麗な建物だったが、内装も綺麗で落ち着いている。

 焼き肉店に来るのは初めてだが、もっと焦げ臭くて壁や天井が黒ずんでいるものだと思っていた。


「露木先生ありがとうございます。こんな高そうな店に連れて来てもらって」

「えっ?」


 俺がお礼を言うと、露木先生は周囲をみ渡したあと、手で口を隠しながら声を落とす。


「あまり声は大きく言えないけど、ここ安さが売りのチェーン店だから大したことないよ」

「そうなんですか?」

「そうそう。だから気にしないでいっぱい食べてね」


 席に案内されて、俺は左を露木先生、右を凛恋に挟まれてしまう。


「多野くんは端っこに座らせると落ち着いて食べないからねー」

「落ち着いて食べないって、俺は落ち着きのない子供じゃないんですから……」

「落ち着きないよ。カラオケの時なんか、ずっとみんなの飲み物の残りを確認したり注文を全部請け負ったりしてるし。だから、今日は真ん中で落ち着いて食べてね」

「は、はい」


 そう露木先生に言われた俺の右側から、クスクスと凛恋が笑う声が聞こえる。


「凡人、右側は私が居るから、今日は諦めてね」

「まあ、焼き肉店に来たことないしな。流石に勝手が分からないところで動いても邪魔なだけだし、みんなに任せる」

「そうそう。それで良いんだよ」


 左側から露木先生が満足そうに頷きながらメニューを開く。


「適当に頼んじゃうね。みんな、何か食べたい物があったら何でも言ってね」


 露木先生が店員さんに注文をする姿から目を離すと、凛恋が俺の隣から露木先生の方へひょこっと顔を出す。


「露木先生、サラダバーを頼んで良いですか?」

「うん。人数分頼んでおこうか。サラダバーを九人分お願いします」


 注文を終えると、店員さんがすぐにサラダバー用の木製の小さなボウルを持ってきてくれる。


「とりあえず、みんな取って来て、その後に私と凡人が行くから」

「二人共ありがとう。じゃあ、みんな行こうか」


 露木先生がみんなを連れて席を立つのを見送ると、凛恋が隣から俺の顔を見る。


「凡人は油断するとお肉しか食べないからねー」

「俺だって野菜くらい食べるぞ。料理の付け合わせとか」

「付け合わせ以外の野菜は、私かお婆ちゃんに言われないと食べないじゃん。サラダバーも私が盛り付けるから」


 俺は別に野菜が嫌いなわけじゃない。ただ、必要な分、料理に予め使われている分以外は基本的に食べないだけだ。

 俺は凛恋が言うように、凛恋か婆ちゃんに「野菜!」と言われない限りは追加で食べようとはしない。でももちろん、サラダが最初から食事のメニューに入っていたら食べる。だから、凛恋にジトッと目を向けられて言われるほど野菜嫌いなわけではない。


「二人暮らしになったら、今以上に気を付けないと」

「そんなに気を張らなくて良いって。適当で」

「ダメよ。大好きな凡人の健康管理なんだから、気を付けないと。私のせいで凡人が体調を崩したなんて絶対にさせない」

「凛恋が料理作って今までより食生活が酷くなるわけないだろ」


 凛恋の料理は上手いしちゃんとバランスを考えて作られている。その凛恋の料理が、俺が適当に食う食事より酷くなるわけがない。だから、特別凛恋が気を遣わなくても、俺の食生活は良い状態になるに決まっている。


「多野くん、八戸さん、ありがとう。サラダ取って来て」

「はーい。凡人、行くよ」


 露木先生達が戻って来ると、凛恋に手を引っ張られて俺はサラダバーのコーナーに連れて行かれる。


「はい。凡人のボウル貸して」

「ああ」


 凛恋に持って来たボウルを手渡すと、凛恋がトングを使って俺のボウルに野菜を盛っていく。


「凡人はもう荷造り終わった?」

「まあ、俺は荷造りって言っても服くらいだからな」

「お布団は向こうで買わないと、多分届くのズレちゃうよね」

「そうだな。近くにホームセンターあったし、そこで買えるんじゃないか?」

「じゃあ、私達用にダブルで、誰か泊まりに来た時用にシングル一枚だね」

「とりあえずは、シングル二枚にしておこう。誰かが来るって時になったら、追加で買い足せば良いだろ?」

「えー」

「えーじゃなくて、お母さん達が来てダブルで寝てるの見られたいのか?」

「うーん……流石にそれはちょっとマズイかも」


 俺達はもうすぐ新しく住むことになる家へ引っ越す。

 その日は、こっちから送った荷物は届かない。届く日や時間を指定することも出来るが、万が一という場合がある。だから、布団は向こうで買わないといけない。

 俺が見ている間に凛恋が手際よくサラダを盛ってくれて、一緒にテーブルに戻る。すると、既に注文した肉が運ばれて来ていて、みんなが肉を焼くのを待っていてくれた。


「待たせてごめん」


 二人で少し慌てながら席に座ると、露木先生がウーロン茶の入ったコップを持ち上げる。それに続いて、みんなもそれぞれのコップを手に持って持ち上げた。


「みんな、卒業おめでとう! 乾杯」

「「「カンパーイ!」」」


 乾杯をして一口ウーロン茶を飲むと、みんなが笑顔で肉を鉄板の上に並べ始める。それを見ていた露木先生はニコニコと嬉しそうに笑いながらみんなの顔を眺めていた。


「露木先生、お酒飲まないんですか?」

「え? ほら、元でも生徒と一緒だし」

「良いじゃないですか。俺達が飲んだら問題ですけど、露木先生が飲むのはなんの問題もないでしょう」

「凡人くんの言う通りですよ! 露木先生も楽しまないと」


 焼けた肉を箸で鉄板から取りながら、萌夏さんが俺の話に乗っかる。それを聞いて、露木先生はちょっと躊躇ったものの、メニューを手に取って眺めた後、店員さんに生ビールを注文した。


「多野くん、気を遣わせてごめんね」

「いえ。露木先生もお酒飲んでないとやってられないでしょ? 仕事のストレスもあるでしょうし」

「ありがと。あっ、八戸さん」


 露木先生は俺越しに凛恋に声を掛ける。声を掛けられた凛恋は、肉を飲み込んで顔を露木先生に向けた。


「はい?」

「まだ秘密にしてほしいんだけど、来年の担当クラスに八戸さんの妹さんも居るよ」

「そうなんですか! 露木先生が担任だと安心出来ます」

「妹さんも成華女子志望みたいだし、全力でサポートするね」

「ありがとうございます」


 凛恋の妹である優愛ちゃんは、大学進学を卒業後の希望進路にしている。そして、志望校は凛恋と同じ成華女子。

 優愛ちゃんの成績ならまだ上のレベルの大学を狙えるが、優愛ちゃんが希望しているのだからみんな応援している。特に凛恋は嬉しいようだ。


「優愛、喜ぶだろうなー」


 嬉しそうにはにかむ凛恋は、俺の皿を見て鉄板から肉を箸で取って置く。


「ありがとう凛恋」

「ううん。凡人のために焼いてたお肉だから」


 凛恋に横から見詰められながら、俺は凛恋が焼いてくれた肉を食べる。


「美味しい?」

「美味しい。焼き加減もバッチリだ」

「良かった」

「バカップルがいちゃついてる間に肉食べちゃお」


 俺と凛恋の正面から萌夏さんの声が聞こえて、みんながクスクスと笑う。しかし、凛恋はそれに恥ずかしがるどころか、体をくっつけて自分のとった肉を自分の箸で俺の口の前に運ぶ。


「凡人。はい、あーん」

「あーん」


 凛恋の箸から肉を食べると、みんなが若干の呆れを含んだ笑みを向ける。


「凛恋、飲んでないでしょーねー」

「そんなわけないし! 素面(しらふ)だし」

「素面だったら余計可笑しいわ」


 萌夏さんのツッコミにみんなが小さく吹き出して笑う。

 みんなで話しながら肉を食べていると、左隣に座る露木先生の体が軽くぶつかる。


「あっ、多野くんごめん」

「いえ、大丈夫で――」


 俺はそう言い掛けて、露木先生の前を見て言葉を止めた。

 少し前にビールジョッキの半分くらいまで飲んでいたはずなのに、空のビールジョッキがテーブルの上に置かれていて、露木先生の手にはいつの間にか新しいビールジョッキがあった。そして、そのビールジョッキの中身も半分以下になっている。

 そのジョッキがどれくらいの容量かは分からないが、おそらく大ジョッキだと思う。大ジョッキ一杯半が果たして多い量なのかは分からないが、いつの間に飲んだんだろう。

 そして、視線の先では、残りのビールを飲み干す露木先生の姿が見えた。




 食事が落ち着き追加注文をしなくなった頃、露木先生が時計を見た。


「あー、もうこんな時間。あまり遅くなるとみんなのお父さんとお母さんが心配しちゃうから帰らないと!」


 そう言って立ち上がった瞬間、露木先生が俺に倒れてくる。俺は、何とか露木先生の肩を掴んで倒れてきた露木先生を支えた。


「多野くん、ごめーん」

「俺は大丈夫ですけど、露木先生は大丈夫ですか?」

「大丈夫だよー。ちゃんとお金はあるから!」

「いや、そっちの大丈夫じゃなくて……」


 テーブルに両手を突いて立ち上がった露木先生は伝票を持って会計に向かおうと歩き出す。

 その露木先生はしっかり歩けているように見えるが、心配になって俺も慌てて立ち上がる。

 会計を終えて店の外に出て、みんなと楽しげに話している露木先生を見ながら、俺は隣に居た栄次に声を掛けた。


「栄次」

「どうした、カズ」

「帰り、希さんと一緒に萌夏さん達を送って帰ってくれないか?」

「良いけど。ああ、カズは露木先生を送って行くのか」

「ああ、見た感じ大丈夫そうには見えるけど、お酒入ってるし、女の人を一人でってのは気が引けて」

「分かった。理緒さんと萌夏さんは俺と瀬名で送って行くよ」

「助かる」


 俺は栄次にお礼を言って、露木先生に近付く。

 露木先生は会計の動作も店員さんへの受け答えもしっかりしていた。でも、お酒が入っている女性を、たった一人で日が沈んだ外を歩かせるわけにはいかない。

 変な輩に目を付けられたら大変という話では済まなくなる。


「凛恋、露木先生を送って帰るぞ」

「うん」


 凛恋に話し掛けると、凛恋は露木先生に視線を向けて小さく笑う。


「露木先生、帰りますよ」

「そうだね。じゃあ、みんなまたねー!」


 小さく手を振った露木先生は凛恋の手を握って歩き出す。


「じゃあ、まずは八戸さんのお家に行こー」

「先に露木先生の――」

「ダメ! 大切な教え子を送り届けないと安心出来ない!」

「ありがとうございます」


 露木先生と手を繋いだ凛恋は、クスッと笑って返事をする。


「ほら! 多野くんも遅れないで!」

「すみません」


 俺も露木先生に言われて笑いながら、凛恋と露木先生の後ろを歩く。


「八戸さんは大学に行っても、今まで通りにやっていたらきっと大丈夫! 私は八戸さんのことは全然心配してない!」


 凛恋の手を握っている露木先生がニコニコ笑顔で凛恋を見ながら言う。そして、俺の方を振り返って眉をひそめる。


「多野くんはもっと自分を大切にするよーにっ!」

「はい。分かりました」


 露木先生にビシッと指をさされて注意され、俺は苦笑いを浮かべて謝る。

 去年の夏に行ったキャンプでもそうだったが、露木先生は酔うと若干俺に厳しくなる。

 まあ、日頃は思っていても言えないことは誰にでもある。それに、言われても嫌な気持ちになったり凹んだりすることでもない。ただ、露木先生には心配を掛けさせてしまったと反省はする。


 凛恋の家の前まで歩いて来ると、露木先生は凛恋と手を繋いだまま向き合う。そして、露木先生がそっと凛恋を抱き締めた。


「ありがとう」

「露木先生……」

「八戸さんのお陰で毎日楽しかったよ」

「私も、露木先生が居たから学校、凄く凄く楽しかったです!」


 凛恋は露木先生の背中に手を回してそう言った後、キュッと唇を結んだ。


「またご飯食べに行こう」

「はい! またゴールデンウィークに会いましょう!」


 ゆっくり体を離した凛恋と露木先生。凛恋は手の甲で目を拭い、露木先生はその凛恋の頭を優しく撫でた。


「八戸さん、おやすみなさい」

「凛恋、おやすみ」

「露木先生、凡人、おやすみなさい」


 手を振って家の中に入った凛恋を見送ると、隣から露木先生の明るい声が聞こえた。


「さて! 次は多野くんのお家だよ!」

「違いますよ。露木先生の家の方が近いでしょ」

「えー!」

「行きますよ」


 不満げな露木先生の肩を掴んでそっと押し出し、俺は露木先生と一緒に露木先生の家へ向かう。


「もー仕方ないなー多野くんはー」

「ちょっ、露木先生、ちゃんと歩いて下さいよ」


 焼き肉店を出てから凛恋の家に来るまではしっかりした足取りだったのに、歩く露木先生の足はフラフラとして頼りない。


「キャッ!」

「危ないッ! ――……はぁ~、露木先生、背中に乗ってください」


 フラフラしていた露木先生が転びそうになり、俺はこのまま歩かせるのは危険だと思った。


「そんな教え子におんぶされるなんて」

「怪我でもしたら大変でしょ」


 フラフラとしている露木先生を背負って歩き出すと、露木先生は背中から俺の頭を撫でる。


「多野くんは優しーね」

「露木先生にはお世話になりましたからね」

「辛いことがあったらいつでも電話して良いからね」

「露木先生?」

「愚痴でも何でもいいから。何でも、電話して。絶対に一人で抱え込まないで」

「ありがとうございます」


 俺は露木先生を背負っていて露木先生の顔は見て言えなかったが、露木先生の優しさに感謝した。

 歩いている途中で露木先生は眠ってしまい。俺は露木先生の家の前に着くと、背負った露木先生の体を揺すって起こす。


「露木先生、着きましたよ」

「あーい?」

「あーいじゃなくて……」


 仕方なく玄関前まで歩いて、インターホンのボタンを押す。しかし、中から返事はないしよく見れば家の中は明かりがついていない。

 どうやら、露木先生の両親は今居ないらしい。


「留守か。露木先生? 鍵開けて入って下さい」

「はいどーぞー」

「はいどーぞって」


 鍵を持った露木先生の手が目の前に現れ、俺は大きくため息を吐いて鍵を受け取る。男に鍵を差し出すなんて不用心過ぎる。本当に付いてきて良かった。

 ドアの鍵を開けて中に入ると、土間の壁にあったスイッチを押して廊下の明かりをつける。


「露木先生、家の中ですよ」

「はーい」

「いや、だからはーいじゃなくて……」


 ゆっくり露木先生を廊下の上に座らせて、上から露木先生を見下ろす。しかし、露木先生はボケーッと土間に足を投げ出して座ったままユラユラと左右に揺れていた。


「露木先生」

「はぁーい?」

「帰りますからね」

「はーい」


 俺は露木先生の手から鍵を取って、玄関のドアを抜けて鍵をかける。そして、持っていた鍵を郵便受けからドアの内側に入れた。

 これで、露木先生も送り届けたし、あとは帰るだけだ。


 夜空の下、アスファルト舗装の道の上を歩きながら、今日がみんなと揃う最後の日だったと思い返す。

 別れの言葉は言わなかった。どうせまた会うのだ。いつもより会うまでの期間が開くだけでしかない、ただそれだけだ。


 ただそれだけなのになんだろう。

 俺の心はポッカリと穴が空いたように、風通しが良くなって、それで……目が今まで感じたことがないくらい熱くなった。

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