【一三三《波乱の後の大嵐》】:一

【波乱の後の大嵐】


 朝起きて、俺はいつも通り顔を洗って着替えを済ませて居間に行く。すると、爺ちゃんが新聞を読まずに座って俺を見ていた。


「凡人」

「何だ?」

「今日は寿司にするからな」

「この前寿司は食っただろ……」

「大学合格はめでたいだろう」

「まだ発表されてない」

「凡人が落ちるわけがないだろう。センター試験の自己採点が八五〇点を超えていたんだから。なあ、栞さん」


 爺ちゃんは同意を求めるように栞姉ちゃんに視線を向ける。

 爺ちゃんの視線を受けた栞姉ちゃんは、クスクスと笑って俺を見た。


「そうだよ、カズくん。センター八五〇超えなんて旺峰大学でも余裕の点数じゃない」

「心配しなくても大丈夫。凡人はちっちゃい頃から一生懸命勉強してたんだから」


 朝飯を持って来てくれた婆ちゃんもニコニコ笑顔でそう言ってくれる。

 試験にミスが無いかはちゃんと何度も確認した。だから、回答がズレたとか、そういうポカミスでダメだということはあり得ない。

 ダメだとしたら、単純に俺の実力不足しかない。


 朝飯の鮭の塩焼きを箸で解しながら、俺はスマートフォンを見る。

 今日、ネットの合格発表を確認して、合格していた人は萌夏さんの家に集合して一緒に露木先生のところへ報告に行く。

 もしダメだった人が居たら、萌夏さんに連絡して行かない。そういうことにみんなで昨日決めた。だけど約束もした。

『明日、みんなで笑って報告に行こう』と。


 俺に出来ることは、ネットで発表される時間まで待つことしかない。

 それは俺以外のみんなもそうで、全国の受験者全員がただ待つことしか出来ない。


「合格が決まったら、一人暮らしをする物件探しも行かんといかんな」

「家電も一通り揃えないといけませんね」

「凡人は料理が出来ないから、ちゃんとご飯を食べられるか心配」


 味噌汁をすすりながら、家族三人の俺を交えない俺の話を聞く。

 確かに、爺ちゃんの言うとおり、合格が決まれば一人暮らしをするアパートなりを探しに行かないといけない。

 それに、栞姉ちゃんの言った家電もそうだ。婆ちゃんの心配の話は……ごめん婆ちゃん、その通りだ。


 俺の料理スキルは壊滅的だ。食えない物を作ってしまうというほどではないが、栄養のバランスを考えた料理は全く自信がない。

 こんなことなら、凛恋に料理をちゃんと教わっておけばよかった。


「そうか。凛恋に――」

「凛恋さんに迷惑を掛けたら許さんからな」


 凛恋に作ってもらおうと言おうとしたら、爺ちゃんに釘を刺された。まあ、当然だ。しかし、凛恋も一人暮らしをするだろうから、凛恋の家にお邪魔して夕飯くらいはご馳走になっても爺ちゃんにはバレない。

 朝と昼は適当でも何とかなるから、食事の心配はしなくていい。


「ご馳走様でした」


 朝食を食べ終わって食器を台所に持って行くと、もう合格者の番号がネットに発表される時間になっていた。

 俺はいつもより少し遅い歩きで部屋に戻り、昨日の夜から机の上に置いてあった受験票を手に取ってベッドに寝転ぶ。


 スマートフォンで塔成大学の公式ホームページを開くと、今年の合格者発表のリンクがホームページの中間くらいにあった。

 俺はそれを迷わず親指でタッチして受験番号を表示する。


 スマートフォンの横に受験票を並べて、指をスライドさせて塔成大の公式ホームページに掲載された受験番号を確認した。

 ページを送って確認を終え、俺はスマートフォンと受験票を持って居間へ歩いて行く。そして、居間に戻ると、笑顔の爺ちゃんがまず目に入った。


「凡人受かったか」


 そう言って嬉しそうに笑う爺ちゃんの前に座り、俺は爺ちゃんに笑顔を向けた。


「ごめん、落ちてた」


 俺は、スマートフォンと受験票を握り潰しそうなくらい力が籠もってしまう手から、必死に力を抜いてそう言った。

 すると、目の前で笑っていた爺ちゃんが一気に表情を怒った表情に変えた。


「そんなわけがあるか! 貸してみろ!」


 凄い剣幕の爺ちゃんが俺のスマートフォンと受験票を奪い取って、改めて確認する。

 その横には、婆ちゃんと栞姉ちゃんが左右から爺ちゃんの持っているスマートフォンを覗き込む。


「見落としたかもしれん! もう一回見るぞ」


 そう言って、爺ちゃんはまたスマートフォンを操作して確認する。


「また見落とした! 年寄りに細かい字は辛いな」


 爺ちゃんは何度も、何度も何度も何度も、スマートフォンを操作して番号を確認しては目を擦って番号を確認し直すのを繰り返す。


「爺ちゃん……もう良いから」


 爺ちゃんが八度目の確認を終えるのを見て、俺は爺ちゃんの手からスマートフォンと受験票を奪い取る。


「凡人が不合格なわけがあるか! 凡人は! 凡人はあんなに頑張ったんだぞ! 毎日毎日勉強して、あんなに努力して! そんな凡人を落とす神様が居るわけがあるかッ!」


 座卓に手を突いて、爺ちゃんは声を荒らげる。そして、唇を噛んで座卓に拳を打ち付けた。


「凡人は辛いことを沢山乗り越えて頑張ったんだ……」


 俺は顔を下に向けてギリギリと拳を握る爺ちゃんから視線を外し立ち上がる。


「カズくん!?」


 俺が立ち上がると栞姉ちゃんが腰を浮かせて呼び止める。

 俺は栞姉ちゃんの方は見ずに答えた。


「萌夏さんに連絡しないといけないから。……連絡したら、ちょっと出てくる」


 居間を出て、俺はスマートフォンを操作して萌夏さんの電話番号を呼び出す。そして、電話を発信しようとした指を止めて、俺はメーラーを開いて萌夏さんにメールを書いた。


『ごめん、ダメだった』


 それだけ打って萌夏さんに送信して、俺は玄関を出て空を見上げた。

 卒業式の時は土砂降りの大雨だったが、今日はムカつくくらい晴れている。

 手に持ったスマートフォンを操作して凛恋に電話を掛けようとする。でも……掛けられなかった。


 黙っているわけにはいかない。

 俺の口から言わないといけない。

 でも……凛恋に言いたくなかった。


 きっと……いや、凛恋は絶対に受かっている。みんなも受かっている。

 落ちたのは、俺だけだろう。


 正直、落ちるとは思ってなかった。

 はっきり言うと、絶対に受かってる自信があった。最後まで分からないと言いながら、落ちるなんて想定してなかった。


 センターの自己採点で八五〇を越えてた時点で、塔成には十分過ぎる点数を取ってた。二次試験だって落とされる要素はないと思ってた。でも…………落ちてた。

 余裕を見せたから落ちたのか。高を括ったから落ちたのか。

 ……何が原因かを考えたって仕方ない。原因を突き止めたって結果は変わらない。

 受かる人が居れば落ちる人も居る。

 だから…………。


「何のために頑張ったんだよ……受からないと意味ないだろッ!」


 準備を始めたのは遅くなかったはずだ。一年の頃も勉強を怠けたわけじゃなかった。

 二年になってからもちゃんと準備をして、定期試験や模試の結果を見て対策をしてきた。苦手科目の苦手箇所も徹底的に潰した。


 死角がないように、万が一が起きないように、三年になってからも今まで以上に頑張った。

 凛恋は俺が塔成を選んだから、塔成に近い成華女子を選んだ。それなのに俺が落ちるなんて……。


 家から出て、スマートフォンと受験票を持ったまま、目的地を考えずに歩いて行く。

 息が詰まって胃がせり上がるような感覚を胸に抱く。

 その感覚を振り払おうと、拳で一度強く胸を叩いた。


 なんで俺が、そんな気持ちが浮かぶ。

 歩く道は空から照り付ける太陽の光で明るい。でも体を打つ風はまだ冷たかった。

 まだ納得出来なかった。まだ受け入れられなかった。

 まだ……自分が落ちたという現実を認めたくなかった。


 家を出て、ずっと歩き続けていた俺は市街に出た。

 人が多く居るところなら、雑音で気が紛れると思った。でも、それは間違っていた。


「今から合格祝いにカラオケ行こうぜっ!」


 その明るい声を上げる金髪の男数人のグループとすれ違う。

 背後からはすれ違った男達が楽しそうに明るい声で話すのが聞こえた。


 俺は、その声に両手の拳を握り締めた。

 初めてかも知れない。誰かに勉強で負けて悔しいと思ったのは。

 初めてだ、勉強で誰かを恨んだのは。


 あんなチャラけたやつらなんか落ちれば良かったのに。

 そうやって、自分が落ちたからと言って他人を恨む自分が顔を出す。そして、その黒い自分を認識して気持ち悪くなった。


 このまま街中に居たくなくて、俺は必死に足を速めて街中から抜けようとする。でも、その途中で幾つもの喜びの声を聞いて、その度に自分が黒ずんでいくのを感じた。


 受けた大学のレベルも人それぞれだ。

 俺は塔成に受かる自信はあったが、塔成は簡単に受かるレベルの大学じゃないことも分かっていた。

 きっと、俺が今まですれ違った人のほとんどが、塔成大を受験していたら落ちていただろう。

 そもそも、第一段階選抜も抜けられない人がほとんどなんだと思う。


 それでも、合格と不合格という単純な結果の話で、俺はすれ違った全ての人が羨ましく恨めしかった。


 やっと街中を抜けられた時には、ほとんど歩く気力もなかった。

 今、歩き続けられているのも、ここまで来るために動かしていた惰性で足がただ動いているだけだった。


 遂に歩くのが辛くなってしまった俺は、河川敷の土手の上にあったベンチに腰を下ろす。

 まだ気温が低いのに、河川敷では犬の散歩をしている人や、ランニングをしている人が居る。


 ベンチに座って、俺はベンチの上に体重と重くなった心を預けようとする。でも、預けられたのは体重だけだった。

 心はずっと、俺の胸を地面へ引きずり倒すように重さを掛け続けている。


「くそっ……」


 両腿に両肘を突き、お椀型に合わせた手で顔を覆う。そして、その暗く隠した手の中で悔しさから絞り出た言葉と一緒に涙を流す。


 悔しさを絞り出してもまだ、悔しさから絞り出した言葉で押し出された涙を流してもまだ、現実が受け入れられない。受け入れたくない。


 考えても無駄だと言うのに、なんで落ちた、何がダメだった、そんなことしか浮かばない。

 現実を突き付けられてもまだ、その現実を覆そうと必死に心で藻掻いた。


 こんなところで躓いている場合じゃないんだ。

 大学受験をパスして、それから就職して……それで…………。


 みんな期待してた。

 俺なら絶対に受かると、みんな信じてくれていた。

 俺は、それを裏切ったんだ。

 頑張ったなんて言葉じゃ片付けられない。努力したから良かったなんて言えない。

 俺は、俺を信頼してくれた人の信頼を裏切ったんだ。


「えっ……」


 ベンチに座ってうな垂れていた俺の手が横へ引っ張られる。そして、その手にしっかりと指を組んで、細くしなやかな手が絡んだ。


「探した」

「…………凛恋」


 俺の手を握って隣に座った凛恋を見て、俺は視線を逸らして地面を見る。

 探した、ということは多分、いや……絶対に萌夏さんに聞いたんだろう。

 凛恋が聞かないわけがない、萌夏さんが言わないわけがない。だから、凛恋が知って当然だ。

 だけど、凛恋に知られたことが辛くて、凛恋の期待に応えられなかったことが申し訳なくて……凛恋の顔をまともに見られない。


「………………ごめん、凛恋」

「凡人はいっつもそう。自分が一番辛い時に、一番人に優しくなる。凡人が辛い思いをしてることで周りを辛い気持ちにしないようにする。それで人がいっぱい居るところを通って気を紛らわせようとするけど、結局人が居ないところで一人になる。凡人の行動は読めてるのよ、彼女の私には」

「ごめん……凛恋……俺っ……」

「凡人、スマホと受験票持ってるんでしょ。もう一回塔成のホームページ見て」

「もう何度も確認し――」


 凛恋が俺のポケットから俺の受験票を奪い取って、凛恋のスマートフォンを操作する。そして、スマートフォンの画面と受験票を並べて見せた。

 スマートフォンの画面には、俺の受験番号と同じ番号が表示されていた。


「ほんっと、最低最悪。塔成の合格者発表の番号、間違えてたんだって。去年のデータが残っててそのまま、去年の合格者番号を発表しちゃったって、テレビでもニュースになってる」

「えっ……」

「だから、凡人は受かってんの! もうっ……凡人が落ちるわけないじゃん!」


 凛恋が俺の頭を撫でてから、そっと頭を抱き締めた。


「私も成華女子に受かった。それに、みんな受かったって」

「俺……受かった、のか?」

「凡人が落ちる大学なんてあるわけないでしょ? 凡人が落ちたって聞いて信じたの凡人だけよ? 凡人以外誰も凡人が落ちたなんて信じなかったんだから。みんな、どうせ合格発表にミスがあったんだって思った」


 体を離した凛恋が、両手を俺の頬に添えて親指で俺の目尻にある涙の痕を丁寧に拭う。


「ほんと、何してくれちゃってんのよ、塔成のやつら。私の大事な彼氏を泣かせて、傷付けて。ほんっと、最低最悪」


 凛恋はゆっくり唇を近付けて優しく俺の唇に触れさせた。

 頬に添えられていた凛恋の手は、唇を重ねたままゆっくり俺の背中に回って、すっと互いの体を近付けさせる。


 良かった受かっていたという気持ちよりも、凛恋が側に居ることの安心感で目から涙が溢れる。

 凛恋が側に居て俺を包み込んでくれることが幸せでしかたなかった。


 凛恋とキスしているだけで、さっきまで絶望の淵に叩き落とされた自分が消え去る。

 体と心にのし掛かっていた重さも、まるで重さなんて最初からなかったように体がふわりと軽くなる。


「さて、そろそろみんなに凡人を見付けたって連絡しないと」


 唇を離した凛恋は、クスッと笑ってスマートフォンを操作して電話を掛ける。そして、電話が繋がる前に俺を見て微笑んで言った。


「凡人、合格おめでとう」

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