【一一九《傾いた天秤》】:三

 凛恋の家に寄ってから家に帰り着くと、栞姉ちゃんが俺の隣に居る凛恋を見て、俺に細めた目を向ける。


「カズくん?」

「栞姉――」

「お爺さんとお婆さんには電話をして許可をもらいました」

「そっか。なら大丈夫だね。でも明日の夜には何があったか教えて」

「分かった」


 栞姉ちゃんは、俺に何かあったから凛恋が側に居ると分かっている。でも、すぐに問い詰めないのは栞姉ちゃんの優しさなのかもしれない。


「ご飯は?」

「ファミレスで食べたので大丈夫です」

「そっか。じゃあ、私は部屋に行ってるから」


 栞姉ちゃんはそう言って居間を出て行く。


「凡人、お風呂入ろっか」

「凛恋」

「どうしたの?」

「…………何も言わなくてごめん」

「もう何度目だっけ? 凡人が大切なこと私に言わないで私に怒られるのは」

「…………」


 とっさに答えられなかった。とっさに答えられないくらい身に覚えがある。


「でも、それも凡人の良いところじゃん。全部凡人が私とか他の誰かを傷付けないためにしたこと。私が怒るのは、凡人にだけ傷付いてほしくないから」


 凛恋が優しく抱きしめてくれて、優しく丁寧に頭を撫でてくれる。


「それに、私がわがまま言って泊まるって言ったのは、凡人を怒るためじゃないし。…………一人で三人も守ってたら、心がどんどん削れて行くに決まっているから……だから、凡人のことを側で支えたかった……」


 凛恋が俺の胸に顔を埋める。


「いつも凡人は格好良いけど、気付いた時には今みたいにチョー格好良くて……それでチョー不器用。甘え下手で、それもチョー可愛いけど、やっぱり心配。いつか、取り返しの付かないことになりそうで怖い」

「凛恋……ごめん」

「ううん、凡人は三人も女の子を守ってたのよ。格好良いし男らしいし、チョー強い。でも、もう一人で頑張らなくて大丈夫だから」


 俺の背中に回された凛恋の手が、ワイシャツの背中を掴む。

 ただ居てくれるだけでも救われるのに、言葉を掛けてもらえて心をキツく締め上げていた緊張が解かれる。


「ほらお風呂入るよ。宿題もあるんだし」


 凛恋に手を引かれ、俺は風呂場へ向かって凛恋と一緒に歩いて行く。

 脱衣所で服を脱ぐ時に、着替える凛恋を直視出来ない俺を凛恋がからかい、俺は拗ねた振りをして中へ入る。


「凡人が拗ねた~」

「凛恋がからかうからだ」

「だって、凡人顔真っ赤で可愛いんだもん! ついからかいたくなっちゃうの」


 凛恋の楽しそうな声を聞きながら、プラスチック製の風呂椅子に腰掛けて、同じくプラスチック製の手桶に手を伸ばす。すると、横からヒョイっと手桶を凛恋の手にかっさらわれた。


「私が洗う~」


 手桶で湯船からお湯をすくって、ゆっくりと肩から凛恋がお湯をかけてくれる。

 最初よりは慣れたと言っても、やっぱり凛恋とお風呂はドキドキする。


「里奈がさ~、小鳥くんに積極性を持たせるにはどうしたら良いって相談されたの」

「小鳥に積極性か。なんか、小鳥から最も遠いことに思えるな」

「毎回里奈から誘うから、小鳥くんからも誘ってほしいって」

「それってデートの話だよな?」


 俺は話しながら一応確かめるために凛恋に尋ねると、凛恋がニタァ~と人の悪い笑みを浮かべる。


「アレアレ~? エッチな凡人くんはいったい何のことかと思ったのかな~?」

「はいはい。エッチの話かと思った変態ですよ」

「正直でよろしい」


 後ろから凛恋が、ボディーソープを手で泡立てて俺の背中に触れる。柔らかく小さな凛恋の手が丁寧に背中を撫で、俺は自然と目を閉じた。


「里奈が妬いてたよ。小鳥くん、凡人の話ばっかりするって」

「妬かれてもな。俺はライバルにならないぞ?」

「当然よ。小鳥くんに凡人は渡さないし」

「いや……そもそも俺と小鳥は女の子が好きだしお互いに彼女が居るだろ」

「へぇー、”女の子”が好きなんだ~」


 凛恋のその声が聞こえ、胸に泡にまみれた凛恋の手が回ってギュッと抱きしめられる。


「男を好きになるわけじゃないって話だ。俺は凛恋しか好きにならない」

「私も凡人以外好きにならない」


 凛恋が手桶に入ったお湯で俺の体を流すと、凛恋がまた後ろからギュッと抱きしめる。


「次は凡人に洗ってほしいなぁ~」


 凛恋が後ろからねだるような猫なで声を出す。


「分かった」


 風呂椅子から立ち上がると、凛恋がちょこんと風呂椅子に腰掛けて後ろを振り返り、俺に満面の笑みを浮かべた。


「よろしく!」

「お、おう」


 手でボディーソープを泡立てて、そっと凛恋のすべすべとした背中に触れる。

 柔らかくて手触りの良い凛恋の背中に、俺の手が魅了されて離れられない。


「凛恋」

「何?」

「ありがとう、側に居てくれて」

「私がただ凡人の側に居たかっただけよ。凡人は私が辛い時にはいつも側に居てくれた。私も、凡人が辛い時には凡人の側に居る。それは当たり前のこと」


 凛恋が風呂場の壁を見て小さく笑い声を上げた。


「去年の夏から毎週泊まるようになったじゃん? そしたらさ、凡人が居ないのがおかしいって思うようになったの。朝起きて凡人が隣で寝てなかったら、あれ? なんでって思うし。ご飯食べてても、お風呂入ってても、勉強してても、隣に凡人が居なかったら思うの。なんで凡人が居ないのよって」


 凛恋の話を黙って聞きながら、俺は必死に力が籠もりそうな手の力を抜いて優しく凛恋の背中を洗う。


「寂しい辛いって気持ちもあるけど、やっぱり不思議なの。なんで私と凡人は一緒に生活してないんだろって」


 去年の夏以降、凛恋が俺の家に、俺が凛恋の家に泊まりに行くようになって、俺と凛恋が一緒に居る時間が格段に増えた。そして新学期になって、学校に居る間の時間を切り取られた。そのせいで凛恋は、俺が居ない時間が際立って見えた。

 俺もそうだった。


 凛恋と会えない時間が増えたせいで、凛恋が隣に居ない時に違和感を抱く。なぜ凛恋が隣に居ないのだろうと。

 手を繋ぎたくて手を伸ばしても居ない。抱きしめたくて温もりを求めても居ない。キスしたくて唇を求めても居ない。

 居ないが重なり続けると、居ないが離れるに変わり、離れるが重なり続けると失うになる。そして、失うと思ってしまったが最後、落ちていく気持ちに歯止めが利かなくなる。


「体冷えちゃうしお湯に浸かろ」


 凛恋がそう言って手桶でお湯を体に掛け泡を洗い流す。

 俺は、視線を俯かせて湯船の中に腰を下ろした。

 どうして俺はまだ子供なんだろう。俺が大人で仕事もしていて、凛恋を養える収入があれば、今すぐにでも凛恋と結婚して一緒に居られるのに。


 自分が子供であることを嘆いたって仕方ないのは分かる。でも、一緒に居たいのに、凛恋も一緒に居たいと言ってくれているのに、俺と凛恋は一緒に居られない。

 気持ちだけではどうにも出来ないことはある。それを仕方ないとも思う。でも、仕方ないと思うと同時に不条理だと思う。


 長久保のことだってそうだ。学校改善マネージャーだかなんだか知らないが、権力を振り回して生徒や教師をがんじがらめにしてコントロールする。


「――ッ!?」


 湯船に浸かって考えていた俺の胸に、凛恋の顔が近付いて、凛恋は俺の胸元に吸い付く。


「長く付けてなかったから」


 吸い付いた場所を指先で撫でながら、凛恋がクスリと笑う。そして、顎を上げて自分の胸元を指さした。


「凡人も付け――ヒャッ!」


 凛恋の肌に吸い付いて、俺は凛恋を抱き寄せる。凛恋は小さく声を上げたが、俺の腿の上にちょこんと腰を下ろして、抱き抱えるように俺の頭を抱きしめた。


「ありが――」


 凛恋の胸元から唇を離すと、すぐに凛恋の後頭部に手を回して凛恋の頭を引き寄せる。

 唇が触れ合うと同時に、凛恋の両手が俺の肩に載る。そして、手で体を支えた凛恋は、キスに応えるように唇を押し付ける。

 凛恋が狂おしいほど愛おしい。愛おしくて愛おしくて気が狂いそうなくらい凛恋がほしい。


「凛恋、上がって宿題終わらせよう」

「うん……」


 唇を離した瞬間、俺と凛恋は同時に立ち上がった。

 部屋に戻って、並んで宿題をした俺と凛恋は、今までで一番早く宿題を終わらせた。そして、宿題が終わった瞬間にベッドへ倒れ込む。


 コントロールされ抑圧されたことから反発するように、俺と凛恋はベッドの中で抱き合いながらキスをする。

 校則違反なんてクソ喰らえ。そんな半倫理的な思考になると、スッと気が楽になる。

 そういう俺は不良と呼ばれるのかもしれない。でも、縛り付けられて押さえ付けられて、黙って居られるほど俺は大人しく利口な人間じゃない。


「凛恋、露木先生に話す前に、俺に少し時間をくれないか?」

「時間?」

「ああ、考えがあるんだ。突拍子もないことだけど」

「私に話してくれる?」

「もちろん」


 俺はベッドの中で抱き合いながら、耳元で凛恋に自分の考えを全て話した。そして、話を聞き終えた凛恋は、目をまん丸に見開いて俺を見る。


「凡人……凄い!」

「出来るかどうかは分からない。全部、他人任せだから」

「でも、それが出来たら凄いじゃん!」

「出来たら、だけどな」

「私も協力する! それにきっと希や萌夏、露木先生も! 他のみんなも絶対に協力してくれる!」


 凛恋がベッドの中でギュッと俺の体を引き寄せ、俺の耳元で囁く。


「私、本当に凡人の彼女で良かった」

「嬉しいけど、まだ何もやってないんだぞ? そもそも考えを話した瞬間に無理だって跳ね返される可能性だってある」

「無理じゃない。絶対に無理にさせない。私が絶対に、無理にさせない」


 凛恋はそう何度も俺に言い聞かせながら、俺を励まして奮い立たせてくれる。

 励ましてくれる凛恋が側に居るだけで、俺は自分のことが無敵のヒーローのように思えた。

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