【一一九《傾いた天秤》】:二

 ベッドの中で、凛恋が俺の額に自分の額をコツンとぶつける。そしてニヤッと笑った。


「ありがとう凡人」

「俺こそ、ありがとう凛恋」


 凛恋が抱きしめた拍子に、俺の胸で凛恋の胸が潰れる柔らかい感触を受ける。


「ごめんね、凡人」

「凛恋?」

「ズルしたから。私と貸谷を比べたなんて言ったら、絶対に凡人が私に私を選んだって証明するって分かってたから。分かってて、凡人の悩んでることを考えさせないようにした」

「俺は元から凛恋とエッチしたかった。でも、それが凛恋に対して無責任な行動だって思ったら迷ったんだ」


 迷って躊躇って、でも結果は理性で抑え切れなかった。

 貸谷に無責任と言われたからというのは、抑えるための根拠としては全く意味がなかった。

 俺も凛恋を求めていて凛恋も俺を求めたら、貸谷の言葉なんて考慮に入れることもしなくなった。


「絶対に嫌だったから、また一週間お預けなんて」

「凛恋……」

「凡人もエッチだけど、私もエッチだし。凡人にだけは」


 優しく凛恋がキスしてくれて頬を撫でてくれる。


「私も凡人も、責任を取ることにならないように気を付けてる。気を付けてるから何でもしても良いってわけじゃないけどさ、一度知ったら止められるわけないじゃん。好きな人に好かれて、好きな人に独り占めされる幸せはさ」


 凛恋は俺をギュッと抱きしめて、俺の背中を回した手で何度も何度も擦る。


「凡人は私のだから。それで、私は凡人の」

「凛恋は俺だけの凛恋だ。それに、俺は凛恋だけの俺だ」

「チョー幸せ! ホントも~、あのおじさんのせいでフラストレーション溜まりまくりだったし! しかもこんなに私の凡人のこと疲れさせてさ~。マジムカつく!」

「凛恋~勉強漬けで疲れた~」


 俺が凛恋に甘えるように言うと、凛恋が優しく頭を撫でてくれる。


「よしよし。凡人はめちゃくちゃ頑張ってる。私はちゃんと凡人が頑張ってるの分かってる」

「凛恋に撫でられると疲れが取れる」

「良かった~」


 しばらく凛恋に甘えていると、凛恋がスマートフォンを手に取って俺に見せる。


「この前撮ったプリ見て」

「う、うわぁ……」


 凛恋がスマートフォンに表示したのは、前にゲームセンターで撮ったプリントシール機の画像だった。


「せっかくだから何も加工しなかったの。チョーエロくない? この二人」


 ニヤァーっと笑う凛恋から再びスマートフォンの画面に視線を向ける。自分達のキスを客観的に見ることはなかったが、確かにエロい。


「この画像見る度にドキドキしちゃって大変だったのよ?」

「確かに、これを見たらドキドキするな~」


 凛恋のスマートフォンを見ながら、さり気なく凛恋の腰に手を回してみる。すると、凛恋が俺の方に体を寄せてきた。

 一度たがが外れてしまえば、もう一度外すことなんて容易かった。


 合図も何も決めていないのに、自然と互いにキスをする。

 順番を決めているわけでもないのに、互いに触れる手は絶対に互いを邪魔しない。

 動作の一つ一つが、まるで互いの意思が通じ合っているように動き、俺は凛恋の体を引き寄せる。


「かずとぉ……」


 耳元で聞こえる、切ない凛恋の声に俺は強い言葉で答える。


「凛恋、めちゃくちゃ可愛い。凛恋、大好きだ」

「私も凡人が好き、大好きっ。世界一素敵で格好良い凡人が大好きっ!」


 俺と凛恋の時間は前よりも少なくなった。

 長久保に、権力のある大人に削り取られて奪い去られた。でも、いくら削られても奪い去られても、俺は凛恋を求める。無責任だと他人から罵られても、俺は凛恋を求める。


 抑え付けられれば抑え付けられるほど、俺が凛恋を求める気持ちは強くなる。

 自分で我慢しなければと思う度に、我慢をしたくないと自分が我慢の蓋を押し上げる。


 上から見下ろす凛恋は、可愛くて綺麗で魅力的で、そして儚い。

 俺が少しでも油断した瞬間に、手の届かないところへ連れて行かれそうな危うさがある。

 凛恋と天秤にかけられるものは何もない。比べる前から凛恋を選ぶに決まっている。


 凛恋が好きなんだから仕方ない。

 凛恋を失うことが最も恐ろしいことだから仕方ない。

 簡単に凛恋が俺の側から居なくならないと分かっていながらも、やっぱり一番近くに捕まえておきたいと思うのだから仕方ない。


 凛恋を感じながら、どんどん俺の体が凛恋に溶け込んでいく錯覚を覚える。でもその錯覚が、何よりも心地良かった。




 校則が変わって恋愛が禁止されても、当然俺と凛恋の逢い引きは変わらず続いた。

 そんなものじゃ妨げられないくらい、俺と凛恋の愛は強くて大きかった。

 新学期が始まった日が遠い昔のように感じる七月上旬。もう一月もせずに待ちに待った夏休みが来る。


 今年の夏休みは、凛恋の家と俺の家で半分ずつ泊まり合おうと話していた。

 学校から解放される夏休みに入れば、ずっと凛恋と一緒に居られる。だから、例年以上に、夏休みが来るのが待ち遠しかった。


 もう慣れて来た夜課外が終わり、俺はそそくさと帰り支度を始めた。出来るだけ長く凛恋と一緒に居たいからだ。


「皆さんお疲れ様です」


 俺が帰り支度を終えて鞄を手に持った時、教室のドアが開いて長久保が入って来た。

 淡々と教卓の前まで歩く長久保を見詰め、俺は浮かした腰を椅子に戻す。


「夏休みの夏合宿の詳細が出来ましたので、早速配布しに来ました」

「夏合宿?」

「旺峰合格のためには、夏休みも遊んでいる暇はありません。山間部にある施設で、こちらの設定したカリキュラムに従って学習していただきます。通常授業で無駄な時間を取られない分、有意義な学習が出来ます」

「夏休みは別の塾の夏期講習を受けるんで」


 俺は長久保にそう言って立ち上がり、鞄を持ち直す。しかし、長久保から耳を疑う言葉が返って来た。


「キャンセルしてください。昼間だけの夏期講習よりも、こちらの夏期講習の方が確実に学力が向上します。それに、有料の夏期講習ではなくこちらは無料です」


 長久保は丁寧な口調だが、視線は鋭く俺を突き刺すように見ている。


「期間は?」

「もちろん、夏休みいっぱいですが?」


 さも当然かのように言いながら、長久保は俺の机に紙を置く。

 そこには、タイムスケジュールが書かれていて、小休憩と三食、そして七時間の睡眠時間以外は全て勉強時間になっていた。


「こんなのやってられるか」

「そうですか。でも、多野さんは拒否出来ないでしょう?」


 俺と長久保は同じ高さに立っている。

 それに身長は俺の方が高い。でも確実に、長久保は俺よりも高い位置から俺を見下ろしている。

 逆らえば、凛恋と萌夏さん、露木先生が傷付く。


「やる気のないやつは要らないと思いますが」


 配分された紙を持ちながら貸谷が俺を見る。

 ここで長久保に俺が要らないと、自分の利益に全く必要ないと言われて、普通科に戻してくれるなら願ったり叶ったりだ。

 それなら、凛恋達が傷付く恐れもなくなるし、凛恋と居られる時間が格段に増える。


「もしこの中で要らない人間を選ぶなら、貸谷真二郎さん、貴方ですよ」

「プッ!」

「なっ!」


 冷たい言葉を発した長久保と、長久保の言葉に吹き出した本蔵さんに視線を向けた貸谷は、顔を真っ赤にして怒りを露わにしながら立ち上がる。


「この中で最も成績が悪いのは貸谷さん、貴方です。多野さんは素行に問題はありますが、学年成績二位。更に先月行われた全国模試では全国順位一四位。全国一位の赤城さんほどではありませんが、貸谷さんよりも圧倒的に旺峰合格に近い。それに比べて貸谷さんは学年順位が五位ですが、模試の順位は三一五四位。旺峰大学の総募集人員数が三〇〇〇人ですから、模試を受けた全員が旺峰大学を受ければ、確実に不合格です」


 総募集人員は学部別ではなく、全ての学部の募集人員を合わせた数。だから、貸谷が確実に落ちるわけではない。でも、貸谷が医学部志望であることを考えると、全国模試で三〇〇〇位くらいだと、旺峰大学の医学部は厳しい。


 長久保の辛辣な言葉に、貸谷は言葉を失って椅子に腰を落とす。その時には既に、長久保は貸谷から視線を外していた。


「話は以上です」


 長久保は自分の用件だけ伝えて教室を出て行く。ずっとそうだ、ずっとあいつは旺峰大学の合格者を出すことしか考えてない。

 俺は、夏合宿の案内が書かれた紙を握りしめる。グシャッと紙が潰れる音が聞こえても、全く晴れやかな気分にならない。


「凡人くん、さっきの話は何?」

「何でもない」

「何でもないわけない! 何か隠してるのは分かるよ!」


 希さんの怒鳴る声が聞こえる。

 頭の良い希さんじゃなくても、長久保と俺のさっきの会話を聞いていれば誰だって分かる。

 俺が長久保に真っ向から反発出来ない理由があることくらい。

 長久保はそれを隠そうとはしなかった。それがどういう心理かは俺には分からない。でも、そのせいで希さんに知られた。


「凡人くん!」

「…………凛恋には言わないでくれ、実は――ッ!?」


 誤魔化せるとは思えなかった。だから、俺は希さんに話そうとした。でも、言い掛けた俺の耳に、勢い良くドアが開く音が聞こえた。


「凡人」

「凛恋……」


 ドアを開けて入って来た凛恋は、俺の席に真っ直ぐ近付いてくる。

 凛恋はいつも、夜課外終わりに迎えに来る。だから、このタイミングで教室に来て当然だった。

 いや……凛恋のことだから、終わるタイミングよりも前に来ていた可能性もある。


「凡人、合宿を拒否出来ない理由って何?」


 その凛恋の言葉を聞いて確信する。凛恋は聞いていたんだ。”俺と長久保のやり取りを。”


「私のせい?」

「凛恋のせいじゃない!」

「じゃあ、私に隠さなくて良いじゃん」


 俺と長久保のやり取りを聞いていたんだ、俺と希さんのやり取りも聞いているに決まっている。


「場所を変えて話そう」


 希さんが自分の鞄を持って俺の手首を掴む。その希さんの手は強く握られていて、絶対に俺を逃さないという意思が伝わってきた。




 久しぶりに来たファミレスのソファーに座り、俺は唇を噛む。正面には希さんが真剣な目を向けていて、隣には真っ直ぐ俺を見続ける凛恋が居る。

 話したくはない、でも……話すしかなかった。


「春休みの説明会の後、長久保に言われたんだ。特別進学科で勉強して旺峰大学に合格しないと、文科省を学校内で自由に動かすって」

「……最低」


 真剣な表情をしていた希さんが顔を歪めて、小さく言う。そして、一度手の甲で目元を拭った。


「何で言ってくれなかったの?」

「…………言ったら、凛恋や萌夏さん、露木先生が傷付くだろ」


 三人は、自分達のせいで俺の進路が強制されているなんて知ったら、絶対に気に病んでしまう。

 それに……またあんな怖くて辛いことを思い出させてしまう。


「凡人……ごめ――」

「凛恋にそうやって謝らせたくなかったんだ。凛恋を気に病ませて、それで辛いことを思い出させたくなかった。だから言わなかったんだ」


 凛恋が横から俺の手を握り、そっと俺の体に寄り添う。


「今すぐ学校に訴えよう」

「訴えたら、三人が傷付く」

「生徒を脅迫するような人をこのまま居させたら――」

「長久保は元文科省らしい。文科省が凛恋達に話を聞きに来ないのは、長久保が止めてるからだって言ってた。それはもしかしたら嘘かもしれない。でも、もしかしたらで凛恋達が傷付くかもしれないリスクを負いたくない」


 今はまだ、長久保は俺を従わせられていると思っている。

 その間は、三人が傷付く恐れはない。でも、もし俺が噛み付いて長久保の行いを訴えたら、長久保は噛み付いた俺を容赦なく切り捨てるだろう。

 そうなったら、文科省を止める必要もなくなる。

 そうなったら、凛恋達は自分達が巻き込まれた事件のことを聞かれて、辛く怖い経験を男性に話さなければいけない。

 萌夏さんも露木先生も大切だ。でも、特に凛恋が大切だ。絶対に凛恋を傷付けたくない。


「凡人くん……どうして一人で抱え込んだの?」

「こんなこと一人で――」

「私は凡人くんの親友なんだよ! 凡人くんにだけ辛い思いなんてさせたくないんだよ!

 何で分かってくれないのッ!?」


「希、凡人は希のことも傷付けたくなかったの。希だって女の子だから、嫌なこと考えさせたくないって凡人は思ったの。もちろん、凡人一人で抱え込んだのは許せないけど、凡人の優しさはそういう人に伝えない優しさだから」


 凛恋が希さんを落ち着かせてくれて、俺は背もたれに背中を付けた希さんからテーブルに視線を落とす。


「凛恋、絶対に凛恋のことは守るから。絶対に俺が守る。絶対に、絶対、俺が凛恋を守る。絶対に傷付けさせない」


 視線は向けず、凛恋の手を強く握って何度も口にする。何度も口にして自分に言い聞かせる。


「ありがとう凡人。でも、露木先生に相談しよう。露木先生なら絶対に力になってくれる」

「でも……」

「私達を傷付けないように考えてくれた凡人の優しさは凄く嬉しい。でも、私達のために凡人が傷付いて良いなんて思えない」

「…………分かった」

「ありがとう」


 俺の手を凛恋が両手で強く握ってくれる。


「凡人……今日、お爺さんとお婆さん居ないよね」

「居ない、けど」


 凛恋の質問に答えると、凛恋はスマートフォンを出して電話を掛け始める。


「ママ? 今日、凡人の家に泊まるから。今日じゃないとダメなの! 今日――今、凡人の側に居ないと絶対に後悔する! だからお願い!」


 凛恋が電話の向こうのお母さんに、必死な声で訴える。でも、今日は平日で、お母さんはもちろんお父さんも許すとは思えない。


「大丈夫。着替え持ってるから。うん、絶対に迷惑掛けない。うん……うん……ありがと! ママ大好きっ! パパにも大好きって言ってて!」


 電話を切った凛恋は俺の手を握ったまま立ち上がって、凛恋は希さんに視線を向ける。


「そういうことだから、帰ろう」

「私は良いから二人は――」

「希さ――」「希を一人で帰らせるなんて凡人がするわけないでしょ。ちゃんと希を家に送ってからよ」


 凛恋はそう言って希さんの手を取る。


「希、凡人のこと心配してくれてありがと」

「凡人くんは私の親友だもん。当たり前だよ」


 希さんが凛恋に微笑んだ後、俺の方を見て困ったような顔をした。


「凛恋の言う通り、凡人くんは優しさを人に見せないけど、辛さも人に見せないよね。そういう性格なのは分かるけど……私のことも頼ってほしいな。親友なんだから……」

「ごめん、希さん」

「今日は凛恋に任せる。でも、私も全力で凡人くんの力になるから。だから、ちゃんと相談してね」

「ありがとう」


 俺の顔を覗き込む希さんに答えると、希さんはニコッと笑って凛恋に耳打ちをする。

 その耳打ちを受けた凛恋は、黙ったまま明るく笑って頷いた。

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