【一一九《傾いた天秤》】:一
【傾いた天秤】
せっかくの休日。せっかく凛恋が泊まりに来てくれる休日。
それなのに、俺は心の底から楽しめない。
『真剣? 真剣な男がまた高校生なのに性行為するわけがないだろ。子供が出来たらどうするんだ。真剣なら責任の取り方も真剣に考えてるんだろ?』
数日前に貸谷から言われた言葉が頭の中に反響する。
「凛恋さん、そっちの大根をお願いね」
「はい!」
台所からは料理をする凛恋と婆ちゃんの声が聞こえる。そして、正面にはそわそわしている爺ちゃんの姿が見えた。
凛恋が夕飯を作ってくれるというので、爺ちゃんは舞い上がっているのだ。
孫娘のように可愛がっている凛恋の手料理が嬉しいのかもしれない。
俺ももちろん凛恋の手料理は嬉しい。でも、貸谷のせいで心には靄が掛かっている。
世の中には、俺よりも無責任な男はいくらでも居るだろう。でも、自分より無責任な人間が居るから、自分が責任のある人間になるわけじゃない。
『純愛気取ってるが、お前はただヤりたいだけだろ?』
その貸谷の言葉にはすぐに否定出来る。
俺は凛恋以外とはエッチしたくない。俺は凛恋とだからエッチがしたいと思った。
確かに、凛恋以外の女性を見て綺麗だとか可愛いと思うことはある。でも、俺が好きなのは凛恋ただ一人だ。それは絶対に胸を張って断言出来る。
「ただいま~」
「栞さん、おかえり!」
爺ちゃんの嬉しそうに弾んだ声が聞こえる。
いつも栞姉ちゃんが帰ってくると弾んだ声を出すが、今日は凛恋も居るから一段と弾んでいる。しかし、爺ちゃんには全く罪はないが、浮かれている爺ちゃんを見て「能天気で良いな」と心の中で嫌味を言ってしまった。ごめん、爺ちゃん。
「田丸さん、おかえりなさい」
「八戸さん、いらっしゃい」
バイトから帰って来た栞姉ちゃんは、座卓の前に座ってクスッと笑って俺に耳打ちをする。
「今日も、お爺さんに聞かれたら、ちゃんと八戸さんは自分の部屋に寝てたって言っておくね」
凛恋は二階の客室、俺は一階の自室に別れて寝る。
それが爺ちゃんの想定だ。しかし、俺と凛恋はそれを守ったことはない。
爺ちゃん婆ちゃんが温泉に行ってる時は、普通に凛恋が俺の部屋に一緒に来る。でも、爺ちゃんと婆ちゃんが居る時は、栞姉ちゃんが口裏を合わせてくれる。
凛恋が自分の部屋でちゃんと寝たと言うだけでも、爺ちゃんには十分な効果がある。だが、栞姉ちゃんからも言われれば、その効果は完璧だ。
爺ちゃんは凛恋と栞姉ちゃんの言うことならほとんど無条件で信じる。しかし、俺のことは疑って掛かる。
特に、凛恋に関することは。
そういうこともあって、栞姉ちゃんにはいつもフォローをしてもらっているが、今日は心の底から助かるとは思えない。
「はい、凡人の分」
「いつもありがとう」
「いいえ~、大好きな凡人のためですからっ!」
クスッと凛恋が可愛らしく笑い、俺の前に美味しそうなハンバーグを置いてくれる。そして、自分の分を俺の隣に置いた凛恋は、俺に寄り添うように座った。
凛恋が隣に居ることが嬉しい。最近は放課後に会える時間も減って、当然、学校終わりに凛恋とエッチなんて出来ていない。
今日は爺ちゃんと婆ちゃんが居る日だ。でも、新築のこの家は音漏れが全くないから、耳の遠くなった爺ちゃん達には、俺の部屋でたとえ俺が棚を倒しても聞こえない。
凛恋が今夜、俺の部屋に来て一緒に寝たら、一〇〇パーセント誘われる。
前までなら、何も考えず好きな気持ち一つで凛恋の気持ちに応えられていた。いや、何も考えなかったわけじゃない。
好きな気持ちよりも、自分の中にある行動の無責任さについての懸念が薄かったのだ。でも今は、心に靄(もや)を掛けて気分を落ち込ませるくらい、自分の無責任さが心を蝕(むしば)んでいる。
食事の前の挨拶をして、いつもよりも賑やかな夕食が始まる。
爺ちゃんはもちろん、婆ちゃんも栞姉ちゃんも、そして凛恋も楽しそうに笑っている。その中でたった一人だけ、俺は楽しそうに見える笑顔を浮かべていた。
風呂から上がって、部屋に座り込んで大量に出された宿題を消化する。昼間はいつもの面々で遊びに行った。だから、宿題をやる時間は夜しかない。
特別旺峰進学科ではない凛恋達もそれなりの宿題が出た。しかし、特別旺峰進学科よりも圧倒的に少なかった。
宿題は休日だけではなく平日にも出る。そして、その宿題の量から察するに、長久保は家に居る時間のほとんどを勉強に充てさせようとしている。
家に居る時間のほとんどを宿題消化に当てないと終わらないほどの宿題を出してくるのだ。
学校でも勉強、家でも勉強。それは受験生なのだから仕方がない。でも、息吐く暇がなく、勉強から離れられるのは食事と風呂とトイレと、それから寝ている時くらい。
学校でも常に参考書を開いている貸谷のような人間なら、そんな生活も平気なのかもしれない。だけど、俺には辛い。
俺は決して外出が好きな人間ではないが、今日みんなと遊んでいなかったら限界だったかもしれない。
気心の知れた人達と過ごしている間は、勉強のことなんて少しも考えずに済んだからだ。
その分、夜に苦しむことにはなったが、それでも勉強から離れる時間は必要だった。
「終わった……」
なんとか、凛恋が風呂から上がる前に宿題を終えることが出来た。
せっかく凛恋が来てくれている、凛恋と一緒に居られる時間を勉強に潰されたくはなかった。
「かーずと!」
「り――どわっ!」
風呂から上がってきた凛恋が、Tシャツに短パンという部屋着姿で抱きついてくる。
その凛恋の背中に手を回して抱き返すと、ホカホカと暖かい凛恋がえへへっと笑う。
「やっと凡人と二人っきり!」
嬉しそうな声でそう言う凛恋が、机の上を見てクスッと笑う。
「宿題、終わらせてくれたんだ」
「せっかく凛恋と一緒に居るのに、宿題なんてやってたらもったいないからな」
「だよね~。この一週間、ずっとお預けだったし~?」
凛恋がからかうようにクスクスと笑う。でも、俺はその笑顔を直視出来なかった。
「凡人?」
「凛恋、今日は自分の部屋で寝てくれ」
「えっ……」
その凛恋のか細い声に心がズキッと痛んだ。
凛恋の声にさっきまでの楽しい雰囲気は無くて、凛恋が驚いて、そしてショックを受けたのが分かった。
「凡人?」
「凛恋と一緒に寝たら我慢出来ないから……」
今更ではある。でも、今更でもまだ手遅れにはなっていない。
俺の無責任さの結果で、凛恋が傷付く結果には。
「凡人、ちゃんと話そう」
凛恋が手を引いて俺をベッドに引っ張る。そして、手を繋いだまま隣同士で座った。
隣からは凛恋が俺の顔を覗き込んでいて、俺は自然と凛恋から視線を逸らす。
「凡人、話して。何があったの?」
「……貸谷に言われたんだ。俺は無責任だって」
俺がそう言うと、凛恋が小さく息を吐いた。
「やっぱり、それ気にしてたんだ」
「やっぱり?」
「希から聞いてたから。貸谷が凡人に言ったこと。凡人が一言も私に言わないから、気にして悩んでると思ってた」
「ごめん……」
あの時、希さんも聞いていたから、希さんがその話を凛恋にしていても不思議じゃない。
それを俺の口から凛恋に言わなかったことが不誠実にしか思えなくて、俺は謝るしかなかった。
「凡人が私とエッチしたくないならしない」
「えっ?」
「でも、貸谷に言われたからやらないって言ってるなら、わ――」
「凛恋、別れないでくれ!」
凛恋が言い掛けた言葉に、俺は凛恋の両肩を掴んで訴える。凛恋と別れたくない。
凛恋とはずっと一緒に居たい。
「何言ってるのよ。別れるわけないじゃん」
「でも、わ、って……」
「別れるって言おうとしたんじゃなくて、私が襲うって言おうとしたのよ」
「……………………」
ぷくぅっと両頬を膨らませる凛恋が、俺の両頬を両手で挟んで押し潰す。
「貸谷に、高校生でエッチする男は無責任な男だって言われたからやらないの? それとも、凡人がやりたくないって思ったからやらないの? どっち?」
凛恋に問い詰められて、俺は頬を押し潰されたまま凛恋から視線を逸らす。
貸谷に言われなかったら躊躇わなかった。だから、貸谷に無責任だと言われたからだ。そう思ったから、自分から断ったとは言えなかった。
初めてエッチした時、もし凛恋から誘われたのではなく俺から誘って、それで凛恋がエッチするのが嫌だと言ったら、俺は凛恋とエッチはしなかった。
根拠になる証拠は何もないが、凛恋が承諾するまでいくらだって待てた自信はある。それが、結婚した後だとしても。
俺がそう言える材料は、凛恋のことを好きな気持ちしかない。
気持ちは目に見えない。
それに、気持ちは言葉にしても他人には伝わらない。
特に、俺と凛恋のことを名前と顔くらいしか知らない貸谷のような人には、きっとどれだけ言葉の限り凛恋への気持ちを表現しても、上っ面の言葉だけの気持ちだとしか取られないだろう。
俺は凛恋に対しての気持ちは本気だ。だから、凛恋が断れば、渋れば、俺はいくらだって我慢出来る。
我慢をしなくて、凛恋を悲しませて俺の側から凛恋が離れてしまうのが嫌だから、怖いから、だから……俺は我慢出来る。
でも、凛恋はそうじゃない。俺のことを受け入れてくれるし求めてくれる。
二人共エッチがしたいと思っていて、エッチをしようと求め合うのに、そこへあえて壁を作る気持ちは起きなかった。
それが、貸谷から無責任さを突き付けられた結果、俺は柵を作った。
どんなことでも乗り越えられない強固な壁ではなく、言葉一つで簡単に乗り越えられる低い柵を。
「私、一週間ずっとチューだけで我慢してたんだよ?」
凛恋が俺をベッドに押し倒して、俺に覆い被さりながらそっと俺を抱きしめる。
「昨日とかヤバかった。私の部屋でチューして、後一秒チューが長かったら、凡人のこと押し倒してたし」
凛恋の左手が俺の右手を握り、凛恋の右手が俺の肩を撫でる。
「ほんと、私は自分のこと偉かったと思う。だって、目の前にこんなに格好良い彼氏が居るのにキスだけで我慢とか、蛇の生殺しじゃん」
凛恋は全く蛇っぽくはない。どれだけ凶暴で怖い動物にたとえたとしてもリスくらいだ。
凛恋はゆっくりと上から唇を重ねる。でも、今日の凛恋のキスは、ゆっくりしていてねっとりしていて、ゾクゾクと興奮を掻き立てられ誘われているのが分かった。
「凡人は、チューしても何も思わない?」
唇を離して、すぐ上から凛恋が俺に問う。
その答えなんて一つしかなかった。
凛恋の体を引き寄せて、俺は凛恋を抱きしめながら凛恋と一緒に横に寝転ぶ。ベッドの上で向かい合う俺と凛恋は、互いに一週間我慢し合った気持ちをぶつけ合うようにキスをした。
止めるものが何もない俺は、凛恋のTシャツの裾を掴んで持ち上げる。
凛恋は、俺がシャツを脱ぎやすいように体を浮かせて腕を伸ばした。
淡いピンクで、大小様々な花柄の刺繍があるブラ。そのブラを見て、ゾクッと心の興奮を更に掻き立てられて、俺はまた凛恋とキスをした。
自分が無責任であることが、凛恋を好きな気持ちと凛恋を求める気持ちで、瞬く間に希薄していく。
そして、すぐに俺の心は凛恋を好きな気持ちと凛恋を求める気持ちで埋め尽くされた。
凛恋が俺のシャツを脱がそうとするのに合わせて、俺も凛恋と同じように体を浮かせて手を挙げる。
凛恋は俺のシャツを脱がすと、俺の胸にピッタリと頬を付けて抱き付いてきた。
「やっと凡人とこう出来た」
「凛恋……」
「私も分かってるつもり。私達のしてることが、見る人から見れば無責任で良くないって思われることだって。ゴムが完璧な避妊じゃないことも、赤ちゃん出来ても私達二人の力だけじゃ育てられないことも。でも……理屈では分かってても無理」
凛恋が短パンを脱ぎ捨て、下着姿でピッタリと密着する。
「私、ズルいから言う。貸谷と私のどっちを選ぶ?」
「凛恋に決まってる。俺は誰が来たって凛恋しか選ばない。ましてや貸谷なんて凛恋と比べるわけない」
「でも比べたでしょ? 貸谷に言われたから躊躇った」
「ごめん……」
「ペ――……一番大きい単位って何だっけ?」
多分『ペケ』と言い掛けた凛恋が、俺に真面目な顔をして尋ねる。その凛恋に、俺は小さく笑いながら答える。
「数の単位だと無量大数かな」
「ありがと。でも、貸谷の言葉と比べた凡人には、ペケを一無量大数」
「どうしたら、その大量のペケを消せる?」
俺が凛恋に尋ねると、凛恋は俺の耳元で優しく囁いた。
「分かってるくせに」
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