【一一八《オートクラシーの正論》】:二

 昼食を終えてテーブルを片付けると、凛恋が俺の手を引っ張って音楽準備室を出る。

 早歩きで廊下を進んでいた凛恋は、その足を校舎の外に向ける。そして、校舎の陰に俺を連れ込んだ凛恋が、俺の体をギュッと抱きしめる。


「凡人が足りない」

「凛恋」

「凡人が足りない!」

「り、凛恋?」

「同じ学校なのに会えるの昼休みだけじゃん! しかも放課後だって凡人は授業だし…………いつもみたいに、放課後会えないじゃん……」


 凛恋がぐにゃっと顔を歪めて俺を見上げる。その可愛い凛恋の頭を撫でると、凛恋が口を尖らせる。


「撫でるだけじゃ許さない」


 凛恋が背伸びをして俺の頬にキスをする。しかし、身長差でキスがやり辛いからか、凛恋は俺のネクタイを引っ張って頭を下げさせる。


「チューしてくれないと――んっ……短過ぎ」

「今キスしたら俺が凛恋を襲いそうなんだよ」

「も~、凡人の変態」


 変態と言いながら明るく微笑む凛恋は、俺のネクタイを直して、再び背伸びをして頬にキスをする。


「貸谷なんかに負けちゃダメよ。同じクラスに希と筑摩も居るけど、私が付いてるから」

「凛恋が居ると心強いな」


 貸谷とは、出来るだけ関わり合いにならないようにして無難にやろうとは思っていた。

 それでも凛恋の優しさが温かくて、俺は凛恋の体を更に強く抱きしめながらホッと息を吐いた。




 勉強。勉強、勉強。勉強勉強勉強。勉強勉強勉強勉強勉強! 勉強……べんきょう……べんきょ――…………。


「やっと終わった……」

「凡人くん、お疲れ様」


 夜課外を終えて、俺はぐったりとした体を机に置きながら、消え入るような声を漏らす。それを見ていた筑摩さんが、クスッと笑う。


「凡人くん大丈夫?」


 反対側からは希さんが俺の顔を心配そうに覗き込んでくれる。しかし、俺はその希さんに言葉を返す気力もなかった。


 自分を、そこそこは勉強する人間だと思っているが、生活の優先順位一位を勉強にするような人間でもないと思っている。

 そんな俺に生活の優先順位一位を勉強にするような生活をさせたら、今みたいに酷く疲れるに決まっている。


 通常授業以外はひたすら受験対策に費やされた。

 特に夕課外と夜課外は、刻雨の教師ではなく学習塾の講師が授業を担当した。


 長久保は本気で刻雨から旺峰合格者を五人出す気らしい。

 塾の講師を雇うのもかなり金が掛かるだろうし、これで五人が合格しなかったら問題になりそうだ。


「さようなら」

「本蔵さん、さようなら」

「さようなら」

「……さよなら~」


 だらけている俺は、本蔵さんが帰って行く声が聞こえて顔を上げる。

 すると、既に本蔵さんは教室を出て行っていた。しかし、本蔵さんの代わりに、酷く見下した視線を俺に向ける貸谷と目が合った。


 貸谷は視線を俺から外し、無言で教室から出て行く。それを見送って、俺は顎を机の上に置いた。


「凡人くん、貸谷くんのことは気にしちゃダメだよ」

「ありがとう、希さん。無難にやるつもりだから大丈夫だ」


 やっと体を起こして椅子に座ると、教室のドアが開く。そして、ひょこっと顔を出した凛恋が手を振る。


「凛恋?」

「お疲れ!」


 凛恋はニコッと笑って教室に入ってくる。そしてバッグから小袋を出して希さんと筑摩さんに近付く。


「二人ともお疲れ。クッキー焼いたから食べて」

「ありがとう、八戸さん」

「凛恋、ありがとう!」


 二人へ小袋を手渡すと、凛恋がニコニコ笑って俺の手を引っ張る。


「ほら、凡人帰るよ! 二人ともまた明日!」

「りっ、凛恋!? 希さん筑摩さんまた明日!」


 凛恋に引っ張られて鞄を慌てて持ちながら、早口で希さんと筑摩さんに別れを告げる。

 薄暗くなった外に出て校門を潜ると、凛恋がチラッと俺を見た後に腕を組んでくる。


「寂しかった……」

「凛恋」

「寂しかった。放課後、凡人と会えないのが」

「凛恋……俺も寂しかった」


 学校から少ししか離れていない道端で、俺は凛恋を正面から抱きしめる。

 昼休みも会ったけど、やっぱりいつも会っていた放課後に会う時間が短くなると、酷く寂しくなる。

 俺が拒否して普通科に行けば、今まで通り凛恋と放課後遊ぶことは出来た。

 受験生だから、毎日遊ぶということは出来なくても、それでも一緒に受験勉強をすることは出来た。

 でも、俺は凛恋達を守るために長久保にとりあえず従うことにした。


 もし俺が長久保に従わなければ、長久保は文科省の調査をさせて凛恋達を無闇に傷付ける。長久保の過剰とも言える利益主義の犠牲に、凛恋達をさせるわけにはいかない。

 歩きながら、凛恋の頬に軽くキスをする。すると、顔を真っ赤にしながら凛恋も俺の頬にキスしてくれる。


「凡人、公園寄っていかない?」

「良いぞ」


 まだ辛うじて太陽の明かりが残る公園に入ると、凛恋が俺をブランコに座らせ俺の足の間に凛恋が座った。


「凡人、漕いで~」

「了解」


 凛恋の要望に応えて、俺はブランコを軽く揺らすように地面を蹴る。


「凡人あったかい」

「凛恋は温かくて柔らかいな」


 ブランコを揺らしていると、ブランコの鎖を握る凛恋の手が俺の手に重なる。


「世界でたった一人、私だけの王子様」


 凛恋が呟くように、そう歌を歌い始める。俺は凛恋の歌を聞きながら、凛恋の背中に自分の体をピッタリくっつける。


「凡人とずっと一緒に居たい」

「俺は凛恋とずっと一緒に居る」

「うん。でも、ご飯の時もお風呂の時も、夜寝る時もずっと一緒が良い……」


 凛恋が下を向いてブランコを足で止める。そして、立ち上がって振り返ったと思ったら、押し付けるように俺へキスをした。

 俺の頬に両手を添えてキスをする凛恋の目からは涙が流れていた。


「凡人……私、凡人のこと好き過ぎるかな……。放課後会えないってだけなのに……めちゃくちゃ辛くて寂しくて……」

「俺は凛恋にそこまで好きになってもらえて嬉しい。俺も凛恋と会えなくて寂しかった。いや……今も寂しい」


 ブランコから立ち上がり、凛恋を真正面から抱きしめて、凛恋の唇を荒く塞ぐ。

 得ていたものを奪われると、人は奪われたものにより価値を感じる。

 凛恋との時間は俺にとって大切な時間だ。でも、放課後の時間はその一部でしかなかった。しかし、切り取られた瞬間に、それが凛恋との時間の一部から独立した『奪われた凛恋との時間』になる。


 奪われた凛恋との時間を取り戻す力は俺にない。だからせめて、凛恋と会えている時間を濃密にするしかない。




 次の日、学校に着いた途端、俺は長久保に呼び出された。

 長久保が呼び出したのは『学校改善マネージャー室』というプレートが貼られた部屋。

 その部屋に置かれたテーブルに、数枚の写真が置かれていた。

 写真には、昨日の夜、公園でキスしている俺と凛恋が写っていた。


「困りますね。勉強に集中してもらわないと」

「肖像権の侵害です」

「権利を主張する前に義務を果たして下さい」

「学校が終わった後の時間くらい自由にさせてください」

「赤城希さん以外の四人は、努力を怠れば不合格になる可能性があります。正直、八戸凛恋さんとは今すぐ別れて下さい。不利益しか――」


 長久保の話を無視して、写真を破り捨ててから部屋を出る。

 どこまで人をこけにすれば気が済むんだろう。

 きっと俺が揉めごとを起こさないように監視を付けたんだろう。

 俺は前年度、色んな事件に関わった。それは加害者ではなく被害者としてだったが、事件に関わったことは変わりない。


 俺が関わった事件の多くで、悪い意味で刻雨高校の名前が売れてしまった。だから、俺に監視を付けて事件に関わらないようにしているのかもしれない。

 そう考えると、廊下に立つ警備員の存在も俺の監視のためだと考えられる。


 人に見られるような場所で、凛恋とキスした俺が軽率だった。次は俺の部屋か凛恋の部屋でしないと。

 鞄を持ち直して教室まで歩いて行くと、希さんが駆け寄って来た。


「凡人くん、話は何だったの?」

「あんまり凛恋と出歩くなってさ。まあ、聞いてやる気はないけど」


 長久保から言われたことはそのまま話さなかった。どうせ長久保の命令を聞く気もないし、言ったところで希さんに変な心配を掛けるだけだ。

 自分の席に座りボーッとしていると、スマートフォンが震えて凛恋からメールがきた。


『呼び出し終わったらメールして』

『今終わった。長久保に昨日凛恋と外歩いてたのチクチク言われたから、無視して教室に来た』

『あのおじさん、モテなさそうだから凡人に妬いてるのよ。無視して正解』


 凛恋とメールをしていると教室に長久保が入って来た。俺はスマートフォンをポケットに仕舞い、長久保に顔を向ける。


「今朝の職員会議で校則の追加が行われました」

「ちょっと待ってください! 生徒は何も聞いてません!」


 去年の生徒会長だった筑摩さんが、すかさず立ち上がって反論する。しかし、長久保は筑摩さんを無視して話を続ける。


「追加項目が幾つかありますので、この書類を見て確認してください」


 それだけ言って、長久保は教室から出て行く。

 それを見た筑摩さんは、真っ先に教卓に置かれた紙を手に取って内容を確認する。そして、大きく目を見開いて驚いた表情をした。


「なに、これ……」


 俺は希さんと一緒に筑摩さんの隣に立って、筑摩さんが持っている紙の内容を確かめる。

 追加校則の項目には、教室外での私語禁止。

 校内校外に限らず全ての男女交際禁止。

 女子生徒はスカート丈を膝下五センチにする。

 女子生徒は下着の色を白に統一しなければならない。

 男子生徒はトイレ休憩等、必要な場合以外教室から出てはならない。

 という項目が並んでいた。どれもやり過ぎな校則に見える。


 教室外での私語禁止は、他クラスの友達と気軽に会話も出来ない。それに、校内校外に限らず男女交際を禁止するというのは、危険な校則にしか見えない。


 新しい校則に書かれている交際というのが、恋愛関係としての交際を言っていても問題だが、俺は単に他の人と関わることも言っているように思える。

 それは男子を教室外に出さない校則があるからだ。暗に異性と関わらないように仕向けられているように見える。


「生徒会の承認無しで校則の改正なんて認め――」

「妥当な判断だろう」


 筑摩さんの言葉を遮った貸谷は、教卓から紙を一枚手に取って、フッと口元を笑わせる。


「旺峰大に合格するためには必要ないことだろ」

「貸谷くんには必要ないからと言って、他の人には必要ないなんて――」

「売女には必要だよな。男が居ないと小遣い稼ぎが出来ないし」

「貸谷。根も葉もない話で人を傷付けるな。今すぐ筑摩さんに謝れ」


 筑摩さんを侮辱した貸谷に俺が言うと、貸谷は俺と筑摩さんを交互に見て薄く笑う。


「売女とすけこましでお似合いだな。これは不純異性交遊で学校に報告しないと」

「私と凡人くんはそんな関係じゃない」

「でも、多野のことを好きなんだろ? 一年の頃から学校でうるさく他のやつらが話してるから知ってるぞ」


 筑摩さんにそう言って紙を教卓に置いた貸谷は、バカにするわけではなく軽蔑した視線を俺に向けた。


「純愛気取ってるが、お前はただヤりたいだけだろ?」

「何が言いたい」

「相手が女なら誰でも良いんだろ? って聞いてるんだ、すけこまし」

「俺は凛恋以外と恋人になる気はないし、凛恋のことは真剣だ」


 俺は真面目だった。本心からそう答えた。でも、貸谷は軽く吹き出すように笑う。


「真剣? 真剣な男がまだ高校生なのに性行為なんてするわけがないだろ。子供が出来たらどうするんだ。真剣なら責任の取り方も真剣に考えてるんだろ?」


 俺は凛恋に対する気持ちは真面目だった。本心から、凛恋のことだけが好きだし凛恋を大切にしていた。でも……俺を嘲笑して言った貸谷の言葉に何も言い返せなかった。

 俺と凛恋は高校生で、いわゆる未成年者に分類される。そして、未成年者同士のエッチが問題になっているのは、俺も当然分かっていた。


 全国ニュースでも、高校生で妊娠したなんて話は頻繁ではないが聞くことがある。でも、ニュースになるのはただ妊娠しただけの話ではない。

 未成年の女性が妊娠して、誰にも言えずに子供を産んでトイレやコインロッカーに放置した。

 そういう話を聞いたことがある。そういう、未成年者が妊娠した後の無責任な行動が、大きなニュースになる。


 条例では、未成年者と成人のエッチは禁止されている。

 それも真剣な交際であるなら合法にはなるが、それは成人の方が真剣な交際であるなら、たとえ妊娠したとしてもきちんと責任を取れるという前提があるからだ。

 その責任は、生まれてくる子供を育てて行くという責任。でも、俺にはその責任を果たせない。


 俺はまだ高校生で、もし凛恋が妊娠しても、凛恋と子供を育てて行くための収入がないからだ。

 もちろん、ちゃんと俺と凛恋はコンドームを使って避妊をしている。でもコンドームも完璧な避妊方法ではない。


 俺は知っている。自分が責任を取れないことも、コンドームが完璧な避妊方法じゃないことも。

 それでも、俺が凛恋とエッチするのを止めないのはなぜだ?


 俺はそれを自分に問い掛けて、すぐに『凛恋が好きだから』という答えが浮かぶ。でもその後すぐに『凛恋が好きなら、責任が取れるようになるまで我慢出来るだろ』その反論が自分の中から浮かぶ。


「お前みたいな人間が居るから、こういう校則を作らないといけないんだ」


 貸谷はそう言って、自分の席に戻り参考書を解くのを再開する。でも、その貸谷の姿を見ていても、何も言えなかった。

 貸谷が言ったことは正しい。

 もちろん、俺の凛恋に対する気持ちを否定した部分は間違っている。でも、俺が凛恋に対して無責任な行動をしていたということは、反論しようがないくらいの正論だった。

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