【一一六《新生の芽》】:三

「聞いたのか」

『仕事だから当然だ』

「ふざけるなッ! 学校でも言っただろッ! なんで無闇に凛恋を傷付けるようなことをするんだッ!」

『無闇ではない。報告書を作成する上で必要なことだ』

「そんなこと警察に聞けばいいだろッ!」

『捜査資料の開示には時間と手間が掛かる。それに、本人から聞き取り調査を行った方が確実だ』

「時間と手間、だと?」

『こちらも暇ではない。仕事を効率的に処理するには――』

「これ以上居たら住居侵入で警察を呼ぶ。今すぐに帰れ」


 受話器がひび割れそうなくらい握りしめ、唇を噛みながら言う。

 凛恋が辛いことを思い出させられて傷付いて怯えているのに、凛恋に辛い思いをさせて傷付け怯えさせたやつらは平然としている。

 それどころか、時間と手間が無駄で手早く処理したいから凛恋を傷付けたとのたまっている。


『こちらは公務で来ているという正当な理由がある』

「凛恋が怯えて悲鳴を上げたのは聞いてるだろ。それで理由は十分だ。ここの住人の凛恋が怯えてあんたらと会うのを拒否してる。その上でこれ以上居続けるのは住居侵入だ。今すぐ帰れ」


 モニターを真っ直ぐ見据えて、モニター越しにこちらを見ている文科省職員に言う。

 すると、四人で顔を合わせて何か話した後に、先頭に立っている職員がモニター越しに俺を見る。


『これで我々は失礼する。今回のことは、学校側に報告しておく』

「勝手にしろ」


 それが脅しだというのは分かる。でも、今更俺の悪評を学校に言われたところで痛くも痒くもない。

 文科省職員達がモニターに背を向けて八戸家の敷地から出ていくのを見送ると、慌てた様子で玄関のドアに駆け寄ってくる凛恋のお母さんと優愛ちゃんの姿が見えた。


「凛恋ッ!」

「お姉ちゃん!」


 廊下を走ってくる二人の足音が聞こえ、ダイニングのドアが勢い良く開かれる。

 ダイニングに入って来たお母さんは、すぐに凛恋の側に駆け寄って背中を擦った。そして、後から入って来た優愛ちゃんも凛恋の側に膝を突いて座る。


「凛恋!? どうしたの?」

「ママ……」

「今日、学校に文科省の職員が監査に来たんです。それで、学校で凛恋にストーカー事件のことを聞こうとしたんで止めたんですけど、今度は家に来て。インターホン越しに聞かれたみたいで……本当にすみません。俺が付いてたのに……」

「ママ、凡人は悪くないの! 凡人は私を守ってくれたから」


 凛恋がお母さんにそう言って俺を庇ってくれる。それに、お母さんは優しく凛恋の頭を撫でながら声を掛けた。


「分かってるわよ。凡人くんが凛恋を傷付けるわけがないじゃない」


 俺はダイニングの床に座り込んで大きく息を吐く。

 露木先生に頼り過ぎるのは良くないが、文科省の職員が家まで来たというのは話しておかなければいけない。


「凛恋、露木先生に電話してくるから――」

「凡人くん、凛恋を部屋に連れて行ってもらえる? 露木先生には私から連絡しておくから」

「分かりました。凛恋、立てるか?」

「ありがと……」


 凛恋の体を支えながら凛恋の部屋に戻って床に座ると、凛恋がべったりと俺の体に抱き付き胸に顔を埋める。


「…………また凡人に守ってもらっちゃった」

「俺が凛恋を守るのは当然のことだ」

「ありがとう。私だけの王子様」

「それ、恥ずかしいって」


 凛恋に言われて頭を撫でながら答えると、凛恋が顔を上げて上に唇を突き上げた。

 重ねた唇は案外すぐに離れた。だが、凛恋がギュウギュウと体を締め付けるように俺へ抱きつく。


「凡人……」

「嫌なことは言わなくていいし思い出さなくていい。その代わりに、凛恋に好きって言ってほしい」

「愛してる」


 俺の膝の上に座った凛恋が、そう言ってまた俺にしがみつく。


「ありがとう。俺も凛恋を愛してる」


 凛恋の頭を撫でながら、俺も凛恋に言葉で伝える。そして、言葉で伝えながら、凛恋を強く抱きしめて行動で伝える。




「凡人ぉッ! 栞さんをぉ! 見習わんかぁ!」


 焼酎の入ったグラスを片手に、寿司をつまみにする爺ちゃんに怒られる。

 覚悟していたつもりだが、実際に覚悟していた状況に陥ると疲れるものがある。


 酒に酔うと説教臭くなるという面倒な酒癖がある爺ちゃんに、俺は説教をされている。

 別に俺も成績が悪いわけではない。だが、栞姉ちゃんの大学合格というめでたい日に、完全に爺ちゃんは浮かれていた。


 今の座卓の上には、特上寿司の他に鯛の刺身やファストフードのフライドチキンが大量に置かれ、お高いケーキ屋のホールケーキがど真ん中にでかでかと置かれている。

 ケーキの上には『栞ちゃん、合格おめでとう』というメッセージが書かれたチョコレートプレートが載っかっている。


「本当にぃ! 栞ちゃんは我が家の誇りだぁ!」


 グッとグラスから日本酒を飲んだ爺ちゃんは、ふらふらと横に揺れながらゆっくり座卓の上に上体を載せて動かなくなる。


「お爺さん!?」

「栞姉ちゃん大丈夫だって。寝ただけだから」


 いつもは俺に「行儀良くしろ!」と口酸っぱく言っているのに、酔った時はこの体たらく。

 まあ、いつもしっかりきっちりしているのだから、酒を飲んだ時くらいは気を抜きすぎるくらいの方が良いのかも知れない。


「凡人、ありがとね」

「いいよ婆ちゃん。爺ちゃんも、ここまで酔うまで飲むことは滅多にないし」


 俺が小さい頃は、婆ちゃんも俺も爺ちゃんを運ぶことは出来ず、居間で布団を掛けてそのまま寝かせていた。

 でも、俺が中学に上がる頃には爺ちゃんを背負えるようになり、爺ちゃんが酔って動けなくなった時は俺が運ぶ役割になっている。


「あとは私がやるから、二人とももう寝なさい」

「分かった。おやすみ、婆ちゃん」

「お婆さん、おやすみなさい」


 一緒に付いて来た栞姉ちゃんと、婆ちゃんと爺ちゃんの部屋を出ると、俺は背伸びをして自分の部屋まで歩いて行く。


「あんなにご馳走用意してもらって」

「悪いなんて思ったら爺ちゃんと婆ちゃんが悲しむから考えないで」

「うん。悪いって言うより凄く嬉しい」

「爺ちゃんも婆ちゃんも俺も嬉しかったから。栞姉ちゃん、本当におめでとう」

「カズくん、ありがとう」


 俺の部屋の前まで来ると、栞姉ちゃんが部屋の前で立ち止まる。そして、俺の方を向いて少し首を傾げて言った。


「ちょっとお話ししない?」

「良いけど、栞姉ちゃんは疲れてない?」

「うん。結構勉強漬けだったから羽を伸ばしたくて」

「じゃあ、上に行く?」

「ううん、カズくんの部屋で大丈夫」

「分かった。どうぞ」


 ドアを開けて栞姉ちゃんを中に入れると、栞姉ちゃんは俺のベッドの上に座って後ろに両手を突いて体を支える。


「カズくんは隣に座って」


 俺が栞姉ちゃんの隣に座ると、栞姉ちゃんが小さく息を吐く。


「あ~本当に良かった~」

「俺は受かると思ってたけど」

「私も自信はあったんだけど、実際に合格って聞くまで不安だったから」


 気の抜けた声でため息を吐く栞姉ちゃんはクスッと笑って俺を横から見上げる。


「カズくんがプレッシャーを掛けてきてたし」

「え? 俺、そんなつもりはなかったんだけど?」

「カズくん、私の邪魔にならないように気を遣ってくれて、落ちるとか滑るとかそういう言葉が書いてあるチラシとか新聞とか全部隠してたでしょ?」

「……それ、バレてたんだ」

「全然嫌じゃなかったよ。むしろ凄く嬉しかったし凄く頑張ろうって気持ちにもなれた。でも、もしそれで落ちたら応援してくれるカズくんに申し訳ないなって思って」

「ごめん、そんなプレッシャーになってるなんて思わなくて」


 俺は栞姉ちゃんの勉強の邪魔にならないように気を遣ったし、栞姉ちゃんの精神的にネガティブになるような要素になる物もこっそり隠した。

 それこそ『落』『滑』なんて文字が目立っているようなチラシや新聞がそうだ。でも、それを栞姉ちゃんに感付かれて、かえって栞姉ちゃんのプレッシャーになっているなんて思わなかった。


「こらー、私は嬉しかったんだよ? だから、そんな悲しい顔しないで」


 横から栞姉ちゃんが俺の頬に人さし指を突き立てる。

 ムニュムニュと俺の頬に指先をめり込ませながら、栞姉ちゃんは嬉しそうに笑った。


「戻って来て良かった」


 栞姉ちゃんは、そう言って目から涙を流した。


「栞姉ちゃん……」

「やっぱり……施設に行ってから寂しくて。お爺さんやお婆さん、それに友達に会えないのも寂しかった。でも……一番、カズくんに会えないのが寂しくて」


 栞姉ちゃんは手の甲で自分の目を拭って、声だけで笑った。


「元彼を作ったのも寂しさを紛らわせるためだったの。彼氏さえ出来れば、彼氏で寂しさを紛らわせられると思ってた。でも……私が失敗したの。…………彼と初めてエッチした時、凡人くんの名前呼んじゃって」

「えっ……」

「八戸さんが居るのに、こんな話を聞いても困っちゃうよね。でも、やっぱり凡人くんのこと好きで好きで堪らなくて、私は彼を凡人くんの代わりにしたの。だから、暴力を振るわれても仕方なかった」

「どんな理由があっても、人を傷付けるのは良くない」

「カズくんは優しいね。でも、やっぱり分かるから。好きな人が、自分以外の人を好きだって知った時の悲しさと悔しさは。私もその悲しさと悔しさで、八戸さんから凡人くんを奪おうとしたし……。でも、戻って来て良かった」


 栞姉ちゃんは細く息を吐いて呼吸を整えて、涙がこぼれ落ちないように天井を見上げて微笑む。


「戻って来て、蘭は凄く喜んでくれた。涙を流して抱き締めてくれてお帰りって言ってくれた。お爺さんとお婆さんは私のわがままで出て行ったのに、また変わらず迎え入れてくれた。それに、カズくんは私の家族になってくれた」

「栞姉ちゃん……」

「ずっと独りぼっちだったから、凄く……凄く嬉しかった。帰る家があって、支えてくれる家族が居て……本当に、本当に生きてて良かった」


 俺の胸に額を付けて、俺のシャツを握り締めて、栞姉ちゃんは涙声を抑えながら泣いた。


「何度も何度も、死んだ方が楽だって思った。家族が居ないからっていじめられる度に、家族が居ないからって好きな人達に嫌われる度に、何度も何度も何度も自分の人生を呪って、死んで私を捨てて居なくなった両親に復讐してやろうって思った。でも……それに耐えて生きてて良かった……」


 初めて聞いた栞姉ちゃんの言葉に、俺は自然と栞姉ちゃんの背中を手で擦る。

 死のうと考えることに、世の中の人は「馬鹿らしい」とか「死ぬ勇気があるなら頑張って生きろ」なんて軽いことを言う。

 でも、死のうと考えるほどの辛さを耐えるのは、死のうと考える本人なのだ。


 俺には凛恋が居た。凛恋が居なかったら乗り越えられなかった辛さは沢山あった。でも、栞姉ちゃんはそれを、孤独を感じながら乗り越えたのだ。それが出来る人がこの世の中に何人居るだろうか。

 そこまで強く自分を持ち続けられる人がどれだけ居るだろうか。


 そんな人は栞姉ちゃんくらいだ。


 俺はたった一七年しか生きていないし、同じ一七年生きている人達よりも、圧倒的に関わってきた人の数が少ない。でも、栞姉ちゃん以上に強くて立派な人は居ない。

 俺がそう信じて断言出来るのは、きっと……栞姉ちゃんを見る目に家族補正が入っているのだと思う。




 栞姉ちゃんの合格発表も終わり、学校が春休み真っ最中のとある日。俺は、刻雨高校の空き教室に呼び出された。

 呼び出したのは刻雨高校の理事長。

 呼び出しの理由は聞いていないがあまり良い話じゃない雰囲気が感じられる相手だ。しかも保護者同伴という辺りがなお一層きな臭さを感じる。


 刻雨高校の校舎に入り、後ろで理事長に対する不信感を会う前から滲ませている爺ちゃんを引き連れ、俺は空き教室のドアを開けた。そして、俺は戸惑った。


「凡人くん?」


 空き教室の中には既に他に人が居た。

 希さん、それから筑摩さん、他に男子と女子が一人ずつ居た。

 生徒の数だけ数えれば、五人の刻雨生が呼び出されたということだ。


「凡人くん、何か聞いてる?」

「いや、何も聞いてない」


 俺は希さんの隣に座りながら、静かな空き教室の中で声を抑えながら話す。


「私も何も聞いてないの。他の人達も同じみたい」


 筑摩さんが希さんの向こう側から話し掛けてきて、他の男子と女子の方をチラリと見る。

 希さんと筑摩さん以外の二人は顔を見ても誰だかよく分からない。

 だが問題は、残る二人のことよりも、何故俺達五人が春休みに呼び出されたかだ。


 空き教室に並べられた長机に腕を置き、パイプ椅子に座りながら待っていると、空き教室のドアが開く。

 校長が開いたドアから空き教室に入ってきたのは、理事長と知らない男性だった。

 スーツを着ているその男性は冷たい雰囲気を放ち、黒板の目の前にある教卓まで歩いて行く。


「お忙しい中、お集まり頂いてありがとうございます。刻雨高校理事長の長谷川忠志です。今日は、皆様にご紹介したい方がいらっしゃいます。来年度から、当校の学校改善マネージャーに就任して頂いた長久保隆光(ながくぼたかみつ)さんです」


 理事長に紹介された男性は、一度座っている俺達に視線を巡らせた後、表情を変えずに正面を向いた。


「長谷川理事長にご紹介頂いた長久保です。来年度から、私は刻雨高校をより良い学校にするために様々な改善をして参ります。その第一弾として、ここにお集まり頂いた五名の生徒さんには来年度、新設学科の生徒として旺峰大学合格を目指して頂きます」


 男性は、冷たい雰囲気のまま、ただそう言った。

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