【一一六《新生の芽》】:二
午後の授業が始まって、俺は視線を前に向けながら後ろに意識を向ける。
後ろには、数人のスーツを着た男性が立っていて、授業の風景を見ている。
授業を観ているのは、文部科学省高等教育局私学部私学行政課(もんぶかがくしょうこうとうきょういくきょくしがくぶしがくぎょうせいか)の職員らしい。
理事長や校長が授業の観覧を許可しているということは、本物の文科省の職員のようだ。
特に文科省の職員が学校へ来た具体的な理由は何も聞かされなかった。ただ、授業の風景を見るとしか聞かされていない。
さり気なく視線を窓に向ける。
光の加減で窓ガラスに映った文科省の職員達は、黒いバインダーを広げ何かをメモしている。
視線はチラチラと授業をしている教師や授業を受けている俺達生徒へ向けている。
いつも午後の授業はみんな眠気で大人しいが、今日は文科省の職員が来ているという異質な状況でみんな起きてはいるが、いつも以上に静かになっている。
視線を凛恋に向けると、俺と視線が合った凛恋が微笑む。でも、その表情は強張っている。
後ろから男に見られているという状況は凛恋に耐えられる状況じゃない。
授業終了のチャイムが鳴り、授業の終わりを告げる。もう六時間目だから、今日はこれで帰ることが出来る。
この異様な雰囲気の学校から、早く凛恋を連れて帰りたい。
俺は教科書を片付けながら視線を後ろに向ける。
授業が終わり教科担当教師が教室を出て行っても、文科省の職員達は出て行こうとしない。
「八戸凛恋さん、私に付いてきてください」
「えっ?」
突然、文科省の職員の一人が凛恋の近くに近寄って来て、とっさに俺は立ち上がる。
「凛恋に何か用ですか?」
「君は関係ないだろう」
「何の目的かも説明せずに連れて行くのはおかしいでしょ」
「私達は、今年度大きな問題がいくつも起こったこの学校を調査しに来た。その問題の一つのストーカー事件に関わった生徒への聞き取りを行う必要がある」
いくつも起こった問題。その問題のいくつかは頭にすぐに思い浮かぶ。しかし、それを今更掘り返す必要はない。
学校で起こった事件は警察が関わったものは全て警察が捜査を終えている。
凛恋が巻き込まれたコンビニ客と池水のストーカー事件も、凛恋は警察の事情聴取を受けている。
その時は、女性警察官が事情聴取をしてくれた。それでも、凛恋にとっては辛い経験だった。
来ている文科省の職員達は全員男だ。
女性警察官相手でも辛かったのに、男相手に凛恋にとって深い心の傷になった話を話させるなんてさせられるわけがない。
それに、それを文科省が凛恋に聞く必要はない。
「被害を受けた凛恋に聞く必要はないでしょ」
「必要不必要を決めるのは君じゃない」
「無闇に子供を傷付けることが必要なことなんですか?」
俺と睨み合う文科省の職員は、小さくため息を吐いて他の職員を見る。
「班長が別の生徒に聞き取り調査を行っているそうです。そちらに行きましょう」
「みんな! 凛恋を頼むッ!」
文科省職員の話を聞いて、俺は教室を飛び出した。
文科省職員の『別の生徒』という言葉で、真っ先に萌夏さんの顔が思い浮かんだ。萌夏さんは内笠に脅迫された。
文科省職員がその事件について聞き取りをしようとしている。
萌夏さんは凛恋と同じように内笠の事件で深く傷付いた。その傷をまたえぐらせるわけにはいかない。
「待てッ!」
萌夏さんのクラスまで走っていると、文科省職員に連れて行かれている萌夏さんが見えた。
「凡人くん!」
「萌夏さん、付いて行かなくていい」
「君は……ああ、多野凡人くんだね」
萌夏さんを連れて行こうとしていた文科省職員に視線を向けられる。
「萌夏さんは警察で既に話をしています。何度聞いても同じ話しか出来ません」
「凡人くん、私は大丈夫だから」
「大丈夫じゃない! この人達は萌夏さんを無意味に傷付けようとしてるだけだ」
萌夏さん腕を引いて文科省職員の間に入る。そして、改めて文科省職員に視線を向けた。
「無意味に傷付けようとしてるだけとは心外だな。私達はこの学校をより良い学校にするために来てるんだ」
「より良い学校にするために来てるんだったら、学校の生徒を傷付けないやり方をやってください」
「事情を聞くだけだ」
「辛いことを思い出して傷付く人が居るんです」
「同じことが起きて傷付く生徒が他にも出るかもしれないだろう?」
「今辛い思いをしている人のことを考えられない人が、これから傷付く人のことを助けられるとは思いませんが?」
譲らない文科省職員と睨み合っていると、後ろから肩を掴まれて引っ張られる。
顔を後ろに向けると、俺を怒りに満ちた表情で睨み付ける教頭が居た。
「多野、何をしてる! 文部科学省の方だぞ!」
「親友が傷付けられそうな時に、相手の立場なんて関係ない。萌夏さん、教室に戻って帰り支度をしたら待っててくれ。凛恋達と迎えに行くから」
「うん。ありがとう、凡人くん」
萌夏さんが教室に走っていくのを見送り、俺は俺を睨む文科省職員と教頭に向ける。
「教頭先生。生徒からの聞き取りは出来ないようなので、事情を理事長先生と校長先生、それから教頭先生からお伺いしましょうか」
「は、はい! 校長室へご案内します」
文科省職員に頭を下げて教頭が歩き出すと、ぞろぞろと職員達がついて行く。
「多野くん」
「露木先生と……森滝先生?」
教頭と文科省職員達が見えなくなると、後ろから露木先生に声を掛けられる。その露木先生の隣には森滝先生が立っていた。
「教室に戻ったら多野くんが飛び出して行ったって聞いて。その後、切山さんが多野くんが文部科学省の人から助けてくれたって話も聞いて。いったいどういう状況になってるの? 職員室では文部科学省の監査だって話しかなくて」
「今年度に刻雨高校に関係する事件が多かったから、文部科学省の人達が改善のために来たみたいです。でも、凛恋や萌夏さんに事件のことを話させようとしてたので」
「それはあまりにも配慮に欠けるわね。二人とも思春期の子供でただでさえ傷付いているのに」
俺の言葉にそう言ったのは、露木先生ではなく森滝先生だった。
日頃、生徒に厳しい森滝先生だが、同じ女性として凛恋と萌夏さんの辛さは理解してくれているようだ。
「萌夏さんは?」
「少し怯えてたけど大丈夫。多野くんも教室に戻って、帰りのホームルームをするから」
「はい」
露木先生に答えて歩き出すと、後ろで露木先生と森滝先生が話している声が聞こえた。
「露木先生は生徒のケアをお願いします。私は文科省の職員の方々へ、生徒の心に対してもう少し配慮をしてもらうようにお願いしてきます」
学校が終わると、俺は凛恋と希さんと一緒に萌夏さんを送って、希さんと途中で別れてから凛恋の家まで来た。
八戸家の玄関に立つ俺は、目の前に立っている凛恋の頭を撫でる。凛恋は目を瞑って黙って撫でられてはいるが、俺の制服の胸元を軽く握っていた。
「大丈夫。問題になりそうだって思っただろうから、もう凛恋達から無理矢理話を聞き出そうとはしてこないだろ」
「うん……」
凛恋の頭を撫でていると、凛恋がそっと俺の胴に手を回して優しく俺に抱き付く。俺は、凛恋の頭から手を離して凛恋の背中に手を回して抱き寄せた。
お互いに何も言わない。でも、言わなくても分かる。実際は分かっていなくて俺の想像でしかない。
だけど、俺には凛恋が、俺に甘えたいと言っているのが分かった。だから、俺はそれに甘えても良いと無言で抱き締めて伝える。
「今日は寄っていけないよね?」
「なんでだ?」
「だって、田丸さんが合格したから……」
「なんで栞姉ちゃんが大学に受かったら凛恋と一緒に居られないんだ?」
「だって今日はお祝いで……」
「夕飯に特上の寿司を食べるくらいだ。あ~、もしかしたら爺ちゃんは栞姉ちゃんに甘いからホールケーキとか買うかもな。でも、夕飯の時間はいつも通りだから大丈夫だ」
「じゃあ……寄っていける?」
「寄っても良いか?」
俺がそう尋ねると、凛恋はパッと明るく笑って俺の胴に回した手に力を込める。
「凡人上がって!」
「お邪魔します」
凛恋の家にお邪魔して上がると、凛恋が階段を駆け上がって真っ先に俺を凛恋の部屋に連れて行く。
俺がいつも通りテーブルの前に座ると、凛恋が頬に軽くキスをしてから再び立ち上がる。
「待ってて! お茶とお菓子を持ってくるから!」
「ありがとう」
凛恋が部屋から出て行ったのを見送って、俺は視線をテーブルの上に落として息を吐いた。
学校の問題で、地方の教育委員会が動くというのは聞いたことがある。でも、文部科学省が出てくるというのは聞いたことがない。
やっぱり、俺の署名活動のせいで刻雨の名前が悪い意味で話題になってしまったからかもしれない。
「キャァッ!」
「凛恋ッ!」
下から凛恋の悲鳴が聞こえ、俺は慌てて凛恋の部屋を飛び出して階段を駆け下りる。すると、凛恋がインターホンの受話器の下で、両手で耳を押さえながら床に座り込んでいた。
「凛恋ッ! どうした?」
「凡人っ!」
凛恋の側に駆け寄ると、凛恋が俺にしがみついて胸に顔を埋める。俺は凛恋の背中を何度も擦りながら、インターホンのモニターに視線を向けた。
「……あいつらっ!」
小さな液晶モニター越しには、スーツを着た四人の男性が立っているのが見える。
学校に着た文科省職員達だった。学校で凛恋に聞き取りが出来なかったから家まで押し掛けてきたのだ。
俺はポケットからスマートフォンを出して電話を掛ける。相手は萌夏さんだった。
『もしもし凡人くん?』
「萌夏さん? 今、お父さんかお母さんに電話を代われる?」
『えっ? うん。お父さんで良い?』
「大丈夫」
凛恋の背中を擦る手を止めずに、萌夏さんが電話を替わってくれるのを待つ。
『もしもし、多野くん?』
「こんにちは。お忙しい時に済みません。今、凛恋の家に文部科学省の職員が来てて、凛恋が巻き込まれたストーカー事件の話を聞きに来てます。萌夏さんの方にも文科省の職員が来ると思うので、萌夏さんに会わせないようにしてください。あいつらは、学校で凛恋や萌夏さんの気持ちなんて全く考えずに話を聞こうとしてきました。信用出来ません」
『ありがとう。萌夏は部屋で休んでいるし、誰かが来ても応対しないように伝えておく。気を遣ってくれてありがとう』
「いえ、失礼します」
焦って口早に用件を伝えて電話を切ると、今度はモニター越しの文科省職員達に視線を向けて受話器を耳に当てた。
「お前ら、凛恋に何言った」
『その声、さっきの男子生徒か。学校では聞き取り調査が出来なかったのでね。自宅にお邪魔して話を聞こうと思ったんだ』
「こっちの質問に答えろ。凛恋に何を言った」
平然とした表情でこっちを真っ直ぐ見据える文科省職員に怒りがこみ上げ、俺は受話器を握った手に力を込める。
凛恋は怯えている、それも悲鳴を上げるくらい酷く。
いきなり周囲を男性に囲まれたら怖くて悲鳴を上げるかもしれない。でも、今回は施錠された家の中から、インターホンのモニター越しだ。いくら凛恋が男性が苦手だからと言っても、それで悲鳴を上げて怯えるとは思えない。だから、答えは一つだ。
こいつらが、凛恋が悲鳴を上げて怯えるようなことを言ったに決まっている。
『何を言ったかと言われても、こちらが当時の状況の再確認をしただけだ』
「再確認だと?」
『当時、刻雨高校体育教師だった池水渡に呼び出され、生徒指導室で床に押し倒されて下着を膝下まで引き下ろされた。そして、ズボンを下ろした池水渡に馬乗りにされ――』
「帰れッ!」
『それは出来ない。最後までやったかどうかで対応が変わる』
平然とした顔で、事務的な口調で言う。凛恋は池水に犯されたのかと。
相手が役所仕事で、ただ事実を確認したいだけだとしても許せることじゃない。
ましてや、もう既に警察で“未遂”として処理されている事件だ。それで文科省職員の知りたいことは分かる。
それなのに、再確認なんてする必要は無い。
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